第8話 ナカミのはなし


 

「佐伯さんのナカミが見たい」


 真弥ちゃんがぽつりと漏らしたその一言は、俺にとって恐ろしく魅惑的な言葉だった。

 常人ならば、青ざめてみせるだとかしただろう。けれど、俺に関してはなにも問題ないのだ。


 完全な安全地帯に身を置きながら、愛した女の子に「あなたのことをぜんぶ知りたい」と言われて、心揺らがない男がいるだろうか。

 いるのかもしれない。だが、俺は違う。


 真弥ちゃんが望むなら、俺は彼女の手に掛かって死んでも構わないし、むしろ、彼女の手によって俺の体がなにかしら影響を受けるのなら。

 真弥ちゃんの白い指が、俺の体を触る。愛しむように。それだけで、もう断る理由などないのだ。真弥ちゃんのあたたかい指先が、俺のつま先を撫でている。うっとりとするような心地よさだった。


 ——みち、と、生皮に刃物が食い入る音がした。


 それは真弥ちゃんの手に握られた包丁が、俺の足の爪と指の間に切先を潜り込ませた音であり、同時に爪が名残惜しげに指の肉を離れた音でもあった。

 弾けるように指先を貫いた痛みと共に額に吹き出す脂汗と、歯の奥から漏れる苦悶の声を隠すことを、俺はしなかった。

 

 ——なに、俺は不死であるのだから、どれほど傷つけられても元に戻るという驕り。

 

 しかし、きゅうっと視界が狭まるような感覚があった。

 戦っている時にも似た、けれど少し違う。頭の中に声は聞こえない。俺のための時間が生まれる。そうなれば、激痛は愛する人に対して情慾を抱ける程度に薄まっていく。微かな痛みはかえって心地良く、俺は真弥ちゃんの頬を見ながらそわそわした気持ちになっていた。


「小さい頃からねぇ」


 真弥ちゃんは、肉の中の骨のつながりを確認するように、指でつまみ、わずかに捻った。びりりと痺れるような、神経にものが触れる感覚。


「ゔ、んっ……」


 呻き声のような相槌が、俺の口から漏れる。


「お魚をお箸で食べるでしょ。どこにどんな向きでお箸を入れたら、身がきれいに取れるのか……」


 真弥ちゃんの言葉を、一言も聞き逃したくなかった。


「どこにどう、骨がついていて、その隙間に食べられるところがあるのか……。頭の骨は入り組んでいて、ひとつ外したらその下に食べられるところがあったり……。骨つきのお肉もそうだよね。あばらの隙間や、背骨のかたち……筋肉の流れを考えながら食べるのが好きでさ」


 真弥ちゃんは、俺の髪をあやすように撫でる。その細くやわらかい指先が頭皮をやさしくひっかいて、俺はうっとりとした心持ちで目を細める。


「佐伯さんを食べたいわけじゃないよ。でも、佐伯さんをどうしたら、骨と肉にきれいにわけられるのか知りたいの」

「それなら、好きなだけ調べたらいいよ」


 真弥ちゃんは黒いまつ毛の縁取りをたゆませた。


「ありがとう」


 やわらかい唇が俺の額に触れる。それだけでも、もうしあわせなことなのだ。


「お魚を調理するのも好きだな。鱗を剥がして、ひれを切ってさ。えらを剥がしたり、内臓を出していくの。食べちゃうんだから、当たり前なんだけど、もうこの魚は元には戻らないっていう安心感。それに私、魚のにおいが大好きなんだよね」

「ああ……。真弥ちゃん、食品売り場の……魚のところの、塩素とまざったあのにおい……好きって言ってたもんね」

「うん、大好き」

 

 ——ぬち、と

 

 真弥ちゃんの指先が音を立てる。俺のふくらはぎを切り開いた出歯包丁には、俺の脂がついて曇っていた。

 真弥ちゃんは、俺の血の脂をタオルで拭き取りながら、俺のふくらはぎを魚の開きのように、少しずつ平たくしていく。真弥ちゃんの細い腕と指では、ひと息に皮を剥ぐなどということはできないから、俺は少しずつ自分の足が分解されていくのを見ることができた。


「ああ、佐伯さんの膝は、こういうかたちなんだ」


 膝の骨を指で撫でながら、真弥ちゃんは言った。血に塗れていても、それは白かった。


「俺も自分の膝の骨は初めて見たよ」

「ころんとしてて、かわいいね」

「それはなんだか……嬉しいな」


 真弥ちゃんの小さくてまるい膝に比べれば、さぞかし俺の骨は大きいだろうに。ショートパンツから覗く、かわいらしい膝小僧を見ながら、俺は微笑んだ。

 それにしても、真弥ちゃんは刃物の扱いが上手い。どのタイミングで力を入れるのか。角度や強さ。そういう勘が良いのだ。調理の手際がよいのは知っていたが、実際に切先を当てられてわかるものもある。


 おかげで、包丁一本にしてはすんなりと、俺の肉と皮は骨と別れを告げて、血抜きされつつある肉塊として床に積まれていく。


「真弥ちゃん、人体に興味があるなら、医学を志したりはしなかったの?」


 俺の言葉に、真弥ちゃんは少し手をとめた。


「しないよ。そんな動機、不道徳だし。こうしてナカミを見るのは、佐伯さんじゃないと嫌」


 真弥ちゃんは、そんなもしもをきっぱりと切って捨てた。体を開かれて真弥ちゃんに愛されるのは、この世の中で俺一人でいい。


「俺も真弥ちゃんじゃないと嫌だな」

「こんなに興味があるのは佐伯さんだけだよ」


 真弥ちゃんの目は微かに潤んでいた。

 愛の告白だと思った。

 俺は言葉に詰まって、涙ぐみそうになりながら微笑んだ。

 真弥ちゃんは、俺のふくらはぎを分割し終わり、外した骨をきれいに並べて置いた。

 バスルームの床には、俺の血が溜まり、細く排水口へと糸を引くように流れていく。


「次はどこを見せてくれる?」

「どこでも」


 真弥ちゃんが望むなら、腹を開いて腸を掴み出してもいい。胸を割いて動く心臓を見せたって構わない。頭蓋を割り、脳を晒すことだってしてみせたい。

 シナプスに支配された、息づく肉の塊である俺が、どれほど真弥ちゃんのことを大切に思っているか、血肉に賭けて証明したかった。

 なにより俺は真弥ちゃんに望まれることが嬉しかった。


 じんわりと、残った手足が冷たくなっている。失血は緩慢に、しかし確実な死へと俺を誘っている。

 真弥ちゃんは、次は俺のどこを切り開き、その桜色の爪を赤くそめて俺の中に手を入れるだろうか。俺はどこまで真弥ちゃんを見ていられるだろうか。

 真弥ちゃんを見ていたい。死にたくない気持ちは、不死になっても何も変わらない。死は不快だ。死に至る過程も不快だ。


 しかし今は、不快をかき消す心地よさがあった。

 次に真弥ちゃんが俺を細かくして見ていきたいと言ったら、きちんと止血をして、少しでも長く生きていたい。

 生きていたいと思う。生きていなければ。

 真弥ちゃんと深く繋がり、一緒に生きていたい。


「真弥ちゃん、俺の腹の中、触ってみない?」


 俺の提案に、真弥ちゃんは丸いかわいい唇を三日月のように笑んだ。


「ちょっとだけ触らせてもらおうかな」


 真弥ちゃんが俺の腹に手を当てた。くすぐったくて、俺の腹がひくひく動く。


「でももうじき、俺死んじゃうから。あんまり長く触っていられないかもしれないけど……」

「佐伯さんが死んで、帰ってきたら、一緒にお風呂に入ろうね。お湯溜めとく」


 真弥ちゃんはそう言って、給湯器のスイッチを押した。お風呂を沸かしますと、音声アナウンスが入る。日常の声だ。

 俺は真弥ちゃんが俺の中を触るのを待っていた。

 真弥ちゃんを俺の腹の中におさめてしまえて、一緒にいつまでも生きていられたらいいのに。


 ぐるぐると、俺が真弥ちゃんを産み、真弥ちゃんが俺を産み、どこまでも二人でいきたかった。

 給湯器が湯を吐き出す。じゃあ、と水音が浴室に響き、室内が煙る。水音に紛れるように俺の腹の皮を包丁が裂き、脂肪層へと刃が入る。

 湯煙の中、ゆっくりと真弥ちゃんが腹筋をを掻き分けて俺の中に到達する。

 小さな温かい手のひらが、俺の中身に触れる。


 できることなら、俺の心臓に触れて欲しかった。彼女を愛してやまない胸の中にあるものに触れてもらえば、ほんの少しなにか伝わるのではないかと、そんな浪漫めいたことを思っている。


 俺から溢れる赤い血が、排水口に流れていく。死んでしまえば跡形もなく消えるのだから煩わしく思うこともない。

 俺の意識は少しずつ薄れていた。まどろむような気持ちよさに浸りながら、目が覚めたら真弥ちゃんと風呂に入ることばかりを考えていた。楽しみだった。

 俺は真弥ちゃんとお風呂の中でたわいない話をするのが好きなのだ。


 あたたかいシャワーにけむる浴室。柚子を浮かべて、二人で湯船に浸かる。

 香りのいい湯の中で、ただお互いのことだけを考えて、疲れをほぐす。

 それを自覚したのは、ものごとが過ぎ去ってからだった。

 俺は、そのしあわせのひとつを、明日もまた来ると思い込んでいたのだろうか。



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