「夫が消された」という依頼人の訴え

「警察なんか行ったに決まってるでしょ!!!」


 依頼人の女性、空代一子そらしろかずこは声を荒げた。何年も着回しているであろう白いカーディガンは袖口に黄ばみがあり、各所に毛玉ができている。髪には白髪が混じり、髪質の劣化が目立つ。洋服代や美容院代に費用を割けない、余裕の少ない生活を送っていることが察せられた。

 守美は彼女と握手した際に、かなりの手の荒れを感じ取っていた。依頼時の申し込みフォームには40歳と記載されていたが、憔悴した表情が痛々しく、実際の年齢より老けて見えた。

 彼女は事務所にやって来ると、開口一番に「夫が消えたんです」と言った。その言葉を受け、秀一が警察に相談をしたのかどうか確認を取ったことが、彼女の逆鱗に触れたようだった。彼女がテーブルに手を叩きつけた衝撃で、秀一が淹れた茶が少し零れた。


「ああ…申し訳ございません。配慮が足りませんでした。ご主人が失踪された…とのことですが、詳しい経緯をお聞きしてもよろしいでしょうか」


 秀一が問うと、空代一子は首を横に振りながら話し始めた。




 夫は…雲晴くもはるは失踪したんじゃありません。消されたんです。

 雲晴は42歳。小さな建設会社で課長を務める、とても精力的な人間です。失踪なんかするわけない!…ああ失礼しました…これが夫の免許証です。去年更新したものですが、一年前ですので写真の姿は現在と大きく変わってはいません。

 初めて異変が起こったのは3か月ほど前…2月半ばほどでしょうか。夫の姿がなんというか…透けているように見えたんです。最初は目の錯覚だろうと思いましたが、その後も何度か夫が透けているように見えたことがあって…もちろん、あなた透けてるよとは夫には言いませんでした。逆に私が心配されるだけでしょうから。

 その頃から、私もなんだか体が重くなって妙に疲れやすく…いえ、これは関係無いですね。


 夫が消えた…いえ、消されたのは5月15日。2日前の水曜日です。朝起きたら夫が消えていたんです!消えていたというのは失踪したって意味じゃありませんよ!本当に!夫の存在が消されていたんです!いや、消されたのは夫の存在というか…そう、記憶!

 14日の夜は確かに夫に「おやすみ」と告げたのですが。翌朝…7時半くらいでした。普段なら夫は朝支度をしている時間です。ですがあの日は家のどこにも夫の姿がありませんでした。私は、朝早くに出社したのかと思い夫に電話しましたが、電話は繋がりませんでした。あの日は私より先に14歳の娘の希実のぞみが起きていたので、私は娘に聞きました。お父さんと会わなかった?と。

 でも娘の返答はこうでした…


 私は娘が悪い冗談を言っているのだと思い、娘を強く叱りました。けれども娘はどうして怒られているのかわからない様子でした。私は娘の入学式の日に家族で撮った写真を娘に見せ、私たちが暮らせてるのはお父さんが働いてくれているおかげなんだから、お父さんのことをそんな風に言っちゃダメと娘を諭しましたが…娘は心底きょとんとした顔で言いました。家族写真に写る夫を指差して、と。

 私はようやく、娘が冗談を言っているのではないと気づきました。ここ数日、夫が透けて見えていたことを思い出し、何か異常な状況が起きていると悟りました。私は夫が勤める会社に電話し、夫はもう出社していますかと聞きました。でも…空代雲晴なんて社員はいないと言われて…でもおかしいんですよ!電話に出てくれたのは夫の部下の男性でした。私も面識がありますが、真面目な方で冗談を言うような性格じゃないんです!そんなことを言うなんてありえない…私は何が何だかわからなくなり、叩きつけるように受話器を置きました。


 思考が追い付かず、その場にへたり込む私の肩を娘が支えてくれました。良い子に育ったなあってぼんやりと思いましたけど、でも言うんですよ。娘は、ずっと私と二人暮らしだったって。収入の無い私がどうやって14年以上も子供を育てられるっていうのよ…!

 私が知っている限りの夫の友人も、誰もが空代雲晴なんて知らないと言いました。夫がいなかったら私と彼らは知り合ってもいないのに、そこには疑問を持たない様子で。夫を知っている私の友人たちもそうでした。じゃあなんで私の苗字が変わったと思うのよって…!もう意味がわからなくて。

 娘が中学校に行ってすぐ、警察署に捜索願を出しに行きました。ですが夫は多くの行方不明者のように老人ではありませんし、事件性も認められないとのことで一般家出人という扱いになり、すぐには捜索されないと伝えられました。記憶云々の話は警察にはしませんでしたよ。薬物の使用を疑われるのがオチですから。

 警察署に行った後は、失踪届を出しに区役所に行きました。でも失踪届って家庭裁判所に失踪宣告を受けてないと出せないんですってね。蒸発してから7年も経たないと失踪届は出せないって言われて。こんなことになってなかったら知らなかったなあ…家族が失踪した時の知識なんて、知らずに生きていたかったですけどね。

 せっかく区役所に来たので夫の戸籍が消えてやしないかと確かめたくて、夫の戸籍証明書を確認しようとしました。これもダメでしたね。妻でも、本人の委任状が無いと戸籍証明書の請求はできないって言われました。夫の戸籍も、会社に籍があるかも、よくわからない。夫の写真を眺めながら、夫は私の妄想だったのかもしれないなんて思ったりもしました。

 ふと、私はスマホのホーム画面からGoogleの検索バーを開きました。表示された検索欄に、私は“空代雲晴”と打ち込みました。夫が本当に存在したのか、Googleに聞いてみたくなったんでしょうかね。表示されたのは夫と同姓同名の音楽家のインスタグラムや、大学教員の紹介ページ。その中に、ひとつおかしなものがありました。小説投稿サイトにアップされていたホラー小説です。私はそのタイトルに目を止めました。その小説は、あろうことかタイトルに夫の名前が使われていたんです。今お見せしますね…これです。この小説です。


『空代雲晴は消滅しました』

 

 

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