銀のナイフを振り上げた。

庄野真由子

銀のナイフを振り上げた。

「あの男爵令嬢、アミという女の顔に傷をつけてほしいの」


テーブルの向かい側に座ったシェイルハート公爵令嬢はそう言って、美しいナイフをテーブルの上に置いた。

真っ白なテーブルクロスの上に乗った銀のナイフは、窓からの光を受けて冴え冴えと輝く。


私が暮らすタウンハウスに、シェイルハート公爵家からお茶会の招待状が来た時から嫌な予感はしていた。

招待状の内容は『初夏の庭を見ながらお話をしましょう』とあった。

私は公爵家から見れば木っ端のような貧乏子爵家の令嬢で、しかも王宮の女官になることを目指している身だ。

嫌な予感がするというだけで、王太子殿下の婚約者であるシェイルハート公爵令嬢からのお茶会の招待を断るわけにはいかなかった。


「このナイフには我が公爵家の家門が彫られているわ。お父様にいただいたの。お父様は、わたくしを侮る平民に思い知らせてやれと仰ったわ。あなたはあの男爵令嬢の顔を傷つけた後、わたくしから命じられたと言えばいい」


シェイルハート公爵令嬢はそう言って微笑む。お茶会のテーブルを囲む令嬢たちもシェイルハート公爵令嬢の言葉に肯いた。

お茶会に出席しているのは、貴族学院でシェイルハート公爵令嬢の側に侍る侯爵家の令嬢たちだ。皆、私の友人であるアミと自分の婚約者が親しく接していることに不快さを隠さない方たちだ。


「恐れながら申し上げます。アミを傷つけたら、その、王太子殿下のご不興を買うことになるのではないかと……」


声が、震える。でも、私はアミの顔を傷つけるなんておそろしいことはできない。やりたくない。アミは私の友人だ。貴族学院は『学院内では皆平等』という理念を掲げていて、アミはそれを素直に信じている。

アミは貴族学院に入学する半年前まで平民として暮らしていたノルド男爵家の庶子だ。だから『裏を読む』という貴族の作法を知らない。


ノルド男爵は、平民として暮らしていたアミが王太子殿下を始めとする高位貴族が在籍する特別クラスに入れるほどに優秀だとは思わなかったのだろう。元々、貴族の女性は家を継ぎ、守る役目を負う男性と異なり、礼儀作法や美容に関する事柄に重きを置くことが多い。

私は女官志望だったので、自分の優秀さを示すためにも上級のクラスに在籍する必要があった。


現在、貴族学院の特別クラスに在籍しているのは10名。そのうち、女子生徒は3名だけだ。女子生徒はアミと私、それから私の右斜め前の席に座っているミーディア伯爵令嬢だ。

飾らず明るいアミの人柄に惹かれた私は彼女と友情を育み、ミーディア伯爵令嬢はアミへの嫌悪を募らせていた。


飾らず明るいアミの人柄に惹かれたのは私だけではなく、皇太子殿下を始めとする高位貴族の令息も同様だった。

アミは貴族学院の『学院内では皆平等』という理念を信じていたので、朗らかに、令息たちとの交流を楽しんでいた。

平民としては、それは何の問題も無い行動だったのだろう。でも、貴族令嬢としては眉をひそめるものだった。


私はアミにそれとなく注意を促したが、彼女は理解しなかった。それどころか、王太子殿下や高位貴族の令息たちと街歩きをすると聞いた時には青ざめた。


「王太子殿下たちに平民の暮らしを知っていただけば、街の皆が今よりもっと幸せに暮らせるわ」とアミは笑った。

平民の暮らしを向上させる。それは立派なことだ。でも、それを考えるのは男爵令嬢の役目ではない。


「平民として暮らしていたあたしだからこそ、王太子殿下にお伝えできることがあると思うの」


そう言ったアミの眼差しは澄んで、美しかった。アミには打算など何もなかった。

アミはただ、真摯に学び、友人たちと交流していただけだった。でもそのことがミーディア伯爵令嬢との溝を深め、王太子殿下や高位貴族の令息たちの婚約者の不興を買った。


シェイルハート公爵令嬢の宝石のような美しい青い目が私を見つめている。

シェイルハート公爵令嬢の金色の髪は艶やかに輝いていて、私は自分のくすんだ茶色の髪のぱさつきを思って俯いた。


「ラナ様に酷なお願いをしているのはわかっているの」


私の家名ではなく名前を呼び、親し気に話しかけてきたのはミーディア伯爵令嬢だ。


「あなたが、あの男爵令嬢を諫めようとしていたことは知っているわ。だから、わたくしたちはあなたに対して悪感情は持っていないの。本当なら、この手でアミの顔に傷をつけてやりたいのだけれど、わたくしは皇太子殿下やわたくしの婚約者に警戒されて、アミに近づけないのよ」


ミーディア伯爵令嬢の言葉に、私は項垂れた。

ミーディア伯爵令嬢はアミの言動を不快に思うたびに注意をしていた。だが、その言葉は王太子殿下や高位貴族の令息たちに聞き咎められ、アミに正しく伝わらなかった。


「ねえ、ラナ様。ラナ様は女官志望だと言うけれど、婚姻は考えていらっしゃらないの? 婚姻を考えているのなら、あなたに多大な負担を強いる代わりにご縁を結びたいと思っているのよ」


婚姻。私は思ってもいない提案を聞いて顔を上げた。

ミーディア伯爵令嬢の射るようなまなざしで私を見ている。

私が女官を目指したのは、持参金を用意できずに婚姻を諦めていたからだ。ああ、でも、それでも、私はアミを傷つけたくない。


「申し訳ありません。やはり、私にはとても出来そうにありません」


目を伏せ、頭を下げてそう言った。婚姻できるかもしれない希望を捨て、将来の王妃の提案を拒んだことがおそろしく、身体が震える。


「そう。わかったわ」


頭を下げ続ける私に、シェイルハート公爵令嬢はため息交じりに言う。許された。そう思った直後、右肩を優しく叩かれた。

顔を上げるとミーディア伯爵令嬢がいて、その手にはテーブルの上にあった銀のナイフが握られている。

傷つけられる……!!

私はとっさに自分の顔を庇った。


「ラナ様。わたくしはあなたを傷つけるつもりはないわ」


ミーディア伯爵令嬢の言葉に、おそるおそる顔を庇っていた腕を解く。

ミーディア伯爵令嬢が銀のナイフの柄に嵌まった青い宝石を親指で押すと、ナイフの刃が折りたたまれた。ミーディア伯爵令嬢は柄だけになったナイフを持ってシェイルハート公爵令嬢に視線を向ける。シェイルハート公爵令嬢はミーディア伯爵令嬢に小さく肯いた。


ミーディア伯爵令嬢が私を見下ろす。手にしたナイフの柄を私に差し出した。

ああ、逃げられない。子爵令嬢の私が、シェイルハート公爵令嬢や高位貴族の令嬢たちの意向に背けるはずもなかった。


私は震える手でナイフの柄を受け取る。でも、それでも。


「ノルド男爵令嬢を傷つけたら、王太子殿下からのお怒りを買うことでしょう。我が家ごとき下級貴族では、耐えられそうにありません」


ナイフの柄を握りしめて私は必死に言い募る。私の言葉を聞いたシェイルハート公爵令嬢は美しく微笑んだ。


「あの方はわたくしとの婚約を破棄され、王太子を廃される予定よ。だって、お父様を怒らせたのだもの」


私はそのおそろしい言葉を聞いて目を見開く。

シェイルハート公爵家はわが国唯一の公爵家。王族が臣籍を賜り生きるための受け皿で『もう一つの王家』とも言われている。

ミーディア伯爵令嬢は自分の席に戻り、そしてお茶会の和やかな談笑が始まった。


***


お茶会の翌日。

私は一睡もできずに朝を迎え、そして貴族学院に向かった。本当は体調不良で休みたかった。……制服のポケットにはシェイルハート公爵の家門が彫られた銀のナイフの柄が入っている。


「おはよう。ラナ」


教室に入ると明るい笑顔を浮かべたアミが、弾むような足取りで近づいて来た。

そしてアミは私の顔を見て表情を曇らせる。


「ラナ、顔色が悪いよ。具合が悪いなら休んだ方がいいんじゃない? 休憩室まで付き添うよ」


「大丈夫よ、アミ」


私はそう言いながら微笑んだ。いびつな笑みになっていることだろう。

アミは優しい。私に顔を傷つけられることになるなんて、夢にも思っていない。


「ねえ、アミ。王太子殿下や高位貴族の令息たちの婚約者の方々に謝りましょう。今なら、まだ間に合う」


私は祈るような気持ちで言う。私とアミを見ているミーディア伯爵令嬢の視線が肌に刺さるようだ。私の言葉に、アミはため息を吐いた。


「またその話? ラナは気にしすぎだよ。同じクラスの友達同士が交流して何が悪いの? 私は婚約者の令嬢たちに恥じるようなことは何もしてない」


「アミがそう思っていても、令嬢たちはそうは思っていないのよ!!」


私に怒鳴りつけられたアミが、緑色の目を丸くする。視界の端に、こちらに向かって歩いてくる王太子殿下と高位貴族の令息たちの姿が映る。

私はポケットに手を入れて銀のナイフの柄を取り出した。


銀のナイフの柄に嵌まった青い宝石を親指で押す。飛び出したナイフの刃を見て、アミが驚いた顔をした。

私は銀のナイフを振り上げる。でも、振り下ろすことはできなかった。


目から涙が止めどなく溢れ、私はナイフを床に落とした。そして、その場に崩れ落ちる。

ナイフの刃を向けられた直後だというのに、青ざめた顔で、それでもアミは私を心配してくれた。

王太子殿下が落としたナイフを拾い上げる。ミーディア伯爵令嬢が教室を出て行く。


アミは私を抱き寄せた。私はただ、泣き続けることしかできなかった……。


【END】


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銀のナイフを振り上げた。 庄野真由子 @mayukoshono

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