第12話
それは、灰色の日常の中にあって久しぶりに心洗われる出来事であった。
ひどい春の嵐が夜通し吹き荒れた直後の晴れ渡った空が頭上に広がる午前中、あざだらけの身体をドレスに包み、プレヌリュヌは庭に出た。
パリのホテルで行われる茶会に招待されているのだ。
夫の取引先の名家からの招待。よって、一足先に家を出た夫と出先でまた顔を合わせなくてはならない。
吐息を噛み殺して春の花が咲き乱れる庭を歩んでいたあるとき、ひたと、プレヌリュヌの足は止まる。
門の前に、すりきれた服の老人が倒れている。
コートも羽織らずむき出しのシャツははだけて髪は乱れ、ズボンからはみでた懐中時計はとうに用をなさなくなっていた。
悲鳴を上げ息を呑む侍女たちに、プレヌリュヌは伝えた。
「今日のお茶会はお断りすると先方に伝えて」
倒れている老人を見たとき以上の衝撃を込めた侍女の瞳が見返してくる。
「奥様。本日の予定はただの茶会ではありません。旦那様の事業の取引先との重要な社交の場で」
最後までとりあうことなく、プレヌリュヌは土で赤くなった老人の腕を握り助け起こしていた。
倒れている人の前を素通りして行く茶会などない。
しぶしぶ伝令として単身馬車に乗り込んだ侍女を見送り、老人を部屋のベッドに横たえ、気付け薬に水差しを口に含ませる。
しばらくすると老人はうっすらと目を開いた。
「……これは神のお恵みか。それとももうわしは天上におるのか」
「ご気分はいかがですか」
「頭の中がぐらぐらと揺さぶられるようで。いやなに、持病のためじゃろう。すぐ落ち着きますて」
はじめのうちは朦朧としていた老人の意識も次第にはっきりしてくる。
「娘さん、あんたは?」
「この家の者です。門のところで倒れられていたので、お連れしたのですわ」
しわにまみれたその瞳が見開かれ、かすかに潤む。
「なんと。この孤独で頑固な老人を。これは、長年の無神論を撤回しなくてはなるまいて……」
大げさな物言いに思わずぷっと噴出す。
「よかったわ。信仰心が戻ったようで」
ありがとうと、囁くようにそう声を発したあと、老人はプレヌリュヌに様々なことを語った。
独身主義を貫き仕事に生涯を捧げてきたこと。
昨今の王政復古に、経済界の様相について。もごもごと口から出る社会への指弾は鋭く、彼が存外教養が深い人物だと示すようだった。
資本主義についての論議に感心して聞き入っていると、ふと老人が部屋の本棚に目を留めた。
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