第一章:幸楽美国編①

「で、山奥に放り出された弁解はあるか?」

「まさか見知らぬ土地に出てくるとは思わなかった!」

 寒い。寒すぎる。

 防寒具もなく、真夜中に放り出された二人は珍しく肩を寄せている。特に林琳の薄い唇は小刻みに震えており、色も最悪だ。

 兎にも角にも宿がなければ調査もできない。林琳が持っているのは領域から持ち出した竹のみで、役に立つことはなさそうだ。実体があるだけでも感謝するべきだと仁は口に出しそうになるが、思い留まった。口に出した瞬間鉄拳が飛んでくるだろう。

「大丈夫。師匠から色々と預かってる!」

 こちらも同じく唇の血色が良くないが、声色とその人懐っこい笑みは、少し空気を温かくしてくれる気がする。

 宗主が絡んでいるとなると、仁が折れる気がないのも納得だ。自信満々に風呂敷から、どう見ても禍々しい道具を取り出す姿を見て、仁は「嵌められた」と呟いた。途端に踵を返そうとするが、寒さのせいで思うように動けない。

「林琳! 震えてる場合じゃないぞ!」

「ばっ……か! 急に走るな!」

 強引な引きに足がもつれそうになるが、仁が引っ張り上げるように手を引く。腕が痛い。

「少し降りたら城下町がある! そこで宿を取ろう!」

 確かに少し高台から見える景色は灯篭の光で暖かい。きっと城下町であれば人も多く栄えているに違いない。ぐっすりと眠れる宿も、久方ぶりの食事も手に入るだろう。少しばかり領域の事が気になるが、先に落ち着ける場所が欲しい。

「ほら、灯りもまだ消えてない。適当な所でいいから声をかけてみよう」

 凍えた手を握りしめると、余程温もりが欲しいのか、そっと確かに握り返してくる感触を得る。成人男性二人が手を繋いでいるのは、側から見れば奇妙な光景かもしれないが、仁の外套には袖がなく、肩を寄せ合っている姿はそれほどおかしくない。

 灯りのある場所を目で探していると、ちょうど暖簾を仕舞う少し肥えた男が目に入った。おそらく客室が埋まったのだろう。夜も遅く、店主も寛ぐ時間はとうに過ぎている。他にも灯りが覗く宿は幾つかあるが、声をかけるには扉を叩かなければならない。

「夜分遅くに失礼、部屋は空いているか?」

「え……?」

 静まり返った中で、驚かせないように声をかける。

 林琳は店主の顔をじっと見つめる。年齢はおおよそ四十、少し肥えているが清潔感があり、仁の声にも反応している。紛れもない人間だ。魂を通して見た人間と生きている人間は、やはり違う。寒さに耐えながら余計なことを考えていたが、余計なことを考えなければ凍え死ぬだろう。

 店主は下ろしていた暖簾を見せると「申し訳ないね。満室なんだ」と首を掻いた。

「そうか、邪魔して悪かった」

 満室であるならば仕方がない、会釈を互いに交わすと次の宿を探そうと踵を返す。月の位置からして子の刻を過ぎた頃だ。

 次に目が留まったのは、「桜陽宿場」と書かれた桃色の暖簾がかかる宿。扉を叩こうと近づくと、中からは話し声が聞こえてくる。コンコンと控えめに扉を叩く。これは期待できそうだ。仁の手による軽快な音で叩かれた扉だが、一向に開く気配がない。何度も叩くが、話し声にかき消されてしまうのか、それともこの夜更けに扉を叩く無礼者を追い返したいのか、扉は微動だにしない。

「困ったな」

 項垂れる仁を尻目に、林琳はやけに大人しい。

 この調子だと、野宿の可能性も捨てきれない。どうしたものかと林琳を見ると、なんと立ったまま眠っているではないか。仁はぎょっとして握っていた手を離してしまう。驚愕したが、いや、目を閉じているだけかもしれない。

「林琳? 大丈夫か? 寒くないか?」

「寒いに決まってるだろ」

 やはり起きてはいた。ただ、限界に近いのだろう。うつらうつらし始めている。

 完全に意識を飛ばしてしまう前に「しっかりしろ!」と肩を揺すると、勢いよく竹で顎下を突かれた仁は座りこんでしまった。衝撃で上下の歯が衝突した音が響いた。舌を噛んでいたら、宿を取る前に出血多量で死んでいただろう。当の本人は竹に寄り掛かり、再び船を漕ぎ始めてしまった。この際、屋根があれば馬小屋でもいい。藁があれば多少暖は取れるし、二人とも野宿には慣れている。「頼む、もう少し歩いてくれ」とすっかりやる気のない林琳の背中を押していると、目の前から腰の曲がった老婆が歩いてきた。仁は立ち止まり、林琳も気配を感じたのか、気怠げに視線を動かす。

「お前さん達、こんな夜更けに出歩いちゃいかん!」

「宿を探している。旅の途中なんだ」

「どこから来たんだい? この時間じゃあ、どこも開けてくれはしないよ。桃陽宿場は行ったのかい? なんでもっと早く探さなかったんだい。子供じゃないんだから」

 初対面のはずだが、完全に子供に対する扱いである。言い返すにも老婆の言葉が刺さって仕方がない。

 仁が「これには深い事情が……」とあたふたと手振り身振りで説明しようにも、結局黙ってしまう。どこから来たなんて、馬鹿正直に答えたら牢に放り込まれるか、あの世に送られて、終わりだ。

 ふいに、道に迷ったのだとあくびを耐えた声が聞こえた。上手い事誤魔化した林琳を仁は泣きそうになりながら、救世主と心の中で褒め称える。

 老婆も責めるつもりはないのか、大きくため息をつき、「ついておいで」と手招きをする。

「客間が空いてるよ。今晩だけ泊まって行きな」

「本当か!」

「そっちの子、震えてるじゃないか。早くおいで。風邪を引いても明日には出て行ってもらうからね」

 仁は林琳に己の外套を素早く着せると、手を取り老婆の背中を追った。家に招いてくれた老婆は道中で名を小菊と名乗った。



 ◆


 

「お、おいしい!」

 まさか暖かい食事まで出てくるとは。

 思いもよらぬ、もてなしに仁は老婆に潤んだ瞳で感謝の意を伝えた。

「その様子だど碌に食べてないんだろう。ほら、粥でも食べな」

 林琳の前に置かれたのは仁とは不揃いの柄のお椀で、量も少ない。仁の方はお椀と言うよりも、丼だ。

 胃に化け物でも住んでいるのか、仁の前に置かれた食事は驚く間もなく吸い込まれていく。老婆も気を良くしたのか、休まずに次々と運んでくるので、仁の箸が机に落ち着くことはなさそうだ。

 さて、竹林では食事を不要としていた林琳だが、急に固形物を流し込んで腹を下さないか心配だった。肉体は実態を保っているものの、中身がどうかわからない。それ以前に、食事を受け付ける肉体であるのかすら疑問だった。

 目の前に置かれた粥は、さぞかし美味しいのだろう。それに、ただの粥ではない。程良い量の葱が入った卵粥だ。お椀からは暖かそうに湯気が立ち上り、鼻を擽る。老婆の気遣いか、米も形を崩すほど煮込まれていて、食べやすそうだ。幾度か考えた末、思い切って口に運んだ。

「……うん」

 とても優しい味だった。以前に比べて味覚が弱まっているのか、寒さで感覚が鈍っているのか判断はつかないが、紛れもなく美味しい、と声に出せる味だ。食事中も口数の多い仁が黙々と食べている理由が分かった。

「あんたは食が細そうだからね。それぐらいにしときな」

 鶏の丸焼きも美味そうだと箸を伸ばした瞬間に、目的の皿ごと消えた。行き場のない箸は微かに震えていた。

 唖然として固まっている林琳を見た仁はごほっ、勢いよく咽せる。冷めた目を向けてくる林琳に仁は軽く謝罪するとお茶を注いでやった。

 小菊は仁の空になったお椀を器用に積み上げ、「うちの息子もそうだった」と呟いて厨房へとまた戻ってしまった。やるせない気持ちになりながらも林琳はこれ以上冷める前にと粥を味合う。忙しなく口に詰め込んでいた仁も厨房から皿を洗う音が聞こえてくるのを知ると、速度を落として黙々と食事を続けた。

「静かな家だよな」

 落ち着いたところでぐるりと室内を見渡すと、小菊は一人暮らしなのだろうか、物が少ない。敷居を跨いだ時は灯りもついておらず、生活音も人の気配もなかった。寝静まっているにしても、呼吸音さえ聞こえない。小窓は開けっ放しになっており、そこから響く虫の鳴く声が妙に心地良い。

 先程まで船を漕いでいたというのに、林琳は頬杖をついて小窓の外に見える庭をじっと見つめていた。

「外に何かいるのか?」

 正面に座る仁は身を乗り出すと、真似して小窓の外を見る。

 いたって普通の庭だ。決して大きくはないが、日の差し込む場所には畑があり、根菜が三種類程育ってる。きっと仁が口にした芋もあそこから取れたのだろう。小まめに手入れをしているからか、雑草も見当たらない。

「見てみろ。鍬が二本ある」

「鍬……?」

 震えの止まった指先で、林琳は畑の手前にある物置小屋を指した。柄の長い鍬と、それに比べると拳二つ分短い鍬。どちらも雨風にさらされているため、内側が腐食しており、柄の部分には亀裂が入っている。刃の部分も錆びており、いつ壊れてもおかしくない状態だ。「息子がいたんだろう。きっと俺たちと歳の近い男だ」

 言われてみれば、この部屋には女性が持つには不釣り合いな置物が戸棚にあった。鍬も、歳をとり腰の曲がった小菊のために短く調整したのだろう。

「姿が見えないけど……」

「三年前に死んだよ」

 片付けを終えた小菊は戸棚から質素な木箱を取り出すと、二人の間に置いて見せた。漆喰で加工された木箱は質素ではあるが、美しく蝋燭に灯された火を反射して輝いている。蓋を外し、中にある指輪を手のひらに乗せて、寂しげに見つめる小菊は懐かしそうに笑った。

「綺麗だろう? 最期にあの子が遺した物だよ。優しい子で、お前と同じ食の細い子だった」

 幅のある指輪には小粒で美しい石が散りばめられており、小菊が身に着ければ裕福な家に住む女主人だと錯覚するだろう。しかし、側面に引っかき傷があるのが惜しい。

「ここは幸楽美国。全てが手に入る、貿易で栄えた国の城下町」

「幸楽美国!? 世界で一番の貿易量を誇る国じゃないか!」

「ここがどこかも知らずに来たのかい! 正門に書いてあっただろうに!」

 門番に拘束されなかったのは奇跡だ、小菊は目を点にした。

「いや、裏山から入った」

 背中の筋肉をほぐしながら大きく伸びをした林琳は、悪びれる様子がない。いかんせん、この二人も見知らぬ土地に放り出されるとは想像もしていなかったし、それよりも凍え死ぬのを回避することで精一杯だった。正門なんて関係ない。入ることができればそこはもう入り口として成り立つ、そう考える二人は完全なる暴論だった。

「ま、一度来てみたかった国だ。運が良い」



 "幸楽美国"

 世界各国から商人が集まり、貿易を展開している国の名である。世界から主が消えると、幸楽美国は真っ先に貿易の門を閉じた。貿易で栄えていたこの国では、いつ刺客が入り込んでもおかしくない状態だったからだ。もちろん、自国の生存を第一に考え、全ての門を閉じることはせず、限られた国の間でひっそりと貿易は続けられた。以降、数十年は平和な日々が続いた。しかし、主の消失から数百年が経ち、世界が新たな均衡を保ち始めた頃、他国からの反感が国を襲う。「門を開け」と初めに声を上げたのは、隣国の者でもなく、ただの旅人だった。旅の仲間が病に罹り、薬を求めにやってきたというのだ。

 丁度、幸楽美国は長の代替わりの時期であり、これを機に長年閉ざされていた門を開き、旅人を手厚く看病し、送り出した。こうして幸楽美国は徐々に貿易を再開し、さらに、国内最大の宿場である桜陽宿場を建設した。今の幸楽美国は、貿易だけでなく、旅人の身体を癒す役割も担っている。



 問いたいことは山ほどある小菊だが、既に月は傾き始めている。己ももう歳だ。息子と同じ年頃の成人した男に説教をしたところで、疲労を抱えるのはわかりきっている。裏山から降りてきた二人は、もっと疲れているに違いない。小菊は自分のお節介な感情に言い聞かせ、戸棚に木箱を戻した。

「そうかい……もういいよ、客間を用意したから今日はもう寝なさい」

 明日はこの手間のかかる客人を送り出し、畑を耕して、家事を済ませたらあの子のいない日常を送るのだ。

「本当にありがとう!」

「礼はいいから早く休みな」

「ありがとう」

 申し訳ない程度に頭を下げる林琳が側を通り過ぎ、また静寂が訪れた。ふと、二人の座っていた席に視線を落とす。

 小菊は、なんというか、寂しかったのだ。誰もいない家で一人で食事をとり、息子の三回忌を終えた途端に、不思議と涙が溢れて止まらなかった。普段はこんな時間に出歩くバカな真似はしないが、もしかしたらあの子が戻ってきているのではないかと、あり得ない妄想を抱いてしまった。無論、死んだ者は帰ってこない。だからこそ、息子と同じ背丈の二人にお節介を焼いてしまったのだ。

「良い夢を」

 それは誰に捧げた祈りなのか、本人もわからない。

 林琳たちは小菊が用意してくれた客間を見つけ、体に付着した埃を払い、扉を開けた。用意された客間は一つ。予め言っておくが、別にそこに問題があるわけではない。問題があるのは、綺麗に並べられた布団の距離だ。ほとんど隙間がない。部屋の広さを考えると、布団を二つ並べるのには無理がある。小菊も多少気を遣ったのか、普段置かれているであろう小棚は部屋の隅に押し込まれていた。色々と観察する癖のある林琳は、床の変色具合ですぐに事情を察した。

「師兄と同じ部屋なんて何年振りだろう!」

 そんな中、仁は上機嫌に笑って見せるので、折角満たされた腹から沸々と苛立ちが顔を出す。

 仁と林琳は腐れ縁と呼べるくらい長い付き合いだが、今では想像できないほど過去には様々な衝突も起きている。今更そんなことを引き出されるのは嫌だと思うかもしれないが、林琳が同室を嫌うにはもう一つ大きな理由がある。

「寝ろ、馬鹿」

 これ以上苛立つ前に、林琳は素早く、なおかつ強制的に仁を眠りにつかせた。

 それ即ち、気絶である。



 ◆



 穏やかに差し込む朝日の光が、口を開けて気持ちよさそうに寝ている仁の長い睫毛を照らす。天気の良い日だ。うららかな日差しが程よく室内を温め、深い睡魔を誘ってくる。外では市場が開かれ、若い女子たちの楽しげな声が響き賑わいを見せている。時折、子供特有の幼い声も聞こえてきた。

 林琳が唯一の窓から外を覗くと、案の定、何人もの子供たちが水遊びをしているのが見えた。この国は比較的気温の変動が穏やかで、一年を通して雨が降る日は両手で数えられる程度だ。これでは庇も意味を成さない。林琳は眩しそうに顔を顰め、陰になっている椅子に腰を下ろした。

 既に日は高く昇り、二つ寄り添っていた布団は今や仁が一人で占領している。枕さえも仁の腕の中で、夢の中に旅立っているのか目を覚ます気配はない。形のいい唇の奥には鋭い犬歯が見え、薄く開いた口からは今にも涎が零れ落ちそうだ。まるで子供をそのまま大きくしたような姿で、竹林の領域で外の世界から切り離されていた林琳は、すうすうと奏でられる寝息にため息が出そうになった。

「どこにいても呑気な奴」

 視界に映る景色はよく見慣れたもので、衝動的に立て掛けてあった竹で小突いてしまった。人を竹で小突くなんて酷いじゃないか、と思うこともないのが林琳の性格だ。実際、昔からよく物で小突いていたし、今更気にすることでもない。それに、この男はまるで起きる気配がない。寝返りすら打たず、反応さえしない。当たり所が悪かったかと、昨夜無理矢理気絶させたことが脳裏を過る。渋々「早く起きろ、置いていくぞ」と声を掛ける。懐に少額でも金があれば、この男を置いて行ったのに。悲しいことに一文無しでは少し不安がある。現世では腹は減るし、睡眠も必要、適度な運動も必要だ。全てに対して金銭のやり取りが発生する。なんと面倒なことか。

 ぼんやりと天井を見ていると、間延びした声が聞こえてきた。

「起きたか。とっくに日は昇ってるぞ」

「んー、あさぁ……あさかぁ……」

「お前の頭は夢の中か」

「起きてるって……」

「庭裏に井戸がある、そこで顔でも洗ってこい」

 鳥の巣よりも酷く絡まっている長髪を手櫛で解きつつ、だらしなく起き上がった仁の足取りは重たい。腰下あたりまで伸びた黒髪は本人の意思に関係なく絡まってしまう。とりあえず結い上げておくのか手慣れた様子で上手く一つに纏めた。

 揃って客間を出ると「小菊さんは?」と聞いてくるので「さっき一緒に朝食を済ませた」とまだ眠気の取れない林琳は応える。お前が起きる二刻にはもう食べ終わっていたぞ。林琳は仁が睡眠を貪っている間に、朝の挨拶を交わし朝食も素早く頂いたのだった。一人置いてけぼりだった事を知った仁から文句が飛んでくるが、全て聞こえていないふりをした。一度は起こしたのだ。そりゃあ、丁寧に肩を揺すって。何度も起きろ、と言葉を投げかけてやったのに、こいつは夢の中。

「夜も遅かったからぐっすり眠れた」

 おまけに寝落ちしたと勘違いしている。真実は違うが、林琳は「良かったな」と流す。なかなかの威力で気絶させてしまった。直前の記憶を夢の中に置いているなら、それはそれで良い。

「あ! 小菊さん! おはよう!」

「寝坊助め。ほら、手拭だ。井戸水で顔を洗っておいで。さっき林琳は使ったから、覚えてるね。使い方を教えてやりな。それと、井戸水を持ってきてくれ。水瓶の底が見えててね」

 小菊が側にある水瓶に触れる。あそこにある程度水を溜めて炊事や洗濯をする際に使うのだ。小菊はもう腰の曲がった老婆で、井戸から水を汲み上げる動作は体に響くのだろう。それにうっかり井戸に落ちたらひとたまりもない。二人は大きめの桶を三つ預かる。二往復したらあの水瓶は満たされると思う。

 庭に出ると昨日見ていた鍬と畑が迎えてくれた。倉庫と反対側に進むと井戸に辿り着き、林琳は使い方を教えた。なんとこの井戸、小菊の息子が掘って作ったものだ。この家の近くに河川は無く、少し上流へと足を運ばなければ水を確保できない。若い頃はそれで事足りていたものの、老いた母を見てどうにかならないかと思い一心不乱に掘り続けたのだ。実際に使えるようになったのはそれから数年後。綱をひき、拳程の錘と鶴瓶が梃子の原理で連動し水を汲み上げる一般的な仕様だ。

 井戸水はよく冷える。ばしゃばしゃと顔を洗う仁の手の隙間から溢れた水が飛んできて、まるで水浴びのようだ。肌けた襟の間を掻い潜り、胸元に水が滴って妙に色っぽい。大雑把に手拭で顔を拭くと、寝ぼけていた顔には覇気が戻り、溌剌とした仁の性格がその顔から滲み出ている。仮に、女がこの場にいたら、百発百中で射止められているだろう。

「冬楽……?」

 ふと柵越しに目が合ったのは、背丈が林琳たちと同じくらいの青年だった。日に焼けた肌が彼の年齢をあやふやにする。仁が振り返ると、青年は慌てて「す、すまない。人違いだ」と恥ずかしそうに頬を指先で擦った。身なりからして彼は馬丁らしく、隣には毛艶の美しい馬を引いている。

 そのまま去ろうとする青年に、仁は興味本位で話しかけた。

「立派な馬だな」

 仁は鋭い目を丸くして声を張る。予期せぬ声に狼狽えたのが柵越しに分かった。仁が顔を洗っている間に、水を組み上げていた林琳は、鶴瓶を元の状態に戻す。

 仁の声に、青年は驚いたように振り返った。「ありがとう。主人の愛馬なんだ。散歩が好きだからこの時間はよく歩いてて」と、藤と名乗る馬丁は馬の自慢をいくつも挙げ、再び恥ずかしそうに頬を擦った。逆剥けや節々の太い手は、真面目な働き者である証拠だ。

 藤が自慢したくなるのも理解できる。目の前にいる馬は鍛えられ、全速力で走らせようとするなら、乗馬する者もそれ相応の体幹が求められるだろう。大人しそうな馬に見えるが、散歩を邪魔された苛立ちから早く歩けと藤を鼻で押し催促する。藤はなだめるように手を添え、馬は満足したのかしなやかな足で数回足踏みをした。蹄から鳴る音すら、軽快で美しい。藤によく懐いており、戯れ合う姿はまた可愛らしい。

 催促する馬に急かされて「ごめん、もう行かなきゃ。良い一日を!」そうやって笑うと、軽く手を振り藤は街の中に姿を消した。

 二人も水の入った桶を持ち小菊のいる居間へ向かう。

「で、冬楽って誰?」

「知らん」

 桶を二つ持った仁と、一つの林琳が、可能な限り水を零さぬように歩く。若干桶の水量が違うが、仁は気にしていないようだ。むしろ、率先して二つ先に手に取ったのは仁で、水量も多い方を選んだのだ。

「それにしても綺麗な馬だったぁ。きっと金持ちの屋敷で飼われてるに違いないぞ」

「金欠のお前が見たことのない料理も出るかもな」

 美味そうな酒を見つければ、その場で値段も見ずに金を払う。もし今外で開かれている出店でも見ようものなら、すぐに飛んで行くだろう。そうして夕方になれば賭博に行き、一儲けして懐を潤すのが一連の流れだ。

「その、ちょっと、の度合いが違う。何度お前と同じ部屋に泊まる羽目になったか、思い出せ」

 仁は口を尖らせて桶の水を水瓶に流し込む。

「別に良いじゃん……昔は同じ部屋で後輩達と寝てたのに」

 未だに不満を垂れる仁に、林琳は「悔しいなら俺に屋敷の一つでも贈ってみろ」と最後に一言添えて、二度目の水汲みに向かう。慌ただしい足音が追い付くと、厨房から小菊の声が飛んできた。

「仁、それが終わったら饅頭を食べな」

「やった!」

 甘やかさないでくれ、そんな林琳の心の声は届くはずもなく、流されるまま水汲みを終えた二人は昨日と同じ卓で饅頭を頬張っている。

「うまーい! 小菊さんは料理が上手だな!」

「ははは! そりゃ嬉しい」

 二人は側から見れば親子のようだ。来客がきたとしても、仁が迎入れても違和感は感じられないだろう。林琳は時折機嫌よく跳ねる小菊の声に耳を傾けながらそんなことを考えていた。

 ところがどっこい、遊びに来た訳ではない。

「世話になった。そろそろ行くよ」

 林琳は一口の大きさになった饅頭を放り込むと席を立つ。

「え、あ、そうだったね」

 落胆した様子の小菊だが、本来、彼等はこの家に遊びに来たのではない。思い出したのか同じように席を立つ。

「息子の墓はこの家にある? 余所者が立ち入ったんだ、一言挨拶ぐらいしないと。化けて出て来られたら困るし」

 首の後ろを摩りながら言う。

「ばっ……」

「よく耳にするだろ。想いが強ければ人の影は遺るんだ」

 ましてや一人息子となれば、母に対する思いは一層強いはずだ。

「それは、あの子が……まだこの世にいるってことなのかい?」

 信じられない、という風に口を震わせた。

 


 "人の影"

 過半数の宗派では、人の想いが強ければ、死後も影となって形を成すと公言している。実体を持つ者として現れることは報告されていないため、影と呼ばれるのが一般的だ。しかし、その影には故人の思いが宿り、時には周囲に影響を与えるとも言われている。



「ま、風の噂で聞いた話だけどな。それで、墓はあるのか?」

 理想的なのは肉体が火葬され、埋葬されている墓。しかし、淡々と述べる林琳に対し、小菊は視線を落とし、ただ一言「何もない」と消えそうな声で呟いた。

「挨拶する墓もないんだ。化けて出るなんて有り得ないよ」

「何もないのか」

「ない」

「待て待て。じゃあ何故、死んだと決めつけるんだ。生死さえわかっていないのに、死んだ事にするのか」

 林琳は心底理解が追いつかない顔で捲し立てた。

 どきりと心臓が跳ねた仁は居ても立っても居られず、小菊との間に割って入り遮る。その行動が機嫌を損ねたのか、冷たい視線を受ける。いつも受けていた絶対零度の視線ではない。それよりも口を震わせたままの小菊が心配だ。能天気な仁にも人と人には踏み込んではならない境界線があると知っている。特に、人の死は。何よりも踏み込んではならない壁だというのに、この男は呆気なく飛び越えるので、肝が冷える。

「林琳、言い過ぎ。一人息子を亡くしてまだ三年だぞ。傷も癒えていないのに」

「気になるからだ。墓も骨もない。死んだ姿も見てないんだろう? 普通、微かでも生きていることを望むだろ」

「林琳!」

 これ以上、この男が何か言う前に口を塞がねば、衝動的に手のひらで目の前の口を覆った。一瞬で穏やかな朝の景色が険悪な雰囲気に染まる。

「やめなさい」

 終止符を打ったのは小菊本人だった。仁の肩を掴むと、その手を降ろさせる。

「何人も行方不明なんだ。数十年、誰一人と戻って来ていない。——あの子もまた、この国の神に……選ばれたんだよ」

 まるで意図せずに飛び出たと言わんばかりの言葉は、林琳の最も嫌いな単語を含んでいた。意味深い言葉に眉を顰めるが、所詮この国も同じか、どこか遠い意識の先で納得する。

「神……? 国の長は知っているのか」

「さぁね。今の世代の長は中々人前には出てこないよ。確か……張・周郗。かれこれ百年は代替わりしていないね。巷では人ではないって噂さ。修行者だから歳を取らない、馬鹿げた噂もある。それでもこの国の政は動いているから、ちゃーんと生きているはずさ」

 聞きたいことは今のうちに聞いてくれと言わんばかりの態度だ。間違いなくこちらに非があるのに、怒ることもせずに、疲れた様子で椅子に腰かけた。

「そうか。長はどこにいる?」

「暫く河川に沿って上流に行くと、大きな屋敷がある。ご立派な門があるからすぐに分かるよ」

 淡々と返したが、林琳の問いかけを再度頭の中で繰り返していると、一つの可能性が過った。思わず「まさか会いに行くつもりかい︎」と切羽詰まって言う。興味本位だ、笑う林琳を叱りたい気持ちになるが、小菊はグッと耐えて「血の気が引いたよ! いいかい、絶対に、お屋敷に近付くんじゃないよ」と念を押す。

 林琳は心が弾むのを抑えられなかった。それは随分昔に戻った感覚で、耐えきれずに口元が弧を描く。怪奇が蔓延っている——白い花が漆黒に塗りつぶされる感覚を覚えたあの日。憎悪に近い愛が、再び林琳の思考を湧き立たせる。

 仁は顔が頬が引き攣って、嫌な予感が背筋を冷たく流れるのを感じた。

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