第8話 全てない世界で嘘をついている人形
「『うちは那由他はんといつまでも一緒どすえ』て何度も言いましたやろ」
春香は涼しい顔だ。背筋を貫く神経の束を逆撫でされ、俺は苛立つ。
「そんなの、残される女のくだらねえ感傷だとしか思わねえだろ」
俺は、呪文のように囁かれた言葉を、《春香の心の中で、俺が永遠に生き続ける》という意味だと信じていた。
「死んじまった俺の体を全部食っちまうなんて想像がつくわけねえよ」
「全部、うちの中に取り込んだわけやおへんえ」
春香は嫣然と微笑んだ。
「た、確かに全部じゃない」
揚げ足を取られた俺は面白くない。抗議のつもりで、意識的に頬を膨らませて見せた。
――俺の骨は、人形の肌に塗る胡粉と膠に混ぜ込まれた。最終仕上げの段階で眉や睫毛が植え付けられた。人形は俺になった。俺は人形になった――
「うちは那由他はんを、未来永劫、うちのものにしたのどす」
春香は白い顔のなかで、そこだけ異様に目立つ紅い唇を、これ見よがしに舌で湿した。
「綺麗事を言うな。俺だけでは物足りなかったくせに」
俺は嫌味ったらしく責めた。
「女は皆、男はんの愛に貪欲なものどす」
春香は身勝手な抽象論を持ち出し、煙に巻こうとする。
心が鬱屈して昂ぶり、俺は興奮の中で戦く。口が干上がる。胸がぞくぞく踊る。
「俺は最近、気付いちまったんだ」
俺は負けじと、感じ始めている違和感を口にした。
春香の肌の温もりが年月と共に徐々に失われて行く。
そのうち、血の通わない人形にすり替わっているのではないかとさえ思えてくる。暗い山中を彷徨うときのような、言いようのない高揚感が俺を満たしていく。
「いつの間にかオマエは年をとらなくなっているじゃねえか。いつも側にいるから、なかなか気付かなかったが錯覚じゃねえ」
俺の指摘に、春香の眉が僅かに動いた。
俺は十五年前に時を止めた。ずっと二十二歳のままだ。
春香だけ年を取る。もともと十歳も年上で、三十二だった春香にとって年の差がひらいて行くばかりだなんて絶えきれないことだったろう。春香は若い俺と釣り合わない皺の深い老婆になることを拒んだ。
男を食いながら……。若い男の生気を吸って……。
「何を言い出さはるかと思うたら……」
春香は軽くいなす。
俺は人形だ。だが春香だって……。
俺とともに生きるために〝糧〟を得始めたときから、春香は人間であることをやめつつあるのかも知れない。
『喋らず、息をせず、聞こえず、見えない、全てない世界で嘘をついているのが人形』だという、人形作家辻村寿三郎の言葉を思い出す。
「そないな話、どないでもよろしがな」
春香は宝物の入った箱の紐をほどくように、俺が身につけた金襴の衣装を脱がす。衣服を取り去ること自体を楽しむように、ゆったりとした手つきで。
俺はじれる。もう何でも良くなってくる。
きっと俺も春香も、全てない世界で嘘を吐いている人形だ。
自分の周りに確固たる世界があると信じていても、本当は自分だけが、勝手にそう思い込んでいるだけなのかも知れない。
全ては不確かだ。
春香に気取られそうなほど、心臓が激しく波打つ。
俺は春香に身体の隅々までなめ回されながら、あれこれ、とりとめもなく考える。
いやもうどうでもいい。
春香がいて俺がいる。
愛し合うことは矛盾を飼い慣らすことだから。
今日は最高の喜びが得られそうだ。
俺と春香は、ぬめぬめと滑る紅の海に身をゆだね、
いつまでも愛し合うのだ。
俺は深い水底に落ちて行く夢を見る。
何も考えない。いや考えたくない。
頭上の金色の天蓋が鳴る音が聞こえる。
目の前に散華の花びらが、無数に舞い落ちる。
俺は快感に喉を鳴らし、意識して春香好みの甘い声を上げた。 了
雲ヶ畑情歌・谷汲観音の辿る夢 出水千春 @chiharu_d
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