第5話 かまきり


 

「ただいま」


 しん、としている。

 家の中には静寂が満ちていた。俺は玄関に鍵をかけ、靴を脱ぐ。


「ただいま」


 繰り返しても、俺に返る言葉はない。

 俺はまず洗面台に行き、手を洗うと、浴室のお湯はりスイッチを押した。


『おふろをわかします』


 無機質な音声とともに、湯はりがはじまる。勢いよく噴出する湯の音を聞きながら、俺は居間へと向かう。


「聞いてよ、真弥ちゃん」


 俺は扉を開けながらそう言った。扉の隙間から光の筋が廊下へと伸びる。

 ぱり、と、小さな音が聞こえた気がした。


「真弥ちゃんも晩御飯の時間だったんだね」


 真弥ちゃん——今は一匹のメスのかまきりではあるのだけど——は、小さな蛾を捕食しながら、俺の方を向いた。

 テーブルの上、生花を生けた花瓶。

 蛍光灯の光を浴びながら、バラの花に乗った真弥ちゃんの口が忙しなく動き、蛾の頭を削っていた。


 しばらく微かに羽を羽ばたかせていた蛾は、ぴくりとも動かなくなった。真弥ちゃんは蛾を食べ進めながら、俺を見上げた。


「今日は真弥ちゃんともよく行った中華料理屋に行ったんだけど、毎年冷やし中華が大きくなっていっててさ……」


 真弥ちゃんはきれいな翡翠色の目を俺に向けて、俺の話を聞いてくれた。その両手の小さな鎌にとらえたのは、きっと虫だけじゃなくて俺の心もだろう。


「それで、刈賀と神鳥は、冷やし中華じゃなくて、結局いつもと同じメニューを頼むんだ。真弥ちゃんもあの店の辛いラーメンが好きだったよね。また真弥ちゃんと行けるといいな……」


 真弥ちゃんは蛾のおいしいところだけを食べ終えると、鱗粉がついた鎌を舐めて掃除しはじめた。丁寧な仕事だ。ひとつの汚れも残さずに、そのするどい鎌を磨き上げるような。

 次に捕らえるのはどんな虫なのだろう。


 俺は、自分の喉元に、冷ややかな鎌が触れるのを想像して身震いした。

 でも、それが真弥ちゃんの鎌ならば、俺を好きにしてくれてもよいと思う。

 真弥ちゃんが俺を食べて、俺が真弥ちゃんの糧になるならばそれもよいだろう。俺を食べて真弥ちゃんが続く。俺は続く真弥ちゃんの元に戻る。

 そうしたら、ずっと一緒にいられるのに。


 翡翠色のきれいな真弥ちゃんを愛しているけれど、抱きしめられないのは、さみしい。


「なかなか、節足動物から抜け出せないねえ……」


 口をついて出たその言葉は、真弥ちゃんの業を非難したいわけではなかった。しかし、もしかすると真弥ちゃんが負い目を感じているのではと想像してしまうと、心が痛んだ。


「いや、真弥ちゃん。俺は……」


 言い訳がましく真弥ちゃんに近寄る。真弥ちゃんは、怒ったように両手の鎌を振り上げた。

 俺は真弥ちゃんの前に手を差し出した。

 真弥ちゃんは俺の手にふた振りの鎌を食い込ませた。

 期待したものとは違う、小さな小さな痛み。


「真弥ちゃん……」


 皮膚が裂けるほどでもない。しかしそれは強い抱擁にも似ていた。

 真弥ちゃんは、かまきりになっても、俺を抱擁し、慈しもうとしてくれる。


「真弥ちゃんがだんだん人間に近づいていくといいなぁ……。いや、かまきりの真弥ちゃんに会えた日は、もちろん嬉しかったんだよ」


 そう、忘れもしない。

 梅雨をひきずり、少し湿気を帯びた初夏の空気。家の材木が少し匂い立つような、そんな薄曇りの日。

 夜勤明けの疲れた体を布団に納め、眠り、ふと目覚めてカーテンを開く。

 遮光された暗い部屋に、光の筋が一本立ち、さながら大海を割ったような。

 待ちかねたその日は、突然やってきたのだ。


「あの時、俺にはほんとうに、光が差したようにみえたんだよ」


 俺は、テーブルの上の真弥ちゃんに、そう話しかけた。

 その日、カーテンを開いた先には、一匹のかまきりが、ガラス越しに俺を見ていたのだ。俺が真弥ちゃんかとそのかまきりに尋ねると、かまきりは小さな鎌でガラスを叩いた。

 ああ、真弥ちゃんは、アゲハチョウから姿を変えて、また俺の元にやってきてくれたのだ。


 それから真弥ちゃんは、再び俺とこの家に住むようになった。

 アゲハチョウに比べれば、かまきりのメスの寿命は長いらしい。夏をともに過ごせることを、俺は嬉しく思った。

 初夏の陽気は、どうしても窓を開けがちになるから、真弥ちゃんの食事には事欠かない。以前は、入り込んでしまった羽虫の処遇に頭を悩ませ、人間の真弥ちゃんにつまみ出してもらったものだが、もうそんな心配はいらなかった。


 かまきりの真弥ちゃんは、小さな羽虫から生まれたばかりのヤモリまで、おなかがすいていさえすればよく食べてくれる。そうして真弥ちゃんはすぐに大きくなっていった。

 時折、網戸の向こう側を覗き込みながら触覚をこする真弥ちゃんを見かけた。外に思うものがあるのかもしれない。

 俺は真弥ちゃんを手に乗せながら考えていた。。ほっそりとしたフォルム。しかしやわらかく膨らんだ腹への流れるような線に、透き通る羽根先が背に見える。宝石のような緑色。


 こんなに美しいかまきりの真弥ちゃんに、どこぞの馬骨とも知れないオスかまきりが手を出したらどうしようと、心配になるほどであった。

 窓の隙間から虫が入ってくるならば、真弥ちゃんを目的にした不埒なオスかまきりが現れてもなんら不思議でないのだ。


「真弥ちゃん、レモンの木にとまっていたいかもしれないけど、あんまり外には出てはいけませんよ」


 俺は真弥ちゃんに、子供に言い聞かせるように繰り返した。かまきりの真弥ちゃんは、俺の方をくるりと見て、鎌で顔をこすってみたり、鎌を舐めて手入れをしたり、わざと俺の言うことを聞かないふりをしている仕草をした。

 人間だった時の真弥ちゃんも、ばつが悪くなると髪の毛を手元で編んでみたり、唇を触ってみせたものだ。


 むくれた顔がかわいくて、それは俺の胸の内の、あたたかな思い出だった。

 かまきりの真弥ちゃんに表情らしい表情はないけれど、真弥ちゃんが動き、生きているだけで俺は嬉しかった。

 かまきりの真弥ちゃんは、よく動く。

 芋虫の頃に比べれば、どんな生き物もよく動く方に入るのではあるのだが、かまきりの真弥ちゃんの行動範囲は広かった。

 真弥ちゃんは高いところにも登りたがるし、そうかと思えば、床に降りて部屋の隅でじっとしている。


 今日のように、テーブルの花瓶の花の中で、じっと擬態して室内に入り込んだ虫を待っていたりする。

 きっとレモンの木にとまらせてあげられれば、そこでお腹いっぱいに虫をとって食べるのだろう。しかし、俺は外敵のことを思うと、それをすることができなかった。


 真弥ちゃんが外の世界をじっと見つめているたびに、俺は真弥ちゃんを閉じ込めている罪悪感のようなものを感じてちた。

 その実、俺は、人間の真弥ちゃんを閉じ込めたいと思ったことがあった。

 真弥ちゃんの好きなもの、好きな本で部屋をいっぱいにして、ふかふかなベッドと、ポータブルトイレを置いて、真弥ちゃんがその部屋から一歩も出ないで生活できるように。


 かわいらしいけれど、歩くことのできない靴をはいてもらえば、きっと真弥ちゃんは部屋から抜け出すこともないだろう。

 真弥ちゃんは強い刺激を受けることもなく、毎日が穏やかに、生活の憂いもなく過ごしていけるのではないかと、その時の俺は思ったのだ。


 それをしていたらきっと、俺は今抱えている罪の気持ちと重ねて、自分の愚かさに涙を流すことになっていただろう。俺は自分が夢想家であったことに安堵した。

 それでも、かまきりの真弥ちゃんを外に出してあげたい、しかし外は、という気持ちは、いつだって俺と共にあった。


 夏の日差しが強くなるにつれて、その小さな迷いは強くなっていった。

 夏の明るさの下、真弥ちゃんのきらめく翡翠の目を見たいと思ったし、深緑の中に紛れ込む美しさを見たいとも思った。

 だから俺は、俺がすぐ近くで見張るのを条件に、真弥ちゃんをレモンの木にいる時間を作ることにした。


 それは、夕涼みの時間だったり、休みの日のむせ返るような暑さの昼下がりであったり。


 いつの時間も、レモンの木の上で、真弥ちゃんは遠くを見ているようだった。

 背の低い鉢植えなのだから、どこまでも見通せるわけではない。

 それでも、真弥ちゃんは遠くを見通すような澄んだ翡翠の目で世界を見ていた。

 碧天。もつれ、ふくらむ真珠色の雲。

 ゆっくりと世界の端へと横たわる夕陽の赤銅が、夜を招く時間まで。

 きっと、彼女には見えていることだろう。燦然と輝く太陽の下で、蝉の声だけが明瞭な読経である。


 春に生まれ出でたものたちが、ゆっくりと溶け合って、夏に一度深く混ざり合う。

 それらは地平の先につながる秋の空を待ち、いずれ赤や黄色に染まった山々から、吹き下ろされる冷たい風に身を固めていく。

 早く秋がこればいいと、真弥ちゃんはよく言っていた。

 今の俺は、秋がこなければよいと思っている。きっと、かまきりの真弥ちゃんは冬を越えられないから。


 砂地の足元に、真弥ちゃんではないかまきりがいた。それは、干からびかけた死骸であった。蟻たちが群がり、腹の中から出入りしている。小さな口で刻み、運び、新しく生まれる幼虫たちの餌にするのだろう。それは至極真っ当で、あるべき食物連鎖の、塵を塵に還す過程であった。


 なんのことはないはずの世界の理は、俺の背筋を、ぞろりと、這い上がる冷たさがあった。


 ああ、と、俺は唇を舐めた。


「真弥ちゃん、家に入ろう」


 誤魔化そうと真弥ちゃんをつまみ上げた。小さな硬い背中は骨が入っているようだった。丸く膨らんだ腹の中に、みっちりと詰まった蟻を想像してしまって、指が震えた。

 真弥ちゃんは不満げに鎌を振り上げ、背中をつまむ俺の指を、ちくちくと刺した。


「ごめんごめん。でも、部屋の花瓶の花を新しくしたから。今夜はそこで眠るといいよ」


 居間に飾った花瓶には、真弥ちゃんが好きな色のバラを生けてあった。黄色いバラの葉に真弥ちゃんをとまらせる。

 真弥ちゃんは、葉に乗ると、しばしまわりを見回して、じきにまた丁寧に鎌の手入れをはじめた。


「俺は先にお風呂に入ってくるからね」


 真弥ちゃんは、俺の顔を見て、頷くような動きをして、バラの葉の上で、じっと動かなくなった。室内に飛んでいる小さな虫を獲る気になったのだろう。

 食べ、眠り、真弥ちゃんが冬のはじまりまで、どうにか俺と一緒にいてくれたらと思う。

 そんなかまきりの真弥ちゃんとの生活は、ひと夏を越えて続いた。蛹の真弥ちゃんとは違って、動いて俺の話を聞いてくれるように首をかしげる様は、心が満たされるしあわせだった。


 しかし、俺と真弥ちゃんの別れは、冬よりも早くやってきた。

 季節は秋になっていた。黄色いいちょうが葉を落とし、伊吹おろしが平野を舐めはじめる。そんな秋の始まり。


 仕事から帰宅した俺は、台所の洗い桶に溜まった水に浮いた真弥ちゃんを見ていた。


 真弥ちゃんから這い出したハリガネムシが、水の中で体をくねらせている。

 真弥ちゃんは、水面に浮いたまま、しかし水から上がろうと鎌を動かした。きっと腹の中をめちゃめちゃにされていて、いくらも生きられないだろうことを、俺は知っていた。


「真弥ちゃん、真弥ちゃん」


 濡れた真弥ちゃんは、あんまりなほどに弱っていた。鎌を動かして、俺の指をちくちくつつく力もない。ぐったりと、濡れたからだを横たわらせて、細い足で空を掻く。


「ごめんね、ごめん……」


 俺の目から、涙がぼとぼとと落ちた。

 防ぎ方はあったのだろうか。俺はなにも気づけなかった。ボウルの中に漂う、細く長い虫を見ながら、俺は怒りを感じていた。

 俺は真弥ちゃんを水から掬い上げて、そっと口付けした。かまきりの真弥ちゃんは、はじめて俺のキスを受け入れてくれた。


 俺は瀕死の真弥ちゃんを、ハンカチに包んだ。真弥ちゃんは、ハンカチの中で動かなくなった。

 俺は真弥ちゃんの死を察し、そして洗い桶の中に台所洗剤を垂らした。



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