婚約者とバツイチおじさんが一緒に暮らす話

堂宮ツキ乃

第1話

 結婚しようと言われ、彼の転勤と同時に一緒に暮らすようになった。


 寿退職をし、会社の人たちに見送られた時が一番幸せだったかもしれない。彼女────ユリは、送別会の写真を見返しながらため息をついた。


 大好きな人と一緒にいられるのは楽しいことばかりではない。考え方の違いでうまく折り合いがつかないことも多々ある。


 その度にきれいさっぱり解決できていたわけではない。もういっそのこと別れてしまいたい、と爆発寸前までに来ていた。


 そしてとうとう、その日が来てしまった。彼女は愛の巣で足音と目くじらを立てていた。


 いらないと決めていたのに勝手に購入されたダイニングテーブル。その上には無造作にスマホが置かれている。買って組み立てた本人は、疲れたのか居間で寝こけていた。


『今は狭い部屋だからローテーブルだけで十分だよ』


『うん。でも……』


雅史まさふみ。帰るよ』


 先日家具屋に訪れた際、婚約者が”ダイニングテーブルが欲しい”と言い出した。


 置こうと思えば置けるが、狭さが際立つ。二人で1LDKというのも無理があるが、購入したマンションが完成するまでの辛抱だ。


 今日は日曜日。毎日婚約者と顔を見合わせていると、好きでもうっとおしくなる時期がある。だから今日のユリは一人で街を歩いてきた。


 適度な運動とオシャレなカフェで過ごしたことで気分が晴れた。しかし、帰ってきたらこの有様。リビングが狭くなっている。


 ユリはぶつかったフリで雅史の足を蹴り、リビングを飛び出た。


 いっつもいっつも。私ばかり我慢しなきゃならない。


『ねぇ……。大人でしょ? お風呂入らないのはダメだよ……。周りの人も気にするよ』


『でも疲れたから……』


『もう……。朝シャワー浴びなよ』


『どうかな……。そんなに早く起きられないよ』


 時には晩御飯を終えるとスマホ片手にベッドに突っ伏し、そのまま朝を迎える……なんてことはしょっちゅう。ダブルベッドなのでユリが寝るスペースを確保できないこともあり、床で寝ざるを得ないこともある。週に何回シーツを洗わされることか。


 平日の夜からワイン一瓶を空け、歯磨きせずにベッドに入る。朝になると寝室の空気は酒臭さで満たされる。


 優柔不断で一つの物事を決めるのに時間を有し、部屋の中をうろうろすることも多い。


 ユリは我ながら物事を順序よく組み立て、無駄のない動きが取れるので彼の姿に理解できない。イライラが募るばかり。


 そのくせ雅史は自分は悪くない、というニュアンスの屁理屈を並べるので文字通り火に油を注がれる。


 ユリは寝室のドアを乱暴に開けると、キャリーケースを床に転がした。何度も激しい音が響いたが、雅史が様子を覗きにくる気配はない。


 彼女は必要最低限の荷物をまとめると家を飛び出した。











「……は? クマちゃん? お嬢?」


 自宅に帰ってきた男の第一声はそれだった。くわえていた煙草を落としてしまった。


 仕事から帰ってきたばかりでグレーのつなぎ姿。無造作な短髪は最近切ったばかり。


 暗くなってきた外。街灯が少ないこの地区は陽が落ちると、家から漏れ出る灯りや車のライトが目立つ。


 門柱前の階段でうずくまっていたのは、つい三ヶ月前まで一緒に働いていた若い女。通称"お嬢"、27歳。


「あ、お疲れ様です……」


 ユリは顔を上げると、ぺこんと力なく頭を下げた。


「お疲れ────いや、そうじゃないだろ。都会に行ったヤツが何してんだ」


 男は煙草を拾い上げて携帯灰皿へ入れた。ユリは立ち上がり、傍らに置いてあるキャリーケースの持ち手を引き上げた。


「他に行くとこ思いつかなくて。新幹線と電車と徒歩で来れるとこ、柏木かしわぎさんのとこしかアテがなかったんです」


「おいおい……。普通は実家だろ。駅に迎えに来てもらえ」


「実家は嫌です。狭苦しい」


「じゃあ友だちは?」


「生まれたての子どもがいるから行けるわけないじゃないですか」


「だからってここって……」


 柏木と呼ばれた男は頭をかきむしり、自宅の鍵をポケットから取り出した。ユリは本気らしい。まっすぐ玄関に向かった柏木の背中に食い下がる。


「おじさんは戸建てで一人暮らしで、部屋余り放題って言ってたのを思い出したんです。もしもの時はウチに帰ってきていいって言ってくれたじゃないですか。呑み会で」


「呑み会で、って酔った勢いで言った冗談だぞ……。こんな若い女が見ず知らずじゃなくても男の家に押しかけるんじゃないよ全く」


 柏木は盛大にため息をついた。


 口ではそう言いつつも、追い返すことはできない。年明けすぐの屋外は寒い。見下ろしたユリの顔に血の気がないのが心配だ。


 それに、ここには家主が一人で住んでいることが広く知られている。こんなところを見られたらロクな噂が立たない。


(何時からいるんだよ……)


 ユリは大きなキャリーケースを玄関に入れた。上がるには高さがある。”おら貸せ”とキャリーケースの持ち手を握った時、彼女の手にふれてしまったが冷え切っていた。


 靴を脱いだユリは物珍しそうに家の中を見渡している。


「本当にお一人なんですね……」


「そうだよ。もし彼女がいたらどうしてたんだよ」


「ちょっとだけ心配してました。ちょっとだけ」


 ユリは調子に乗ったような笑みを浮かべた。しおれているように見えたが元気らしい。


「強調すんな」


 柏木はユリの肩をどつき、彼女をリビングに押し込んでエアコンをかけた。






「で? もしもの時ってのが来たのか。その荷物とその顔は」


「う……。まぁ」


 ユリはくっつけた膝の上に手を置いてうつむいた。


 家は広く、物は少ない。リビングにはソファとローテーブルとテレビ。テーブルにはリモコンをまとめて置いてある。


 柏木は冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出すと二人の前に置いた。並んでソファに腰掛け、ペットボトルの蓋をひねりながら本題に入った。


「なるほどなー。自分の言うことを聞かんわがままな男だと。……男なんてそんなもんだぞ。皆だらしないんだ。あれ見たら分かるだろ」


 柏木はペットボトルの中身を三分の一ほど飲み干した。


 台所にのシンクの周りにはビールの空き缶や空き瓶が適当に置かれていた。指定のゴミ袋はゴミ箱にセットせず、広げてそのまま置かれている。とてもきれいとは言えない。


「そうは言っても私より歳上ですよ?」


「男の精神年齢なんて同い年の女より低いモンだ。同じ感覚なんて求めちゃいかん」


「うぇー……」


「で。旦那はこのこと知ってるのか?」


 まだ旦那じゃないし、とユリはふてくされながら首を振った。


「何も言わずに家出か……。心配してるぞ。早く帰ってやれよ」


「大丈夫ですよ。一度寝落ちたら朝まで起きないし」


「そういう問題じゃねぇ」


 柏木は呆れ顔で作業着のポケットから煙草を取り出した。が、客のことを気にしてテーブルの上に置いた。


 口をとがらせてふてくされた子どもみたいな顔に、柏木はどうしたものか……と膝に肘をついた。


 ここでどう説得しても彼女は首を縦に振らないだろう。会社で関わっていたからよく分かる。彼女は仕事以外のことでは子どもっぽいところがある。呑み会や年長者に可愛がられてあどけない表情を浮かべるのは可愛いが、こうなると面倒くさい。


 だが、一つ屋根の下で男女が二人、というのはいかがなものか。しかもユリには彼氏がいる。不貞行為がどうのこうのと疑われても面倒だ。


「……とりあえず帰れ、駅まで送ってやるから。俺も突然来られていつまでいるのか分からないのは困る。正直迷惑だよ。親戚でもないってのに……」


「嫌です。帰っても気まずいだけだし……。ストレスでたまに吐くようになって……。もう私ばっかり我慢したくない……」


 とうとうユリが顔を覆って声を震わせた。会社で泣いたところなど見たことないので、柏木は狼狽えた。


 彼女は自分の考えを押し通すために泣くタイプではない。頑固だがわがままな面は持っていない。


 だからこれは彼女の本気の涙だ。


「あ~……。悪かったって……。俺の言い方がキツかった……」


 柏木は不器用にユリの頭をぽんぽんと叩いた。彼女はしゃくりあげるばかりで、柏木の言葉は耳に入ってなさそうだ。


 よほど長いこと彼氏の言動に耐えてきたのだろう。話を聞いている限り、彼氏はなんの悪気もないようだし、無邪気さすら感じられた。だからこそユリは怒りをぶつけづらかったのだろう。彼氏は特別悪いことをしているわけではないから。


 ぶつけられない怒りをためこんだ結果がこれというわけか……。柏木は一服したい衝動を抑え、手をパンと叩いた。


「ん~……分かった! どうせ俺はこの家に一人だし、仕事でほとんど空けているから好きなだけここにいろ。よく考えたら俺にはお前を突っ返す権利は無いしな。呑みの場でとは言え、いつでも来いなんて言ったんだし」


「なんか申し訳なくなってきたかも……」


「おいおい……」


 無理なお願いだというのは彼女もちゃんと分かっていたのだろう。突然、きまり悪そうな顔でペットボトルを握り締めた。会社でも彼女は、何かを頼む時は罪悪感だらけの顔で頭を下げていた。


 柏木はユリを安心させようと下手くそな笑顔を浮かべた。上目遣いの彼女の目元は赤くなっている。


「いいよ、お嬢一人ぐらい。その代わりご飯は自分でちゃんと食えよ。風呂も寝床も提供するけど、飯だけは自分でやってくれ。見ての通り俺は自炊するような男じゃない」


「分かりました!」


 ユリに差し出した手を握り返して成立。その日から奇妙な組み合わせの二人暮らしが始まった。

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