第4話
第1話のシナリオ
〈春になると 皆 浮足立って
「芸能人の誰似の人が異動してきた」だとか
「誰々が辞めた」だとか、
「近くに新しいお店ができた」…とか〉
まだ眠そうにキッチンにフェードインする灯。
見るからに天真爛漫そうな管理人のおばちゃんが『灯ちゃんの新しいお隣さんねぇ——!』と大きな声で話しかけてきた件を思い出している。
灯「(おとなり、さん…)」
水を汲んだコップを手にしたまま、キッチンからベランダへと続くドアの方へ顔を向けた。
〈誰かが“越してくる”だとか——…噂しだす〉
ベランダに出る灯。
途端に何かを目にし、全身の毛が弥立つ。
再び回想。回想の中のおばちゃんは溌剌と『亡くなった旦那の若い頃にそっくりなのよ!!もうクリソツ!キャハー!』と興奮した様子だが灯は違った。
灯「(え…管理人さんの旦那さんってもしかして、人間じゃな…)」
そこで灯越しに視線の先が映る。お隣さんとの隔り、仕切りの役割を意味する壁には大きな穴が開いていた。
壁は、派手に崩壊していたのだ。
◾️場面転換(707と記された表札の前)
呼び出しボタンを押す灯。指先は微かに震えている。
一度目は反応なし。勢い任せに二度目のチャイムを鳴らすと間も無く反応の音が聞こえた。
花吹「はい」
灯「708号室の宇乃と申します」
花吹「…っあ、どうぞ中に」
慌てた様子でブツ、と声は途切れた。
中に? 入れということ? と一応初対面の男性を警戒するもドアだけ開けてみることにした。
覗く玄関から先には点々と段ボール箱が転がっている。
花吹「い、ま行きます」
光の漏れる洗面所から、タオルを頭に被せた長身の男が飛び出してきた。
花吹「すみませんこんな格好で」
上半身は淡い雲色のトレーナーを腕捲り、下半身は黒いジャージ姿の男性。タオルの下の柔らかな髪は濡れていて、水滴が輝っていた。
管理人さんの旦那さんを疑ってしまうような顔立ちの青年。
灯「いえ私もこんな格好なので」
灯もパーカーの裾を捲りながら頷く。と、ぱあっと表情が綻び、笑顔になった。
管理人さんが堕ちたのはこの表情だろうな、と灯。
花吹「ごめんなさい。ご挨拶、僕の方から行——…っと」
灯「!」
花吹「す、すみません」
目と鼻の先で盛大に段ボール箱に躓いた彼と急激に距離が縮まった。
腕が灯の顔横のドアにつかれ、呼吸が止まる。
頭上の彼の髪から滴る水滴が落ちてきた。シャンプーの香りが漂う。
灯「つめた」
花吹「立、て続けにご迷惑を」
落ち着いた声で身体を離した彼を見上げると、その表情は朱く色付いている。
花吹「雫が」
朱いままの頬を隠すように灯の頬に触れた水滴を拭う花吹。
警戒心をも飛び越えて純粋そうなお隣さん。
花吹「そういえば、何か、僕に」
灯「壁…の件について…」
花吹「かべ——」
盛大に“きょとん”顔を晒す花吹。数秒の間の後「ア……!?」と目を丸くして後ろによろけ、次の瞬間には目の前から姿を消し、探すと、足元で土下座していた。
ドン引く灯。今すぐにでも走り去りたくなってきたが、
灯「何があったんですか?」
花吹「! …昨日の…夜、ガーデニングやっていて」
だから大穴の向こう、土が散乱していたのね…空き巣じゃなくて良かった…と納得しながら花吹の背後に視線が行く。
そこにも、散乱する段ボール箱たち。目が合った。
灯「(荷解きはどうした?)」
花吹「立ち上がった時にさっきみたいに花瓶に躓いてしまって…こう、ドーンと」
灯「直接手を?」
夜で暗くて足元の花瓶が見えなかったのかもしれないなとは思いつつ、人の手で壁って穴開くもの…? やはり人間じゃな
花吹「そこにあった物置の棚に手をついて、それが倒れて」
ですよね。と安心する灯。確かにベランダ間の仕切りは非常時避難できるように突き破れる素材で造られていると説明を受けた気がする。
花吹「本当に、越してきて早々、誠に申し訳ございません」
灯「いえ、理由も理由なので…顔、上げてください——あ、じゃあとりあえず、管理人さんに」
踵を返そうとすると、彼の肩が小さく跳ねるのを見た。
花吹「カンリニンサン」
灯「はい、壁を直してもらわないと」
花吹「…そ、そう、ですよね…」
〈あ。
昨日越してきたばかりで問題起こしたじゃあ居づらくなっちゃうか〉
灯はドアノブに掛けていた腕を下ろし、代わりに口を開く。
灯「…やっぱり、言うのやめます。心配しないで」
その声を聞いてやっと顔を上げた青年は驚いた後戸惑いがちに安堵の表情を、でも、申し訳なさそうにふわりと微笑んだ。
花吹「…ご挨拶、遅れてしまいましたが改めて 707号室に越してきた花吹太郎です。
よかったら、何かあればいつでも言ってください。虫が出たとか雷が怖いとか…泥棒は、ないかもしれませんが」
指折り数え始める青年に自然と笑みが溢れる。
花吹「お隣さんですから」
◾️場面転換(商品企画部オフィス・灯のデスク前)
おはようございますを交わしながらやってくる灯。軽く折り畳んだスプリングコートを背凭れに掛け、早速パソコンを起動させていると背後から声が飛んできた。
櫻井「あかちゃん、15分後会議ね」
上司の櫻井はさらりと恥ずかしげもなくいつからか付けられたおかしな徒名で灯を呼ぶ。
灯「あれ、予定してましたっけ」
河合「4月になったし新人紹介でも?」
灯の斜め向かいの席の河合まどかが会話に加わった。
河合「私たちが入社・配属されてから一年ですかー…早いですね、宇乃さん」
うん——と当時の緊張を思い出してつつ相槌を打っている間に別の上司が櫻井さんに声を掛けたらしい。少し早めだが促され、スタンバイ状態のノートパソコンを半分閉じて席を立った。
◾️場面転換(会議室)
厳めしい顔付きの上司に、ゴマを擦ることもまだ知らないような若々しい社員が「うっす」と頷いた。
上司の特に気にしていない様子が何だか仔猫相手の大型犬のようで微笑ましい。
河合「早速新人ですか…続くといいですがねェ…」
河合はブラックな横顔を見せている。
関「今年度から皆さんと一緒に働かせてもらいます、関っす!!」
キーン、と。カラオケ映えしそうな声量が配布資料に目を通していた上司らを一斉に自分の方へ向かせた。
関「まだ配属決定ではないっぽいし会社デカいし まー一期一会だとは思いますが!宜しくお願いしぁす!」
恐らく事前に挨拶を促していたであろう隣の大型犬上司でさえびっくり、驚いている。
関「はいっじゃードーゾドーゾ」
緊張どころかキラキラと輝く彼は上司に進行権を渡した。
近くの上司が笑いながら「この会社の採用担当は本当毎年良い人選をするよ」と言ったことで会議室内が沸き立つ。関は何故か照れている。
上司「ゴホン。昨年度まで仕事を共にした南野部長だが、周知の通り定年退職された。それに伴い新しい企画部長を紹介する」
仕切り直され、隣席に着いている櫻井さんがチラ、と灯と河合を気にした。
『南野部長』は商品企画部の誰もがお世話になった上司であった。
河合はこの会議室で南野がいつも座っていた席を見つめる。その一方で仕切り直した上司が会議室の外に「入っていいぞ」と声を掛けていた。
改めて開かれるドア。
男性が身に纏うスーツの裾が明るみに出たその瞬間、この会議室内で灯だけが目を疑った。
上司「新任の、花吹だ」
コッ——、と、まだ真新しい革靴の音を響かせて入ってきた人物が灯の眸にいつか観た映画のスローモーションのように反射する。
花吹「今年度より前任の南野部長に代わり企画部長を務めさせていただきます、花吹太郎です。
誰かの心に残るものを皆さんと作っていく覚悟を胸に、与えられたこの立場で在る前に先輩方の後輩として、一社員として。
宜しくお願い致します」
言い終えて頭を下げ、顔を上げて小さく微笑む。
“部長”。そう呼ぶのには想像を超えるその若さにか。
灯に土下座していた青年とは思えない程堂々と、真っ直ぐ前を見据えた彼の端正たる迫力にか。
一気にざわつく会議室の中で、灯だけが花吹のあの柔らかなはにかみを捜していた。
(第一話 終了)
語らうお隣さんと、恋をして(概要) 鳴神ハルコ @nalgamihalco
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