夫婦じゃありません

野原 耳子

第1話


 夫婦じゃありません、とはっきりした声でハルオキくんは言った。ハルオキくんの言葉に、可愛らしいフリルのエプロンをつけた女性店員さんはテーブルの横に立ったまま目を丸くしている。


 ハルオキくんは老眼鏡の奥の目をぎゅっと細めて、カラフルなメニュー表を見つめていた。その目尻の横に、深いシワが何本も放射線状に浮かんでいる。漫画でよくある「わっ!」と驚いたときの効果線みたいなシワだ。



「季節のフレッシュフルーツと北海道産たっぷり生クリーム添え、ふわふわパンケーキをひとつお願いします」



 教科書でも読むみたいな生真面目な口調で店員さんに言う。それから、ハルオキくんは私をじっと見つめた。慌てて視線をメニュー表に落として、目についた写真を指さす。



「こちらの、和栗と国産あずきの、とろぉ~……りりりん?」



 なぜこんなにも舌を噛みそうな名前なのだろうか。近所の喫茶店なんかは、すべてのメニューが十文字以内で完結するという親切設計なのに。でも、それは私が頼むのが『コーヒー』か『ナポリタン』の二択だからかもしれない。そのうちの一択であるナポリタンにいたっては、昨年還暦を迎えてからは胃にもたれるようになってめったに頼まなくなってしまった。



「眼鏡をお貸ししましょうか?」



 もたついている私を気づかったのか、ハルオキくんがかけていた老眼鏡のつるを指先でつまんで訊ねてくる。



「いいえ、お気持ちだけ」



 軽く片手をあげて答えてから、私は店員さんを見上げた。私と目があうと、店員さんはすぐさまにっこりと笑顔を浮かべた。


 まだ二十歳そこそこだろうか。目の周りを囲うようにしてピンク色のアイシャドウが濃い目にぬられており、真っ赤な口紅が白い肌にはえていた。


 そういえば、うちのピアノ教室に月一で通っている中学生のマリンちゃんも、先日同じような化粧をしていた。



「あらまあ、目が腫れちゃってるわよ。アブにでも刺されたの?」



 そう訊ねる私に、マリンちゃんは怪訝な声を返した。



「アブってなに? せんせー、これメイクだよ、メーク。ほら、病み病みでめっちゃエモいでしょう?」



 病み病みとエモいという言葉の意味が分からず、私は曖昧に首を傾げた。マリンちゃんは得意げに片目をつぶりながら、こういうメイクのことを『地雷メイク』と言うのだと教えてくれた。


 そんなことを思い出していると、店員さんが弾むような声で言った。



「こちらのほうじ茶パンケーキですねっ」

「ええ、そちらでお願いできるかしら」

「かしこまりましたぁ」



 店員さんは片手に持っていたスマートホンの画面を、桜貝みたいな爪でタップしてから軽やかな足取りで去っていった。


 カラフルなメニュー表を見ていたせいで、目がシパシパする。目頭をもみ込んでいると、ハルオキくんの声が聞こえた。



「そちらのパンケーキもおいしそうですね」



 眼鏡の奥の瞳は、テーブルの上に置かれたメニュー表を名残惜しげに見つめていた。



「よければ半分こにしますか?」



 私がそう提案すると、ハルオキくんは一瞬悩むように人差し指でコメカミを掻いた後、ゆっくりと首を左右にふった。



「それはさすがに、お恥ずかしいです」



 還暦のおじいさんが、まるで乙女みたいなことを言う。



「そうですか。じゃあ、やめときましょう」



 そう素っ気なく答えて、小さなため息を漏らす。息を吸いこむと、バターとバニラエッセンスの甘ったるい匂いが肺の奥深くまで潜り込んできた。匂いに誘われるようにして、辺りを見渡してみる。


 白とパステルピンクで彩られた店内は、可愛らしく着飾った女の子たちで溢れていた。女の子たちは、パンケーキが乗った皿を両手で掲げて写真を撮り合ったり、パンケーキを頬張りながら「おいしぃ~、あと三つ食べれる~」と言ったりしている。重なりあう笑い声は、色鮮やかなセキセイインコがギッシリと詰められた鳥かごを連想させられた。


 その鳥かごの中で、私とハルオキくんは明らかに浮いていた。煮染めたようなえんじ色のベストを着た老人と、白いシャツに黒いスカートをあわせた地味な老女の組み合わせは、まるで鳥の群れに迷い込んだイグアナみたいに異質だ。


 汗をかいたグラスに手を伸ばしたとき、ハルオキくんの小さな声が聞こえてきた。



「少々、言い方がきつかったでしょうか」



 叱られた子どもみたいな心細げな声だ。



「なにがですか?」

「あの子、目の周りが赤くなっていました。僕の言い方が悪かったんでしょうか。でも、誤解はよくないと思ったんです。僕らは夫婦ではありませんから」



 ハルオキくんの思い詰めた口調に、先ほど店員さんから言われた言葉を思い出した。



「二人でお出かけなんて、仲のいいご夫婦でうらやましいです」



 仲むつまじい老夫婦を微笑ましく思っている好意的な言葉だ。だが、店員さんにそう言われた瞬間、ハルオキくんははねのけるように「夫婦じゃありません」と即座に答えたのだ。


 たっぷりと氷が浮かんだ水を一口飲んでから、私はすこし投げやりな口調で言った。



「別に減るものじゃありませんし、誤解されたってよかったんじゃないですか」



 実際のところ、この年代の男女が二人で出歩いていれば、周りの人は『あの二人は夫婦なんだな』と当たり前のように考えるだろう。悪意のない誤解は、誤解のまま受け流した方がいい。意固地に否定する方がよっぽど相手を傷つけたり、自分の心を疲弊させると私は知っている。


 私だって、たまにスーパーで会う八十代ぐらいの女性に「うちの旦那なんて、自分が使ってる歯みがき粉も買ってこれないのよ。空っぽになったチューブを私に渡して『おい、買ってこい』なんて言ってきたりして、私はあんたの女中じゃないって言い返したらムスッと黙っちゃってさ。そうすりゃ女房が諦めて言うこと聞くって思ってるんだから。あんたんとこもそうでしょ?」などと一方的に話しかけられるが、そのたびに「そうですねえ」と相づちを打って誤魔化している。


 私には旦那なんてものはいないが、いちいちそんなことは言ったりはしない。一度でも口に出せば、寡婦なのか? 子供はいないのか? 他に家族はいないのか? などと刑事の取り調べばりに聞かれるのが分かり切っている。そうして最終的には『おかしな人だ』とばかりにうろんげな目で見られるのだ。


 今は涙を流すこともなくなったが、若いときは私も他人の言葉や眼差しに多少は傷ついてきた。だから、今はもう本当のことは口に出さない。本当のことほど、自分の奥深くに隠さないといけない。


 だが、ハルオキくんはかたくなに首を左右にふった。



「嘘は言いたくありません」

「嘘を言ってるわけじゃなくて、誤解をとかないだけでしょう」

「それでも、自分を裏切っているようで、どうにもたまらなくなります」



 その声を聞いた瞬間、もやもやとした霧の中から何かの形がぼんやりと浮かび上がるみたいに、昔の記憶がよみがえってきた。



『嘘をつくのは、周りではなく自分自身を裏切ってるみたいで耐えられないんです』



 今のようにしわがれた声ではなく、瑞々しくも苦悩を滲ませた若者の声だ。四十年以上も前、高校生の頃のハルオキくんの声。


 あの頃からハルオキくんは変わっていないんだなと思った。他人に対しても自分に対しても真摯すぎて、私とは違った意味で生きにくそうな人だ。


 重々しい空気をふり払おうと、私は軽く肩をすくめた。



「そもそも彼女の目の周りが赤かったのは、ただの化粧ですよ。最近は地雷メイクと言うみたいです」



 私の説明に、ハルオキくんは小さな目を見開いた。



「地雷? それはずいぶんと物騒な」

「あれが病み病みでエモいらしいです」

「やみやみでえもい?」



 渋いものでも食べたみたいにハルオキくんが顔をしかめる。



「それは日本語ですか?」

「日本語でしょうが、私たちには宇宙語みたいなものでしょうね」

「宇宙語」



 ひとりごちるようにつぶやくと、ハルオキくんは焦げ茶色のズボンから黒い手帳を取り出した。手帳に挟んでいたチビた鉛筆で、空白のページに『ヤミヤミ』『エモイ』と丁寧に書き込んでいく。



「今度お会いするときまでに、宇宙語を調べておきます」



 その言葉で、今度もあるのかと思った。今回パンケーキ屋に誘われたときだってビックリしたし、きっとこれっきりだろうと思っていたのに。


 そんなことを考えていると、ふんわりと湯気をたてるパンケーキがテーブルに運ばれてきた。厚さ五センチはありそうなふかふかなパンケーキが三枚も重ねられている。


 生クリームが山盛りになったパンケーキを見下ろして、ハルオキくんはシワだらけの口元をかすかにほころばせた。



「おいしそうですね」




***




 ハルオキくんは、高校時代の同級生だ。四十二年ぶりに再会したのは、一ヶ月前の春先に行われた同窓会だった。


 和食割烹屋の掘り炬燵に腰かけたとき、ふと隣から視線を感じたのだ。



「お久しぶりです、サクライさん」



 夜の森に響くフクロウの鳴き声を思わせる、じんわりと耳に残る低い声だった。


 顔を向けると、気むずかしい学者のような顔立ちの男性が私をじっと見つめていた。分厚い眼鏡の奥からこちらをうかがっている瞳を眺めていると、十八歳だった頃の記憶がふわりと綿雲みたいに浮かび上がった。



「ハルオキくん?」



 疑問符をつけて呼びかけると、男性はゆっくりとうなずいた。自分自身の名前を噛み締めているみたいな、感慨深そうなうなずきだ。



「お元気でしたか?」

「はい、お元気でした」



 驚いて、とっさに変な返事をしてしまった。慌てて片手で口元を押さえながら、誤魔化すように早口で続ける。



「もう還暦ですから無病息災とはいかないですけど、それなりに元気にやってます」

「それは宜しかった」



 しみじみとした声でハルオキくんが言う。


 乾杯のためか、キリンの瓶ビールが次々と長テーブルの上に置かれていく。薄っすらと汗をかいたビール瓶に手を伸ばすと、さっと横から伸びてきた大きな手が先に掴んだ。



「サクライさんは、ビールでいいですか?」

「あ、はい」



 促すようなハルオキくんの声に、とっさにグラスを差し出すと、とくとくと心地よい音を立ててビールが注がれた。ビールと泡の比率が、綺麗に七対三になっている。



「注ぐのお上手ですね」

「会社勤めが長いもので」

「もう定年ですか?」

「今年で定年ですが、再雇用で働こうかと。幸い技術職なので、まだ席は残してもらえるようです」



 ハルオキくんは淡々とした声で、新卒で入った機械設計の会社でずっと働いていると言った。礼儀としてビール瓶を受け取ってハルオキくんのグラスに注ぎ返す。慣れない私の手つきを見て、ハルオキくんが訊ねてきた。



「サクライさんは、今はどうしてるんですか?」

「自宅でピアノ教室を開いています」



 私がそう答えると、ハルオキくんは、あぁ、と相づちを漏らした。



「サクライさんは、昔からピアノがお上手でした」



 なんだか英語の例文みたいな言い方だ。私が曖昧に笑っていると、ハルオキくんはのどかな口調で続けた。



「二年生のときの合唱コンクールを覚えていますか?」

「私がピアノ奏者で、ハルオキくんが指揮者の?」



 何十年も前のことだというのに、昨日のことのように口からサラリと言葉が零れた。記憶というのは歯と同じように抜けていくばかりだが、高校二年生のときの記憶はまだ私の頭の中に淡く残っていた。



「はい。僕らが交際した一週間です」



 その言葉を聞いて、ハルオキくんも忘れていなかったんだな、と思った。


 高校二年生の秋、私とハルオキくんはたった一週間だけお付き合いをした。当時、合唱コンクールの練習のために女子ソプラノだけ集まっていたときに、好きな男子の話題になったのだ。キャーキャーと甲高い声をあげながらみんなが次々と気になる男子の名前をあげていく中、私の順番が回ってきた。今の私なら適当に誤魔化していただろうが、若い頃の私は誰かの名前を言わなければこの世界から弾き出されてしまうような不安に襲われて、仕方なくハルオキくんの名前をあげたのだ。


 ハルオキくんを選んだのは、練習のときに背筋を伸ばしすぎて反り気味に指揮棒をふっていた姿が印象に残っていたからだ。それにハルオキくんは他の男子みたいにガツガツしておらず、一番静かで無害そうに見えた。


 当時、私と仲が良かったハラダマリコは、私の口からハルオキくんの名前が出たことに、あからさまにはしゃいだ声をあげた。



「桜と春って名前からしてお似合いじゃない? 私が取り持ってあげるから一回付き合ってみたらどう?」



 マリコの迅速な取りはからいで、その数日後には私とハルオキくんはお付き合いすることになっていた。どちらかが告白したわけでもなく、ただ気付いたら『あの二人はつき合っている』という生あたたかくも逃れがたい空気に包囲されていたのだ。いつの間にか巻き込まれたハルオキくんは戸惑った様子だったが、私が事情を説明すると、一瞬悩ましい顔をしたあと「では、宜しくお願いします」と礼儀正しく頭を下げた。


 でも別れるまでのあいだ、私たちは一度も手を繋いだり、甘い言葉を囁き合うこともなかった。せいぜい一、二回ほど一緒に下校したぐらいだ。それでも私がハルオキくんを忘れずにいたのは、ハルオキくんが私にとって生まれて初めての恋人で、今日に至るまで最後の恋人でもあったからだ。


 向こう側が透けるほど薄い鯛の昆布締めを口運んで丁寧に咀嚼した後、ハルオキくんはビールをのどに流し込んだ。それから、ほぅっと小さく息を吐いてつぶやく。



「あのときは、ありがとうございます」

「ありがとうって?」

「誰にも言わないでくれたので」



 まるっきり謎かけみたいな言葉だ。私が首を傾げると、ハルオキくんはそっと顔を近づけてきた。かすかにビールの匂いが混じった息を感じる。だが、それ以外に体臭らしきものは感じなかった。そういえば高校生のときも、ハルオキくんは男の子の匂いがしないな、と思っていたことを思い出す。



「僕が男の人が好きだと言ったことをです」



 その言葉を聞いた瞬間、下校途中にイチョウが立ち並ぶ並木道で「お話があります」と呼び止められた記憶がよみがえった。



「すいません、僕はサクライさんのことが嫌いではないんですが、好きにはなれません。僕は、きっと男の人が好きなんです」



 ハルオキくんは強張った表情で、私をじっと見つめていた。眼鏡の奥の瞳はかすかに潤んで、秋の柔らかな木漏れ日に当たってゆらゆらと水面のように揺らめいて見えた。


 でも、四十年以上も前の記憶がこんなにも鮮明なはずがないから、きっと私の脳内で上手い具合に編集されたものなんだろう。歳を取ると過去の記憶は色褪せるというよりも、一切合切サッパリと消えてしまうか、過度に美しく脚色されるかのどちらかだ。そうして、実際に色褪せてぼやけていくのは過去ではなく今現在だった。


 ぷるぷると揺れるゴマ豆腐を箸でさいの目に切りながらつぶやく。



「そういえば、そうでしたね」



 自分でもビックリするぐらい素っ気ない声が漏れた。興味がないのが丸わかりな声音だ。言い訳しようと口を開きかけたとき、横から噴き出す声が聞こえた。ハルオキくんが、ふ、ふふ、と息を漏らして笑っている。


 視線を向けると、ハルオキくんはシワが刻まれた口元にほんのりと笑みを浮かべていた。笑うと、還暦の男性には似つかわしくない小熊じみた愛嬌が滲んだ。



「サクライさんは、昔から面白いですね。真面目そうに見えてひょうきんで、意外とにべもない人だ」



 誉め言葉と見せかけて、それは地味に貶しているのではなかろうか。私が釈然としない顔で黙り込んでいると、ハルオキくんはさらっとした口調で続けた。



「僕らが別れたときの会話を覚えていますか?」

「もう何十年も前のことですから、あまり」

「男の人が好きだと僕が言ったとき、サクライさんは『いいね』と言ったんです。『私はそういうの分からないから、ハルオキくんはいいね』と」



 そう聞いても、昔の自分が言ったことなんてちっとも思い出せなかった。人から言われた言葉は忘れたくても忘れられなかったりするのに、不思議なことに自分が言った言葉はほとんど頭に残っていない。



「そんなこと言いましたか?」

「はい。僕はあの言葉でずいぶんと楽になりました」



 確信に満ちた声で言われると、そうですか、としか言えなくなってしまう。妙なバツの悪さを感じながら、小さく切ったゴマ豆腐を口に運んで、もにゅもにゅと噛みしめる


 しばらく黙っていると、ハルオキくんがひとりごとみたいな口調でつぶやいた。



「連れ合いが、去年亡くなりまして」



 連れ合いという一言に、私は心臓がドキッとするのを感じた。私と別れた後に、ハルオキくんはちゃんと人生の伴侶を見つけていたのだと思った。その後、誰とも付き合わず、結婚すらしなかった私とは違って。


 ふと、四十歳の誕生日のときに母から言われた言葉を思い出した。



「自分が周りからどう見られてるのか分かってるの? お願いだから、いい加減に結婚してちょうだい!」



 居間のテーブルに突っ伏してさめざめと泣く母を見て、四十歳の私はショートケーキにフォークを刺したまま途方に暮れた。私のケーキの上には『サキコちゃん、お誕生日おめでとう』と書かれたチョコプレートが飾られている。小学生の頃から一文字たりとも変わっていないメッセージを見て、私は不意に息もできないくらい悲しくなった。



「このままずっと一人で生きていくつもりなの?」



 そう母に訊ねられたけども、私は口をつぐんだまま何も答えられなかった。本当は「どうして一人で生きてはいけないの?」と訊ねたかったけれども、それを口に出せば母がもっと泣くだろうと分かっていた。


 結局、母は独り身の娘に失望したまま、三年前に亡くなった。もちろん寂しい気持ちもあるけども、私は母がいなくなってほっとしている。その小さな安堵は、私の胸に鈍い痛みとして残ったままだ。



「連れ合いさんは、男の人?」

「はい、男の人です。大学の同級生でした。サクライさんはご結婚は?」

「していません。ずっとひとりです」



 さらりと答えると、ハルオキくんは、そうですか、と心の片隅にそっと置くような声で答えた。



「サクライさんらしいですね」



 その言葉に、私らしい、とはどういうことだろうと思った。だが、それは意外にも嫌な響きではなかった。黙ったまま、ほの苦い春菊のお浸しをゆっくりと噛みしめる。



「サクライさんは、ラインは使っていますか?」



 唐突なハルオキくんの言葉に、私は思わず噛みかけの春菊をごくりと呑み込んだ。



「ええ、まぁ、はい。生徒のお母さんたちとのやり取りで使っていますから」



 そう答えると、ハルオキくんはポケットからスマートホンを取り出して言った。



「もし宜しければ、今度ご一緒に出かけませんか?」



 それから二週間後に届いたハルオキくんからのメッセージには『甘いものはお好きですか?』という簡素な一言と、パンケーキ屋のアドレスが添えられていた。




***




 パンケーキ屋から一ヶ月後に、今度は県内にある遊園地に誘われた。絶叫コースターがあることで有名で、若者が絶叫をあげて急降下していくCMを何回か見た覚えがある。


 大勢の若者たちに混じって駅から出ると、夏の日射しから逃れるように街路樹の陰に立っているハルオキくんの姿が見えた。黒いリュックを背負っており、頭にはベージュ色のサファリハットをかぶっている。深緑色のチェックの半袖シャツを着ている姿は、なんだか冴えない大学生みたいだ。


 かくいう私も近所を散歩するときのウォーキングウェア姿で来ているのだから、人のことを言えた立場ではない。かぶっている野球帽は、十年以上も前にピアノ教室に通っていた生徒の家族と、付き合いで球場に行ったときに買ったものだ。元は鮮やかな青色だった野球帽は、今は色褪せて水色になっている。


 私が近付くと、ハルオキくんはきっちり四十五度に腰を折って頭を下げた。



「おはようございます、サクライさん」



 小学生みたいな挨拶をすると、ハルオキくんは行きましょうと言って歩き出した。

 園内に入ると、ハルオキくんは急いた足取りでジェットコースターの方へ向かっていった。列の最後尾に迷わず並ぼうとするハルオキくんを見て、私はとっさにうわずった声をあげた。



「えっ、乗るんですか?」



 ハルオキくんは『なぜ、そんなことを聞くのか』とばかりに目を瞬かせた後、注意事項が書かれた看板を指さした。



「僕らは、まだ六十五歳以下ですから大丈夫ですよ」



 確かに看板には『九歳以上から六十五歳以下まで』と書かれている。だけど、私が聞きたいのはジェットコースターに乗る理由であって、乗れる条件ではない。


 私が唇を半開きにしていると、ハルオキくんはふと気づいたように申し訳なさそうな声をあげた。



「すいません、事前に聞いていませんでしたが、サクライさんは心臓が強くないですか?」

「いいえ、それは特に」

「高いところはお嫌いですか?」

「いいえ、それも特に」



 反射的に答えていくと、ハルオキくんは『では、なぜ?』と言うように首を傾げた。それらに当てはまらないのなら当然乗りたいだろう、と言わんばかりの表情だ。


 ふとハルオキくんが頭上を見上げる。つられて視線をあげると、ちょうど私たちの真上を猛烈なスピードでコースターが通り過ぎていくのが見えた。車輪がレールをすべる激しい金属音と乗客たちの絶叫が耳をつんざく。大きく一回転するコースターを目で追いながら、ハルオキくんが声をあげる。



「ジェットコースターが逆さまになっても落ちない理由を知っていますか?」

「え、なんですか?」



 それは『その理由はなんですか?』と疑問を返すものではなく、『一体いきなり何を言い出したんですか』という意味合いの方が強かった。だが、ハルオキくんは前者の意味で受け取ったのか、意気揚々と話し始めた。



「バケツに水を入れて回すと、水がこぼれないのと同じ理屈です。遠心力が働いて中心から離れようとする力が発生するから、ジェットコースターは落ちてこないんです。遠心力は、回転の速度が速いほど強くなります。だから、逆に速度が遅いと、遠心力は弱まってレールから真っ逆さまに落ちてしまいます」



 説明すると、ハルオキくんは控えめな笑みを浮かべた。



「理屈が分かれば、速い方が安心だと思えませんか?」



 それを聞いて、もしやこの人は私がジェットコースターのスピードに怖じ気づいているとでも思っているのだろうかと考えた。


 唖然としたまま、反射的に答える。



「別に速いのが怖いわけじゃないですよ」

「良かったです。では、ささっと並びましょう」



 ウキウキとした様子で列の最後尾に並ぶハルオキくんを見て、もしかして私ははめられたんだろうかと思った。いつの間にか年齢にそぐった老獪さを身につけているハルオキくんに驚く。昔は、駆け引きなんて一切できなさそうな純朴な男の子だったのに。


 狐につままれたような気持ちで、しぶしぶ私もハルオキくんの後ろに並ぶ。当然だが、列の前後を挟んでいるのは私たちの半分以下の年齢の子や若い家族連ればかりだ。


 前に並んでいた十代らしき男の子たちが、物珍しそうにチラチラとふり返ってくる。野球部なのだろうか、全員綺麗な坊主頭をしており、顔や手足が黒糖かりんとうみたいに黒くつやつやと焼けていた。列が数メートルほど進んだとき、男の子たちの一人が周囲にせっつかれるようにして訊ねてきた。



「あの、すいません、マジでこれに乗るんですか?」



 ハルオキくんは生徒からの質問に答える教師みたいに重々しくうなずいた。



「はい、もちろんです」

「ジェットコースター好きなんすか?」

「いいえ、生まれて初めて乗ります」



 ハルオキくんの返答に、どうしてだか男の子たちは、おわっ、やら、すっげぇ、などと嬉しそうな声をあげた。



「俺らも初なんすよ。落ちるときに一緒に手離しませんか?」

「手を離すというのは、両手をあげるということですか?」

「そっす、バンザーイって」



 男の子が楽しそうに両手をあげる。すると、仲間の男の子たちもそろって「バンザーイ! バンザーイ!」と声をあげて両手をふり上げた。まるで宴会終わりのような光景だ。万歳をする男の子たちを眺めて、ハルオキくんは微笑ましそうに口元を緩めた。



「それは大変楽しそうですね。是非ともご相伴させてください」



 その返答に、男の子たちは「よっしゃあ!」「俺ぜってー写真買うわ!」などとはしゃいでいる。どうやら急降下の際に写真が撮られて、それを後から購入できるシステムらしい。どうして老人と一緒に写った写真を欲しがるのか理解できないが、きっと彼らにとってはジェットコースターに乗る老人は、上野動物園のパンダと同じくらい珍しいんだろう。



「本当に手を離すんですか?」



 呆れた声で私が問いかけると、ハルオキくんはまた不思議そうに首を傾げた。



「もちろん離しますよ」

「心臓が止まっても知りませんよ」

「こう見えて、心臓は丈夫な方なんです」



 右拳で左胸をドンと叩いて、健康診断も今まで一度も引っかかっていないんですよ、と得意げに言う。その仕草にため息を漏らしながら、私はそもそもな疑問を口に出した。



「どうしてジェットコースターに乗ろうなんて思ったんですか」

「昔からずっと乗ってみたかったんです」

「それなら、もっと若いときに乗ればよかったのに」



 チクリと私が嫌味めいたことを言うと、ハルオキくんは所在なさげにサファリハットのつばを指先で触った。つばを何度も左右に撫でながら言う。



「一人で乗るのは、怖いじゃないですか」



 開き直りつつも、ちょっといじけた口調だ。



「連れ合いさんは誘わなかったんですか?」



 六十をすぎて元恋人を誘うよりかは、そちらの方がずっと簡単だっただろうに。


 だが、そう言っておきながらも、自分だってこういう場所に誘える相手がいないことに気づいた。学生時代にいた友人たちは、大半が二十代のうちに結婚してしまって自然と縁遠くなってしまった。


 高校の同級生だったハラダマリコとは三十代になっても変わらず会っていたが、あるとき「人を好きになれないとか言ってないでさ、そろそろ結婚しなよ。いい加減、親孝行しないとね」と笑いながら言われて、私から連絡することをやめてしまった。恋愛的な意味で人を好きになる気持ちが分からない、と打ち明けたたった一人の相手だった。


 マリコと最後に会ったのは十年以上前に開かれた同窓会だ。同居している義父の介護がつらいと嘆いて、以前とは打って変わって「サキコは一人で気楽だからいいよね。私だって、もっと自分の好きなように生きたかった」とぐずぐずと漏らしていた。その言葉を聞いて、私は苦笑いを浮かべていた気がする。


 私たちはみんなないものねだりだ。その時々によって隣の芝生が枯れて見えたり、青く見えたりする。隣の芝生は隣の人のものであって、自分とは全く関係ないものなのに。


 私が連れ合いさんのことを口に出したとたん、ハルオキくんは接着剤で貼り付けられたみたいに唇をピッタリと閉じた。思い悩むように黙った後、ゆっくりと唇を開く。



「連れ合いは外に出るのが嫌な性質でしたので、こういう人の多い場所には一緒に来られませんでした。彼は、周りから自分たちがどう見られているのかが恐ろしいと言っていました。二人で外を歩いているだけで、世界中の人から石を投げつけられるんじゃないかと思っていたみたいです」



 今よりも昔の方が当たりが強かったですから。と他人事めいた口調で、ハルオキくんが言う。まるで自分の中で『昔のことだ』と区切りをつけているみたいな声音だった。



「石を投げられるって、マグダラのマリアみたいに?」



 私のとぼけた返しに、ハルオキくんはかすかに眉根を寄せた。



「キリスト教では同性愛は御法度ですから、石ではなくてもっとひどいものを投げつけられるんじゃないでしょうか」



 その言葉に、私は石をふりかぶる群衆の姿をぼんやりと想像した。


 ふと小学生の頃に、動物園で見たゴリラを思い出した。図体がひときわ大きなゴリラが、うっぷんを晴らすように檻の外に向かって自分の糞を投げつけていた光景だ。



「石よりもひどいものって、たとえばゴリラの糞とかでしょうか。でも、わざわざゴリラの糞を用意するのも大変そうですね。投げる人の手も汚れてしまうでしょうし」



 上の空のまま、頭に浮かんだ言葉を口に出す。ハルオキくんは目を丸くした後、不意に顔を背けて、ぶふっ、とも、ごふっ、ともつかない咳を漏らした。何度か空咳をこぼした後、こちらへと向けられたハルオキくんの顔はかすかに赤らんでいた。



「大丈夫ですか? 痰でもからみました?」



 私の問いかけに、ハルオキくんは誤魔化すようにサファリハットで顔をあおいだ。その横顔をうろんに眺めていると、ハルオキくんはふと手を止めてぽつりとつぶやいた。



「僕も、彼にそう言ってあげればよかったです。みんなが握ってるのは石じゃなくてゴリラの糞だって」



 汚れたって、自分で洗い流すことができるんだって。そう続けて、ハルオキくんは、ふぅ、と短く息を吐き出した。


 みんながゴリラの糞を握ってるのはものすごく気持ち悪い光景だし、ある意味石よりも嫌じゃなかろうか。眉をしかめながらそんなことを考えていると、いつの間にか列の先頭近くまで来ていた。マイクを持った係員の男性が、明るい声で言う。



「こちらのライジングコースターは猛スピードで急上昇急降下するアトラクションです! 席につかれたら、しっかりとセーフティーバーを下げてください! それではエキサイティングで、最高にスリリングな旅へ行ってらっしゃい!」




***




 夏が過ぎて秋になっても、ハルオキくんから次のお誘いは来なかった。


 スマートホンに届くのは、生徒のお母さんたちのメッセージばかりだ。そのメッセージの中には、子どもの成長確認や発表会の打ち合わせだけでなく、日々の愚痴らしきものもチラホラと混ざっている。



『キラリが誕生日プレゼントにピアノを欲しがったら、夫がプリキュアの絵が入ったオモチャのピアノを買ってきたんです。キラリの将来をちゃんと考えていたら、最低でも電子ピアノを買うのが当たり前ですよね?』



 キラリちゃんは、先月からうちの教室に通い始めた四歳の女の子だ。楽しげに鍵盤を叩くキラリちゃんの姿は微笑ましいが、その後ろにピッタリと張り付くようにして指の動きを見ているお母さんは背後霊みたいですこしばかり怖い。


 入会するときも「この子を将来、プロのピアニストにしたいんです」と一オクターブ高い声で言っていた。普段の私だったら「では、頑張りましょうね」などと当たり障りのない台詞を返すのだが、そのときの私は「何になるかはキラリちゃん次第ですから」と答えてしまった。キラリちゃんのお母さんは『どうして私の気持ちを分かってくれないのか』と訴えるようにムスッとした表情を浮かべたが、結局入会書にサインをして帰った。


 キラリちゃんのお母さんのメッセージを眺めてから、画面に文字を打ち込む。



『よければ次の発表会はご夫婦でいらっしゃってくださいね。キラリちゃんが頑張っているところをお二人で見てあげてください』



 こののらりくらりとした返信も、きっと彼女をムスッとさせるんだろうなと想像した。


 私も若い頃は、誰かに自分を分かってほしいと思っていた。周りから理解してもらえる人間になりたいと。だけど、きっと理解なんていうものは都合のいい思い込みでしかない。こういう突き放した考えが、ハルオキくんから『意外とにべもない』と言われてしまうゆえんなのかもしれない。


 そう考えたときに、ハルオキくんからしばらく連絡が来ていないことに気づいた。確認すると、最後のメッセージは遊園地に行った翌日だった。


『ありがとうございました。とても楽しかったです。六十五歳になる前に、また乗りましょう』と書かれた文字の下に、ジェットコースターで落下するときに撮られた写真の画像が貼られていた。一、二列目に座っている男の子たちと三列目のハルオキくんは、両手をあげてバンザイしている。ハルオキくんの隣に座った私は、うつむいたまま必死に目の前のセーフティーバーにしがみついていた。


 九十度に急降下しているときは、落ちているのにこのまま天に召されると思うぐらい怖かった。でもジェットコースターから降りた後は、不思議なことに生まれ変わったような清々しさも感じた。ジェットコースターの凄まじい速度で、背中から重たい荷物がふり落とされたかのような爽快感だった。


 確かにもう一回ぐらいは乗ってもいいな、なんて調子のいいことを考え始めている自分がおかしかった。むずむずと体内から芽吹きそうになる笑いを抑えるために、生ぬるくなった緑茶を飲んで一息つく。それから、ハルオキくんにメッセージを送った。



『お久しぶりです。お元気でいらっしゃいますか?』







 ハルオキくんから返信が来たのは翌日のお昼だった。昨夜の残りもののけんちん汁にすり生姜を入れて温め直していると、テーブルに置いていたスマートホンがムームーと音を立てて震えた。



『お久しぶりです。お恥ずかしいことに、今入院しております』



 ハルオキくんからのメッセージを見たとたん、あらまあ、という声が溢れていた。まじまじとスマートホンの画面を眺めていると、続けてメッセージが届いた。



『重病ではないのでご心配なさらず。右足を骨折しただけです。先月、手術で足にボルトを入れました。記念に手術後の足の写真も撮りましたが、宜しければ見られますか?』



 冗談なのか、それともまさか本気のつもりなのか。返信しないと勝手に写真を送ってきそうなので、素早くメッセージを打ち込む。



『それは大変ですね。どうかお大事になさってください。写真は結構です』



 箇条書きみたいな返信を送ると、すぐさま『ありがとう』と吹き出しが描かれたクマのスタンプが送られてきた。


 スマートホンをテーブルに置いて、くつくつと煮立ち始めていたけんちん汁をおたまでかき回す。とたん、生姜の香りがする白い湯気がふわりと立ちのぼった。スーッと鼻を抜けていく匂いを吸い込んだ瞬間、なぜだか胸のあたりがそわりと疼いた。


 鍋の火を消すと、私はもう一度スマートホンを手に取った。



『どちらの病院にいらっしゃいますか?』




***




 翌週水曜日の午後に、ハルオキくんのお見舞いにうかがうことになった。


 肌寒い季節になってきたので、いつも着ている白いシャツの上に淡いピンク色のカーディガンを羽織る。数年前に買ったが、母に「その歳で若い子みたいな色の服を着るものじゃないでしょう」と言われて、ずっとタンスの奥に隠すように押し込んでいた服だ。


 おそるおそる鏡を見ると、華やかな色の服を着ただけで肌がパッと明るく見えることに驚いた。今までは地味な色の服ばかり着ていたが、これからはもっと明るい服を着てもいいかもしれない。そんなことを考えながら、すこしばかり軽い足取りで家を出る。


 ハルオキくんの病室は、病棟二階の四人部屋だった。他のベッドは仕切りのカーテンをピッタリと閉じており、人がいるかも分からないぐらい静かだった。ハルオキくんのベッドだけカーテンがすっきりと開かれている。


 ハルオキくんは、窓際のベッドに両足を伸ばしたまま座っていた。布団からはみ出した右足には、分厚いギプスがはめられている。


 病室入口に立つ私に気づく様子もなく、ハルオキくんは窓の外にある枯れ葉まみれの木をじっと眺めていた。風が吹く度に、木の枝からハラハラと枯れ葉が落ちていく。



「こんにちは」



 私が声をかけると、ハルオキくんはこちらへと顔を向けた。



「ああ、サクライさん、こんにちは。わざわざ来てくださってありがとうございます」

「いいえ、逆に気を遣わせてしまったかしら」

「とんでもない。どうぞ座ってください」



 ハルオキくんが体をねじるようにして、ベッド脇に置かれている背もたれのない椅子に手を伸ばす。怪我に頓着していない仕草を見て、私は慌てて椅子を掴んだ。そのまま固い座面に腰を下ろす。


 ベッド近くの床頭台には、お見舞い品の定番のようなフルーツ籠が置かれていた。メロンや林檎や梨や柿が山盛りになっていて、明らかに一人で食べられるとは思えない量だ。


 フルーツ籠をまじまじと眺めていると、ハルオキくんが、ああ、と声をあげた。



「会社の人が持ってきてくれたんです。もし宜しければ、いくつか持って帰っていただけませんか?」

「いえいえ、それはさすがに悪いです」

「腐らせる方が申し訳ないので、ぜひお願いします」

「そうですか。では、お言葉に甘えて」



 頭を下げてから、籠の中から林檎と梨と柿をひとつずつ頂く。林檎を手に持った瞬間、甘く爽やかな香りがふわりと鼻先を掠めた。


 エコバッグにフルーツを入れてから、ハルオキくんを眺めて訊ねる。



「お加減はどうですか?」

「上々です。最初はこたえましたが、痛みも今はずいぶんと和らぎました。ただ、こちらの病院は食事がおいしくて、すこし太ったような気がします」



 下腹を撫でながら、ハルオキくんが困ったように言う。



「特段お変わりないように見えますよ」

「そうですか? サクライさんが言うのなら、きっと本当ですね」



 揶揄しているのか真剣なのか、また反応に困る返答だ。私は曖昧に唇を上下させてから、膝元に置いていた紙袋を両手で持ち上げた。



「日持ちするかと思って焼き菓子の詰め合わせを持ってきたんですが、お嫌いじゃなかったですか?」

「これはこれはどうもお気遣いいただいて。甘いものは大好物です」

「パンケーキもおいしそうに食べてましたものね」



 私の言葉に、ハルオキくんは目尻にギュッとシワを寄せて口元をほころばせた。パンケーキを口の中に入れたときみたいな表情だ。



「あれはとてもおいしかったですね。翌日、少々胃がもたれましたが」

「あんな山盛りの生クリームを食べたらそうなるでしょう」

「サクライさんは胃もたれしなかったんですか?」

「次の日は、おかゆしか食べれませんでした」



 冗談めかした口調で答えると、ハルオキくんは、ふ、ふ、と小さく声をあげて笑った。


 ハルオキくんの右足にはめられた真っ白なギプスを眺めながら訊ねる。



「どうして骨折したんですか?」

「木から落ちたんです」

「木から?」



 首を傾げる私を見て、ハルオキくんは照れくさそうにコメカミを掻いた。



「パンツがですね」

「はぁ、パンツが」

「干していたパンツが風で飛ばされて目の前の公園の木に引っかかってしまったんです。それで取ろうとして木に登ったのですが、足を滑らせて落っこちてしまいまして」



 ハンカチや靴下などであれば放っておけますが、さすがにパンツはほったらかしにはできませんでした。と言い訳するみたいにハルオキくんが言う。



「それなら、物干しとか長い棒で取ればよかったんじゃないですか」

「今思うとそうなんですが、そのときは過信してしまったんです」

「過信?」



 私が繰り返すと、ハルオキくんは窓の外の木を見やって言った。



「二十歳の頃に、木に登って恋人を連れ去ったんです」



 思いがけないエピソードに思わず、あらまあ、という声が零れる。口元に手を当てたまま眺めていると、ハルオキくんは淡々とした口調で続けた。



「大学を卒業したら一緒に暮らしたいと彼の両親に伝えたら、息子は病気になったと言って彼を病院に入れてしまったんです。それでその晩、病院の中庭に植えられていたクスノキによじ登って、彼をさらい出しました」

「あらあら、まるでロミオとジュリエットみたいですね」

「僕らの場合は、ロミオとロミオですが」



 そもそもロミオは木登りしてジュリエットをさらったりしないはずです。と訂正しながらも、ハルオキくんはやけに楽しそうだった。



「あれから何十年も経っているのに、まだ自分は木に登れると思いこんでいたみたいです」

「それは確かに過信ですね」



 私が深くうなずくと、ハルオキくんは肩を揺らして笑った。その柔らかな笑顔を見て、ふと思った。高校生の頃よりも今の方がハルオキくんはずっと穏やかな表情をしている。


 そのとき、若い男性の看護師さんが病室に入ってきた。ハルオキくんと私を見ると、看護師さんは愛想の良い笑顔を浮かべた。



「こんにちは、ハルオキさん。調子はどうですか?」

「こんにちは、カワノさん。調子は上々です」

「それは良かった。来週からリハビリが始まりますので頑張っていきましょうね」

「はい、頑張ります」



 なんだかロボットみたいな会話だ。あまりにも堅苦しすぎる返答に私が呆れた表情を浮かべていると、カワノと呼ばれた看護師さんは含み笑いを漏らした。



「奥さんにいいところを見せないとですね」



 奥さんという一言は、おそらく私を指しているのだろう。視線を向けると、カワノさんは『分かってますよ』と言わんばかりに私に満面の笑みを向けた。


 その笑顔を見た瞬間、反射的に唇が動いた。



「夫婦じゃありません」



 以前、ハルオキくんが言っていたのと同じ言葉だ。その言葉が自分の口から出てきたことに自分自身驚いた。私の言葉に、カワノさんはパチパチと目を瞬かせている。



「ただの友達です」



 そう続けると、カワノさんはハッとした様子で口を開いた。



「そうでしたか。すいません、軽率でした」

「いいえ、大丈夫です」

「本当にすいません」



 カワノさんは赤べこみたいにペコペコと頭を下げながら、別のベッドのカーテンの内側へ入っていった。


 視線を戻すと、ハルオキくんが妙に嬉しげな笑みを浮かべていた。ニヤニヤだとかニタニタという擬音が当てはまりそうな、ちょっと腹の立つ笑い方だ。



「何ですか、ニヤニヤして」



 私がムッとした声をあげても、ハルオキくんは、んふふ、と鼻がかった笑い声を漏らすばかりだ。


 思い出したように、ハルオキくんが床頭台の引き出しから手帳を取り出す。ページをめくった後、ハルオキくんはおもむろに言った。



「そういえば『ヤミヤミ』と『エモイ』の意味が分かりました。『ヤミヤミ』は病におかされていること。それから皮膚の血色が悪かったり、血が出ていたり、そういう身体的な特徴をあらわすときにも使われるようです。『エモイ』はエモーショナルを語源として作られた造語で、感動したり、懐かしかったり、切ないときに使うみたいです」



 一息に喋ると、ハルオキくんは自分を指さして言った。



「今の僕は、ヤミヤミでエモイですね」



 難しい言葉をやたらと使いたがる小学生みたいな口調だ。得意げな表情をするハルオキくんを見て、私はため息混じりに言った。



「養生して、早く怪我をなおしてくださいね」



 六十五歳になるまでに、またジェットコースターを乗りに行かなきゃいけないんですから。私がそう言うと、ハルオキくんは、口元をほころばせて、はい、とうなずいた。


 次にジェットコースターに乗るときは、私も両手を離したいなと思った。友達と並んで、バンザーイと叫びながら落ちていくのだ。きっと天に召されるような気持ちになるだろう、なんて私が言ったらちょっと笑えないかもしれない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夫婦じゃありません 野原 耳子 @mimiko_nohara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る