第32話

 サスペンダーからひらひらと舞い落ちた紙を拾い上げる。


「落としたわよ」


 差し出した途端、少年の表情が一変した。

 怯えと怒りが入り混じったような顔をした彼は奪うようにその紙をはぎとる。



「だいじょうぶ?」



 小刻みに震えている肩に手を伸ばしかけ、止める。

 おせっかいだっただろうか。


 だが予想に反し、顔を上げた少年は殊勝な目つきをしていた。


「ありがとう、ございます。優しい奥様……」


 消え入りそうな声でそう言うと、少年らしからぬ物憂げな視線を傍らの水場に落とした。


「僕、片足が不自由で。目もあんまりよく見えないもんだから」

「そうなの」


 よく見れば、その服にはところどころつぎはぎがあてられている。


 そのことを確認した途端、彼が古着ごとへなへなと両手を地についた。


「もう何日も食べてなくて、お腹ぺこぺこなんだ。焼きたてのパンが食べたいな。ボナパルト通りにある小さいベーカリー。前を通るといつもいい匂いがするんだ」


 呟くように発し、その目は憧れるように晴れ上がった空を見ている。

「……」


 風がプラタナスの木をそよがせて、プレヌのアップルグリーンの瞳を碧玉の色にする。


「――いいわ」


 しばしの黙考の末、プレヌは彼に一フランコインを差し出す。



「これで買いなさい」


 少年の顔が一瞬虚をつかれたように無になり、直後、広がったのは笑みだった。


 少年は立ち上がり望外の喜びというようにプレヌのその手に口づける。


「ありがとう。お優しき奥様」



 慣れない様子で一礼すると、足を引きずりながら、彼は口のほうへと懸命に欠けていく。


 プレヌの視界から消えるかどうかの頃。

 その口の端が斜めに上がり、彼は呟いた。




「へっ、ちょろいもんだぜ、ばかが」

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