第一章 第三話 [蜘蛛の森]

エルンはゴブリンが蜘蛛に捕まる光景を目の当たりにした。


ほっとした瞬間も束の間、彼の心は不安でいっぱいになった。


あの巨大な蜘蛛が、まさに自分の背後にいるのではないかという恐怖が頭をもたげる。


森の異常さを感じながら、エルンはできるだけ早くこの場所を離れようと、立ち上がることを決意した。




足元が不安定なまま、彼は森の奥へと進む。


まだまだ視界は暗く、鬱蒼とした木々が彼の行く手を阻む。


しかし、心の中にある希望が彼を前へ進ませる。


もしかしたら、もう少し進めば森の出口が見つかるかもしれない。


街が近いのだと信じて。


周囲が静まり返っている中、エルンは少しでも音を立てないように注意しながら進む。


しかし、道が険しくなるにつれて彼の足は疲労感で重くなっていく。


息が苦しく、心臓が耳の中で高鳴っている。


ふと、彼は遠くで何か大きな影が動くのを見つけた。


急いで息を呑み、目を凝らす。


その影は、先ほどとは桁違いの大きさの巨大な蜘蛛の姿だった。


遠くの木の陰にたたずんでいるそれは、体は大きく、背中には恐ろしいほどの足が広がっている。


その姿は、まさにこの森の主であることを物語っていた。




「この森を抜け出さなければ」とエルンは心の中で叫んだ。


彼はできるだけ静かに後退しようとしたが、その瞬間、足元で何かが動いた。


目をやると、彼の目の前にはアラクネの子供が立ちはだかっていた。


通常の蜘蛛と比べても、その大きさは異常だった。


体長はエルンの手を広げたぐらいもある。


この森の主と大きさはかけ離れているとはいえ、十分に恐怖を感じさせる存在だった。




エルンは恐怖で固まった。


動こうとしても、体が言うことを聞かない。


アラクネの子供は、彼をじっと見つめている。


恐ろしい目が彼を捉え、逃げ場がないことを実感する。


周囲には逃げ道がない。


後ろに戻ろうとすれば、巨大なアラクネが待ち受けているかもしれない。




緊張が高まり、エルンは思わず近くの木の幹に手を伸ばしてつかんだ。


体は震え、冷や汗が背中を伝う。


アラクネの子供は、まるで彼を見定めるようにじっとしているが、いつ襲いかかってくるか分からない。


首の4つの目がカクカクと不規則に動くその姿に、エルンはまるで蜘蛛の糸に絡め取られたかのように、恐怖で立ちすくんでしまった。




エルンは心の中で葛藤していた。


逃げるのが最善だが、目の前にアラクネの子供がいる限り、その道は閉ざされている。


冷静さを取り戻そうと努めながら、どうにか突破口を見つける必要があった。


頭を回転させる。「さっきのように別の獲物がいれば…」そう思った瞬間、ふと疑問が浮かんだ。


なぜ先ほどの蜘蛛は自分を襲わなかったのか?




昨晩、クローゼットの中で読んだ父の手帳の内容。


すべてを正確に覚えているわけではないが、ひとつだけ頭に残っていた。


「特定の虫は、動いているものにしか反応しない」。


もしそれが本当なら、何かを利用してこの状況を切り抜けられるかもしれない。




エルンは坂道の傾斜を見て、その上で靴を脱ぐことに決めた。


靴を脱ぐことで、動くものが見えるアラクネの子供を引き寄せる作戦だ。


彼は静かに靴を脱ぎ、坂の上から下へ転がるように脱ぎ捨てた。


靴が坂を転がり落ちる音が森に響き渡る。


アラクネの子供は、その音に反応して靴へ向かって飛び掛かった。


その瞬間、エルンは動かずに身を潜め、アラクネの子供が靴に夢中になっているのを確認し、素早くその場を抜け出した。


彼は静かに坂道を上り、周囲を見渡しながら進んでいく。


背後で動く気配を感じたが、振り返る余裕はなかった。




エルンは片方の靴を脱いだ足で走り続けたが、すぐに鋭い痛みが足に走った。


裸足の足が地面の小石や枝に傷つけられ、血が滲んでいた。




足の痛みは増し、彼の歩みはどんどん遅くなっていく。


そして、不自然に開けた場所にたどり着いた。


辺りを見渡すと、この場所だけ木々が生えていないことに気づく。


いや、木々は倒されているのだ。


まるで力任せに引き裂かれたかのように、倒れた木々が散乱していた。


その異様な光景に、エルンは思わず足を止める。




ふと、頭上に何かの気配を感じた。


恐る恐る見上げると、そこには1つの巨大な繭がぶら下がっていた。


その大きさは、今まで見たこともないほどだ。


エルンはその異様な光景に驚きを隠せず、しばらく呆然と立ち尽くした。




しかし、その場に留まる余裕はなかった。


背後から蜘蛛の子供たちが迫り、鋭い足音がどんどん近づいてくる。




エルンは焦りながらも冷静に状況を見つめた。


蜘蛛の子供たちが複数、目の前に迫っている。


さっき見た彼らの恐ろしさが頭をよぎる。


口から吐き出された糸は、ゴブリンを簡単に絡め取り、まるで人形のように持ち上げていた。


その怪力を考えると、エルン1人を持ち上げることは難しいかもしれないが、3匹もいれば十分すぎる力だ。




エルンの手元にあるのは、父の手帳のみ。


武器にはなり得ない。


背中を冷たい汗が伝い、足の痛みが鈍く響く。


だが、この場に立ち止まるわけにはいかない。


彼は周囲を見渡し、地面に転がっている木の棒や石に目を留めた。


それらしか頼るものはなかった。




やるしかない。


エルンは急いで木の棒を拾い上げると蜘蛛たちが一斉に動き出す。


彼は本能のままに、力いっぱい棒を振り回した。


何度も何度も、相手の位置を気にする余裕すらなく、ただ無我夢中で振り続ける。


手に感じる振動や、ぶつかる感触は彼に現実の恐怖を再認識させたが、それでも止まるわけにはいかなかった。


その瞬間、一本の糸が彼の腕をかすめた。


冷や汗が再び背中を流れ、エルンは一瞬動きを止めそうになる。


しかし、体をかばうように再び棒を振り、なんとか蜘蛛たちを遠ざけようと必死になった。




エルンの目の前には、すでに1体の蜘蛛が戦闘不能になって倒れていた。


残りの3体も息を切らし、動きが鈍くなっている。


死にものぐるいの戦いを繰り広げた結果、彼は自分の力を信じられないほど驚いていた。




しばらくの間、世界が静止したかのような沈黙が続く。


エルンは必死に呼吸を抑え、目の前の子蜘蛛たちを警戒していた。


だが、その時、何かが背後で動いた気配がした。


ゆっくりと振り返ると、そこには暗闇の中にそびえ立つ影が。




それはまるで、一つの城が音もなく動き出したかのような巨大さだった。


重く鋭い脚が大地を踏みしめるたび、空気そのものが揺れるような圧迫感が広がる。


エルンの視線はその恐ろしい存在に釘付けになった。アラクネだ。




恐怖に凍りついた彼は、手に持っていた石を思わず落としてしまった。


乾いた音が足元で響いた瞬間、アラクネの脚がその石を貫くように突き刺さり、地面に深く食い込んだ。


鋭い感覚で何かを探るように、彼女の巨大な体が微かに動く。




その時、子蜘蛛たちが突然不規則な音を立て始めた。


エルンはその音に何か意味があるとは思いつつも、理由まではまだ理解していなかった。


ただ、この音が何か危険な予兆であることだけは感じていた。




一方で、エルンの動きが止まったことで、子蜘蛛たちは彼を見失い、あたりを徘徊し始める。


エルンはその場にただ凍りつくことしかできなかった。

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終わりなき地図の旅 @Dango23

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