花は風に

Nani者

序章

 人の世は平等にはなり得ない。

 遥か昔に唱えたのは、この世界を収めていた——最初で最後となる神である。

 神と呼ばれていたが、姿は人間そのもので、四季を運び、人の世に関与して来ないソレに人々は慈しみを込めて主と呼んだ。いかんせんこの主、群を抜いての飽き性である。自然が牙を剥き、穀物が枯れ果て、国が滅びてもお構いなしにどこかで静観している。ソレが当たり前だと気にも留めない。つまり、戦が起きようと知らぬ顔である。そうして滅びた国は数多と知れず。人の世に関与しない、あくまでも主は人が生きる世界を創造しただけであり、滅びようがどうでもいいのだろう。人が知る由もない、戯れだ。

 広大な世界で唯一地上から伸びる巨大な塔。万が一塔が倒れればこの世界は滅ぶだろう、そう思える程の巨大な塔だ。人の手で作るにも無理がある。幾ら見上げようとも頂上が見えず、また、雲を突き抜けた先にある国に名は無い。地上で裁きを下さずに主に裁きを問う為に創られた法廷。


 今宵も人々は問う「何が善か悪か」

 主は溢す「等しいのは善と悪のみ」

 被告人は答える「この世に神など存在しない」と。

 

 瞬間、神は世界を飽きた玩具を捨てるように、人間と悍ましい怪奇を残して消えた。

 

 

 ◆ 



 時の止まった竹林に住む男、林琳は今日も迷い込んでくる魂を諭している。

「は? 不倫されたから自殺した? そんなのさっさと転生でもして、復讐してやればいい」

 彼は、未練を残して死んでしまった魂を転生へと促す役目を持つ、所謂「案内人」だ。この世とあの世の間に位置するこの領域では、夜も来なければ朝も訪れない。気候も変わらず、ただ穏やかな風が吹き続け、終わりの見えない竹林が延々と続いている。

 その中に、ひっそりと佇む小さな家。周囲を見渡すと、どこから湧き出ているのかも分からない小川がいくつか流れ、そこから生まれた小さな池が静かに広がっている。生き物は一切おらず、青々とした竹に囲まれた平和な景色だ。林琳がこの領域を初めて踏んでから、揺れ動く竹は形を変えず、風に遊ばれている。彼自身もまた、丸い頭に朱色の短い髪、大きく輝く夕焼けの瞳を持つまま、何も変わらない。睡眠も食事も必要なく、ここには口にできる食べ物すら存在しないのだ。

「お前、馬鹿なの?」

 出来ることは魂に触れ、輪廻に戻すこと。それでも魂に触れてわかる事はそれ程多くはない。魂の破損が大きければ、知ることも少ないからだ。

 林琳は、背より少し短く切り落とした竹を手に持ちながら、見慣れた竹林を歩く。その姿は探し物をしているようにも見え、また何かから逃げているようにも思える。傍から見ればただの散歩だが、形のいい眉を顰めているのを目にすれば、その認識は間違いであるとわかるだろう。

 では、一体何から逃げているのか。しばらく歩いていた林琳は、ぴたりと足を止めた。耳に届くのは己の声と、竹が擦れ合う音だけ。すると彼は手に持つ竹を器用に弄びながら、再び一直線に歩みを進めた。 

 人の俗世から離れた場所に訪れる人物好きなどいなかったのに。

「林琳ー?」

 竹は鋭く風を切る。しかし、残念ながらその手応えはない。視界に飛び込んできたのは、上機嫌に笑う男だった。

「この馬鹿! さっさと帰れ!」

 名を呼ばれた男は、林琳より少し背が高く、背中に流れる漆黒の髪。上機嫌に笑う口からは犬歯が覗く。犬だ。いや、姿形は人間ではある。それに尻尾も耳もない。だが、犬なのだ。どう見ても。

「なぁ、毎度毎度同じやり取りしてて飽きないか? 俺は飽きたぞ」

「よかったな、俺も同じ意見だよ」

 乾いた笑いが零れるが、声の持ち主は目が笑っていない。眉間に寄った皺を何度かほぐすと、竹で仁を小突く。

「いたい!」

「相も変わらず、軽い頭だな」

 律動により生み出される音はよく響いた。仁が大袈裟に叫ぶと、林琳は再度鋭く竹を振るうが、呆気なく躱されてしまう。

「避けるな。いい加減無理矢理にでも追い出してやる」

「竹が出す音じゃないよ、それ……絶対かち割れる」

 ちょっと止めてよ、小突かれている割に嬉しそうに笑う仁に呆れて手を止めた。

「ほら、行こう!」

「……手を握るな」

「今日は何をしようか?」

「……すり寄るな」

「林琳と一緒ならなんでもいいし」

「触れるな!」

「冷たいなぁ、もう」

 口を尖らせ文句を零してはいるが、流石に引き際を理解しているからか、仁は絡めた腕と繋いだ手を放す。腕を組み隙を見せない林琳はむっとしていて機嫌が悪そうだ。

 視界に移る朱色の髪が歩く度に揺れる。仁は彼の髪が好きだった。珍しいその色は目立つ事は勿論、柔らかく細い。まるで絹の様だと告げれば、逆鱗に触れるだろう。

 この場所へ来た頃は昔とは少し違う身なりに戸惑いはしたものの、彼の大事な部分は何も変わってはいないと知り安堵した。

「お前、いい加減にしないと本当に戻れなくなるぞ」

「それでもいいよ」

 何を今更、仁はくすりと笑った。影が落ちる。

「師兄と一緒なら、どこでもいいんだ」

「……師兄じゃない」

「林琳は俺の師兄だよ。それは天に昇っても、地に落ちても、何も変わらない」

「だからと言って、こんな場所まで来るな。さっさと帰れ」

「絶対に嫌!」

 ——愚かで馬鹿な子だ。

 己がなぜこの領域に入り込んだかすら忘れている。だからこそ、林琳は仁に触れたくはないのだ。

「俺はここでやることがあるし、お前に構ってはいられない。それに、あの人を心配させるな」

 小屋に向かって歩みを進めると、いつの間にか肩が触れる距離を保ちつつ、仁は傍を歩いていた。背丈が近いからか、楽しそうに笑う声も良く聞こえる。幾度も現れる仁に以前確認したことだが、現世とこの領域では時の流れに差異が発生しており、仁は夏の間だけ迷い込むことが出来るらしい。冬眠ならぬ、夏眠。お前は蝸牛か。

 正直なところ、現世が夏だろうと冬だろうと、林琳には関係のないことだ。仁の肉体は生きているものの、林琳の肉体はとうに朽ち果てた可能性が高い。今となっては確認の仕様がない故、何とも断言はできないが。

 時を刻む現世で過ごす仁と、時の止まった領域に住む林琳では、生命の勝手が違う。

 そんな中、一つの小屋が視界に入った。

「いいか、居座るなら手伝え。手伝わないなら……」

「分かってるって!」

 林琳は肺を空っぽにするほどの大きなため息をついた。このやり取りも数えきれない、まるで日課のような光景だ。日が昇って沈む、そんな当たり前の現象さえ、ここでは起こらない。だからか、林琳にとっては昨日のことのように思えてしまう。時間が止まる領域とは、人の世から離れた不気味な場所だ。

 建て付けの悪い引戸を強引に動かすと、木屑がパラパラと降ってきた。

「どうせ現世は夏だろう。死因としたら食中毒か、熱中症か……おい、ここ最近の戦はどうなってる?」

「国境の戦は落ち着いてる。確かに現世は夏だけど、不可思議な事が起きてるんだ。」

「は?」

「丁度、その話をしたかった」

 仁は林琳の手を握ると、静かに玄関の上がり框に座らせた。

 ——干乾びた肉体に、髪の抜けた頭。本来であれば眼球が埋まっている場所は、ぽっかりと空いている。

 ——人の言葉とは思えない音を発し、一見不気味な姿に身構えるが、決して人を襲う事はない。

 神妙な面持ちで言葉を零す仁に対し、林琳は指を顎に当て、仁が求めた反応から外れた様子で「うん、想像通りだね」と小さく頷く。

「奇妙な魂が増えてきた」

「奇妙?」

「一部の亀裂程度であれば、何もおかしくはない。怪奇の仕業だって片付けたらいいからね。ただ、破損が大きいんだ。彼方此方が欠けて、あれでは魂とは言えない」

 勿論、輪廻に戻ることもできない、そう呟いた。

 正真正銘未練を残した魂だとしても、何一つ汲み取ることのできない状態であれば意味がない。お手上げなのだ、完全に。奇妙な魂が徐々に増えてくるものの、仕事が増えるわけでもないし、別にいいかと目を瞑っていた。しかし、不可思議な類は林琳の得意分野でもある。そしてこの世で一番、彼の興味を引く類だ。この領域に来る前にはそういった類を二人で追っていたからこそ、仁はわざと知らせたのだろう。

 未だに考え込んでいる林琳を見て、仁はくすりと控えめに笑った。

「笑う要素あった?」

「うん? あぁ、林琳は変わらないなって」

 その言葉に、心の奥で何かがほころびそうになるが、同時に重い闇が胸を締め付けた。仁を見上げた大きな瞳は、一層夕焼け色に輝いたが、どこか儚げで無情な美しさがあった。

「昔もそうやって気が付いたら事件を追いかけてた」

 途端に顔をそむける林琳を、仁は覗き込む。翡翠の瞳と目が合った。

「気になるなら、一緒に行こう」

「は……?」

「だから、一緒に現世に行こうって事」

 その言葉に驚きと戸惑いが交錯する。

 開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだ。あまりにも馬鹿げた言葉に、林琳の思考は停止する。とんでもない言葉を耳にした気がするが、残念ながら紛れもない事実だ。

 腹が立つほどの笑みを浮かべている仁の端正な顔を、林琳はがしりと鷲掴みにし、苛立ちを隠せない。このやり取りも二人の間では珍しくないため、仁は相も変わらず笑っている。ふざけるな、その言葉は震えて音にならなかった。仁は林琳の手を優しく解き、上がり框に腰かけると再び告げる。

「現世で起こる不可思議な現象、破損ばかりで奇妙な魂。師兄はどう見てる?」

「お前と同じぐらいクソだなって思う」

「いやいや! 的外れな答えの上、凄く不満なんだけど!?」

「別に……、今に始まったことじゃないだろ。どこかの宗派が信仰の生贄にしたとか、そんな所だ。万が一怪奇が絡んでいたとしたら最悪だがな」



 世界から主が消えたあの日、塔と共に均衡は崩れ去った。戦は終わることなく、人々は血に染まった道を選んだ。「悪はあちらだ」と声高に叫びながら、血で血を洗い流す嘘くさい正義を吐き散らした。権力者たちはまるで壊れた傀儡を弄ぶかのように、民を武装させ、ろくに訓練も施さずに戦場へ送り込んだ。四季の穏やかな夢は遥か彼方に消え去り、かつて作物で豊かに栄えた国は今や荒地と化し、美しい桃源郷はすべて灰燼に帰した。それでも、一部の善良な民が立ち上がり、力を合わせて声を上げ、わずかに均衡を取り戻しつつあった。

 同じ志を持つ者たちが集まり、宗派を形成した。組織の中には「宗主」と呼ばれる者と、その弟子たちがいる。いずれも修行者であることが求められ、主が消えたこの世界に蔓延する怪奇に立ち向かうための戦士たちだ。彼らは「仕人」と呼ばれる存在となった。

 宗派という名の下に、この世には多様な信仰を持つ者たちが存在する。信仰の対象は自由で、動物や人、物などさまざまだが、それは所詮人間が作り出した一種の枝分かれに過ぎず、争いは絶え間ない。国境での戦いもその一例だ。限られた領土を巡る奪い合い、飢えた民による食物の強奪が繰り返され、均衡の崩壊と共に新たな火種が孕まれていた。

 


 何が神だ、何が……信仰だ。縋ったくせに、収まる事の知らない憎悪が生み出すものは醜い争いばかりだ。神を信仰する愚かな人間が犯す、ただの遊戯だ。心底くだらない。

「じゃあ疑いを持たれている宗派が片燕だとしたら?」

「あり得ない。あの人の管理下でそんなことできるはずがない。お前、ついに脳味噌が破損したのか。さっさと戻った方がいいぞ」

「俺たちは何一つ関わっちゃいない。それでも片燕はいつだって真っ先に矛先を向けられる。今回だってな!」

 隣で声を荒げる仁を尻目に林琳は静寂を保ち、何度目かわからないため息をついた。

「それでお前は俺にどうしろと? 俺は……もう部外者だぞ」

「部外者じゃないし。なあ、頼む。真相を暴くためにも林琳の力が必要なんだ」

「お前が暴きたいのは、本当にそれだけ?」

「……今のところは、それでいい」

 仁の言葉に一瞬の静寂が訪れた。林琳は、思考を巡らせながら、仁の瞳をじっと見つめた。その瞳の奥には、焦りと期待が入り混じっているのがわかる。

「やっぱり馬鹿だね。いつになっても嘘が下手」

 今まで一度も領域を出る話などしなかったのに。脳裏を過る記憶の中にいる仁は常に林琳を優先し、傍にいる事を決して譲らなかった。

 きょとんと首を傾げる仁の頭を軽く撫でると、小屋に一人残して林琳は小さな池へと向かった。徐に袖と裾を捲ると慣れた作業で靴を脱ぎ始める。何事かと後を付いてきた仁を置いて、そのまま池に足を踏み入れた。

 仁から把握できる情報は池自体に深さはあまりなく、一番深い場所でも林琳の膝下あたりといった所だ。

 林琳は池の中心へ進んで行くと、細い腕で水の中を漁る。コツン、と素足に触れたのは——ここで滅びた魂の欠片だ。うまく輪廻に戻れた者がいる中で、未練を果たす力もなく壊れた魂も存在する。それらの魂は小川を伝い、池に集まる。奇妙な魂も全てここに流れ着き、静かに息をひそめているからか、以前に比べて少し水面が上がった気がする。

 傷だらけの魂が声にならない叫びを上げ、儚く壊れる瞬間を何度も見てきた。穴の空いた器では水は掬えず、亀裂の入った魂はいずれ朽ちていく。いつでも祈りは届かないものだと、林琳はここに来るたびに思い知らされる。

 世界は今も昔も虚空だ。

「うわっ、なにこれ! 小石? あ、これが魂の欠片ってことか!」

 仁は両手で欠片を掬い上げた。

「……馬鹿、迂闊に触るなって」

 ——虚しさ以上にこの眩い光と過ごした日々が消えないのは何故だろう。


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