額をブチ抜かれた彼女と死にたがり女の事情

川詩夕

事故かもしれないし、事件かもしれない

 離婚を機に同棲を解消し、大学生時代を彷彿するワンルームマンションで一人暮らしを始める事となった。

 離婚の理由は本当にくだらない痴話喧嘩で、お互いの精神年齢が低く所詮子供同士の結婚だったという事に尽きる。

 五日間の有給休暇を取り、同棲していたマンションから私だけが退去し、引っ越しの作業に没頭した。

 共働きで家賃を折半していた為、私が居なくなる事でアイツは金銭的な負担が大きくなる事だろう。

 共にこのマンションから退去すればいいものを、アイツは頑なに意地を張ってここから出て行こうとはしなかった。

 あらかた、役所、職場、不動産屋等の書類手続きが面倒くさかったのだろう。そういったずぼらな性格も以前は可愛いと感じていたけれど、今となってはただただ憎らしい。

 ワンルームマンションに荷物を運び終えた私は、近場にあった牛丼屋のチェーン店で食事を取りビールを一杯だけ飲んだ。真っ昼間からのビールは自分へのささやかなご褒美。

 荷物運びという名目の重労働を行い汗をたくさんかいた為、部屋に戻ってから取り敢えずシャワーを浴びた。

 荷物が散乱した中で布団を広げ、休憩がてら少しだけ横になる事にした。

 ※

 気が付いたら部屋の中はすっかり薄暗く、カーテンを取り付けていない窓から月明かりが差し込んでいた。

 枕元に置いていた腕時計を確認すると時刻は23時を49分を示していた。

 休憩のつもりで横になっただけなのに6時間以上も眠り込んでしまった。

 喉の渇きを覚えたけれど、あいにく冷蔵庫の中身は空っぽでコンセントすら差し込んでいない。

 ノーメイクのままコンビニへ買い出しに行く事にした。

 玄関を出ると肌を撫でる様な微風が吹いており、心地良い秋の到来を感じた。

 マンションに隣接している薄汚れた街灯に吸い寄せられた二匹の蛾が見える。

 蛾は不調和に舞い、時折街灯に激しくぶつかり鱗粉を散らしていた。

 羽の模様が人間の目玉の様に見えてきて鳥肌が立ち、慌てて視線を逸らしマンションを後にした。

 近くのコンビニで水とお酒とおつまみを購入し、マンションまで5分の帰り道を歩いて行く。

 遠目からマンションに隣接している街灯に目をやると、マンションの入り口辺りに誰かが立っているのが見えた。同じマンションの住人かもしれない。

 背丈が私と同じくらいで、髪がセミロングのパジャマ姿の女性だった。私が好んで着ているブランドのパジャマだ。

 夜は遅いけれど挨拶をしようと思い視線を女性の顔に向けた。

 女性のひたいに大きな穴が開いていた。

 穴の大きさは握り拳くらいで、顔面は蒼白しており両目に黒目は微塵みじんもなく白濁はくだくしきっている。

 喉の奥がひくついて言葉を失った。

 女性は白濁した目で恐らく私の目をしっかりと見つめているに違いない。

 驚きのあまりに買い物袋を手元から落としてしまい、ビールの缶が数本ころころと当たりに転がっていった。

 転がる缶ビールを拾う事ができず、その場から逃げる様にして自分の部屋がある方へと向かって走った。

 ドアノブを握り締めて勢いよく扉を引っ張ったけれど、扉は施錠されていて開かなかった。

 鍵がない? 鍵はどこ? 鍵を落とした?

 慌てながらジャージのポケットを確認するもキーケースは入っていない。

 コンビニからの帰り道、マンションが近付くに連れてキーケースを手にした事を思い出した。   あの女性の前で買い物袋と一緒にキーケースを落としてしまったに違いない。

 一度戻らないと……鍵がないと部屋の中へ入る事ができない……。

 コンビニへ行くだけだからと思いスマホは布団の上に置いたままだ、今すぐ親や友人に連絡する事はできない。

 日が登るまで部屋の前で待つ事も考えたけれど、途中で疲れて横になりたくなるだろうし、トイレに行きたくなるかもしれない、色々と面倒くさそうなので潔く諦める事にした。

 あの女性が立っていた場所へと戻る他ない……。

 私は意を決した後、恐る恐るマンションの入り口へと向かった。

 照明に照らされたリノリウムの通路の先にあの女性の立ち姿が見えた。

 さっきと同じ場所に立ち、私が落とした買い物袋を手に持っている。

 私は足音を殺しながら慎重に女性への背後から近付いて行く。

 女性のすぐ近くまで来た所で足下を見回してもキーケースは落ちていなかった。

 不意に女性がくるりと私の方へと振り返った。

「ひぃ!」

 咄嗟とっさに短い悲鳴を上げ、驚きのあまりにその場でへたり込んでしまった。

 しかし、女性は私に何をするでもなく、その場に立ったままこちらの様子を伺っているみたいだった。

 膝が震えて涙目になる私を哀れに思ったのか、女性は無表情のまま手を差し伸べた。

 反射的に思わず手を伸ばすと、女性の手には私のキーケースが握られていた。

「あっ……ありがとうございます……」

 キーケースを受け取ると女性は白濁した目で笑顔を浮かべ、反対側の手に持っていた買い物袋も差し出してくれた。

「どうも……お手数をお掛けしました……」

 女性は笑顔を崩さずコクリと一度頷いた。

「つ……付かぬ事をお伺いしますが……あっ……あなたは……あの……」

「幽霊だよ」

「で……ですよね……あは……あははは……」

「こんなに醜い姿だもの、驚くよね、怖いよね、気持ち悪いよね」

「いえ……その……細くてスタイルが良いし髪も艶々つやつやのサラサラで鼻も高くてシュッとしていて素敵……だと思います……」

「ここ、額に穴が開いてるのに? ほら、私の顔から向こうの壁が丸見えでしょ?」

「…………」

 私はなんと言葉を返せばいいのか分からず困惑した。

 やがて女性は困る私を見かねた様子で微笑んだ。

「でも褒めてくれてありがとう、凄く嬉しいよ、こんな形でも一応女だからね」

「はい……あの……もしかしてこのマンションに住まれてたんですか……?」

「以前はね、でも、このマンションのどこかで死んだっぽい」

「えっ……」

「安心して、あなたの住んでる部屋じゃないと思う、その辺りからは何も感じないから」

「良かった……あっ……ごめんなさい……」

「気にしないで、もう何年も前の事だし」

「その……成仏とかってできないんですか……?」

「分からない、気が付いたらこの場所に立ってるから」

「何か未練があるのかも……さっきから好き勝手言ってごめんなさい……」

「大丈夫」

「あ……あの……今から一緒に飲みませんか……?」

「えぇ?」

「これ、いっぱい買ってきたので」

 私はそう言ってコンビニで買った缶ビールを指し示した。

 マンションの敷地内には小さな公園があった。公園と言っても、街灯は無く花壇と木製のテーブルとベンチしかない井戸端会議すらできそうにない公園だけれど。

 マンションの通路に設置された照明が公園内を薄らと照らしてくれている。

 私と彼女はテーブルを挟んで向かい合わせに座り、缶ビールを手に取った。

「えっと……素敵な出逢いに……乾杯」

「乾杯」

 コツンと缶を互いに当てて一気に呷った。

「ぷはぁ……うまぁ……幽霊もビール飲めるんですね」

「私も今知ったよ、久々のビール、凄く美味しい」

「おつまみも買ってるんです、良かったらどうぞ」

「わぁ、ありがとう」

 私は2本目の缶ビールを手に取りステイオンタブに指を掛けた。

「ぷはぁ……うますぎるぅ……」

「早っ、もう飲み切ったの?」

「飲まなきゃ……やってられないんです……」

「どうして?」

「そこ聞いちゃいます……?」

「良かったら聞かせてよ」

「結婚して同棲してたんですけど……くだらないが原因で私がキレちゃってそれで喧嘩になって……でも……それ以前から積もり積もった鬱憤うっぷんをお互いずっと抱え込んじゃってたみたいな……私がキレた事が引き金となってお互いの不満が爆発しちゃったって感じです……」

「なるほどね、同棲あるあるだ」

「引くに引けなくなって……そのままの勢いで離婚して……同棲してた家から飛び出しちゃったみたいな……」

「折れる事はできなかったの?」

「私に非は一切ありませんから折れる事なんてできません、アイツが自分の非を認めて謝罪すれば許す事も考えてあげたのに……本当に馬鹿野郎です……」

「男は目先の利益だけで行動する単細胞だから仕方ないよ」

「ですよねぇ……ふざけんなよぉ……ばかやろぉ……」

「それで今日から一人暮らしって訳だ」

「そういえばぁ、どうしてぇ、死んじゃったんですかぁ?」

「覚えてないんだよね、何も」

「へえぇ、そうなんだぁ」

「不思議なんだけど、このマンションの何処かで死んだって事だけは分かるの。死因は分からないけど、見ての通り額に穴が開いてるから事故にあったか、何かの事件に巻き込まれた可能性はは考えられるね」

「このマンションに殺人鬼が潜んでたりしてぇ、やだぁ、怖いよぉ、そんな事よりさぁ、私の一生のお願い聞いてくれるぅ?」

「一生のお願い?」

「殺して欲しい奴がいるのぉ」

「えぇ?」

「別れた夫を殺して欲しいよぉ」

「そんな事言われても……」

「幽霊なんだろ今すぐ呪い殺して」

「どうやって呪い殺すの? 私にそんな事できる訳ないじゃん?」

「なんでだよ……幽霊のくせに人を呪い殺す事もできないのかよ……」

「幽霊を何だと思ってるの?」

「じゃあ……私を殺して……」

 彼女は白濁した目を見開き、開いた口から綺麗な歯並びが見えた。

「えっと……」

「離婚してから毎日辛い事ばかり……生きているのがしんどいよ……」

 胸が苦しくて、テーブルに突っ伏しながら泣きじゃくってしまった。

「えぇ……寝ちゃってるじゃん……」

 ※

 気が付くと、シャンプーの柔らかな花の香りが鼻腔をくすぐった。

 寝惚け眼で周囲に視線を向けると、女性に背負われている事を理解した。

 女性はキーケース手に持ち、鍵を使って部屋の中に入ると私を布団の上に寝かした。

 眠たくて、酔っている為か妙に心地が良い。

「死んでも良い事なんて何一つないんだからね」

 その言葉が最後だった。

 カーテンを取り付けていない窓から差し込む朝日が眩しくて目が覚めると、女性の姿は見当たらなかった。

 翌日も、翌々日も、それから女性が現れる事はなかった。

 私とお酒を酌み交わした事でこの世への未練がなくなったとは到底思えなかったけれど、女性と出会ったマンションの入り口付近に花束と缶ビール数本置き、両手を合わせて心の中で感謝の意を伝えた。

 その時、偶然にもマンションの管理人さんと出会した。

「えっ……何されてるんですか……?」

「亡くなった女性への供養です」

「な……亡くなった女性……?」

「あれ? 管理人さんはご存知ないんですか? このマンションの何処かで若くて綺麗な女性が亡くなった事を」

「数年管理人をしていますがそんな話は聞いた事がないです……気味の悪いイタズラは止めてください……今すぐに片付けてくださいよ……」

 私の隣を黒い影が横切った。

 額をブチ抜かれたあの女性だった。

 女性は管理人さんをめ付けながら背後へと回り込んだ。

 えげつない音がしたと同時に、管理人さんの額がブチ抜かれ、その穴の向こう側に満面の笑みを浮かべた女性が立っているのが見えた。

「私を殺した殺人鬼……呪い殺せちゃった……」

 離婚したアイツの姿が脳裏を過ぎり、笑みがこぼれた。

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