第40話
自室の部屋のドアを閉めたロジェの口元からくすり、と笑みがこぼれた。
自ら開けた扉でつま先を打ったプレヌを見送った直後である。
肩をほぐし、一室の奥にあるベッドに腰かける。
窓の外では大聖堂のバラ窓を通過してくる光が夕暮れ時の蜜柑色から宵の紫に変わりつつある。
彼にとってもまた、長い一日だった。
だが決して不快な疲れはない。
むしろ海辺で珍しい色の水石でも見つけたかのような快さがあるのはなぜだろう。
文机に飾られた一輪の白薔薇に何気なく目を止めて、想起するのは本日出会い、道連れと相成った風変わりな人。
セーヌのほとりでプレヌは夫の激しい横暴に抵抗すらしなかった。
生家は裕福なコルネイユ一族というが、夫に殴られ邪険にされてきたという境遇。
出会ったとき、プレヌが受けていたダメージは相当なものだった。
そのくせ、周囲に請われるまま死を選んでいいのかと少し刺激してやっただけで、たちまち返り咲くように、その瞳に現れた多くの表情。
その根底に横たわる思想には、時流に左右されない信念を感じさせる。
彼女のなにもかもが新鮮だった。
シャンゼリセでドレスを買い与えればひたすら恐縮する姿も。
鏡を見せたときにたしかに色づいた表情も。
リュクサンブール公園で子どもたちに向ける慈愛も。
時折きょときょとと目をみはったり、むくれたりする滑稽な顔も。
そうそう、殺人享楽者の文通相手に見出しているロマンスもだ。
『エスポールには、リュクサンブールのどこにもいなかったじゃないって、手紙で抗議しておくわ』
ふっと、人知れず笑いが喉の奥から漏れい出る。
――なぜ気づかない。
心の中でつっこみを入れ、人差し指で白い薔薇をつつく。
彼女がドレス店で試着をしているあいだに香水の広告に半ばふざけたメッセージを書くのは、正直たやすかった。
プレヌは隙がありすぎる。
笑いをこぼしながら、ロジェはスヌードをとりさる。首元の下方にかすかに覗く長い傷跡。
そう。
ロジェこそが、プレヌの探し人であり、文通相手のエスポールであった。
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