第2話
柏木の家は、十年ほど前まで住人は一人ではなかった。
あの頃は結婚して妻がいた。
柏木は高校を卒業してすぐに今の会社に就き、同級生の中では早くに結婚した。妻が専業主婦になっても余裕がある給料がもらえるようになった頃に。実家からは結婚祝いだ、と言って一戸建てを建ててもらった。
誰から見ても順風満帆な結婚生活を送っていたと思う。
しかし、”子どももそろそろほしいね”と話し始めた頃に妻との別れを決意した。
きっかけは妻の”カンスケとの子どもじゃなくてもいいかな”という言葉からだった。
柏木は妻との間に子どもがほしかった。決して双方の親に急かされているからとか、遺伝子を残したいという本能からではなく。
もっと早くに出会って愛を深めたかった、と変な後悔をするくらい妻を愛していたからだ。彼女は高校の同級生で、柏木にとって最初で最後の女性だった。
『なんでそんなこと言うんだよ……』
浮気相手でもいるのかと疑いたくなる内容と、自分のことを拒絶したような発言にショックを受けた。妻に悪気がなさそうなことにも。頭に岩をぶつけられたような衝撃は何日も続いた。
『ん~……。直感? 浮気ではないわ。あなたのことは好きだもの』
今思えば、自分はお前との子どもがほしいと説得すればよかったのに、と思う。当時はそんな簡単なことすら思いつかないくらい頭の中が真っ白になった。
それから夜は別々で寝るようになり、日中に交わす言葉も減っていった。離婚届を無機質に記入するまで、さほど時間はかからなかった。
あれから元妻は別の男と結婚し、まもなく出産したと共通の友人から聞いた。彼女は他の男を知りたかったのかもしれない、と友人たちが噂していることも。
ユリの話を聞いてから、柏木は初めて気づかされた気がした。
自分が知らない間に妻に何かしら我慢を強いていたのだろうか、と。だからあんな斜めな理由で断られたのかもしれない。
柏木はリビングのソファで寝ているユリを思い、寝室のベッドで寝返りを打った。
「おはよーございます……。おはようございます!!」
なんだこの騒がしい声は。目覚ましの音と共に耳の中を突き刺す声に、柏木はしかめ面で布団をめくった。
「ンだよお嬢……。もっと優雅に起こせコラ」
「だって柏木さん、つついても起きないんだもん。目覚まし鳴ったの何回目だろ……。遅刻しちゃいますよ」
昨日の落ち込んだ様子とは打って変わって、ユリの声ははつらつとしていた。その様子にひっそりと胸をなでおろした。
柏木はベッドの上で身を起こすと、顔やら頭をかいた。かくだけかくと大あくび。
「そんなん余裕だし……。俺がサッと起きれないのを見越してセットしてあんだよ」
「これで余裕……? 私じゃ絶対間に合わないな……」
彼女はすでに寝間着から普段着に着替えていた。化粧まで施してある。
「お前は化粧するからだろ。男は髭を剃るだけで終わりだもん。ドヤ」
あごをながら得意げにすると肩をはたかれた。
「ドヤって口で言うな。ほら、早くご飯食べて下さい。冷めちゃう」
「ご飯……?」
「朝ごはん。男の一人暮らしって本当に冷蔵庫カラなんですね……。さっきコンビニでいろいろ買ってきましたよ。田舎だけどここはコンビニまで歩いて行ける距離でいいですね」
ユリの剛腕によってベッドからひきずり下ろされた。背中を押されながらリビングに入ると、二人分の朝食が用意されていた。
白米とみそ汁がよそってある椀からは湯気がおだやかにゆらめいている。
「あったかい朝ごはんとか久しぶりだな……」
感動混じりにつぶやくと、ユリが隣で”えっ”と口に手を当てた。
「いつも何食べてるんですか?」
「あればパン。なければ会社行く途中で缶コーヒー」
「それだけ!? ド不健康な食生活じゃないですか、ダメですよ。だから柏木さんはガリガリなんです」
「退職間近で幸せ太りしたヤツに食生活あーだこーだ言われる筋合いは無ぇ」
「幸せ太り……。ふ、ふん! 最近は食欲落ちて痩せてきてるからいいんです」
ユリは腕を組んで鼻を鳴らしたが、それは自慢することじゃないと冷静にツッコんだ。そんな彼女の前にあるご飯は、柏木の分より少なくよそってある。
随分久しぶりに拝むまともな朝食。柏木は手を合わせると、箸を持ってみそ汁のお椀を持ち上げた。
「あ、普通に美味いじゃん」
「仕事辞めて時間ができましたから。料理の練習してました」
「ふーん。大したモンだな」
買っただけで放置してあった炊飯器。使ったのはいつぶりだろう。いつからか米を炊くのも面倒になって、パックご飯に頼ることが多くなった。
「調理道具が謎にそろってますよね。助かりました」
「元妻が"これはいらん。買い直す"っていろいろ置いてったからな」
「お、おぉ……。それはなんかすみませんでした」
「気にすんな。俺がバツイチなんて皆知ってるし、俺もネタにするくらいだし」
「そうでしたね……」
会社だと周りと一緒に笑っていたユリが、苦笑いの苦い部分だけを残して乾いた声を上げた。さすがに一対一では気まずいらしい。
ユリはソファから立ち上がると、台所から新たな皿を持ってきた。卵焼きと漬物が並んでいる皿をそれぞれの前に置いた。
「忘れるところでした……。これも作ってたんです」
「朝からよくやるなー。これ甘い?」
「甘くないです。醤油しか入れてないです」
「ふーん。お前は甘い卵焼き作るイメージがあるわ」
卵焼きを箸でひょいと持ち上げ、口に放り込む。柔らかくてきれいな黄色で、確かに甘くない。
「甘い卵焼きは苦手なんです。昔、父が作ってくれたことがあるけど」
「お父さんが作ってくれるの? すごいな」
柏木は料理は元妻に任せっぱなしだった。台所に立っても、できるのは米を炊くことくらい。
横でユリは卵焼きを半分に切り、口に運んだ。
「たまに母の手伝いをしてますから。柏木さんにも自炊をオススメします。ちゃんと栄養取ってください」
「そうは言っても帰ってきてから飯の準備すんのめんどくさくない? 朝早く起きるのもめんどくさくない?」
「めんどくさいめんどくさいうるさい」
ユリが卵焼きの皿を自分の方に引こうとしたので、柏木は慌てて卵焼きを箸でつまみ上げた。
高校を卒業してすぐに入社した彼女は、約九年間働いた。
商品をピッキングして配送する問屋で、キャラクターが描かれたメモやボールペンなどの文房具が主な商品だ。その中でユリはピッキングの担当になった。
ハンディスキャナー片手に台車を押し、広い倉庫内を回って商品を箱へ入れていく。
グレーの作業上着にジーンズ、スニーカー、社名の入ったキャップ。これが会社での作業着だ。
「クマちゃーん。そろそろお昼休憩行くよー」
「はーい」
二個上の先輩に呼ばれたユリは、台車をゴロゴロと押した。
ここには面倒な人間関係というのがない。無理やり難点を出すなら、同い年の同期がいないこと。
歳が近めの先輩もいたが、毎年寿退職で減っていった。残っているのは三十代以上の既婚でパートのお姉さんたち。お兄さんやおじさんもいるが、トラック配送の担当をしていることが多い。
柏木とユリが知り合ったのは、入社してしばらく経った頃。ユリが落ちている商品を見つけ、それが柏木が運ぶトラックに載せるものと知って手渡しした時だった。
「お嬢さんや、ありがとな」
「どういたしまして! 今から出発ですか?」
「そうそう。今日はくっそ遠いとこまで行くからしんどい……」
「そ、それはお疲れ様です……」
ユリはかぶっていたキャップを外すと勢いよく頭を下げた。そんな彼女に柏木は吹き出す。
「そこまで丁寧にしなくていいぞ……。適当でいい、適当で」
「いえ、先輩ですから」
柏木はトラックの後ろの扉を閉めながら、別のトラックに視線をやった。
「とりあえず助かった。今日行く取引先、俺が担当している中で一番つべこべうるせーんだ」
「それは大変ですね……。自分だったら行きたくないです」
「俺もそうしたいのは山々だけど行かなしょうがないからな。そんじゃ行ってくるわ」
「お気をつけて!」
ユリはキャップを被り直して敬礼をした。
後から柏木が、若い子にお見送りしてもらえるなんていいご身分だな、とからかわれたことを聞いた。
ユリは先輩と食堂へ行き、それぞれ食券を購入した。待っている間は雑談をするに限る。
「クマちゃん、配送の人たちの顔覚えてきた?」
「ん~……。まぁまぁ? ですよ。そこまで会うことないですもん」
「今はね。繁忙期から抜ければ、配送の人たちと上がる時間が同じになるから会えるよ。まぁ言ってもおじさんだらけだから出会いは期待しないでね」
「端から期待してないですよ!」
「あ。クマちゃんは好きな人いるもんね」
彼氏がいるかいないかの話は、入社したばかりの頃から時々していた。当時、雅史とは知り合う前で別で好きな人がいた。残念ながら何も進展なく終わったが。
柏木の家へ押しかけた次の日。
ユリは朝ごはんの片付けを終えると家中の掃除に取り掛かった。
古いが掃除道具もある程度そろっている。しかし。それだけでは満足できなかったのでスーパーまで歩いて行き、そこに入っている百均で新しいものを買ってきた。
家の鍵は朝に予備のものを渡された。
『私がこっちに帰ってきてることは、内密でお願いします……』
『俺ンとこにおるって口を滑らせそうだ』
朝、会社へ向かう柏木を玄関先で見送った。彼のボサついていた髪はユリが直させた。
『そうなったら大問題ですね。すぐ社内に広まっちゃう』
『そうだぞ。ついでにロリコンの容疑がかけられるわ』
ロリコンというワードにブッと吹き出すと、額を拳で押された。
『まぁ……。これからどうするのか考えてるといい』
『ぐぬぬ……』
そこで柏木は”じゃあ行ってくる”と残して玄関から出た。
(これからどうするのか……。教えてほしいよ……)
一人では答えを出せない。自分の選んだ道に自信を持てないのが原因。
風呂掃除をしていたユリは、湯舟をこする手を止めた。
(はぁ……軽率に死ねばいいのに……)
それは自分が、なのか。婚約者の彼が、なのか。やはりそれも分からない。
ユリは婚約者への怒りを思い出し、手にしているスポンジを浴室の壁に投げつけた。泡を壁にくっつけてスポンジが跳ね、床に転がった。
そうして二の腕までまくりあげた袖に、目元を押し付けた。
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