Ⅷ わかってほしい
「あ、瞳子ちゃん」
「綾乃ちゃん」
短い朝のデートを終えて、改札で航生くんと別れようとしていた綾乃ちゃんに、声をかけられた。
「邪魔なのが来た。じゃあな、綾乃」
わたしに対しては相変わらずの態度で、航生くんが反対側のホームへの階段を下りていく。
「ごめんね、瞳子ちゃん。行こうか」
「ううん、全然」
本当に、航生くんのことは、どうでもよかった。首を振って、わたしも綾乃ちゃんと歩き出す。
「航生くんと、うまくいってるみたいだね」
「うん。やっぱり、わたしには、航生くんかなって」
にっこり笑う、綾乃ちゃん。航生くんも、あんな心配する必要ないのに。
「まあ、正直に言うとね」
少し考えてから、綾乃ちゃんが話し出す。
「保科くんとか結城くんのこと、初めて見たときは、いいなって思っちゃったけど。結城くんだけじゃなくて、保科くんも本心ではバカにしてたわけじゃない? 同じ学校の子たちのこと」
「そこまでは、思わないけど……」
結城くんに好きだと言われたこと、やっぱり、綾乃ちゃんには打ち明けられない。頭ごなしに、からかわれているだけだと決めつけられてしまいそうだから。
「あのさ、似合うと思うよ、綾乃ちゃんと航生くん。中学校のとき、いちばん目立ってた二人だもん」
今は、結城くんと保科くんのことを考えるだけで、動揺してしまう。話題をそらそうと、必死だったんだけれど。
「そんなこと……あ、あれ」
電車を降りたところで、綾乃ちゃんが当の本人たちの後ろ姿を指差した。
入学式の日、あの二人を初めて見たときのことを思い出す。そうだった。やっぱり、こんなふうに自然と周りの視線を集めていて、わたしとは絶対に交わることのない人たちだと……と、そのとき
「…………!」
何気なく後ろを振り返った結城くんと、目が合った。昨日は頭が真っ白になって、返事どころか、まともな会話もできないまま別れてしまった、結城くんと。動揺して、目をそらすタイミングすらつかめず、結城くんをじっと見つめてしまう。
すると、あからさまに結城くんは顔を赤らめて、目を泳がせたあと、さっきより早足に歩き始めた。そのようすを隣で見ていた保科くんも、けげんそうな表情をしていて……。
「何? 今の」
さすがに、その不自然さに綾乃ちゃんも気づいたみたいだけれど。
「あ……どうしたんだろうね」
わたしは、こっちを見ていた保科くんの冷たい目が脳裏にこびりついて、しばらく離れなかった。
コンコンと、開いていた部室の扉を軽く叩く音。
「はい」
顔を上げたら、結城くんが立っていた。
「……いい? 入って」
「う、うん」
さっきまで、軽音部の練習している音が、聞こえていた。片付けを終えて、のぞいてくれたんだ。
「あのさ」
「あの……」
わたしと結城くんの声が、重なってしまった。
「あ……どう、ぞ」
空いている席に座るように手で示しつつ、続きを促す。どうしても、まともに結城くんの顔が見れない。
「ごめん。なんか」
向かいの椅子にかけながら、結城くんが口を開いた。
「言うつもりなかったのに、勢いで言っちゃって。困らせるだけだって、わかってたのに」
たしかに、わけがわからないし、どうしたらいいのかもわからなくて、困ってはいる。でも、ごめんだなんて、謝られるようなことじゃない。
「ううん。でも、何より、信じられなくて」
だいたい、結城くん本人も言っていた。
「わたしなんて、可愛くもないし、鈍いし、どこもいいところがないのに」
自分で挙げていって、情けなくなるけれど。
「あんなの、本心なわけないだろ?」
「え……?」
「いや、とにかく」
気恥ずかしそうに視線をそらしたあと、わたしとまっすぐに目を合わせる、結城くん。
「返事も何も聞いてないし。やっぱり、中途半端すぎるから。もう一度だけ、ちゃんと言っておこうと思って」
保科くんのことも頭から抜けて、結城くんの綺麗な瞳に吸い込まれそうになる。
「気づいたら、好きになってたんだ。瞳子のこと」
「わたしは……」
二回目でも、夢みたいな話だけれど。でも、きちんと伝えなくちゃ。
「結城くんのこと、そんなふうに考えたことなくて」
いつでも目で追って、考えてしまうのは、保科くんのことだから。
「瞳子の気持ちは、わかってる。でも、あいつは、日菜さんのことしか見てないし。だから……」
そこで、言葉を詰まらせて、顔を赤らめる結城くん。そんな結城くんに、わたしの心臓も高鳴ってしまう。
「だから、その……とりあえず、つき合うとかじゃなくても、ライブ以外で会う時間作ってもらえないかって」
ぐるぐる、頭が回るような感覚の中で。
「あ、あのね、結城くん!」
必要以上に、大きな声を出してしまった。
「そんなこと言ってもらえるなんて、嘘みたいで……すごく、うれしい、です。だけど……」
「だけど?」
不安げな瞳に、のぞき込まれた。
「そんなこと聞いちゃったら、できない。他の人が好きなのに、結城くんと会うなんて」
「そっか」
わたしの答えに、結城くんが、ふっと息をつく。
「ごめんなさい……」
今まで、告白なんて、一度もされたことがなかったから、思うように自分の気持ちを伝えられない。
「謝ることない。かえって、安心した」
「えっ?」
予想外の言葉に、ふせていた視線を上げた。
「多分、俺がいいと思ったのは、そういうところだから。うまく言えないけど」
「結城くん……」
経験したことのない思いで、胸がいっぱいになる。
「そのうち、ライブには来なよ。保科にも海老名さんにもムカついてるけど、そういうの抜きにさえすれば、いいバンドだし。気に入ってもらえたの、うれしかったから」
「わたしの方、こそ」
そう返すのが、精一杯だった。でも、結城くんに、わたしの気持ちを汲み取ってもらえた。
「そうだ。そういえば、保科が」
「あ、うん」
無条件に、どきりとする。
「瞳子は、S校の男とつき合ってるとか言ってたけど、それ……」
「違う……!」
考える間もなく、否定していた。
「つき合ってなんかない」
結城くんにまで、航生くんとつき合ってるなんていう嘘、どんな理由があっても信じられたくない。
「やっぱり。変だと思った」
「…………」
わたしが好きなのは、保科くんなのに。そんなふうに言いながらも、ほっとしたように笑った結城くんにドキドキする自分に、戸惑ってしまう。
「悪い。邪魔して」
「ううん」
必要以上に大きく首を振って、部室を出ていく結城くんの後ろ姿を見送る。こんなの、ドキドキするなっていう方が、無理だよね。いつまでも静まらない心臓の鼓動に、自分で自分に言い訳するしかなかった。
「野呂。おい、野呂」
「は……はい!」
翌日になっても、結城くんのことが頭から離れないで、授業にも集中できず、先生にも注意されてしまう始末。
「聞いてなかっただろう? 次の段落の訳、野呂の番だぞ」
「あ、えっと……」
体育祭の委員の一件以来、周りに助けを求められるような友達もいない。黒板に書いてある文字から、場所を特定するしかない。
「もういい。野呂には、放課後残って、今日のアンケートの集計やってもらうから」
「……はい。すみませんでした」
クラス担任の先生だったから、軽い気持ちで仕事を振ったんだろうけど、頼まれたのがわたしだっただけに、冷たい空気が教室を包む。
いつかは、こんな状況も変えられるのかな。
「じゃあ、これな。頼んだぞ」
「はい」
ホームルームが終わると早速渡された、アンケート用紙。うちのクラスの分だけだと思ったら、先生が英語を受け持っている、四クラス分も。
きっと、手伝ってくれる人の存在を見込んでのことなんだろうけれど、当然ながら、わたしに近づいてくる人がいるわけがない。むしろ、いつも以上に早く、教室が空になっていく。
それでも、わたし一人だって、夜まではかからないはず。とにかく、少しずつでも……と、紙の束を引き寄せようとしたとき、こっちを見ていた保科くんと目が合った。
あれから、何度声をかけようとしても、それすら許してもらえない雰囲気だったのに。わたしの顔を見たまま、数秒間何かを考えていたようすの保科くんが、自分の机にバッグを置いて、近づいてくる。
そんな保科くんの行動を横目で気にしつつ、残っていた数人も教室を出ていって、広い空間に保科くんとわたしだけ。一瞬、頭がパニックになったけれど。
そうだ。わたしが体育祭の看板が上手に描けなくて、一人で困り果てていたときのことを思い出した。
「あの……」
大丈夫。でも、ありがとう。それから……と、そんなふうに、保科くんに伝えたいことを心の中でまとめようと必死になっていたら。
「あの男と、つき合ってるんじゃなかったっけ?」
わたしに向けられた、冷ややかな笑顔。
「それ、は……」
さっきまでの自分の都合のいい想像が恥ずかしくて、消えてしまいたくなる。その話だったんだ。昨日、結城くんに、本当のことを言っちゃったから。
「なんで、よけいな嘘つくの? ふったあとも、結城をつなぎ止めておきたいわけ?」
責められている感じとも異なる、淡々とした口調と態度。
「そんな……違う」
でも、その話だけを結城くんに聞いたら、そういう誤解をされてしまうのも、もっとも。
「あれは、違うの」
どこから、話せばいいんだろう?
「本当は、つき合ってなんかなかったの。最初から」
いちばん伝えたいことが、先走ってしまう。
「だって、わたしは」
「結城はさ」
わたしの言葉を聞くのは、うんざりとでもいうように、保科くんは途中で言葉を挟んだ。
「ああ見えて、女慣れしてないし、素直で純粋なんだ」
「うん」
結城くんのいいところは、十分わかっていたつもりだけれど。
「野呂さんと正反対なんだよ」
「わたしと、反対……?」
すぐには、その意味が理解できなかった。
「考えれば、わかるんじゃない? 自分のしてきたこと。男がいるくせに、結城をもてあそんだり、海老名さんとまで。今も、そんな何もわからないような顔してるけど」
「そんなこと……」
保科くんの顔を見れなくなって、うつむいた。誤解なのに。全部、誤解なのに。だけど、海老名さんの件は、わたしにも落ち度があって……。
「とにかく、結城を傷つけるようなことしたら、軽蔑するから。それだけ」
「待って……!」
もう、わたしのことなんか、どうでもいい。
「何?」
無表情で振り向く、保科くん。謝らなきゃ。いつかのことだけは。
「あの、日菜さんの……」
そこまで言うと、保科くんの声色が変わった。
「やめてくれよ」
「謝ってすむことじゃないって、わかってる。でも、わたしのせいで、日菜さんが」
「その名前」
ぴしゃりと声を発した保科くんに、体が凍りついた。
「野呂さんの口から出るの、嫌なんだ」
「あ……」
今度は体中の力が抜けて、崩れ落ちそうな感覚になる。
「とりあえず、よかった。俺は、野呂さんに好かれてなかったみたいだから。ごめんね、邪魔して」
意識の外で、教室の扉が閉まる音を聞いた。悲しいとか、苦しいとか、そんな感情は沸き上がってこなかった。ただただ、自分が嫌で、どうしようもない。どうして、わたしはこんななんだろう? どうして、もっと……。
とにかく、頼まれた仕事を終わらせなければとペンを持った右手に、涙が落ちた。わたしは、人を好きになる資格すらないのかな。
好きな人を、あんなに怒らせて、傷つけて。最初から、わたしが保科くんを好きになったりしなければ、迷惑をかけずにすんだかもしれないのに。わたしが……。と、そのとき。
「いいよ、もう。おまえは、口出すなよ」
「…………?」
廊下の方から、結城くんの声が聞こえてきた気がする。何かあったのかと、頭のどこかで、ぼんやりと考えていたら。
「瞳子」
やっぱり、扉の前に立っていたのは、結城くん。泣いてるの、見られたくない。下を向いて、作業に集中しているふりをする。
「あ、これはね」
そうはいっても、用紙に書かれた記号が目に入ってこない。
「先生に頼まれて、アンケートの集計してるの」
「…………」
気まずい沈黙。
「えっと、結城くんのクラスでも配られた?」
祈るような気持ちで、会話につなげようとしたんだけれど。
「瞳子」
結城くんに名前を呼ばれただけで、止まりかけていた涙が溢れ出した。
「ごめ……」
こんなの、間違っている。結城くんの前で、泣いたりしちゃだめ。
「瞳子に当たってるんだよ、あいつ」
ふっと息を吐いてから、結城くんが口を開いた。
「日菜さんには、海老名さんしかいないとか考えてるから。自分だって、日菜さんのことが好きなくせに」
「わたし、本当に……」
一人でいい。世界中で、一人だけでいいから、わかっていてほしい。
「海老名さんとのことがあったときは、何が何だかわからなくて、ショックだったの。でも、そんなこと、誰にも言えなくて。海老名さんだって、いい人だし」
だから、家でも学校でも、普通にふるまうしかなかった。
「ごめん。昨日は、俺もよけいなこと言って」
バツが悪そうに謝る結城くんに、大きく首を振って、続ける。
「航生くんとも」
「それ、保科が校門の前で会ったっていう男?」
「そう。お願い、信じて」
ペンを握り締めながら、震える声を絞り出す。
「本当に、つき合ってなんかないの。航生くんとつき合ってるのは、綾乃ちゃんなの。それを広めないために……」
「いや。その男が誰とつき合っていようと、どうでもいいんだけど」
「あ……」
我を忘れて、見境なくなっていたかもしれない。結城くんが眉をひそめている。
「ごめんなさい。調子に乗って、変な話して」
むしがいいって、わかっている。でも、結城くんだけには、嫌われたくないの。
「だから、そうじゃなくて」
見上げると、顔をそむけて、結城くんが何やら考えている。
「あ、の……?」
「期待しちゃうんだけど」
やがて、片手で顔を隠すように押さえながら、ぼそりとつぶやいた、結城くん。
「期待する。そんな、必死に否定されると」
「あ……」
予想外の言葉に、固まってしまう。
「あのね、結城くん。その、さっきのは……」
「明日、会おう」
そういう結城くんも、すごく必死に見えた。
「とりあえず。だから、この先つき合うとか、そういうんじゃなくて」
「うん……」
気がついたら、泣きながら、何度もうなずいていた。保科くんにどう思われようと、断るなんていう選択肢の存在すら、今のわたしにはなかったから。
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