Ⅵ どうにもならない  



 ———— 綺麗な人、だったなあ。


 次の日の、休み時間。昨日、綾乃ちゃんにおみやげにもらった、わたし好みの可愛いキーチェーンをながめながら、思いをめぐらせていた。


 やっぱり、保科くんのことが好きなんだと再認識して。でも、思いがけず保科くんの好きな人を知ってしまったことで、とっくにわかっていた自分との距離を、さらに思い知らされたというか……。


 教室の時計を見上げると、次の授業が始まる5分前。たしか、次は物理室への移動。教科書やノートを準備して、一人で教室を出ると。


「そういえば、昨日の打ち上げのとき。結城が帰ったあと、海老名さんがさ」


 廊下で、保科くんと結城くんが話をしていた。どうしても、会話が耳に入ってきてしまう。


「…………」


 結城くんに、ちらりと見られた。周りの人に気づかれない程度に、会釈しようとしたら。


「物販に、おとなしそうな、すごく可愛い女子高生が来てたとか言ってて。本当、あの人は……」


「きゃ……!」


 保科くんが話していたのは、わたしのことであるはずがない。それなのに動揺して、ペンケースを床に落としてしまった。


 保科くんの前で、これやっちゃうの、二度目。あわてて拾い上げたところで、結城くんとまた目が合った。


“バーカ”


 明らかに、わたしに向けて、そう口を動かしてる!


「バカじゃな……」


「海老名さんは完璧だけど、女の趣味は悪そうだから」


「え? そう? むしろ、反対じゃない?」


 反論しかけたけれど、保科くんとの楽しそうな会話が再開していたから、口をつぐんだ。そして、保科くんの目を避けるように、歩き出す。


 話題にするつもりもないと言っていた、あの言葉どおり、わたしがライブに行ったことを保科くんに黙ってくれているみたいなのは、ありがたい。でも、わたしと保科くんは、これからもずっと、こんな関係でしかいられないのかな。





「あ」


 部室で新しい課題の構想を練っていたら、今日も結城くんたちが練習している音が聞こえてきた。今は、多分違うアーティストの曲。いつも休憩を入れているっぽい時間を見計らって、部室を出ると。


「ああ、瞳子」


 ちょうど、結城くんも、こっちに歩いてくるところだった。本当に、名前で呼んでくれた。


「今日は、イロイッカイズツの曲じゃないの?」


「そう。ベースのやつが選んだ曲。本物聴かれて、やりにくくなっちゃったし」


「えっ? あ」


 ふてくされた表情で自動販売機の方へ歩き出す、結城くんのあとを追う。


「そりゃあ、本物の方がいいって、昨日言っちゃったけど。でも、正直な意見の方が、結城くんもよろこぶかなと思って。結城くん、海老名さんのことが好きでたまらないみたいだし……あ、おごらせてね。送ってもらったお礼に」


 自動販売機の前で追いついて、100円玉を入れた。


「……これのどこが、可愛い女子高生だよ?」


「な、何?」


「何でもない。じゃあ、遠慮なく」


 ミネラルウォーターのボタンを押すと、その場でキャップを開けて飲み始める、結城くん。手持ちぶさたになって、わたしも買ったアイスティーに口をつけたんだけれど。


「そういえば、ちょっと前は、保科とわりと普通に話してなかったっけ?」


「……うん」


 不意な質問に、現実に引き戻されたような気持ちになった。


「なんか、いろいろ……わたしも、よくわからなくなっちゃって」


 確かなことは、何もはっきりしないまま。


「でもね、わたしがライブに行きたいと思うのは、純粋にイロイッカイズツの演奏を聴きたいからだよ」


 そこは、変なふうに考えられたくない。


「それは、わかってる。なんとなく」


 半分くらい飲んだところで、結城くんがキャップを閉めた。


「とりあえず、行くんだろ? 来週のライブも」


「そのつもり」


 大きく、うなずいた。今となっては、結城くんの存在が心強くなっているのが不思議。


「ところで、まだ書いてんの? あの恥ずかしいポエム」


「だから、あれは、課題だったんだもん……!今は、短編小説に取りかかってるの」


「ふうん。それなら、読んでみたいかも。じゃーね」


「……うん」


 ひらひらと手を振った結城くんに返事だけして、部室の扉を開ける。保科くんとも、あんなふうに話せたときがあったんだよね。やっぱり、一度ちゃんと話してみたい。保科くんのわたしへの気持ちは、関係なく。





 数週間後。


「はあ……」


 ジャージ姿のわたしは、教室で一人ため息をついていた。手には、水性ペンキの刷毛はけ。そして、目の前の床には、体育祭のクラスの立て看板。目を覆いたくなるような、悲惨な状態だった。


 図案どおりに輪郭を描いて色を塗っていったはずなのに、こんな奇特な絵になってしまったのは、どうしてなんだろう? せめて、少しでも見映えがよくなるよう、努力しなくちゃ。今度は細めの筆に持ち替えて、すき間を丁寧に埋めていく。


 結局、同じ委員の前川さんは、最後まで口をきいてくれなかった。単に、わたしの人望がないのか、前川さんに気を遣っているのか、手伝ってくれる女の子は見つからなくて。


 男の子たちにいたっては、無関心すぎて、立て看板を用意しなければいけないことすら、わかっていないと思う……と、そこで手を止めて、保科くんの席をながめる。


 あれから、イロイッカイズツのライブには、二回行った。学校でもライブハウスの中でも、保科くんには声をかけられないまま。そのとき、短い会話を交わしている保科くんと日菜さんを、遠目に見た。


 きっと、年上の日菜さんを意識して、少し背伸びしつつ、大人びた優しい目で日菜さんを見つめる保科くんに、わたしまでドキドキさせられた。本来なら、そんな場面を目の当たりにしたら、ショックを受けるものかもしれないけれど。


 ……本当に、日菜さんが好きなんだなあって。ただ、そう思った。約束どおり、わたしのためにCDの取り置きをしてくれて、二度目のライブのときに声までかけてくれた日菜さんは、本当に素敵で魅力的な人。


 心から、保科くんを応援してあげたいと思う。それでも、どうしても、ぬぐいきれない寂しい気持ちが消え去ってくれない。


「それ、モグラ?」


「え……?」


 背後からかけられた声に、びくりとして振り返ると、思いもかけなかった保科くんの姿が、そこにあった。


「違う……! 鳥なの」


「鳥? めちゃくちゃ、シュール」


 笑って、わたしの隣にしゃがみ込んだ、保科くん。気づかれないように、あわてて指で涙をぬぐう。


「貸して。迷惑じゃなかったら」


「う、うん」


 差し出された保科くんの右手に筆を受け渡すと、図案を見ながら、保科くんは絵を器用に修正していった。


「ごめんなさい……」


 わたしの仕事なのに。


「もとは、俺がやらなきゃいけなかったことじゃん。こういうの、わりと得意だし」


 みるみるうちに、ちゃんと格好のついた看板になっていく。それを見守りながら、また涙が出そうになった。


「わからない人だね、野呂さんって」


 わたしの方をちらりと見てから、再び自分の手元に視線を戻して、保科くんが続ける。


「最初、綾乃ちゃんの男だと思ったんだよね」


「航生くんのこと?」


「ああ、そういう名前だったっけ。そう、野呂さんがつき合ってる」


「そのことなんだけど、本当はね」


 誤解を否定するなら、今しか……。


「野呂さん、男に人気あったらしいじゃん。野呂さんの友達の好きな男はみんな、野呂さんを好きになったって」


「そ……」


 そんなわけない。でも、そこまで話がめちゃくちゃになっちゃうと、どこから、どう訂正していいのか、頭が回らなくて。


「要領悪そうに見えて、どれだけ小悪魔なんだよって」


 微妙な空気で笑う保科くんを前に、わたしは何も返せない。


「でも」


 保科くんが、笑うのをやめた。


「やっぱり、野呂さんは生きていくのが下手な人のようにしか、俺には……」


 と、そのとき。


「瞳子ちゃん!」


 教室の扉の前から、心配そうな綾乃ちゃんの声が響いた。


「立て看板の絵、一人で描いてたの? 大丈夫?」


「あ、うん。保科くんが、手伝ってくれたから」


 ちょこっと手を加えてもらっただけなのに、誰に見られても、これなら恥ずかしくない。


「じゃあ、あとは片付けだね。わたしも手伝うよ」


 綾乃ちゃんも教室に入って、広げてあった新聞紙をたたみ始めてくれる。そのようすを見て、安心したように、保科くんが立ち上がった。


「よかった。じゃあ、俺は事務室に道具返してきて、そのまま帰るから」


「本当に、ありがとう」


 ペンキや刷毛をまとめる保科くんに、頭を下げる。


「いや。もっと早くに気づいてればよかった。ごめん。やっぱり、違うクラスの綾乃ちゃんに手伝ってもらうのは、難しかったよね」


「…………?」


 今の保科くんの言葉。もしかして、わたしのクラスでの立場を察して、わたしを気にかけてもらえるよう、綾乃ちゃんに頼んでくれていたの……?


「じゃあね、野呂さん。綾乃ちゃんも、ありがとう」


「ううん」


 小さく首を振る、綾乃ちゃん。わたしは胸が詰まって、保科くんの後ろ姿を見送ることしかできなかった。


 確信した。わたしを陰で笑っていたという保科くんの話は、きっと悪意のある噂。保科くんは誰に対しても、調子のいい態度なんて取っていない。何より、日菜さんという大切で好きな人の存在も、保科くんにはあるんだから。


「お腹空いちゃったね。急いで帰ろ?」


「うん」


 一度きちんと話をすれば、絶対にわかってもらえる。きっと、綾乃ちゃんも……。 





 ライブ当日の今日は、授業の終了を告げるチャイムが鳴るたびに、心臓がドクンと音を立てるようだった。今日こそ、伝えるの。ライブが終わったあとに、ちゃんと。


 入学してすぐ、保科くんといろいろな話ができて、うれしかったこと。保科くんの悪い噂を信じて、わたしが航生くんとつき合ってるという話をしっかり否定できなかったこと。


 そして、以前みたいに、友達として、これからも普通に接してほしいって。放課後、そんなことを考えながら、C組の教室を通り過ぎようとしたとき。


「瞳子」


 中から、結城くんに呼ばれた。わたしが立ち止まると、いつものけだるそうな調子で、廊下に出てくる結城くん。


「結城くん。何か、今日のこと?」


「うん。そう」


 多分、いろいろと推測されたり、ひやかされたりするのがおっくうで、普段は放課後の部室の前くらいでしか話しかけられないから、びっくりした。


「えっと、どうしたの?」


 人目を気にしながら、用件を聞いてみる。


「今日、行けない。なんか、熱あるっぽいから。一応、言っとこうと思って」


「えっ? 大丈夫?」


 予想外の答えに我を忘れて、結城くんの顔をのぞき込んでしまった。


「な……」


「本当だ。顔も赤いみたい。わたし、熱にも効く鎮痛剤なら、持ってるよ。もし、よかったら」


「いい。いらない」


 そこで、怒り口調で顔までそむける、結城くん。


「いきなり、顔近づけるなよ」


「あ……ごめんなさい」


 つい、調子に乗っちゃった。あわてて、一歩後ろに下がる。


「べつに」


 なんだか、気まずい雰囲気。


「わざわざ、ありがとう。じゃあ、お大事にね」


 周りの目もあるし、先に歩き出そうとしたら。


「俺の分まで、しっかり観てきて。海老名さん」


 決まり悪そうに、そんなことを言うから。


「わかった。どんな曲やったか、ちゃんと報告するね。気をつけて」


「ん」


 熱があるは気の毒だけれど、結城くんの海老名さんへの愛の強さがおかしくて、さっきまでの緊張が緩んだ。これなら、落ち着いた気持ちで……なんて、思ったものの。





 いざ、ライブハウスの前まで来てみると、足がすくんでしまう。ライブが終わったら、どうやって保科くんを呼び出そう? そのあと、どんなふうに、保科くんに話そう?


「こんばんは」


「え……あ、こんばんは」


 階段の前で、声をかけてくれたのは、日菜さんだった。


「入りにくい? もし、よかったら、一緒に入る?」


「は、はい。ありがとうございます」


 恥ずかしそうに誘ってくれた日菜さんに、わたしもついていく。


「結城くんも、あとから来るの?」


「いえ。今日は、熱を出しちゃったって」


「そうだったの? 大変」


「はい。残念そうでした。海老名さん、観れなくて」


「海老名くんも寂しがると思う。早く治るといいね」


 優しい、優しい、日菜さんの笑顔。


 変なの。わたしが、どんなに保科くんを好きになってもどうにもならないって、わかってるはずなのに、日菜さんが綺麗なだけじゃなくて、本当に優しい素敵な人だとわかればわかるほど、胸が苦しくなる。


 そこで、ふっと疑問がわいた。今まで、あまりに自然で気にしたことがなかったけれど、日菜さんと海老名さんって、実際のところ、どんな関係なんだろう?


「あの、日菜さん」


「ん?」


「日菜さんも、何か楽器ができたりするんですか?」


 迷ったものの、海老名さんとのことは、さすがに質問できなかった。


「ううん、全然。音楽とかバンドのことは、よくわからないの。ただ、イロイッカイズツの曲が大好きで……あ、海老名くんとは、高校も大学も同じでね。ライブのときだけ、物販の手伝いをしてるの」


「そう、だったんですか」


 高校のときからの同級生、か。


「そうだ。瞳子ちゃん、結城くんの友達っていうことは、保科くんのことも知ってるの?」


「はい。保科くんは……」


 実は、同じクラスなんです。そう答えようとしたとき、通路の奥の方から、聞き覚えのあるギターのフレーズ。


「大変。演奏、始まっちゃった。せっかく聴きにきてもらったのに、話し込んじゃって、ごめんなさい。行かなきゃね」


「そんな……はい」


 申し訳なさそうに先を急ぐ日菜さんに、わたしも続く。ステージの上で演奏されているのは、結城くんが歌っていた、イロイッカイズツを知るきっかけになった曲だった。


 もちろん、海老名さんの声も、歌っている姿も魅力的なんだけれど、どうしても保科くんの方に視線が行ってしまう。時折、日菜さんのいる物販カウンターの方向をさりげなく気にする、保科くんに。


 ……わかってくれる。絶対、わかってくれる。あんなに素敵な日菜さんを好きな、保科くんだから。


 わたしの大好きな、この曲も勇気を与えてくれた。最後の曲が終わると同時に、店の外に出る。一度、大きく外の空気を吸い込んで、バッグから携帯を取り出した。


 入学したばかりの頃に教えてもらった、保科くんのアドレスと番号。まずは、メールで来ていることを知らせて、それから……。


「瞳子ちゃん」


「え……?」


 緊張して、震える手で文字を打っていたら、ここにいるはずのない女の子の声。


「保科くんに会いにきてたんだね」


「なんで……?」


 今日は家にいると思っていた、綾乃ちゃん。


「わたしも、池袋で友達と約束してたの。そうしたら、瞳子ちゃんが見えて……なんだか、ようすがいつもと違った気がして、心配になっちゃって」


 そこまで言うと、綾乃ちゃんは寂しそうに笑った。


「まさか、保科くんがいるなんてね。それならそうと、教えてくれればよかったのに。保科くんと、そういう関係なんだって」


「違うよ、綾乃ちゃん」


 わたしが、一方的に行動しているだけなのに。


「保科くん、瞳子ちゃんのことが本当に好きだったんだね。こんなところにまで呼ばれるくらいだし。わたし、バカみたいだったね、ごめん」


「そうじゃないよ。だって、保科くんは」


 とにかく、間違いを正したかった。


「入り口の近くでCDを売ってた、髪の長い綺麗な人、いたでしょ? 保科くんが好きなのは、あの人だもん。あの日菜さんが、保科くんの好きな人だから……」


 と、そこで。


「瞳子ちゃん」


 顔を強張らせた綾乃ちゃんに、遮られた。


「どうしたの……?」


 わたしが問いかけても、下を向いたままの綾乃ちゃん。


「綾乃ちゃん?」


 ただならぬ空気を感じて、後ろを振り返ってみると。


「あ……」


 無言で、わたしたちを見ている、保科くん。その隣には、日菜さんもいた。何がどうなっているのか、自分がどんな状況に置かれているのか、何も考えられない。


「わたし……先にコンビニに行ってるね、保科くん。瞳子ちゃん、またね。ありがとう」


 日菜さんが弱った表情で、小走りに去っていく。


「保科く……」


 見たこともない、冷たい目。


「わたし……」


 ごめんなさい。ごめんなさい。こんなことになるなんて、思ってもいなかったの。わたしは、ただ……。


「何なんだよ」


 静かに発せられた、保科くんの言葉。


「いったい、何がしたいんだよ?」


 全身に感じる、保科くんの怒りと軽蔑の感情。謝りたいのに、それすらできない。


「瞳子ちゃん……帰ろ?」


 それきり、何も言わずに保科くんがいなくなって、綾乃ちゃんに促されても、しばらくの間、わたしはその場に立ちつくすことしかできなかった。



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