第7話 ヤモリ


 

「ヤモリ……家を守るから家守だって。真弥ちゃん、家を守りにきてくれたの?」


 俺の言葉に、真弥ちゃんは首を傾げた。

 秋を越えて季節は巡っていた。沈黙の冬。空は灰色に、海は黒く渦巻く。降雪は全てを白く覆い隠していた。平野の風はすぐに雪を溶かし、空気を洗う。

 緩む寒気を待ち、じっと息を潜めて耐えていたいきものたちが、いっときの快晴に動き出す。そんな中、真弥ちゃんはまた俺たちの家に帰ってきてくれた。


 眠っていた俺の顔面に、天井から落ちてきた真弥ちゃんは、さながら空から女の子がのワンシーンのようだった。いや、さすがに驚き、俺の顔に張り付いた真弥ちゃんを手のひらで握ってしまった。


 俺の手の中でむずむずと動く小さな手ごたえ。指の隙間から逃げるわけでもなく、そのままおとなしくなったヤモリに、俺は真弥ちゃんかと問いかけた。


「ようやく節足動物から抜け出せたんだね」


 俺がそう言うと、真弥ちゃんは俺を下から睨め付けるようにして、しかしそのまま手のひらの中で尾を動かした。

 まだ小さなヤモリだった。ほんの五センチほどのかわいらしい命。


 ヤモリの産卵は夏の終わりの頃であったから、そこから三ヶ月。今年の夏はとびきり暑かったものだから、ずいぶん遅い頃合いであった。きっと真弥ちゃんも、そわそわした気持ちで俺に会いにきてくれたのだろう。

 それにしても、無感情に見えた昆虫類に比べると、ヤモリはずっと表情が豊かに思えた。


 黒い目をぱちぱちさせるヤモリの真弥ちゃんは、言葉にできないほどかわいらしい。


「かまきりの真弥ちゃんがかわいくなかったわけじゃないんだよ。でも、こんなにぷにぷにで、かわいい目のヤモリは他にはいないよ」


 俺は真弥ちゃんを手に乗せて、喜びに打ち震えた。

 やわらかいおなかは、手のひらに乗せるとひんやりとしていて気持ちがいい。少したるんだ皮も、ぺたぺたと壁に張り付く小さな丸い指もかわいらしい。

 家の中では、石油ストーブを焚いてあたたかくしていたから、真弥ちゃんは快適そうに室内の壁をのぼり、動き回っていた。


 しかし、季節は冬である。本来ならば冬眠すべき時期に生まれてしまった真弥ちゃんのごはんになりそうな虫はおらず、たまにいてもカメムシのようなちょっと食べさせたくない感じの虫ばかりだ。あんな固い上ににおう虫は、真弥ちゃんの口にいれるわけにはいかない。


 毎日三食食べる必要はないと見えたが、もしおなかをすかせていたらと思うと、俺は気が気ではなかった。


「ねえ、貞沼……。ヤモリってなにを食べさせたらいいと思う?」


 俺は仕事の休憩中に、同僚の貞沼にそうこぼした。


「ああ、真弥ちゃんですか?」


 貞沼は、ファストフードの紙袋を丁寧に折りながら答えた。スマートホンを指先で操作して、目的のページを見つけると俺に画面を見せた。


「最近だとペットショップで売っているコオロギなんかがいいんじゃないですか?」


 餌用のコオロギの写真であった。小さな入れ物にわさわさと入れられたコオロギは、いささか窮屈そうで気の毒に見える。食べられてしまうという結果があるならば、そこまで気を揉む必要もないのかもしれないが。


「ペットショップで売ってるもんなんだな」

「そう言えばいっとき話題になりましたよね。食糧需要を担うのは昆虫だって。でもごはんのおかずには厳しそうですよね」

「佃煮で箸休めくらいならいいだろうけど、主菜にはパンチが弱いよな」

「真弥ちゃんはニホンヤモリでしたっけ?今はいろんなヤモリがペットにできるんですね」


 ウェブページに並んだヤモリは、さまざまな色や姿をしている。黄色、赤、白。真弥ちゃんは褐色に黒い斑点模様だから、少し地味ではあるけれど、かわいらしさではどのヤモリにも負けていなかった。


「ヤモリのこと、俺はあんまり知らなかったけど……、いろんな虫を食べるんだね」

「オレ、こっちくるまで本物のヤモリを見たことなかったんですよ。シロアリとかゴキブリまで食べるんだ……」


 まさに家守と言って差し支えないだろう。しかし、俺の真弥ちゃんに、そんな寄生虫がいるかもしれないものを食べさせるなんて、猛烈な忌避感を覚える。


「真弥ちゃんには変なもの食べさせたくない……!」

「近くのペットショップにも取り扱いがあるみたいですよ」


 幸いなるかな。

 仕事を終えた俺は、貞沼が示したペットショップに立ち寄った。ハムスターやリスなどのふわふわした小動物たち。犬に猫。価格は値上がりの一途だが、人間のそばに生き物がいるのは好ましい。

 俺は店員さんの言うままに、餌用のコオロギを買った。今日からは、コオロギの世話をしなければならなくなった。


 真弥ちゃんのためなら苦でもないが、手提げ袋に入ったプラスチックのカップの中から聞こえる、コオロギたちが身じろぎするカサカサという音は、聞いていて気持ちのいいものではなかった。

 じきに慣れるだろう。


 これから俺は、コオロギの自家繁殖も目指さなければならないのだ。

 コオロギ袋をぶら下げて、玄関の鍵を開ける。いつもこの瞬間は少し緊張をする。心のどこかで、人間の真弥ちゃんが家にいるのを期待している。


「ただいま」


 返す言葉はなくとも、挨拶は大切だ。靴を脱ぎ、俺は足早に廊下を通り、居間に続く扉を開いた。

 真弥ちゃんは、水槽の中にいた。俺が真弥ちゃんの寝室を作らなければと用意したものだ。


 真弥ちゃんは水槽の中で水滴を舐めたり、保温ライトの下であたたまったりして過ごしている。日中は眠っているのか、じっとしていることが多いが、夜になると枝や葉の間からこちらを見たり、散歩をしている。

 俺は真弥ちゃんの部屋に、コオロギを一匹落とした。真弥ちゃんはすぐにコオロギに気がついたようで、興味深げにコオロギを観察している。

 そして、脅威ではないと理解したのだろう。コオロギに一歩だけ近づいた。


 ——ぱくり、と


  真弥ちゃんは、目にも止まらぬ速さでコオロギをしかと捕らえた。

 俺は安堵した。真弥ちゃんはコオロギを口に入れてくれたのだ。真弥ちゃんの閉じた口から、毛の生えた茶色い足がはみ出して動いている。

 真弥ちゃんの糧になるのを抗うように、しばし震えていたが、すぐに真弥ちゃんはコオロギを飲み込んだ。


「おいしかった?」


 俺が真弥ちゃんに尋ねると、真弥ちゃんは俺を見つめ、首を傾げた。かわいらしい。つややかな黒いまなこが俺を見る。

 俺は嬉しくなった。


 真弥ちゃんが欲しがる時に、俺はコオロギを食べさせることにした。真弥ちゃんは、おおむね水槽の中を自由に歩き回り、好きなところで眠っているようだった。

 しかし、俺が何度かコオロギを差し出していると、真弥ちゃんは、俺の視線に気づくと、俺をじっと見つめれば、俺がコオロギを出すのだとわかってくれたようだった。


 それは確かに、俺と真弥ちゃんのコミュニケーションだった。

 真弥ちゃんが俺の手に乗る。食餌を終えた彼女は、機嫌良さげに、俺に背中を撫でさせてくれる。


 真弥ちゃんは脱皮をし、少しずつ大きくなっていった。かわいらしい丸い目はそのままに、真弥ちゃんが成長していることが、俺にはたまらなく嬉しかった。

 長く一緒にいられる。それだけで嬉しい。数ヶ月や、早ければ数日に死んでしまう昆虫の世界から彼女が脱してくれたことが嬉しくてたまらなかった。


「真弥ちゃん、かわいい目だね」

「真弥ちゃん、小さな手がかわいい」

「真弥ちゃん、しっぽがぴよんとしていてかわいいね」


 俺はそんなふうに、ことあるごとに真弥ちゃんを褒めて讃えた。ただここにいてくれるだけで嬉しい。真弥ちゃんの褐色の指が、ぺたぺたと動いて、壁を登っていく。俺は真弥ちゃんが高いところから俺を見下ろすのを見て、ありし日の彼女の目を思い出した。


 長いまつ毛に縁取られた、大きな鳶色の瞳が俺を見ると、心がときめく。彼女の三白眼気味の目が細められて、俺に微笑みを向ける。ほんの少し挑発するような、笑った時だけ浮かぶ涙袋。


 細い指先の爪は、桜の色をしている。真弥ちゃんは、わざと俺の指にその繊細な指先を絡めるのだ。俺の指の太さの半分しかない。握りつぶせそうなたおやかな指を、俺はそっと押し包んだ。


「佐伯さん」


 真弥ちゃんが俺を呼んでくれる。俺の大切なひとが、動いて、話して、ここに存在している、ただそれだけがとても嬉しいことなのだと、知っていた。

 棚に置かれたままになって久しいマグカップを俺は見つめていた。ヤモリの真弥ちゃんは、首を傾げてそれを見ている。


 小さなヤモリの真弥ちゃんと暮らしていけば、しあわせな思い出に浸りながら、新しい思い出を積んでいける気がしていた。

 季節がめぐるうちに、真弥ちゃんは大きくなる。ヤモリの寿命は長く、俺と真弥ちゃんの時間には余裕があった。


 ひとつの季節を越えられると思っていた。

 しかし、日は没する。空から降り注ぐ光を消すその日は突然訪れた。

 真弥ちゃんが部屋のどこにもいないのだ。俺は血眼になって真弥ちゃんを探し回った。


 三センチばかりの雪が積もった日のことであった。

 家具を動かし、棚の雑貨を全て取り出した。カーテンのひだとひだの間を指で探り、カーペットを剥がした。

 三日三晩、焚き続けたストーブの空気を入れ替えようと、窓を開けた、そこに真弥ちゃんはいた。


 真弥ちゃんの小さな体は、窓のサッシの隙間で干からびていた。部屋の隅に落ちたその変わり果てた姿。虚空を見つめる小さな黒い目。

 ほんの少し開いたら蓋の隙間から、真弥ちゃんは抜け出し、窓際の寒さを受けて、そのまま動けなくなってしまったのだろう。部屋の隅に張り付くように残った死骸は、あまりに小さく、哀れで、真弥ちゃんの弱さを物語っていた。


 かさ、と、真弥ちゃんの餌のコオロギが音を立てている。聞き慣れていたその活動音がひどく耳障りだった。


 彼女は、寒さと飢えの中で死んだのだ。俺は、きっとなにかを怠ったのだ。

 自分を責める言葉が、湧き立つあぶくのように腹の底から浮き上がってくる。

 外に降り積もる、雪の清浄さとは裏腹に、俺は泥沼のような重い感情に沈み、床に顔をこすりつけて泣いていた。

 



 

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