Ⅶ 思いあがりと不可抗力と
なんとか、無事に体育祭を終えて。
「これ、お願いします」
わたしは、例の立て看板を回収場所に運んだところだった。
「あ、あの……」
「どうかしました?」
「いえ……! すみません。お願いします」
保科くんが仕上げてくれた絵が処分されるのが名残惜しかったけれど、持って帰るわけにはいかないし、どうしようもない。
あれから、保科くんは目も合わせてくれなくなった。そんなの、当たり前。それだけのことを、わたしがしてしまったんだから。
「瞳子ちゃん、お疲れ様」
あれ以来、綾乃ちゃんは、わたしが落ち込んでることを気にしてくれているようで、前以上に優しくなった。
「うちのクラスの片付け、もう終わったの。瞳子ちゃん、何か困ってることない? 手伝うよ」
「ありがとう。こっちも、今終わったところ」
「そっか。今日も、一緒に帰ろ?」
「うん。帰る用意してくるね」
綾乃ちゃんを待たせないように、急いで教室に荷物を取りに戻ろうと、向きを変えたところで。
「あ、保科くん。お疲れ様」
綾乃ちゃんが、すれ違いざまに声をかけたのは、保科くん。
「お疲れ様」
やっぱり、わたしの方は見もしないで、綾乃ちゃんにも、あいさつは返したものの、微妙に突き放す態度。
「保科くんのことも忘れた方がいいよ。完全に、やつ当たりじゃない。最低」
「うん……」
そんなふうには、考えられない。でも、これ以上、保科くんに迷惑をかけないために、もう関わらないようにするしかないんだろうね。
「行ってくるね」
綾乃ちゃんに背を向けて、走り出した。せめて、謝りたいのに。きちんと、心から。
「どういうつもりだよ?」
「あ……びっくりした」
気を紛らわしたいのもあって、ここ最近は部室にいることが多い、わたし。気分転換に何か飲もうと自動販売機の前で迷っていたら、鉢合わせした結城くんに聞かれた。
「何があったか知らないけど、保科と気まずくなったとたん、急にライブ来るのやめるとか。結局、保科目当て?」
「それは、違う」
たしかに、ライブに行けなくなった原因は、保科くん。
「そういう気持ちは全くなかったといえば、嘘になるけど」
「あ?」
「でも、それだけじゃなかったよ」
ドキドキしたけれど、楽しかった。ライブの雰囲気も、ときどき交わす、結城くんとの会話も。
「……とにかく」
ふてくされたような表情で、結城くんが続ける。
「日菜さんも会いたがってたし」
「わたしに……?」
「そうだよ。おまえなんかに会いたい理由は、わからないけど。そんなわけだから、顔出せよ。たまにでいいから」
一方的に話して、結城くんが去っていく。
「あ、待って……!」
ふっと我に返って、結城くんを呼び止めた。
「何だよ?」
不機嫌そうに振り向く、結城くん。
「ありがとう」
口は悪いけれど、結城くんの存在には助けられている。
「……べつに。練習、戻るから」
「うん。練習、頑張ってね」
わたしも部室に戻ると、イロイッカイズツの曲の曲が聞こえてきた。
もう一度、ライブに行って、日菜さんにだけでも謝ろう。やっぱり、逃げたままでいるのは
「はい。こちら、ドリンクチケットです」
「ありがとうございます」
結城くんにも何も伝えずに、その日のライブに出かけた。まだ来ていないのか、席を外しているのか、いつもの物販のテーブルに、日菜さんの姿はない。受付の人に聞いてみたら、今日のイロイッカイズツの出番は、最後だという。
やっぱり、イロイッカイズツの演奏が始まるまで、外で待っていよう。頭の中をかき乱す音の波から逃げるように、薄暗い階段を上がろうとすると。
「…………?」
途中、座り込んで壁にもたれかかっている人がいる。
「ここ、危ないですよ」
どうやら、酔いつぶれているみたいだけれど、場所が場所だけに、階段の下に転がり落ちたりしたら、怪我をしてしまう。
「ん……」
「海老名さん?」
体勢を変えた瞬間、目の前の顔を確認して、びっくりした。
「大丈夫ですか?」
出番もこれからなのに、改めて心配になる。
「そうだ。わたし、ミネラルウォーター持ってるんです。口つけてないんで、よかったら」
海老名さんの前にしゃがんで、バッグの中を探っていると。
「思い出した。いつかの、可愛い女子高生」
「はい?」
意味不明な言葉と同時に、腕をつかまれた。そして、戸惑う間もなく、反対の手で頭を引き寄せられ。
「…………!」
気がついたら、わたしの唇に、海老名さんの唇が触れていた。
「や……やめてください」
我を忘れて、思いきり海老名さんの体を突き放すと、すぐに解放された。それでも、突然の出来事に体が震えて、足がすくんでしまう。
「海老名さんが帰ってこない?」
「そう。もうすぐ本番だっていうのに、あの人は……」
結城くんと保科くんの話し声が近づいてきて、とっさに階段を駆け上がった。
「や……」
通りに出て、信号機の前で立ち止まったところで、とめどなく涙が溢れてきた。何が何だかわからなくて、怖くて。数分前にあったこと、全部夢だったと思いたくて。
翌朝。
「いただきます」
おばさんが丁寧にいれてくれた紅茶に、口をつける。
昨日、自分の部屋に戻ってから、一晩泣いた。それで、どうにか、普通でいるふりができるくらいには、心が回復した。わたしが本や映画で泣いて、目を
すごく、ショックだった。でも、わたしには、ああいうことがあって、怒ったり悲しんだりする、特別な相手がいるわけでもないから……と、そんなふうに、自分で自分に言い聞かせて。
「あ。もう、こんな時間」
綾乃ちゃんが時計を見上げた。
「瞳子ちゃんも、もう出る?」
「うん」
ばたばたと準備をして、わたしも靴を履く。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
おばさんの元気な声と笑顔に送り出されて、綾乃ちゃんと玄関を出ると。
「よ」
すぐそこに、ひさしぶりに見る、航生くんの姿。
「航生くん。迎えに来てくれたの?」
「たまにはな。なんだ、ノロ子もいるのか。ひどい顔」
声を上げた綾乃ちゃんに満足そうに応えたあと、いつものバカにした視線を、航生くんがわたしに送る。
こんなときに、航生くんと顔を合わせなくてもいいのに。もう、すっかり慣れてしまったけれど。と、そのとき。
「やだ。わたし、今日提出するプリント、机の上に忘れてきちゃった。ごめん、航生くん、瞳子ちゃん。待っててくれる?」
運悪く、わたしを置いて、綾乃ちゃんが家の中に戻ってしまった。特に航生くんと話すこともないから、下を向いていると。
「おい」
航生くんが、すごむような声を出した。
「何?」
その態度に嫌悪感を覚えながら、顔を上げる。
「この前の男、綾乃をつけ回したりしてないか?」
「この前?」
「校門の前で会った、あの男だよ」
保科くんのことだ。
「そんなことないよ。綾乃ちゃんのこと、信用してあげて」
そんなふうに疑われるのは綾乃ちゃんも嫌だと思うし、保科くんにも失礼。
「綾乃のことは、信用してるけど」
「…………!」
いきなり、わたしの肩が家の塀に押しつけられた。
「どう……」
恐怖を感じて、航生くんの顔を凝視する。
「綾乃が、他の男に
さらに
「そのときは、おまえのことも、ただじゃおかないからな」
今、わたしは、そんなことを考える余裕はない。だいたい、綾乃ちゃんが航生くん以外の人とどうにかなるなんて、想像もつかないし。
それでも、こんな航生くんの言葉と行動をバカバカしいと思いつつ、言い知れない不安で胸がざわざわするのを感じた。
「ごめんね。お待たせ」
ちょうど、航生くんがわたしを解放したタイミングで、綾乃ちゃんが戻ってくると。
「いや。行こう」
とたんに、何もなかったように、航生くんは綾乃ちゃんと歩き出す。
「瞳子ちゃん?どうしたの?」
「ううん……ごめん」
気持ちを切り替えて、二人のあとについていくしかなかった。
無性に、みじめな気持ちになる。一人でいいの。わたしは悪くないと、誰かに言ってほしい。
「これで、ホームルームは終わり。また明日」
ぼんやりと先生の声を聞きながら、帰りの支度をする。
今になってみると、昨日の海老名さんとの一件は、現実じゃなかったみたい。このまま、わたしの記憶の中から消えてくれればいいのに。そうすれば……と、そこで。
「結城」
結城くんを呼ぶ保科くんの声に、耳が反応した。教室の前に、結城くんが来てるんだ。そういえば、あのあとすぐに、海老名さんを見つけたはずの二人。まさか、何があったかなんて、知られていないよね?
「野呂さん」
「え……?」
気がつくと、わたしの席の前に、保科くんが立っていた。
「えっと、何……?」
全然、心の準備ができていなかった。だって、ずっと目も合わせてもらえなくて……。
「結城が呼んでる」
「あ……はい」
当然ながら、変わることのない、わたしへの嫌悪の表情。それだけ伝えると、一秒でもわたしと同じ空気を吸いたくないようすで、保科くんは先に教室を出ていく。
相変わらず、わたしはバカみたいだ。知られてても、知られていなくても、関係ない。ただ、今まで以上に、よけいなことをする人間だと思われるだけ。
「ライブの話?」
それでも、なるべく、結城くんには普通の態度で接したい。かろうじて、笑顔を作る。
「今日、空いてる? これから」
「これからって、今?」
突然の質問に、面食らったけれど。
「そう、今。予定がないなら、ついてきてほしいんだけど」
「…………?」
文芸部の活動日でもなかったから、言われるがままに結城くんと学校を出ることになった。
「何があるの?」
ライブ以外で、わたしに用なんて。
「俺も用件はわからない。昨日の帰り際、日菜さんに頼まれただけだから。おまえと話したいから、連れてきてくれないかって」
「えっ?」
それは、この前の……。
「約束してるの、ここなんだけど」
駅前のカフェに入って、別々に注文した飲み物を受け取った。
こんな場までセッティングさせて、日菜さんには申し訳なかったけど、これでこの前の失言を謝ることができる。でも、どんなふうに謝ったら、保科くんにこれ以上迷惑がかからないか、考えをめぐらせていたら。
「瞳子ちゃん……!」
奥の席に座っていた、日菜さんが立ち上がった。
「日菜さん、わたし……」
とにかく、謝罪だけは先にしておこうと口を開きかけたとき、日菜さんの向かいに座っていた人も、こっちに顔を向けた。
「あ……」
その人が誰なのか、なぜ呼ばれたのかを理解して、息をのむ。
「びっくりした。海老名さんまで。どうしたんですか?」
海老名さんが同席することを結城くんも知らなかったみたいで、驚きながらも、うれしそうに反応しているんだけれど。
「来てくれて、ありがとう。とにかく、座って? あ、でも、結城くんは……」
そんな結城くんを少し困ったように見る、日菜さん。わたしを気遣ってのことだと、すぐにわかった。
「わたしなら、大丈夫……です」
「大丈夫って、何のことだよ?」
さすがに、わたしの口から、結城くんに説明できる余裕まではない。黙って、日菜さんの隣の席に座った瞬間。
「ごめんなさい。反省してます」
斜め向かいの海老名さんが、わたしに向かって、テーブルに額がつくほど、深々と頭を下げたから。
「そ……そんな、やめてください!」
海老名さんを遮るように、立ち上がった。
「本当、大丈夫です。嘘じゃないです」
そんなことをされてしまったら、どうしたらいいか、わからない。
「本当に?」
わたしの言葉に安心したのか、うかがうように顔を上げた、海老名さんに。
「本当なわけ、ないでしょ?」
本気で、怒りを感じているようすの日菜さん。
「一回謝っただけで、すむ問題じゃない。それだけのことを、海老名くんはしたんだよ?」
「だって、酔ってて、正気じゃなかったんだもん」
「瞳子ちゃんの前で、そんな言い方しないで」
「あ、あの……」
どうしても気になってしまう。
「どうして、日菜さんは知ってるんですか?」
「泣きながら、瞳子ちゃんが店の外に出てくるのが見えたの」
日菜さんまで泣きそうになりながら、話し出す。
「そのあと、中に入ろうと思ったら、階段で海老名くんが酔いつぶれてて……それで、海老名くんに問いただしたの。わたしのときと、全く状況が同じだったから」
「日菜さんのときと、同じ?」
「また、よけいなことを」
嫌な顔をする、海老名さん。と、そこで。
「すみません。話が、全然見えないんですけど」
やり取りを黙って聞いていた結城くんが、しびれを切らしたように、口を挟んだ。
「えーと……海老名さん、何かしたんですか? この女に」
「うん。なんか、キスしちゃって」
「海老名くん……!」
日菜さんが、声を上げた横で。
「…………」
わたしの向かいの結城くんは、放心状態。
「ごめんなさい、瞳子ちゃん。なんだか、かえって……」
「いいえ」
小さく首を振った。
「いいんです。こんなわたしのこと、気にかけてもらえて、うれしかったです」
それは、本心。
「つき合ってる人もいませんし、誰も嫌な思いしないから」
そう。初めてのキスは好きな人とするものだとか、そんなことを考えること自体、わたしには無意味かもしれない。
「……まさか、初めてとかじゃないよね?」
「いいかげんにして、海老名くん」
おそるおそる、わたしに答えを求めた海老名さんに、とうとう日菜さんが切れてしまった。
「あの……わざわざ、ありがとうございました! 本当に」
ちょうど、注文したカフェラテも空になったところ。立ち上がって、日菜さんと海老名さんに頭を下げる。
「落ち着いたら、ライブにもまた行かせてもらいたいと思ってます」
保科くんのことがあるから、いつになるかはわからないけれど。
「ごめん。本当に」
最後に、もう一度わたしをまっすぐに見て、謝ってくれた海老名さん。
「もう、気にしないでください」
何ていうか、憎めない人だと思う。でも、こういう人で救われた反面、誰も責められなくなって、気持ちの行き場を失ったことがつらいのも事実。
日菜さんだけは、わたしのそんな思いを見透かしているようで、複雑そうな表情のまま、店の外で別れることになった。
「じゃあ、瞳子ちゃん、結城くん。ここで」
「本当に、ありがとうございました。気をつけて」
あいさつを交わして、日菜さんと海老名さんを見送ろうとしたんだけれど。
「日菜さん……!」
やっぱり、触れないわけにはいかない。日菜さんの背中を追いかけて、名前を呼んだ。
「何? 瞳子ちゃん」
優しい控えめな笑顔で、日菜さんが振り向く。
「あの……この前のことです。保科くんの……」
そんな日菜さんを前に、上手に言葉を選べずにいると。
「保科くん……あ、いつかの? そうだ。びっくりしちゃった、あのときは」
日菜さんが、無邪気に笑い出した。予想外の反応。
「瞳子ちゃんに、あんなふうに思われてたなんて。さすがに、保科くんがかわいそうだよ。あのあと、保科くんも笑ってたよ? こんなおばさん、冗談じゃないって」
あれが本当のこととは夢にも思わず、くすくす笑う、日菜さん。わたしは、何てことをしたんだろう? 保科くんの真剣な想いを、自らの口で冗談にさせてしまった。
「面会時間、過ぎちゃうよ」
他の予定もあったようで、海老名さんが日菜さんを促した。
「そうだね。じゃあ、瞳子ちゃん……また会えたら、うれしいな」
「……はい」
ぼんやりとした頭で返事だけして、二人の後ろ姿をながめていると。
「海老名さんも、何考えてるんだろう?」
やがて、いらいらしたようすで、結城くんが口を開いた。
「どうして、よりによって、こんな女にキスなんか」
「え……?」
自分の耳を疑う。
「海老名さんなら、いい女がいくらでもいるだろうに」
「なんで? なんで、そこまで言われなきゃいけないの? 好きでキスされたわけじゃないのに」
ただ、海老名さんが心配だったから、ミネラルウォーターを渡そうとしただけで。
「どうだか」
「ひどいよ」
わたしになら、何を言ってもいいとでも思ってるの?
「わたしだって、傷つくよ。今までだって、平気なふりをしてただけで、ずっと我慢して……」
「ムカつくんだよ。おまえの全部が」
聞く耳を持とうともしないで、信じられない暴言まで口にする、結城くん。
「わたしに、どうしろっていうの?」
わかるのなら、教えてほしい。
「わたしだって……」
誰にも迷惑をかけず、誰からも好かれるような人間になれるなら、なりたいと思っている。
「とにかく、ムカつくんだよ。嫌なんだよ」
「何が?」
さっきから、理不尽すぎる。
「具体的に言ってもらわないと、わからない」
機嫌が最高潮に悪くなった結城くんに、わたしも意地になる。
「海老名さんに、キスなんかされてんなよ」
「だから、それは……」
さっきも説明しようとしたのに。
「保科のことも」
そこで、急に変わった話題に、どきりとする。
「保科くんのこと……?」
「そうだよ」
結城くんが、外していた視線をわたしに戻した。
「いつだって、保科のことしか考えてないだろ? 保科ばっかり見てないで、少しは……」
「少しは、何?」
「少しは、俺のことも見ろよ」
「…………?」
あっけに取られた。
「今のは、どういう……」
理解に苦しんで説明を求めようとしたんだけれど、結城くんは口を押さえて、顔を赤らめてる。
「結城くん?」
「俺だって、わからないんだよ」
しばらくの間のあと、やけになった口調で話し出す、結城くん。
「特に可愛いわけでもないし、どんくさいし、いいところが何も見当たらないのに」
「そ……」
また、勝手に、ひどいことを並べて。
「それでも、好きなんだ。瞳子のことが」
「え……?」
結城くんが、わたしを好き?
「何とか言えよ。バカみたいに、口開けてないで」
「えっと……」
信じるとか信じられないとか、そういう以前の問題で、恥ずかしそうに目をふせる結城くんを前にして、わたしは何も考えることすらできなかった。
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