Ⅴ 新しい一歩



「何? それ。イロ……」


 お風呂あがりの綾乃ちゃんに、リビングで見ていたPCをのぞき込まれる。


「うん。イロイッカイズツ」


 夕食後、結城くんに教えてもらった名前を言われたとおりに検索してみたら、昔のゲームの説明に紛れて、バンドのサイトらしきものを見つけた。


「瞳子ちゃん、知ってるバンドなの?」


「最近、ちょっと」


 なんとなく、結城くんの話を出すのはためらわれて、ごまかすように簡単に答えた。


「あ」


 サイト自体は、メンバーの顔写真も載っていない地味なものだけど、何曲か試聴もできるようになっているんだ。我慢できずに、いちばん上の音源を再生してみた。


「ふうん。瞳子ちゃん、こういうのが好きなんだ?」


「うん……好き、かな」


 特に興味のなさそうな綾乃ちゃんにも悪いし、あとでじっくり聴きたくもあり、一度音楽を止めて、PCを閉じる。


「瞳子ちゃんも、お茶飲む? 冷たいの」


「ありがとう」


 麦茶の注がれたグラスを受け取って、一息つく。


「今日は、部活のある日だったんだっけ?」


「そう。課題のポエムに手こずってて、大変なの」


「瞳子ちゃんなら、大丈夫だよ」


 いつものように優しく笑ってくれる、綾乃ちゃん。


「綾乃ちゃんは、航生くんとどこかに寄ってきたの?」


「うん」


「そっか。買い物とか?」


 隣に座った綾乃ちゃんに、何の気なしに聞いてみると。


「んー……」


 微妙な表情で、はぐらかしている感じ。


「もしかして、けんかでもしちゃった?」


 何があっても、航生くんは自分の意見を通したがりそうだし。


「そうじゃなくて。ここでは、ちょっと……あ、大丈夫か」


 やっぱり、何か訳がありそうなようす。どこか別の部屋にいる、おじさんとおばさんの気配を気にしてる。


「どうしたの? 何か心配なこととか、問題が……」


「違うよ」


 おかそうに、綾乃ちゃんが笑った。


「絶対、誰にも言わないでくれる?」


「うん。約束するよ」


 わたしがはっきり言いきると安心したようで、綾乃ちゃんがしゃべり出した。


「航生くんに、誘われたの」


「どこに行ってきたの?」


 さっきも、同じ質問をした気がするけれど。


「それは、だから……」


 顔を赤らめて、言葉を濁す綾乃ちゃん。まさか。ある想像が、頭に浮かんだ。


「多分、瞳子ちゃんの考えてるとおり」


 わたしの心を見越して、綾乃ちゃんが続ける。


「ホテル、行ってきたの。航生くんと。断れなくて」


「あ、そ……」


 普通に、言葉を返せない。


「そこまで想ってもらえてるんなら、いいかなって。いつかは、あることだし」


「そ……そっか」


 理屈では、わかっている。でも、今はまだ、そんなことは想像もできなくて。


「ごめんね。なんか、びっくりしちゃって」


「それほど、びっくりするようなことでもないんじゃないかな」


 全く、いつもの綾乃ちゃん。わたしの方は、必死で気持ちを落ち着かせようとしているんだけど、動揺が止まらない。


「う、うん」


 どうにか、返事をすると。


「ほら、保科くんとか」


「えっ?」


 無条件に、どきりとする、その名前。


「噂で聞いたんだけど、一人暮らしなんだって。きっと、関係に持った女の子、何人もいるよね」


「どう……なんだろう?」


 一人で住んでいる話は前に教えてもらったけど、そういうことと結びつけては考えたことがなかった。


 でも、あれだけ目立って、女の子に人気がある人。遊んでいるとは思わないけど、彼女を部屋に呼んだりとかは、ない方がおかしい。そうしたら、自然な流れで……。


「保科くんのこと、よかったね。深みにはまる前で」


「あ……うん」


 綾乃ちゃんの言葉で、我に返った。


「なんか、調子いい人っぽいじゃない? 瞳子ちゃんには手のひらを返したような態度なのに、わたしには普通に声かけてきたりするんだよ」


「それは……」


 わたしの対応のしかたにも、問題があったと思うから。


「瞳子ちゃんは、人がいいからなあ。気をつけてね、本当……あ、航生くんからだ。じゃあね、瞳子ちゃん。おやすみなさい」


「おやすみなさい」


 携帯の着信音と同時に、バタバタと自分の部屋に戻っていく、綾乃ちゃん。無性に、あの曲が聴きたくなった。今度はヘッドフォンも用意して、準備を整えた。


「あれ……?」


 さっきのページを出して、クリックしても反応しない。代わりに、機能をアップデートしないと再生できないという表示。この手の操作は苦手だから、おじさんにお願いしたいけど、もう寝ているかもしれないし……。


 あきらめて、他の情報のページを開いてみると。


「明日?」


 明日の夜、イロイッカイズツというバンドのライブが、池袋のライブハウスであることがわかった。料金の見方はよくわからないけど、2000円か2500円のどちらかっぽい。手持ちのお小遣いでも、十分に足りる額だけど……。





「あ」


「……ああ」


 翌朝、いつものように航生くんと待ち合わせる綾乃ちゃんとは別に学校に向かうと、昇降口で結城くんに遭遇。


「あの……昨日は、ありがとう」


 いつものとおり、とっつきにくい雰囲気。一応、お礼だけは伝えて、通り過ぎようとすると。


「曲、聴いた?」


「えっ?」


 質問されるなんて、予想外だったから、とっさに聞き返してしまった。


「だから、イロイッカイズツの」


 わたしのどんくさい反応に、いらついているようす。


「それが……」


 そんな結城くんに萎縮しながら、答える。


「途中で、PCの調子が悪くなっちゃって。一曲目の歌が始まる前までしか、聴けなかったの」


「ふうん」


 明らかに、チェックしなかったのをごまかしているように思われたのがわかる、微妙な口調。


「本当だもん。調べたから、今日ライブがあることとかも知ってるし。さすがに、行く勇気はないけど」


 結城くん相手に、ムキになってしまった。


「行く勇気? 何? それ」


「だって」


 けげんそうな表情で首をひねる、結城くんに反論する。


「そんなところ、行ったことないし。だいたい、わたしなんかがいたら、場違いに決まって……」


「予約しておいてやるよ」


「へっ?」


 結城くんの言葉に、思わず変な声を上げてしまった。


「あんたの名前は? あ、いいや。入るときに、俺の名前伝えて。ユウキミドリって」


「だから、その……」


 気がすんだように、さっさと歩き出す、結城くん。早速、iPhoneを取り出して、何やら操作してる。


「待ってってば……きゃっ!」


 追いかけようとしたんだけれど、段差でつまずいて、置いていかれてしまった。これって、もう行かないわけにはいかないっていうこと?





「ここ……?」


 プリントアウトした地図を頼りに、探し当てた場所。


 一応、道路に看板らしきものは出ているものの、怪しげとしか思えない、一昔前の雑居ビルという雰囲気の建物。チケットを取ってくれたのが結城くんじゃなかったら、絶対引き返してた。


 外から見た印象以上に狭くて、薄暗い階段を進んでいくと、想像していた感じに近い黒い扉に突き当たった。怖い気もするだけど、この際……。


「あれ?」


 何回引いても、開く気配がない。


「ん……!」


 もう一度、ありったけの力を込めて、ドアノブを両手で引っ張ろうとすると。


「そのドア、引くんじゃなくて、押すんだよ」


「…………!」


 後ろに、結城くんが立っていた。


「どんくさいな、本当」


「そんなの」


 初めての場所なんだから、勝手がわからなくても、しょうがないよ。そう言い返そうとして、結城くんを見上げたんだけど。


「何だよ?」


「ううん」


 恥ずかしくなって、目をそらしてしまった。


「開けろよ、早く。後ろもつかえてる」


「そうだ、ごめんなさい……!」


 私服姿の結城くんに、気持ちを奪われている場合じゃない。ドアを前に押すと、そこには馴じみのない異空間が広がっていた。


「チケットの取り置きをお願いした、ユウキですけど」


「ああ、ユウキくん。今日は2枚ね」


 結城くんの、スタッフの人との慣れた調子のやり取りを横で聞きながら、辺りをぐるりと見回してみる。


 受付のすぐ横に、ドリンクのカウンター。前方には、思っていたよりも低い位置にあるステージ。


 ライブハウスという場所柄、薄暗いんだけど、店自体の雰囲気に不健全さは感じられない。見るからに音楽の好きそうな、おしゃれな人たちが、あちこちで楽しそうに談笑している。


 そんな中でも、グリーンのマウンテンパーカーを緩く着こなしている結城くんの姿は、自然と目立って……。


「2000円」


「あ、はい」


 お金と引き換えに、ドリンクチケットと書いてある小さなカードを、結城くんから受け取った。


 結城くんは、ジンジャーエールを注文してる。わたしもスタッフの人にメニューを見せてもらって、ずらりと並んだ英語の文字に目をチカチカさせながら、飲み物を選ぶ。


 せっかくだから、見慣れないものを頼んでみようかな。きっと、最初で最後だし。


「じゃあ、この……カシスソーダをお願いします」


「おい」


「えっ?」


 スタッフの人にオーダーした瞬間、わたしに反応した結城くんに、びっくりする。チケット代の支払いが終わった時点で、わたしには無視を決め込むものと思ってたから。


「えっと、何?」


「酒だって、わかってる? それ」


 斜め上から、結城くんのあきれた視線。


「ええっ?」


 思わず、大きな声を上げてしまった。


「全然、わかってなかった。ありがとう。そしたら、んーと……カシスオレンジっていうのにします」


「それもだよ。わざとか?」


「そ、そうなの?」


 すっかり、気が動転している。


「本当に、すみません。やっぱり、ジンジャーエールにしてください」


 頭が回らなくて、結城くんと同じものしか、思いつかない。


「はい、どうぞ」


「ありがとうございます」


 冷えたジンジャーエールの瓶を渡してくれたスタッフの人にお礼を言って、居場所を探すと、ぽっかりとスペースが空いているのは、結城くんの隣だけ。迷惑をかけないように、離れているつもりだったんだけれど、この状況なら、しかたがないよね。


 顔をしかめられたことに気がつかないふりをして、前方のステージの方に目をやる。背伸びをすれば、人と人のすき間から、どうにかようすがわかる。すでに、何人かのメンバーが、座ったり、後ろを向いたりしながら、楽器の準備をしている。


 だんだん、ドキドキしてきた。顔も知らない、本当の声や演奏にも触れたことのない、そんなバンドのライブ。それなのに、いくつかのことが重なって、ここにいるわたし。


 隣の結城くんが、ちらりと自分の腕時計を見た。どうやら、開演時間を過ぎたよう。きっと、演奏が始まるまで、もうすぐ……と、不意に、会場内で流れていた音楽が、大きくなったと思ったら、今度は消えていった。


 今のが、始まりの合図だったらしい。ステージのある前方がわずかに明るく照らされて、聞き覚えのあるギターだけのイントロが、静かに響き出す。


「あ……!」


 うれしくなって、声を上げてしまった。まずいと思って、隣の結城くんを見たんだけれど、背の高い結城くんは、ステージの中央の方だけを真剣に見つめていた。


 結城くんは、このイロイッカイズツというバンドが、本当に好きなんだ。関係のない、わたしのチケットまで取ってくれた理由が、すぐに理解できた。


 ギターだけのシンプルなフレーズに、まずドラムの音が重なった時点で、鳥肌が立つような感覚に陥った。やがて、ベースも加わって、曲のメロディーが浮き上がる。つかみどころのない、でも、なぜか心に入り込んでくる音。


 そして、中性的で繊細な声から、ほんの少し伝わる不器用さが、さらに魅力をふくらませて、わたしがかれた歌詞に信憑性しんぴょうせいを与える。


 もう、隣に結城くんがいることも、頭から抜けていた。優しい、特別な言葉が入っているわけじゃないのに。なんだか、自分を包み込んでもらえた気持ちになって、涙がこぼれた。


 ステージにいる人たちを確認したくて、夢中で背伸びをする。中央でギターを弾きながら歌っているのは、声のイメージどおりの雰囲気がある人。系統が結城くんに似ていると思うのは、結城くんの方が、あの男の人に憧れているからなんだろうな。


 ドラムの人も、右隣のギターの人も、ボーカルの人と同じく、大学生っぽい。あと、もう一人、ボーカルの左側にも……。


「え……?」


 目を疑った。


 ブルーのオックスフォードシャツと、紺のカーディガンをさらりと着こなした、黒髪の長身の男の子。そうだ。ベースを弾いてるって、言ってた。もともとは、結城くんの方が入れ込んでたバンドだって。


「保科くん……」


「ああ。同じクラスだったっけ、あいつと」


 ちょうど、一曲目が終わったタイミングで、わたしの漏らした声に、隣の結城くんが反応した。


「……うん」


 二曲目が始まる。


 背伸びするのをやめて、目を閉じた。次の曲も、不思議な曲だった。初めて聴くのに、なぜかしっくりくる、心地よい疾走感。押しつけがましくなく、甘くて、切なくて。


 どうしよう? これだけのことで、涙が止まらない。だって、保科くんの言葉を思い出したの。


『いつか、聴きにきてほしいな。野呂さんには』


 たしかに、そう言ってくれた。


『気に入ってもらえそうな気がする』


 そんなふうにも。


 ……やっぱり、わたしは、保科くんが好きなんだ。綾乃ちゃんに、あんなことを聞かされても。たとえ、嫌われていても。


 他の人の目に、どんなにバカみたいに映ろうと、保科くんという人のことを、わたしは信じたい。ただ、誰かを想う気持ちは、自由なはずだから。





「今日は、ありがとう」


 まだ、他のバンドの演奏は続くみたいだけれど、あまり遅くなるのは怖いのと、保科くんに見つかってしまうのも心配で、イロイッカイズツの演奏終了と同時に店を出ようと、一応結城くんに声をかけた。


「あ……ごめんね、なんだか」


 いぶかしげな、結城くんの視線を感じた。イロイッカイズツの演奏中、ずっと泣きじゃくっていたようなものだから、無理もない。


「そうだ。できたら、保科くんには、わたしが来たことは……」


「べつに、話題にするつもりない」


「そう、だよね」


 即答した結城くんに安心しつつ、出口を目指そうとしたら。


「あ」


 ふと、隅の方に設置されていた、長テーブルの上のCDに目が行った。


「もしかして、イロイッカイズツのCDも売ってるの?」


 あるなら、絶対に、ほしい。


「多分、あると思うけど」


「ありがと」


 相変わらず素っ気ない、結城くんにお礼を言って、はやる気持ちで物販コーナーに向かうと。


「500円のおつりです。ありがとうございます」


 ちょうど、一枚売れたところだったようで、イロイッカイズツの関係者っぽい女の人が、丁寧に頭を下げていた。


「あの……」


「はい」


 女の人と、目が合った。


「あ、えっと」


 息をのむほど、綺麗な人だった。暗がりでもわかる、透けるような白い肌に、大きな瞳。日本人離れした、ふわふわとした長い髪が、これほどまでに似合う人はいないと思う。


「今の……イロイッカイズツのCD、買えますか?」


 緊張して、声が震えてしまったから、聞き取りにくかったみたい。わたしの背の低さに合わせて、少しかがんで耳を寄せられたんだけれど、その動作がすごく自然で優しいものに感じられた。


「ごめんなさい。ちょっと、待っててくださいね。えっと……」


 テーブルの上に出していた分が全部売れてしまったようで、誰かを探して聞こうと焦っている姿も可愛らしくて、思わず見惚れていると。


「あ、海老名えびなくん」


 女の人が、助かったという表情で、こっちに近づいてきた人の名前を呼んだ。


「ん? 何?」


「…………!」


 わたしの隣に来た、男の人。さっきまで、あのステージで歌ってた、イロイッカイズツのボーカルの人だよね? 海老名さんっていうんだ。


「CD、ここにあったの以外に、どこかにないかな」


「え? もしかして、全部売れたの?」


「そうなの。この女の子も、ほしいって言ってくれて」


「そっか、ごめん。今日は、まさかの在庫切れで」


「い、いえ」


 まさか、わたしにまで話しかけられるなんて。突然のことに緊張して、声が上ずった。


「本当に、ごめんなさい。よかったら、次のライブのときに、一枚必ず取っておくんで」


「何? それ。絶対来いって、脅迫してるみたい」


 からかうように笑う、海老名さん。


「違う……! そんなつもりじゃなかったの。ただ、申し訳なくて」


 女の人は、恥ずかしそうに、あわてている。わたしより年上に違いないし、見た目も大人っぽいのに、なんて可愛らしい人なんだろう。


「まあ、いいや。一応、これが次回のライブ。CDは、この人が責任持って確保しとくって」


「あ……ありがとうございます」


 海老名さんからフライヤーを受け取って、例の狭い階段を上り、外に出た。まだ、心臓がドキドキしたまま。


 いっぺんに、いろいろなことがありすぎて、何が何だかわからない。初めての場所で結城くんに会って、そして、予想すらしなかった保科くんがいて、海老名さんとまで……と、そこで。


「おい」


 後ろから、わたしを呼ぶ声。


「えっ?」


 立っていた結城くんに普通に驚いて、あわてふためく。


「もしかして、さっき渡したお金、足りなかった?」


 そういう失敗は、いつものことだから。


「そうじゃない。帰るなら、送ってく」


「送るって、何を?」


「……おまえをだよ。あぶなっかしいから。駅まで」


「大丈夫だよ」


 そんな面倒そうなのに、迷惑かけられない。


「こう見えて、方向感覚はあるんだよ。駅、あっちでしょ?」


「逆」


 あきれた表情で、わたしが指した先と反対の方向に歩き出した、結城くんの後を追う。


「あの……次のバンドとか、見なくてもいいの?」


「ああ。どうせ、好きなバンドじゃないし」


「そう……?」


 たしかに、慣れない夜の繁華街を一人で歩くのは勇気が必要だったから、結城くんに送ってもらえるのは、心強いけれど。


「何だよ?」


「や、ううん」


 そうか。わたしも興味を持ったとったとはいえ、半ば結城くんに強引に誘われたかたちだったし、何かあったらったらいけないと、責任を感じてくれているのかもしれない。


「全然、よかっただろ? 本物の方が」


「うーんと……そう、だね」


 本人を前に答えにくくはあるけれど、そこは正直に。


「ちゃっかり、海老名さんとかともしゃべってたし」


「なんか、成り行きで。緊張しちゃった」


 思い出して、息をつくと。


「ふん」


 あからさまに、わたしに対抗意識を燃やす、結城くん。笑いそうになってしまったのを、ぐっとこらえた。


「まあ、優しいからな。海老名さんも、日菜ひなさんも」


「日菜さんっていうんだ? あの人」


 名前の響きも可愛くて、ぴったり。


「そういえば……最初は、結城くんが保科くんを誘ったの? イロイッカイズツのライブ」


 抜け駆けしたみたいになって、結城くんがすねてるとか、保科くんが言っていたっけ。短く、数少ない、わたしと保科くんとの時間の中で。


「そうだよ。そうしたら、いつのまにか海老名さんに気に入られて、メンバーにまでなってるし」


 ふてくされた調子で、結城くんが答える。


「そう、なんだ」


 やっぱり、笑ったら、怒られちゃうよね。よっぽど、イロイッカイズツというか、海老名さんのことが好きなんだろうな。わたしのことは、同志のように思われているのかも。


「だいたい、動機が不純なのが気に入らない」


「動機?」


 結城くんを微笑ましく思いつつ、何の気なしに聞き返した。


「あいつが死ぬ気でベース練習して、イロイッカイズツに入ったの、あの人のためだもん」


「あの人って?」


「日菜さん。よく、物販の手伝いに来てくれるから」


「…………」


 一瞬、何も考えられなくなった。


「あそこで日菜さんに会って、すぐ本気で好きになって。それで、ライブに通い出したんだよ、あいつ。女のことで、バンドを利用するなと思うんだけど」


「あ……でも!」


「え?」


 結城くんが、わたしを見る。


「だからって、保科くんが真面目にやってないとか、イロイッカイズツの音楽を本当は好きじゃないとか、そういうことはないと思うよ」


 部外者のわたしじゃあ、説得力はないかもしれないけれど。


「知ったような口きいて」


「だって……」


 きっと、体育祭の実行委員が決まったとき、困ったように見えたのは、ライブの練習がしたかったからだろうし。何より、わたしにもライブに来てほしいと言ってくれたときの表情からも、バンドへの愛情が伝わってきた。


 そこで、バツが悪そうに。


「……まあ、わかってるんだけど。俺も」


 そんなふうに、ぼそりと漏らした結城くんと、保科くんの信頼関係も伝わってくる。


「また、店には戻るんだよね? ありがとう、本当に」


 気がついたら、改札の前だった。お礼を言って、ホームに向かおうとしたら。


「次のライブは、どうすんの?」


 結城くんに呼び止められた。


「そうだ。えっと……」


 実際のところ、保科くんのことや日菜さんのことで、頭を整理しきれていなくて。でも、今日買えなかったCDのこともあるし。


「行きたい、な」


 気が引けつつも、そう返事すると。


「なら、予約しとく」


「あ……じゃあ、お願いします。ありがとう」


 またもや、予定が確定してしまった。


「あと」


 少し間を置いて、結城くんが口を開いた。


「名前、聞いてなかった。次からは、別に予約入れようと思うから」


「名前は、野呂……です」


 なんとなく、語尾が小さくなる。


「ノロ?」


「うん。野原の『野』に、語呂とかお風呂の『呂』で」


「ふうん。そのまんま」


「それ……よく、言われる」


 昔から、あまり好きになれなかった名字だけれど、最近は航生くんにからかわれたり、保科くんに呼ばれたときの響きが冷たく感じられたり、なおさらだった。


「……名字じゃなくて、名前は?」


「ん? あ……」


 予想をしていなかった質問をされて、顔を上げた。


「瞳子」


「トウは、どんな字?」


ひとみっていう字」


 全然、わたしの印象に合わない、綺麗な名前。お母さんとお父さんがつけてくれた、大好きで大切な名前だけれど。


「へえ。もっと、ぴったり。目がぐりぐりで」


「ええっ? ぐりぐり?」


 なんか、微妙な……。


「瞳子ね。覚えた。俺のことは、絶対に緑って呼ぶなよ。嫌いなんだ、昔から。女みたいって、しつこくからかわれて」


「うん……わかった」


 そういうことか。それで、わたしの気持ちもわかってくれたんだ。


「じゃあ」


「うん。また……」


 結城くんの後ろ姿を見ながら、考えた。これから、わたしは、どうなっていくんだろう?


 とりあえずは、自分の思うままに、行動してみたい。こんな気持ちになったのは、初めてだから。



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