第7話 犠牲者の顔を持つ観音像
「一番、先に作ったのが谷汲はんどしたんえ。嘘ついてしもて堪忍どすえ。鈴木はん」
外陣の床の上には大きな血溜まりが出来ている。
鈴木は『死体を解体する場合、血液が多量に流れ出すわけではない』と言った。つまりまだ死体になっていない鈴木の身体のあちこちから、派手に血が噴き出したということだ。
流れ出る血は多いほど、クる。
鈴木は春香によって、名前のない男のままこの世から跡形もなく消し去られる。
時間はいくらでもある。ゆっくりパーツに分けて行けばいい。そして適当なブロックにした食材を冷凍庫に運び込むのだ。
「殺生は最低限度に止めなあきまへん。そんで余すところなく有難く頂かなあきまへん。なあ鈴木はん。最後の晩餐のときに、うちがちゃ~んと言いましたやろ」
素肌に絹の白衣だけ羽織った春香は、いつもの玉を転がすような笑い声を響かせた。
鈴木はもう聞いちゃいないが。
早く、来いよ。
俺は半身に身をくねらせたポーズのまま、永久かと思われるほど長い間、左手を宙空に差し出し、春香を待ち続けている。
俺は熊本にある谷汲観音の双子の兄弟なのだから。
俺は本尊のすぐ下横に安置された古い厨子の扉の網格子から一部始終を眺めていた。
春香が触れてくれなければ動けない人形である現実をすっかり忘れたまま。
春香が命の尽きるまで愛し続けてくれる人形であることが、俺の誇りだ。
「那由他はん。長いこと、お待っとうさん」
春香が俺の名を呼ぶ。
手を取って厨子から連れ出してくれる。
素足が内陣の冷たい床を感じる。
春香の手の温もりが俺の指先から流れ込む。
春香の〝気〟が、地面にしみこむ慈雨のように俺を徐々に満たす。
硬直していた俺の身体に血が通う。
俺は、かすれた声で春香の名前を呼ぶ。
出なかった声が戻り、自分のものになる。
凍りついて固くなっていた身体が、自由を取り戻す。
かつて俺が俺だった頃のように。
「また、作品がひとつ増えるな」
皮肉を籠め、桜貝のような耳元に囁く。
犠牲者の顔を持つ観音像が増えていく。
春香の作り出す観音はみな男の顔をし、衣の下に男の象徴を隠し持っている。
気が向けば春香が愛してくれるだろう。
春香が俺の頭にかぶせられた黒い市女笠の紐をほどき、脱がせ、髪の乱れを細い指先で直す。
「話すたびに俺たちの大事な思い出話が変わるんだな」
すぐにむしゃぶりつきたい衝動を抑え、俺は嫌味を言ってやった。
ここまで辛抱したんだ。限界まで引き延ばしてから味わうほうが美味だ。
俺に我慢を強いる春香の憎らしさ。もっともっと欲望を高ぶらせたい。
「うちにとっては突然の事故死と同じどしたがな。隠し切れんほどひどなるまで病気のこと、うちに隠してはったやおへんか」
余命を意識した俺は、自分に似た谷汲観音像の完成を急いだ。ついに肌に胡粉と膠を塗るだけになった。肌の色が人形作りのキモだった。
だが完成直前で力尽きてしまった。
「オマエだって、この荒れ寺に晋山する本当の訳を、俺に黙ってたじゃねえかよ」
俺は意識的に声を荒げてなじった。春香と俺の気持ちはいつもすれ違いだ。
――雲ヶ畑に移り住んだ俺はますます衰弱し、殆ど夢うつつの状態で過ごすことになった。未完の観音像を無念の思いで見詰めるしかなかった。春香の傍らで俺の分身が生き続けるという、野望は永遠に潰えてしまった、と――
「オマエの胸の内を教えてくれていれば……。俺はもっと安らかに死ねたじゃねえか」
遠い過去には違いないが、思い出すとむかっ腹が立ってくる。
俺の胸の飾りが俺の動きで乾いた音を奏でた。
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