第6話 佐伯と死闘


 

 曇天。


 生臭く嫌な風だと思った。風向きが悪く、海風が臭うのだ。それも、潮風ではなく浜辺に打ち上がった海藻や死骸が醸す臭いが。

 そういう日は海に近づかないほうがよいと、真弥ちゃんは言っていた。山から吹き下ろすはずの空気が、ぬるまった海面から逆に上がっているのだ。


 ——そんなもの、なにかがあるに決まっている。


 月明かりが厚い雲の隙間から一瞬注ぎ、再び途切れる。雲がすみの狭間、俺たちは浜辺の中で月光を浴びていた。真っ黒な海面に、月明かりだけが揺蕩う。


「佐伯さん」


 貞沼が、俺の背をとんと小突いた。


「うん、わかってる……」


「あれら」「怪異」と呼称する以外に、俺たちは正しい呼び名を知らない。それは、きむと、根底を俺と同じくした神の奇蹟であろう。

 神の見る悪夢とも言ってもよい。きっと、神は全能ゆえに、その背筋凍るような悪夢を御身から切り離し、地上へ落とすのだろう。

 そして、そういうものは、大抵山か、海からくるのだ。


 なにかの悪意や渦巻く様々な感情がない混ぜになり、肉付けられ、暴れ来る暴風。

 明確な意思持たぬ奇蹟。時として毛の生えた二足歩行の化け物のかたちをしていたり、咆哮すらせぬ触手の群れであったり。大きい時もあれば小さい時もある。

 どこからきてどこへ行くのかなどわからない。


 なんにせよ、それらが人間に危害を加えるのならば、取り除かねばならない。実に単純明快であった。

 それをやれるのは、今のところ俺だけのようであるなら、そうしなければならない。

 横に並ぶ刈賀と貞沼は、あくまで俺を補助するだけである。奇蹟のその真芯に刃を突き立て、生き絶えさせるのは、俺でなければならない。

 俺の性分は、そういう事に対して非常に律儀だった。

 どうしてそうなのかは、問題ではないのだ。


 死を失ってから、俺にそれをせよと、頭の中の声が言うのだ。そしてなによりも、俺の職務は警察官である。

 ならばなにももう問題ではない。

 俺自身が、ひどく心霊だの、化け物だの、触手だのが恐ろしく感じて、今も冷や汗を垂らしながら息を荒くして怯えている以外は。


◆◆◆



「でっかいなぁ…」


 刈賀が呆れたように声を上げる。貞沼が笑いながら、俺の背中を指でつつく。


「いやぁ、しかも佐伯さんが苦手なタイプですよねあれ。大量の触手に目玉がいっぱい。こっち見てますね」


 実に嫌な見た目をしていた。

 粘るコールタールのような、生臭い粘液から、巨大な人間の目玉が詰め込まれ、浮き沈みしてきる。

 そのまつ毛にあたる部分には、人間の肘から先がびっしりと生えていた。


 チラチラと無数の手がたなびいている。そしてその腕は、コールタールの中から、ずるりと伸び、間接のないゴム手袋のような手を俺たちにを捉えようとするのだ。

 おまけに、移動を担っているのは、ツブツブした肉のイボが生えた、灰色の触手の群れ。それらも伸び、動くものを己の内側に引き込もうと、粘液の中でぬちゃぬちゃと音を立てている。


「うぅ……」


 俺のこめかみを嫌な汗伝う。波の音が俺の心を落ち着かせようとしてくれるが、耳を傾ける余裕もなかった。


「でもまぁ、勝てない相手じゃないですよねぇ?日和りました?」


 そう言って刈賀が俺の顔を覗き込んだ。

 わざわざその長身を曲げて、端正な顔を俺に近づける。泣き黒子の垂れ目で、きゅっとウインクしながら、俺に言うのだ。


「ここで死んでもらえたら、真弥ちゃんは未亡人になりますんでね。僕、期待してますよ」

「刈賀ァ……」


 刈賀ほど嫌な人間がいようかと、俺は歯噛みした。

 人妻と未亡人がどうのと言って、常に俺を殺して真弥ちゃんを寝取ろうと画策している。

 それでも、刈賀の軽口に、俺の帰りを待つ妻の顔を思い出す。佐伯さん、と未だに俺を苗字のまま呼ぶ妻が、今夜も心安らかに床につき、愛犬を胸に抱いて眠る為ならば、全身を震わせる恐怖心など。

 ……など。


 それでも手の震えはとまらないし、手汗で手袋の下はびしょ濡れだ。不甲斐ない夫を許してほしい、いとしい我が妻。

 ただそこにいるだけでかわいい妻。思い出すだけで胸にじんとあたたかいものが溢れてくる。


 いつまでもこの感情だけに浸っていられれば、俺はどんなに幸せだろう。

 祈るような思いで、思わず合掌した俺を見かねたのか、貞沼ががちゃんと音を立てて銃器を担いだ。


「……じゃあ、先、削りますね」

「じゃあ僕も。佐伯さん、全弾撃ち尽くす前に突っ込んでくださいよ」


 刈賀が腰を落とす。

 人間の姿をしたものから、金属が擦れ合う音がする。脳と生殖器を除き、全身を兵器改造した生体アンドロイドである刈賀は、夥しい数の重火器を体内に収納している。


 腕の一本は、指先から射出される機関銃であったり、もう片方の掌は、鋼すら両断する刃であったり。肘、膝には対戦車ミサイルを収納していたり。

 かの有名なサイボーグ戦士の四番になりたかったのだと、本人は笑う。

 彼の身体は全てが戦争のためにある。今でこそ、俺たちの怪異討伐に駆り出されているが、先の大戦では戦地で大いにその恐ろしさを発揮したとも聞く。


「貞さん、援護お願いします」

「はいよ」


 貞沼が身の丈程ありそうな機関銃を両腕に構える。砂浜の上で体幹を揺るがすことなく立ち上がる。

 貞沼自身は、完全なロボットだ。

 本体は人間であるが、全く別の場所で、頭に幾つかの電極をつけて培養液のようなものに浸かってふよふよと漂っている。


 一点物の生体アンドロイドである刈賀と違い、浮かぶ貞沼のために用意されたロボットの「貞沼」が尽きるまで、彼はいくらでも戦うことができる。

 それでも、代替機を前線に持ち込めなければ、どちらも同じだ。

 破壊されれば、無力である。

 故に、お互いを援護しあう必要があるのだ。


「佐伯さん、すぐきてくださいよぉ」


 刈賀が手を振る。そうしてその手を真っ直ぐに蠢く標的へと向けた。

 刈賀の右手の五指全て、銃口である。体内に収納した弾薬は、四肢を経由して射出され続ける。先ずは露払いよろしく、俺に近い側の触手を何本か削り落とす。

 俺と向き合っていた怪異は身を翻し、刈賀と貞沼へと手腕を突き立てる。

 

固定砲台である刈賀への負担を軽減するべく、機関銃だのを背負った貞沼が撹乱を試みる。

 それでも、俺でなければ、あれらは死に終わらない。


「ミサイル行きますよ!」


 刈賀が叫んだのとほぼ同時に、掲げた彼の両肘が火を吹く。射出された二本の誘導弾は、白煙を吹きながら一瞬耐空し、怪異の中心へと突き進んだ。

 着弾と共に爆炎と粉塵が舞い、細切れになった血肉が俺の頭上にも降り注ぐ。

 ぎぃ、と、怪異が怯んだような呻きを漏らし、それでもなお、大量の触手を二人へと向ける。びちびちと波打つ触手の群れが、本体から分離し、跳ねるように動き回る。強い磯の匂いがする。


「刈賀さん!右っ!」


 貞沼の声と銃声。両腕に携えた巨大な機関銃を軽々と振り回し、冷却の為に身動きできない刈賀へと襲い来るものを叩き落とす。頬を掠めた触手の切れ端が、濃い鉄錆のにおいを残していった。

 火薬と血の臭いが入り混じり、その中で踊る肉の塊に、俺は目眩を起こしそうになる。


 恐ろしくてたまらないのだ。あんな人ならざる巨大なもの。触手が大量の目玉を中心に、ふつふつと湧き立ち、イワシの群れのように、流動体の如く動き回る。

 恐怖に全身が総毛立ち、ざわざわと蠢く頭の声に身を任せる。振り切る直前の、いやに冷えた精神。


 ——それ故に、研ぎ澄まされた恐怖に、ぼろぼろと汗が噴き出す。今から痛覚は捨てられる。


(■■■……して…■き■…■■■……なん■う……?)


 不明瞭なつぶやきは、頭の中で反響し声が音になっていく。指先の中の血管のうごめきがわかるような過集中。

 緩やかに進む銃弾の群れが、触手の肉片を弾き飛ばしたのを見る。

 その血飛沫の下を走り抜け、俺は手にした懐刀を触手の一本に突き立てる。じゅるじゅると音を立てて湧き上がる鉄錆の群は、俺を認識したらしい。

 触手を掴む。懐刀を突き立て、切り取る。


 次を掴み、引き千切り、ぬめる触手を投げ捨て、繰り返す。血脂に濡れて鈍った懐刀を投げ捨てた瞬きの後には、俺は新たな懐刀を握っている。

 先へ、先へ。中心を目指して。

 貞沼と刈賀の銃撃は、足止めにこそなれど、怪異への致命傷には至らない。削る側から、猛烈な勢いで再生する。


 しかし、俺が無尽に生み出す刃物を持って切り捨てさえすれば、そこからは新たな腕は伸びてはこない。噴き出した血液を浴びて、俺の体温が上がっていく。全身が怪異の血を吸っているのだ。

 血が出るなら殺せる。それを具現化したような、消耗戦。

 左足に絡み付いた肉の腕が、俺の膝から下を引き千切る。吹き出す血液はあれど、痛みはない。けれど、素早さを失った瞬間、俺の身体は肉の腕に絡め取られ、ぶちぶちと寸断される。


 痛覚がない故に、ありありとわかるのだ。関節を引き外され、繋いでいた筋肉が断ち切れ、己の身体が分解されるのが。

 縊られ、脳への酸素が途絶える。首が折れる寸前の歪む視界に、俺の胴体が真っ二つに裂け、はらわたが溢れ出るのを見た。


「ア゛……」


 搾られた肺から抜ける、なけなしの空気が声帯を揺らす。

 一瞬の暗転。

 のち、俺は怪異の死角から死に戻る。


「ぶ、ふぅーっ……」


 俺の全身を濡らしているのは、俺の血であろうか。そうではなく。もっと浴びなければ終わらない。

 地に足をつけると同時に、懐刀を翻し、怪異へと突き立てる。薙いだ肉の腕が、俺の側頭部を打ち、皮膚が切れる。骨が軋めど、折れていなければ戦える。


「まだ殺せるぞ……」


 溢れ出した鼻血を地に噴き捨て、俺は呻いた。向き直った瞬間に、触手な俺の顎を砕かんばかりに打つ。

 そうなると脳が揺れて懐刀が握れない。指先の力が抜けた一瞬に、怪異は俺を締め上げる。

 半端に時間をかけて殺されるのが一番困る。肉の腕に絡め取られ、四肢を砕かれながら俺は思った。


「殺せよぉ……」


 ちら、と、貞沼と刈賀を見る。身動き取れず張り付けになった俺を視認するや否や、刈賀は口元に明確な笑みを浮かべて、虎の子のミサイルを俺に向かって射出した。


 ご丁寧に俺の顔面を狙うのだ。あの男は。


 弾頭が真っ直ぐに近づいてくるのを、見開いた目でしかと捉えている。着弾の衝撃を唇に感じる瞬間まで記憶がある。

 そしてまた、一瞬ののちに、怪異の死角へと。

 非常に気分の悪い口付けに、思わず唇をこすった。

 終わらない俺と、いつか終わる怪異との擦り潰し合いに向き直る。

 時間さえかければ、一人でだって殺し切るだろう。しかし、そう長時間これらにかまけてもいられないのだ。


 俺には他にも仕事があるし、なにより。なにより、今日の夕飯はすき焼きだ。

 愛する妻が、すき焼きを作って待っているのだから。


「殺してやる……」


 俺は唸るように繰り返した。


「だからはやくちいさくなれ……!」


 両手に携えた懐刀だけでは足りず、怪異へと文字通り喰らい付く。生肉を噛み切り、吹き出した体液を存分に被りながら吐き捨てる。


「補給に下がります!」

「オレも下がりますよ、佐伯さん!」


 刈賀の声はよく通る。汗一つかかないアンドロイドたちが、砂埃に塗れながら後退する。時間にして五分もあれば戻るだろう。

 即ちこの間は、俺が死に切らなくても誰も殺してくれやしないのだ。

 今日は何回死んだか。八度か。九度か。

 ああ、わからない。わからないのだ。

 めくるめくような死と生の繰り返し。とても憶えてなどいられない。


 触手に掴まれた身体が仰け反り、背骨を折られる。ばぐん、と、全身に衝撃が走る。

 口腔を血液が満たし、唇から溢れる。悠長に意識を失うまで待ってもいられない。


「お、ゴ、ォ……」


 喉から刃が生える。体内に生成した無数の懐刀が、俺の腹を、胸を喉を脳を、内側から挽肉にする。どぱん、と、音を立て、刃の質量によって俺の全身は内側から爆散する。


 次だ。


 両手に握り締めた懐刀を大量の目玉に突き立てる。一斉に剥き出しの眼球が、ぎょろりと俺を見る。突き刺し、抜き、突き刺し、抜き、俺に向けられる視線を次々と潰して回る。黒く濁った魚の目は、数を減らしていく。眼球の隙間から、小さな触手が湧き出して、増殖している。


 噴き出した血を浴び続けるのが素肌でよかった。

 制服がこんなにも血浸しになってしまっては、新しい制服を発注しなければならない。


 触手が俺の右の視界をふさいだ。眼球に触れられる嫌な感触の後、頭骨の中を掻き回され、後頭部へと抜ける。

 引き抜かれる触手に、俺の眼球が根こそぎ抜かれ、太い視神経と一緒に脳が掻き出されていく。思考が鈍る寸前に、俺は再び爆散した。


 次に怪異に刃を突き立てた時には、援護射撃が始まっていた。五分の間に二度は死んだようだと、漠然と数を数える。もしかしたらもっとかも知れないけれど。

 しかして、初見より随分と小さくなった「これ」を見るに、じきに今回の戦闘が終わるのを感じさせてくれた。先が見えないよりも、見えてくれた方がずっといい。


 悪あがきのように、俺の急所を狙って触手が撃ち込まれるが、それもおおよその物で、致命傷には程遠い。

 それでも、腕の一本がちぎれかけて肘からぶら下がり、半端に削がれた横腹から、はらわたがこぼれ落ちそうになっていた。


 痛覚があれば問題であろう。けれど、今の俺にはそれがない。

 腹圧で弾け出るはらわたも、俺には問題ではない。まともに動く腕と足が残っていさえすれば、一本余分に怪異を削げる。

 ぶら下がる片腕を引きちぎり、突き出した骨を怪異の眼球に刺し、掻き回す。

 ふいに、俺の頬から入り、側頭部を抜けて、鉛弾が俺を破壊していった。刈賀か貞沼の流れ弾だろう。ぱひゅん、と、頭の中で音がした。


 ——暗転。


 刹那のまどろみの中、怪異からの、終わりを懇願する鳴き声を聞いた気がした。


「殺してやる……殺してやるよ……」


 見上げる程あった肉塊は、既に俺と変わらない程の大きさになっていた。関節を捻り切る程の膂力は無く、俺の顔面を強く殴り、鼻を折るので精一杯のようだった。頭が切れ、出血が顎から滴る。

 曲がった鼻を親指で戻しなから、苦々しく喉に向かって流れる鼻血を吐き捨てる。


「鼻は駄目だろう……鼻は……」


 かっと、腹の奥が熱くなった気がした。

 じきに仕舞いだ。もう速さは要らない。俺は懐刀の代わりに山刀を二本、掌に誂えた。

 打ち込む度に、みし、と、骨が軋む。俺の全身を覆う筋肉と骨が悲鳴を上げる寸前の力で、ひたすらに山刀を振るう。


 重い肉へ、鈍い刃を打ち付け、叩き潰す。

 鼻が真っ直ぐに戻るからいいようなものだ。それでも、このまま家に帰れば真弥ちゃんがどんな顔をするか。曲がった鼻の俺を見て、悲しそうな顔をするだろう。そっと細い指で鼻を撫でて、心配してくれるだろう。今の鼻でも好きだよと、優しく言ってくれるだろう。

 そんなかわいい真弥ちゃんの大好きな俺の鼻を!よくも!よくも!よくも!


 ——俺の顔の中で一番好きだと言ってくれたんだ……!


 俺の邪魔をする触手が無くなっている事に気づいた時には、すっかり鼻血は止まっていた。

 目の前の挽肉然と変わり果てた怪異を見ながら、俺は漸く、膝を折ってその場に座り込んだ。

 血溜まりに尻をつけ、ふぅっと大きく息を吐いた。血に濡れた身体が重く温かかった。掌がじんと痺れている。結婚指輪の当たる皮膚が擦れて切れてしまっていた。

 人工皮膚の剥がれた貞沼が、走り寄ってくる。


「ん…」


 ざわついていた頭の声は凪ぎ、指先に温かな血が戻る。


「貞沼、中身見えてるよ…」

「削がれちゃったんすよ。もー片手も取れちゃって」


 へらへらと笑って見せる貞沼の右手は、成る程、手首が引きちぎられ、筋繊維のようにコードが垂れ下がっている。


「被害は……?他には……?」

「刈賀さん、流石すよ。あの人、一発も食らってないんすよ」

「それは貞さんが援護入れてくれたからですよぉ。だいたい僕、腹の中のもの使えば使うだけ身軽になりますし」


 刈賀はくるりと回って見せる。制服がいくらか破れている以外は、欠損も無い。


「お~や、おや……。佐伯さん……あらあらまあまあ……。鼻ァ、どうされたんですか?」


 刈賀がいやらしく笑いながら俺の顔を覗き込む。引っ叩いてやろうかと思った所で、貞沼が変わって俺の顔を診る。


「あー。折れたんですか。それで乱暴に戻したと。一回死にますか?弾がないんで首を折ってあげますよ」


 刈賀が俺の脊髄を引き抜こうとするので、貞沼に助けを求める。ただでさえ疲れているのに!


「貞沼ぁ……」


 貞沼が「真っ直ぐに戻しますよ」と、言って、俺の鼻を押す。ごり、と、骨の動く感触。

 戻りかけの痛覚が、鈍く鼻の傷を主張する。


「これでよし。後はいじらないように」

「ありがとう……」


 刈賀が不服そうにこちらを見ている。

 死ねば治るとは言え、死なないに越した事はない。貞沼が渡してくれたタオルで、全身の血液を拭う。刈賀がばっくりと開いた俺の傷口をスキンステープラーで留め、包帯を巻く。こういう時の手際はよいし、手つきは優しい。いつもそうでいて欲しい。

 傷口の治りは、常人よりずっと早い。明後日程には塞がるだろう。


「制服、どの辺に落ちてるかな…」


 刈賀に腕を任せながら呟くと、貞沼がどこからか俺の制服を拾ってきてくれた。

 いつまでも下半身まで丸出しでは締まらない。下着とスラックスをつけ、靴を履く。上半身の手当てを終え、防刃ベストまで身につけた頃には体温が正常に戻り、人心地つく。


 腕時計を見ると、戦い始めた日没時から、一時間程経過していた。戦闘していた時間は、三十分程だろう。体感では随分と長く感じていたが、定時まで後一時間もある。


「貞沼ぁ……」


 物言いたげに定沼に視線を向ける。


「帰りたいんですか?」

「うん……」


 たっぷり半日戦闘していたような気分だった。振り切っている間は、あらゆる神経が向上するせいか、一分一秒が恐ろしく長く感じる。

 身体的な疲労感は殆ど無い。それでも、精神面は疲弊していた。

 俺はとても家に帰りたいのだ。


「一度パトカーに戻って、軽く無線報告だけしたらいいですよ」

「本当に……!?」


 それなら定時よりだいぶん早く帰路につける。


「オレも修理行かなきゃいけないんで、もう早く報告済ませちゃいましょう……。右手がないとコントローラ握れないし……」

「僕もメンテ行きたいですし。全身の穴という穴から火薬噴き出した気分です。絶対臭い……シャワー浴びたい……」


 各々、帰宅を望んでいるのならば、帰ろう帰ろうと、パトカーに乗り込む。右手の使えない貞沼の代わりに刈賀がハンドルを握る。

 じきに、挽肉になった怪異の処理を行う班がくるだろう。

 本来なら、夜の砂浜をひとつを血みどろにしてしまえば、大事極まりない。しかし、無線機で報告を入れる貞沼の中に、今回の動画が録画されている。刈賀にも同じくだ。


 二人がメンテナンスにいけば、報告の代わりに動画が回収され、「なんだいつものか」と、処理は終わる。

 それならば、俺が大してやる事はない。つまり、小難しいパソコンで書類を制作する必要もないわけだ。何を隠そう、俺は機械の類に滅法弱い。

 アナログで生きたいものだと思う心とは矛盾を感じつつ、スマートホンを触る。貞沼に見繕ってもらったこれに関しては、それなりに使う事ができるので安心だ。

 ぺたぺたと指で触っていじっていると、メッセージアプリに通知が来た。


「刈賀、このまま家の前まで走ってもらっていい……?」

「なんですか、にやけた声だして……。やっと離婚するんですか?」

「しねえよ……。もう見てよこの真弥ちゃんからのスタンプとメッセージ。かわいい……早く帰りたい……」


 刈賀の失礼な発言も、真弥ちゃんの「今晩のおにくです」メッセージと、肉の写真。喜ぶ姿のまるっこいパンダのキャラクターのスタンプ。

 それがあれば、刈賀の無礼などまるで波の音。腹が立たない。今から帰ると真弥ちゃんに返信する。


「貞さん、佐伯さんち今夜すき焼きですって。僕たちもお邪魔したほうがよかったかな」


 けらけら笑う刈賀の横顔が、火薬で煤けている。その顔が少しだけ振り向いて言った。


「指輪、最後までついてましたね」

「ん……?」


 俺の結婚指輪の事だ。本来死に戻る際は、衣服や靴は死んだ場所に全て残されてしまう。

 それなのに、結婚指輪だけは、ずっと薬指に残っていたのを、刈賀は気づいていた。


「佐伯さんの中では身体の一部判定なんですね。なんかむかつくんで、今度指折らせてください。首でもいいですよ」

「い、嫌だ……!」


 道中、俺に危害を加える旨を彷彿とさせるような話題が続く。疲労が重なると、俺に対する嫌がらせが増えていくのが刈賀の悪いところだ。

 パトカーに乗せてあった俺のコンビニ袋の中から、チョコレート菓子を勝手に取り出して食べている。


 このままでは夕飯のおかずも取られかねない。

 自宅への到着と同時に、俺は逃げるようにパトカーを降りた。

 ドアウインドウが開き、刈賀の声が俺を追いかける。


「佐伯さんは明日非番なんで」

「ん、助かる……」

「まあ僕も貞さんも非番みたいなもんですけどね。それぞれメンテやらゆっくりしましょうね」

「オレは今夜中に新しいのに変えて、帰ってゲームしますけどね!」


 互いに労いの言葉を掛け合い、俺は走り去っていくテールランプを見送った。そして我が家の玄関へと小走りに向かう。

 庭にも、ほんのりと出汁のにおいが漂っている。

 鍵を開けるのももどかしく、俺は急く気持ちのまま、扉を開けた。


「ただいま……!」


 ふわ、と、家の中には料理のにおい。少し遅れて、真弥ちゃんの声。


「おかえりなさーい」


 靴を脱ぎ、揃える間が惜しい。

 居間の扉を開くと、対面キッチンで真弥ちゃんが味見をしながらこちらを振り向く。


「わ、なんか血みどろ?今日は大変だったんだね」

「ん、ん……」


 真弥ちゃん、真弥ちゃん。頭の中はそれでいっぱいだ。ごはんのにおい。作っている真弥ちゃん。腹の虫が鳴る。真弥ちゃんが笑って、俺にも味見をするように言う。

 慌てて手を洗い、渡された小皿の出汁を吸う。しあわせの味がして、心地よく体温が上がる。


「すごくおいしい……」

「よし。じゃあごはんにしよう」


 くつくつと煮たつ鍋の中に、たっぷりの野菜と肉を放り込んで、真弥ちゃんは言った。

 真弥ちゃんのすき焼き。料理本のすき焼きではない、家庭向けに魔改造された、出汁としょうゆとみりんの甘くないすき焼きは、山盛りの野菜でうまみがたっぷりだった。


「今日、鼻折られちゃったんだけど……。その、変じゃない……かな……?」


 電気鍋の中で煮えるすき焼きをつつきながら、俺は恐る恐る切り出した。

 真弥ちゃんはキョトンとして


「言われなかったらわかんないなぁ。いつもの佐伯さん」


 真弥ちゃんはふふっと笑い、しらたきをたまごにくぐらせて、口に運ぶ。


「でも傷だらけなんでしょ?お風呂どうする?身体拭こうか?洗面台で頭洗ってあげるよ」

「そうか……。今日は濡らさない方がいいのかな…?」

 風呂に入ろうが、傷の治りが遅れる事はないだろう。俺は少し考えて、ぼそぼそと言った。

「いや、傷は大丈夫だから……。俺、あの。真弥ちゃんとお風呂に入りたいな……」


 肉にたっぷりとき卵をつけて、真弥ちゃんが口に運ぶ。よく噛んで飲み下してから、真弥ちゃんが返事をする


「じゃあ一緒に入ろうね」


 にいっと笑った八重歯を見て、俺は耳の先まで体温が上がるのを感じた。

 肉と野菜が身体を温め、全身の筋肉が弛む。

 日常の些細な出来事はしあわせだ。真弥ちゃんの作ったご飯を食べて、俺が洗い物をする。


 その間に真弥ちゃんがテーブルを拭いて、お風呂を沸かしてくれる。

 お湯はりを待つ間、ゆったりと過ぎる時間に浸り、穏やかさを全身で受け止める。

 俺の頭の中は真弥ちゃんでいっぱいだった。

 貞沼が冗談めかして言ったことがある。仕事と食べる事にしか興味がなかったのに、佐伯さんも変わるもんですね。と。


 確かにそうだった。

 家に帰りたいから仕事を定時で上がるなんてなかった。毎日くたくたになるで働き尽くして、夜中でも開いている店を順繰りに味見して回っていた。

 帰ることの少ない家は、物を極限まで減らしていた。娯楽の代わりに教本を読んでいたし、積まれた洗濯物が畳まれることはなかった。時折、生活用品の買い出しに行って、季節の新商品でも見られればよく、立ち寄った本屋で、気に入った本を見つけられれば万々歳だ。そんな生活で満足していた。


 ——死ぬまでそれでいいと思っていた。


 真弥ちゃんが来てから、洗濯物は畳まれて、引き出しにしまわれていった。教本以外の本が本棚に並んでいく。

 家には、あたたかくやわらかいものが増えていった。

 今も食べ歩きするのは楽しい。けれど、隣には真弥ちゃんがいて欲しい。俺の行きたい場所は、真弥ちゃんと行きたい場所へと変わった。

 俺の働きが真弥ちゃんの生活を守るのならば、なにもかも変わっていけばいいと思う。


「真弥ちゃん……、俺、これからも頑張るからね……」


 うつ伏せで本を読む真弥ちゃんに、俺はそう言った。真弥ちゃんの下で、ふわふわのクッションが潰れている。


「うん?佐伯さんはいつも頑張っててえらいけどね」


 真弥ちゃんは、俺を振り返ると、隠し持っていた丸いチョコレートを俺の口に入れてくれた。

 奥歯で噛むと、薄いチョコレートが音を立てて割れて、中のやわらかいチョコレートが体温で溶けて口に広がる。

 おいしい。


 ほわんと体温があたたかくなる。しあわせの味がして、俺の顔はほころんだ。

 それからしばらくして、俺と真弥ちゃんのしあわせは、溶けてなくなってしまったのだ。俺はあの日のチョコレートの味を、今でもよく覚えている。




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