出会い
一、火事
水を洗濯物に打つ音が絶え間なく響いている。
ぐらぐらと湯が立ちそうなほど暑い日差しの中で、後宮に仕える宮女、香花は女官や宦官の服を黙々と洗濯していた。その隣でも、そのまた隣でも同じように洗濯物を洗う宮女が続いていた。
老いた宮女や怪我をした宮女が集められ宮女の墓場と呼ばれているように、ここ、織室に配属される宮女は皆、活気がない。織室はごくたまに香花のようにまだ若い宮女が配属されることもあるが、ほとんどは皆年老いているものばかりである。香花が働いている後宮に現帝は側室から、女官、侍女、宮女と合わせて何百人と囲っており、苑王朝が始まってから最大と言われている。
香花は今年で十八。国境付近の村から給金を目当てに宮女に志願したのである。今まで村の楼閣などで働いてきたが、一日働いても国境のさびれた楼閣では十銭程度にしかならない。借金取りに追われている以上少しでも早くお金をかせがなければ。
「後宮の宮女の給料はどれくらいなのですか?」
隣の先輩の年老いた宮女に呆れられた。
「あのね、あんた。よくお聞き、こんなところに配属された以上、給料は街とそう変わらない。だからあんまり期待しない方がいいわ」
国境で働いてきた香花にしてみれば、街の給料は国境と比べ天と地の差である。さらに宮女であれば三食をそれなりに無料で食べられるのだ。
「あああんた。新入りよね。星の宮の話聞かせてあげるわ」
声をひそめてこっちにきてと言うように手をふった。
「星の宮っていうのはね、流罪にされた一皇子さまのお住まいなんだけれど、いまは廃宮にされてるの」
この国、苑国の皇帝は貴族の四大宮家の蒼家、紅家、華家、剛家のいずれかから皇后を選ばれる。現帝の皇后は紅家から選ばれた紅妃である。その間に生まれた皇子が紅皇子だった。
「どうして廃宮なんかに……」
「大きな声じゃ言えないけど……、十一年前の話よ。今の皇帝陛下の圧政を不満に思った一皇子様が沙翠の島の住民や兵士を味方につけて謀反を起こしたの。でも叶わなくて幽閉されたんだけど、抜け出して今の三皇子殿下の母君の蒼妃様を当てつけに斬ってしまわれてね。大変だったのよ」
陛下は御厳しいから、と首を振って先輩の宮女は洗濯物を持っていってしまった。
「ああっ、洗濯物!」
思わず話に聞き入って、洗濯物の手を止めてしまっていた。慌てて仕事に戻ろうとしたが、辺りをふと見渡すと誰もいない。もうすぐ夕暮れ時だから皆それぞれ帰ってしまったのだろうか。香花は手早く洗濯物をおわらすと、内命婦を訪ねた。
「あの、私の部屋の割り当てはどこでしょうか」
つんとすました顔で座っている女官に木札を渡された。
「星の宮よ」
「……ありがとうございます」
後宮は貴族の令嬢から女官や侍女となるものも多く、身分が高いほど生活場所や、配属先は優遇された。香花のような平民出身の者が優遇されるはずもなく、ましてや一文無しの香花は、誰も入りたくもない廃宮で暮らすことになったのだ。
星の宮へと向かう道はうす暗く明かり一つついていなかった。だんだんと大きな宮が見えてきた。廃宮というだけあって、少しも手入れがされていない。半分外れかけている扉を開こうとした途端、ばたんと風を起こして扉が開いた。思わず香花は後ずさったが恐る恐る部屋の中に足を踏み入れた。
その時だった。ふわりと風が吹き、耳に残る軽やかな低い声が側で聞こえた。
「誰がこの宮に入ることを許したんだ」
声がした方についと顔を向けると扉に寄りかかる男がいた。簡単に結った長い髪を後ろに流し、赤い衣を纏うその男は端正な顔立ちである。
「ここに配属された宮女です。貴方は……、後宮は男性の立ち入りは許されていないはずですが」
男は視線を泳がした。
「僕は許可証を持ってる。君は?」
香花は腰に下げていた木の札を出した。
「君、その刺青は……」
男は木札を見ようとしてふと香花の手首を掴んだ。香花の白く細い腕にくるりと巻き付くように蛇のような魚のようなどちらとも言えない黒い刺青が刺されているのだ。
「これは……」
刺青を見て深く考え込んだ男に香花は手を引いた。この刺青は自分を貰い受ける時からあったと義父に聞いていた。義父もくわしいことは知らないそうだ。
「君、君を知ってる。こんな刺青が入っているのは君ぐらいだ。最近都で見かけたんだ。似ていると思ったら。僕は……、阿南だ。君の名前は?」
急に親身になった阿南という男は、名前を聞いてきた。この男に名を教えてもいいだろうか。一瞬ためらったが、ふわりと優しく心を包まれるような阿南の声に自然に口を開いていた。
「香花」
阿南は優しく微笑んだ。
「香花というのか。名前を聞けてよかった。君を見た時から好きだったんだ」
阿南は香花の手をそっととった。
「どうして私を。貴方みたいな人でしたら、いくらでも慕う人はいるでしょう?わざわざ田舎育ちの貧乏人を選ばなくてもいいと思いますけれど」
阿南は少し悲しそうな顔をした。奥へ行った阿南は何やらごそごそと箱に詰め、その箱を持って出てきた。綺麗な装飾が施された両掌に収まるほどの箱だった。
「ほら、このお金で君との時間を買っていいかな」
そっと開かれた箱には、銀子がぎっしりと詰まっており、銭しか見たことのない香花は思わずその銀子を手に取った。
香花の目は銀子に釘付けになっていた。これだけあれば、借金を返しても五年は食べ物に困らない。阿南の言葉は香花の耳には届いていなかった。もの珍しく銀子を一心に見つめる香花を見て阿南は笑った。
「いいよ、それはもうあげる。君のために用意したんだ」
阿南は、銀子を手のひらで眺める香花の顔の前でさっと粉を撒き、香花の目に手を当てた。ふらりと揺らいだ香花の体が小さい体が阿南の腕にすっぽりとおさまる。香花を横に抱き、愛おしそうに眺めた阿南は呟いた。
「君を本当にずっと待ってたんだ」
阿南は広い部屋の寝台に香花を寝かせ、その場を去った。
*
「藍翠様、星の宮の件どうなさるのですか」
この夜また、同じように星の宮へと向かう二つの人影があった。一人は手に持った灯りでもう一人の足元を照らしている。
「星の宮の様子を見てさっさと帰るさ。まったく、後宮なんぞ入りたくなかったのだが」
藍翠と呼ばれた男は、
「雲嵐、星の宮にまだ人はいるのか」
「下位の宮女が生活する部屋になっております」
星の宮の石灯籠には火が灯されていなかった。玉石が敷いてある
藍翠は雲嵐を見て訝しんだ。
「さあ、ここの宮は笛の音で人を誘い出し自殺させる幽鬼がいるともっぱらの噂ですから。死んでいるのでは」
紀翠は低く笑った。
「おまえは幽鬼を信じるか」
雲嵐は困ったように頭を下げた。
「それが……、星の宮に出るのは流刑になった紅蘭太子の幽鬼だと」
「その名を聞くのは十一年ぶりだな。流刑ならば幽鬼になることはなかろう。案ずることはない」
蒼紀は、顔をしかめた。
「申し訳ありません。口に出さない方が良かったでしょうか」
「いや、私もそろそろ過去に向き合わねばならん」
押した扉は外れそうなほど弱々しく開いた。その時ふっと黒い粉が雲嵐の前を舞った。
「お下がりください、殿下。薬が使われた跡があります。だいぶ前のもののようですが、気が淀んでいます」
素早く袖で口と鼻を覆った雲嵐は藍翠を下がらせた。
藍翠は顔をしかめ同じように口と鼻を覆い笑った。
「ふっ、星の宮に居ついているのは呪者ではなく、薬師か。雲嵐、この薬が何かわかるか」
「見た目でしか判断できませんがおそらく幻覚薬かと。服薬するとしばらく朦朧として眠気が出ますが命には関わりません」
藍翠はうなずいた。
「わかった。これを誰が使ったかだ。まさか幽鬼ではあるまい。宮女か、宦官か。あるいは、妃か。誰にしろ後宮は理由なしに薬の持ち込みは禁止されている。早急に持ち込んだ者を見つけなければ。ああ、よっぽど呪者がいてくれた方が助かったのだが。そちらの方が仕事は楽だったろうに」
藍翠は上を向いて疲れたように眉間を揉んだ。
「それにしてもここは静かですね」
「廃宮だしな。宮女はいるのだろうか」
奥に踏み入った藍翠は、つと足を止めた。香花はぐっすりと眠っている。雲嵐に、見ろ、とでもいうように目配せをした。
「廃宮とはいえ一人部屋だ。寝台で寝れる宮女などなかなかいないぞ」
視線を感じたのか香花はぱちりと目を開け辺りを見回した。
「薬を使ったのはあの娘かもしれません。ここにはあの娘しかおりませんし」
「聞かれて口をわることはないだろうが、一度聞いてみるか」
小さく頷くと一歩前へ出てさっき紙に包んだ黒い粉を香花に見せた。
「お前、この粉を知っているか」
寝台に寝そべったまま紙の中の粉を覗き込んだ香花は首を横に振った。知らぬとはいえ、よくこの国の皇子を目の前にして、横になっていられるものだ、と藍翠は思った。
「いえ、知りません。それより私の寝床から離れてくれませんか?せっかく気持ちよく寝ていたのに」
布団をかぶった香花は、ふと思い出したように起きあがった。
「この匂い、嗅いだことがある。最近……あの銀……。いえ!嗅いだことはありますがどこでかは……覚えていないです……」
藍翠の顔をうかがいながら話した。銀子をもらった時に嗅いだなどと言ったら大切な銀子を奪われるかもしれない。
「そうか、ならいい。また来る」
その時だった。天井の梁の上からさっと飛び降りた者がいた。阿南である。
「僕が使った。僕が香花を寝かせるために使ったんだ」
藍翠は、阿南の顔立ちを見て初めて狼狽えた顔を見せた。
「お前、紅家の……。生きていたのか。二度と後宮に面倒ごとを持ち込むな」
低く喉の奥から絞り出すように声を出し、袖を翻して星の宮から去っていった。
「香花、大丈夫か」
香花は、心配する阿南の声を無視して海よりも深いため息をついて布団にもぐりこんだ。せっかく給金ももらっていい夜だったのに。あのよくわからない従者を付けた男のせいで台無しだ。香花は、自分が銀子に埋もれる夢を見て、ねむりに落ちた。
*
木の焼ける匂いがする。寝ていた香花は咳き込み、寝台の上から起きあがった。阿南がいたはずの奥の部屋は辺り一面火の海だった。
「あの人……!」
阿南のことを心配した香花は、宮を飛び出して消化軍を呼びに行こうとした。が、寝ていたうちに誰かが火事に気づいたのか、もう軍は消火を始めようとしている。火事を見ようとたくさんの宮女が集まってきていた。飛び出した香花を見た宮女たちはいっせいに陰口を言い始めた。
「きっとあの宮女が火をつけたのよ」
「そうね、あの宮女、田舎育ちで下民出身らしいわ。下民なんて何をするかわからないもの」
「星の宮配属ですって。もしかしたら紅皇子の幽鬼が取り憑いたのかもしれなくてよ」
「まったくこれだから下民は。恐ろしいこと」
こそこそと話す宮女たちに、言うなら直接言えと叫ぼうと口に両手を当てた時、聞き覚えのある声がして腕を掴まれた。
「静まれ!見物だけなら仕事に戻れ。こいつは私が取り調べる。異存ないな?」
藍翠だった。紀翠に睨まれた宮女たちは、ぞろぞろとそれぞれの持ち場へと散っていった。
掴んでいた香花の腕を離し、冷たい凍えるような目線が向けられ、低い声で聞かれた。法の番人と呼ばれるに相応しい態度だ。
「お前が火事を起こしたのか?」
「違います!寝ているうちにあの人の部屋から火が出ていたんです。私も巻き込まれるところだったのですよ!」
「そうか。しかし、お前がそう言い張っても誰も信じないだろう」
藍翠は冷たく香花を突き放した。言い返すこともできず香花はうつむいた。
「だが、お前は不利な状態だ。平民出身であり、味方も誰一人いない」
藍翠は平民のことを下民と蔑まなかった。ふう、と一息つくと藍翠は香花にとって救いの言葉を投げた。
「一週間やる。一週間で自分が火事を起こしていないという証拠を見つけろ。その間は仮で釈放する」
よし!その間に逃げよう!と思った香花のその考えを読んだかのように被せて言った。
「逃げた場合、私の優秀な護衛が追跡してその場で即刻処刑するゆえ心しておけ」
香花の希望は儚く崩れ去った。
「雲嵐こいつを見張っておけ。私の護衛はよい。そういえばお前の名は香花だったか。よい名だ。うっかりして戸籍から消されぬようにな」
不敵な笑みを見せてその場を去った藍翠の背に向かって言った。
「この!氷男!」
「香花殿、そのように三皇子殿下を言わないでください」
香花は皇子という言葉に固まった。人形のように首だけ動かして青くなった顔を雲嵐の方に向けると、震える声で聞いた。
「今、皇子、と言った?」
「はい。もしや気づいていなかったなどと言わないでくださいね」
「……気づいていませんでした」
皇子は今五人いる。蒼家から出た蒼皇子、その他、側室の四人の妃の子である。蒼皇子は第三皇子である。今、私は皇子という権力に命を握られているのだ。王族の皇子ともあれば、宮女一人の命なぞ、簡単に握り潰せるだろう。恐ろしくなった香花は、思わず身震いをした。早く証拠を見つけなければ。
「雲嵐というの?」
「はい」
「火事の現場に入っていいかしら」
「殿下に許可を貰ってください」
香花は大きくため息をついた。今いた時に貰えばよかった。二度手間である。
--しかし、皇子はどこにいるのか。
「これは、独り言ですが蒼府に殿下がいるらしい」
蒼とは、藍翠の苗字であり、蒼家から出された藍翠の母蒼妃の苗字である。
香花の顔がぱっと輝いた。蒼府へ向かう香花の足取りは軽かった。火事の現場を見ることができれば単なる事故かどうかぐらいはわかるだろう。蒼府の階を登ろうと一段目に足を乗せた時、後ろから雲嵐の声が飛んだ。
「そこは殿下が通る道です。臣下は脇道を通ってください」
香花は面倒だとでもいうように首を振った。なぜ王宮はこうも決まり事が多いのだろう。
門番に星の宮配属の宮女である証の木札を見せると、思ったよりすんなり門を通してくれた。門というからもっと仰々しく調べられるものだと思っていた。雲嵐に連れられて藍翠の書斎へ通された。
「なんだ、自首でもしに来たか?」
顔も上げず、一言目から刺々しい言葉が飛び出す。
「火事現場の立ち入り許可証をください」
香花の言葉に、筆を置き答えた。
「ほう。お前、火事現場に何か残っていると思うのか。宮は全て焼け落ちているぞ。阿南も焼け死んだが」
「え、あの人が……。でも一応見ておきたいのです」
藍翠はしばらく香花を見て立ち上がると、朱で塗られた木札を香花に渡して言った。
「自分の潔白を証明してみせろ。私は忙しい、下がれ」
「ありがとうございます!」
そう言って走っていった香花の後ろ姿を見て、藍翠は笑った。ふと、真面目な顔に戻り、間諜を呼んだ。
「月露、いるか?」
「はっ」
どこからともなく藍翠に答える声がした。高く澄んだ女の声である。
「香花をしばらく見張っておけ。阿南に関わる者かも知れぬ。星の島のあの惨劇を繰り返してはならぬからな。くれぐれも悟られるなよ」
「承知いたしました」
そう言って、彼女の気配が消えたのを確認してから、筆を取り仕事に戻った。
*
焦げ臭い匂いがまだ辺りをただよっている。香花は手を灰だらけにして焼けた宮を探っていた。
「はあ、証拠なんて見つけられないか」
腰に手を当て、のびをした。冷やりと冷たい風が香花の肌を撫ぜた。ふと奥の竹林を見ると恐ろしい光景が目に入った。
「遺体が掘り返されてる……!雲嵐!蒼様に早く伝えて!」
そう言う間もなく、雲嵐の姿は消え去っていた。早く、早くと鼓動が急かした。焦る気持ちに思わず、足を踏み出した。その時だった。ひゅっと音がして矢が香花のそばを飛んだ。
「その場を動くなよ。奴らを片付ける」
振り返ると剣を腰に佩いた藍翠と雲嵐が兵を引き連れ立っていた。
「墓荒らしは犯罪である。捕えよ!」
兵たちが剣を抜き墓荒らしを囲んだ。
「お、お待ちください、俺は阿南という男に雇われたんです。遺体を焼いたようにして星の宮に持ってきてくれと。その後その男が火をつけてるのを見たんです」
男は縋り付くように必死に懇願した。
「なに?ではあの焼けた遺体は阿南の代わりだというのか」
藍翠は、お前じゃなかったのかと言うように香花を振り返った。
「自作自演かも知れぬと言うわけか」
独り言を呟いて、男の方へ向いた。
「お前は大事な証人だ。蒼府で保護する。墓荒らしの罪状に関しては、後ほど決める」
男は少し安心したようにほっと息をついた。
「こいつを蒼府へ連行しろ」
藍翠が兵に命令すると、男は蒼府へと連れられていった。
「とりあえず、事は片付いた。雲嵐、戻るぞ」
香花はあることに気づいた。自分の寝る場所がないのである。
「蒼様ー!」
藍翠は香花の叫び声に気づいたようで、立ち止まり面倒くさそうに振り向いた。
「なんだ」
「蒼様!私を雇ってください!」
「人手は足りている」
「田舎出身ですから、掃除も洗濯も得意です!私がやると不思議ときれーいになりますよ!」
「私のところも優秀なものを選りすぐって揃えているから、用はない」
「で、では。私の寝る場所が無いんです!」
「内命婦に聞けばいい」
「手続きに一月はかかります。その間はどうすればいいのですか!」
藍翠はため息をついた。
「一月雇ってやる。その間に内命婦を尋ねろ。ついてこい」
「ありがとうございます!」
香花の目がきらりと光った。皇府ともあれば宮女であっても給金は高いだろう。ご飯も三食しっかり出るだろうし。
*
蒼府の長い廊下を渡ると綺麗に整えられた、植え込みや松の木が見えてきた。梅の木も植えられているのか、甘く軽やかな香りが辺りをただよっている。
雲嵐に蒼府を案内された香花は目をまんまるにした。
「これが私の部屋ですか?!」
宮女にしては大きく豪華な1人部屋である。
「殿下は、あまり侍女をお雇いになりませんので一人一人の待遇が良いのです」
意外である。皇子ならば、大勢引き連れているものだと思っていた。
「それから殿下から伝言です。お前は一月何もするな、とおっしゃられておりました。以上です!貴方は着替えて一月寝ていてください」
そう言って、雲嵐は香花を無理やり部屋の中に入れ、バタンと扉を閉めてしまった。雲嵐の態度にぽかんと呆けていた香花は我にかえると、閉められた扉に向かって呟いた。
「なんだ、あれ」
もう日は暮れようとしている。寝ようと思ったがなかなか慣れない広い寝台では寝付けなかった。
「ああー!もう!暇!」
慣れない寝台の上で暴れた香花は、明日藍翠に仕事をもらおうと決意した。
*
「殿下!なぜあんな図々しいやつを雇ったんですか!」
翌朝、藍翠の書斎に響き渡ったのは雲嵐の文句だった。
「阿南に関わるものかも知れぬと思ったのでな」
「あれはもう済んだことじゃありませんか。阿南様とは関係ありませんよ」
「なぜそう言い切れる。阿南はまだ生きているのだぞ」
「……そこまで疑わずとも」
雲嵐はふてくされたように藍翠の横の机に座った。
「あいつは……、私に会った後に消え去った。なぜだ……」
藍翠が独り言を呟いたその時、扉がゆっくり開き、箒を片手に香花が顔を出した。
「蒼様......。仕事をしに来ました!」
はあ、と雲嵐は困ったようにこめかみに手を当てた。
「だから言ったじゃないですか。図々しいと。殿下の書斎に許しもなく入ってくるとは」
その言葉を聞いて紀翠はちらりと横目に雲嵐を見た。
「そういうお前こそ、いつも勝手に入ってくるじゃないか。咎めるつもりはないが」雲嵐と藍翠が言い合っている間に香花は、藍翠の机の前まで来ていた。
「香花、寝ておけという伝言は聞かなかったか」
香花はにっこりと笑って答える。
「聞きました!」
「ならばなぜここにいる。部屋に戻れ」
「私が言ったこと覚えていらっしゃいますか?私は掃除が得意なんですよ。私が掃除をすると一つなくなってさっぱりした部屋になるんです。故郷でよく店の手伝いでやってましたから」
藍翠は、香花を鼻で笑った。
「そんなにやりたいのなら好きにしろ」
「本当ですか!じゃあ正午までにこの部屋、きれいにしておきますね!」
ぱっと輝いた香花の顔を見てやはり、藍翠は静かに誰にも気づかれぬように笑っていた。
「私は、城下へ視察に行ってくる。掃除は帰ってくるまでに終わらせろ」
紀翠はそう言いながら上衣を羽織ると、部屋から出て行った。
部屋に一人残された香花は、腕まくりをして、よし、と気合を入れた。蒼様が帰ったら綺麗すぎて足を踏み込めないぐらいにしてやろう。一人忍び笑いしていた。
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✴︎後宮の冠星✴︎ @yamato1126
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