第8話 猫手川、事実は奇なり、と、しみじみ思う


       1


 花の香りに似た紅茶の香気こうきが、部屋を満たしていた。

 それは、ある午後のティータイムのこと。

 小高い丘のうえにある洋館の二階、猫手川ねこてがわの部屋では、飲みごろの紅茶を前に、黒、白、天色あまいろの猫が、神妙しんみょう面持おももちで整列していた。さらに正確に言うのならば、猫たちは、神妙な面持ちをしつつ、その肉球にくきゅうてんにむけて、手を差しだしているのである。

 小出毬直伝コデマリじきでんの手慣れた所作しょさで、ティーカップに紅茶を注ぐ猫手川。本家の優雅さにくらべれば見劣りはするが、まずまずのお手並みであった。

「どうぞ──」

 豊かな香気をくゆらすティーカップを並べたのち、猫手川は、猫たちにクラッカーを配った。

 それは、一袋に六枚入りの、正方形をしたクラッカーだった。

 猫たちから、深いため息がもれた。

「……またなの…?」

 失望を隠せない猫たちを代表して、絹のようにつややかな被毛ひもうの輝きをわずかに曇らせた黒猫『エリー』は言った。

「またなのって、お前たちが買えって言うからまとめ買いしたんだぞ!」

 その黒猫の『自称』飼い主である猫手川のその言葉は、寸分違すんぶんたがわぬ事実であった。

 ふと気がつくと、二袋も三袋も食べてしまっているという、時を忘却させるがごとく不思議な魅力のある、そのクラッカー。

 彼らがその魅力にかれたのは、そう遠くはない過去のことだ。

 さらに正確に言うのならば、それは、一昨日おとといのことである──


「このそこはかとない塩気。軽快な歯触り! もうおやつはこれだけでいいわ!」

 と、エリーは言った。

「気がついたらもう袋がカラにゃ⁉」

 と、白色の長毛種、宇宙そらは驚きの声をあげ、

「…………」

 本猫いわく、元々は人間であるという天色の猫、たちばなみやびは、パリパリ──、パリパリ──と、無言で、無心に、クラッカーをしょくしていた──


 このクラッカーに対して、猫手川が好感を抱いた点は、ふたつある。

 まずはじめに、一袋に六枚というお得感とくかん

 これは、常日頃から猫たちのおやつに頭を悩ませている猫手川にとって、なにものにも代え難い、賞讃すべき点である。

 つぎに、彼らはクラッカーを食べている時は異常に静かである。

 ということであった。

 そのようなわけで、彼らの申し出を受け入れ、まとめ買いをした結果がこれである。

「今日のおやつはそれだけだからな!」

 積みあげられたクラッカーの箱を横目で見やり、猫手川は、断固とした態度でそう告げた。

 猫たちは、渋々しぶしぶ、クラッカーを食べだした。

 うららかな午後の陽射ひざしはぽかぽかと、眠気をいざなうようなぬくもりで、あたりを包みこんでいる。

 静寂せいじゃくのなか、パリパリ──、パリパリ──、と、クラッカーをかじる音だけが響いていた。

 花の香りに似た、紅茶の香気。

 その香り豊かな湯気を燻らせつつ、ひとくち、紅茶を口に含む。豊かさを満たすような温もりが、かすかな音を立ててのどを降りてゆき、猫手川はその静寂を愛おしく思った。

 猫手川は読みかけの本をまた開き、めくるめくその物語のなかに、ひとり、おちていった。


 しばらくののち……、

「ちょっと待って!」

 と、橘みやびが声をあげた。

「このミルクティー……」

 猫たちは、ミルクのたっぷり入った、甘いミルクティーを好む。

「どうしたのよ、みやび?」

 エリーがたずねると、

「エリちゃん、いままでどうやってクラッカー食べてた?」

 橘みやびは、そう、たずね返した。

「どうやってって……、こうして普通に口に入れて、パリパリさせて食べてたわよ」

 エリーは、パリパリ──、パリパリ──と、クラッカーを食べると、紅茶をひとくち、口に含んだ。

「それっ!」

 と、橘みやびは指をさして声をあげた。

 突然の大声に、エリーはびくりと肩をふるわせた。猫は突然の大声や、大きな物音に敏感な生き物である。

「エリちゃん、なんで紅茶を飲んだの?」

「な、なんでって……、口がぱさぱさしたからよ。小麦と紅茶はよく合うし……」

「でしょ? だったらさ、こうしてもいいんじゃない?」

 橘みやびはそう言うと、その名のとおり優雅な所作で、クラッカーをとぷん、と、ミルクティーにひたした。

 そうして、ティーカップのなかに、さざなみを起こすように、しばしクラッカーを泳がせると……、ぱくり。

「うまーっ!」

 橘みやびの動向をうかがっていたふたりの猫は、なにか神々しいものでも見るように、羨望せんぼうのまなざしをむけた。

「こうすればこの小麦粉のミイラも、ぷるっぷるのもっちもち食感に早変わり! しかもミルクティーの味がするんだよ!」

 非道ひど 物言ものいいである。

「ひたパンよ!」

 と、エリーは言った。

「わたしたちに足りなかったものはそれだわ!」

 そうして猫たちはあわただしく動きだし、テーブルのうえには牛乳やコーヒー、ココアにジュース、各種スープ等、さまざまな液体飲料が並んだのである。

 ひとしきり、試した。

「このクラッカーというものには、まだまだ研究の余地があるわね……」

 絹のように艶やかな毛に被われたお腹をなでながら、満足気まんぞくげな表情で、エリーは言った。

「…………」

 こうして、束の間の静寂は、けたたましい日常にとってかわったのであった。

「ところでみんな、あの話は知ってるかにゃ?」

 と、大きな白猫しろねこ、宇宙は言った。

「どうやら、またでたらしいのにゃ」

 それはまだ、新聞にはっていない、ニュースでも報道されていない、ある事件のことだった。

「犯人はバールのようなものをもって、夜の街を徘徊してるんだにゃ」

 しかし、まだ、事件と呼ぶには時期尚早なのかもしれない。

「今回狙われたのも仕事帰りのごく普通の会社員だにゃ。でも今回もなにもせず、その会社員が振り向くとすぐに逃げ去ったのにゃ」

 そう、この事件には、まだ被害者がいないのだった。新聞でもニュースでも取りあげられない理由はそこにある。

 しかし、わりと平和なこの町にはめずらしい、少し物騒な話だった。

 彼らがいったい、どこで、どのように、このような話を聞きつけてくるのか、猫手川には皆目検討かいもくけんとうもつかない。けれども、彼らは、なんらかの方法によってそれを知り、そして往々おうおうにして、猫手川をともなって、その解決へと乗りだすのである。

「どう思うにゃ、エリーちゃん?」

 宇宙が喜々きき としてたずねると──

「それ、わたしが今朝あなたに言った話じゃない」

 と、エリーは言った。

「……にゃ?」

「夜のお散歩にいった時、となり町のローズちゃんに聴いたって、あなたにも言ったじゃない」

 そう、エリーが冷ややかに言うと、

「……にゃー…」

 宇宙は、弱々しく、鳴いた……。どうやらエリーから聞いた話だということをすっかり忘れて、本人に話してしまったようだ。まあ、よくあることである。

「…………」

「…………」

「言ったわよね?」

「も、もういいだろ!」

 さらなる追求の爪を伸ばさんとするエリーを差し止め、猫手川は、耳をふせて、わずかに肩をおとした宇宙を包みこむようにしてなでてやった。

 宇宙は、しっとりと猫手川に寄り添うと、ぐるぐるとのどを鳴らした。

 そんなふたりの様子を、エリーは冷ややかに見つめていた。

「……前から思っていたけど、あなた、宇宙に対して甘いところがあるわよ」

 と、エリーは言った。

「そ、そんなことないぞ!」

 猫手川はすぐさま否定したが、思い返せばエリーの言うとおり、そのようなふしは多々ある。

「嘘おっしゃい!」

エリーはなかば叫ぶように言った。

「ついこの間だって宇宙にだけお菓子を買ってあげてたこと、わたしが知らないとでも思っているの?」

「あ、あれは……」

 エリーが言うのは、『猫はどんな高いところからおちても死なにゃい理論』の実証に情熱を注いでいた宇宙の考案した、忍者特訓にんじゃとっくんにおけるご褒美ほうびのことであった。猫手川は、宇宙のがんばりに答えるかたちで、彼にだけ、毎日なにかしらのお菓子を買ってあげていたのだった。

 食後のデザートを食べたあとだというのに、だ!

「ほらみなさい。あなたは宇宙にだけ甘いのよ。なにがそうさせるのかしらねー。コデマリさんのご機嫌でもうかがっているのかしらねー」

 しらしらとした表情で、エリーは言う。

「ちっ、ちがうぞっ!」

 と、否定した猫手川に、

「じゃあ、わたしたちにもお菓子をくれなきゃ不公平よね?」

 間髪かんぱついれずに、エリーは言った。

「……ま、まあそうだけど…」

「それなら明日からクラッカー以外のおやつを所望しょもうするわ。当然の要求よね?」

「ま、まあ、そんなことなら……」

「きまりね」

「あ、ああ……」

 あまり釈然しゃくぜんとしない表情を浮かべた猫手川から顔をそらし、エリーは、にやりと微笑ほほえんだ。

 橘みやびと宇宙は、ハイタッチをきめた。

「まあそれはいいとして──」

 うやむやのうちに、早々はやばやと話を切りあげたエリー。さすがは野性を残した生き物である。

「さっきの宇宙の話だけどね──」

 エリーは優雅な所作で、小出毬作の猫用椅子から飛びおり、

「そろそろ動こうかと思っていたところなの」

 みなを引き連れ、部屋をでた。


       2


 坂をくだる。

 猫手川の住むその洋館は、小高い丘のうえにある。

 そのようなわけで、どこにいくにも、まず、くだることとなる。

「まずは目撃者に会いにいきましょう」

 と、エリーは言った。

 街の中心部からさほど離れてはいない、豪奢ごうしゃな一軒家だった。

 青々と生い茂った芝生に、スプリンクラーから噴水のように水がまかれて、沈みゆく陽光が虹をつくっている。その家の、通りに面した出窓には、きれいな白猫がいた。

「ローズちゃんよ」

 と、エリーは言った。

「昼間は外にでられないの。ごめんなさいね」

 すずが鳴るようなかろやかな声で、ローズちゃんは言った。

 夜になれば外出許可がおりるわけでは無論ない。

 家猫いえねこの多くは、夜、人目を盗んで、こころのおもむくままに世界を闊歩かっぽするのだ。

 けれど、心配にはおよばない。彼ら猫ほど、したたかで、たくましい生き物を、猫手川は知らない。

「なかには身体をおいたまま、でかける猫もいるけどね」

 と、エリーは言った。

 猫になってみなければわからない事情もある……。

「ところで、例の事件のことなのだけれど──」

 エリーは探偵さながらに、こと細かに事件の詳細を聴きだした。

 目撃現場、時刻、犯人と、おそわれそうになった人の特徴、くつの種類、気になるにおい、今日食べたおやつ、冷蔵庫の中身等、猫手川にはよくわからない項目も多々あるのだが、それは必要なことなのだと、エリーは言う。

「あれは絶対に人間のオスよ。だって匂いがそうだったもの。そうそう、匂いといえば、その男からアイスの匂いがしたわ。あれはハーゲンダッツではない……、そう、スパーカップのバニラ。それからガリガリくん、チョコバリ、練乳れんにゅうみぞれ、あいすまんじゅう、チョコモナカジャンボ、MOWに、爽──」

 アイスに詳しいローズちゃん。

 それからローズちゃんは──

「ええ、犯人はバールのようなものをもっていたわ」

 と、このように証言したのだった。

 つぎにむかった先は、あざやかな緑の葉におおわれた、大きな樹のうえだった。

 そこにはカラスの一家がいた。

「例の事件のことを聴きたいのだけれど──」

 と、エリーは言った。このカラスのおとうさんは、事件の第一目撃者なのだという。

 ここでもエリーは、刑事さながらに、こと細かに事件の詳細をたずねた。

 目撃現場、時刻、犯人と、おそわれそうになった人の特徴、頭の形状、気になる匂い、れて食べごろの果樹の位置、猫にやさしい飲食店等、やはり猫手川にはよくわからない項目も多々あるのだが、それは必要なことなのだと、エリーは言う。

「犯人は人間のオスだった?」

 エリーがたずねると、

「大きめの外套がいとうを身にまとっていたけど、おそらくそうだと思うよ」

 と、カラスは言った。

「犯人の顔を見たかしら?」

 エリーが再びたずねると、

「帽子とサングラスをしていたよ。顔の特徴なんかはちょっとわからなかったなあ。鳥目とりめなんで……」

 と、カラスは言った。

 そうして最後に、

「ああ、たしかにもっていたよ。バールのようなものを」

 カラスは、このように証言したのだった。

 ふたつの貴重な証言を得た一行は、近くの公園のベンチに腰をおろした。訊き得た情報を整理しようというのである。

 もちろん手ぶらというわけではない。

 それぞれが、それぞれの好みのアイスを手にしていた。

 ふたりの目撃証言を精査せいさしてみるに、犯人が人間のオスであることは間違いなさそうだった。この犯人が犯行におよびかけた回数は、目撃例があるだけで二回。いずれも帽子とサングラスを着用しており、体型のわかりづらい外套を身にまとっている。

 おそわれそうになった人物は、それぞれ別人であり、性別も異なる。着ていた服装と、革靴の音、くわえて、時刻を考慮するに、いずれも会社帰りであることが考えられるが、それ以上、共通点は見出せなかった。

 カラスとローズちゃんの証言によれば、ひとつめと、ふたつめの目撃現場は、かなり離れた場所にある。潜伏場所の特定を困難にするため、わざわざ遠く離れた二点を選んだのだろうか。

 有り体に言って、通り魔的な犯行が予想されるが、猫手川には、それ以上決定的なことはわからない。

 エリーはなにか考えこむように双眸そうぼうを閉じている。手にしたガリガリくん(梨味)が、橙色の夕陽に融けるように、潤んで煌めいていた。

 そうしてしばらくののち、ひとり、こくりとうなずくと、

「いくわよ」

 と、エリーは言った。


       3


 そこは海にほど近い、大きな国道沿いだった。

 あたりは人工的な光りとあいまった闇に包まれ、車のヘッドライトが数多あまた、通り過ぎてゆく。

 時刻はすでに夜である。

 一行は、当然のごとく外食をした。

 しかし、猫手川にとって重畳ちょうじょうであったのは、そのお店の店主がだいの猫好きであったことだ。猫たちは大変気に入られ、食事はおろか、デザートまでごちそうになったのである。

 無料で、だ!

 先のカラスのおとうさんによる情報の元、選んだお店だった。そうして、感謝にむせび泣く猫手川とその一行は、国道沿いにある、ひとつのビルの前にたどりついたのだった。

 すずやかなペンギンのロゴマークが描かれたビルだった。

 ほどなくして一行は、エリーの指示により、ビルの前から離れて場所を移動した。こちらからの見通しはよく、けれどもビルの前からはわかりにくい、そんな植え込みの影である。

「いましたよ、エリーさま!」

 ばさりと羽音をたてて、一羽の鳥が、猫手川の肩にちょこんと着地した。

 チドリ目カモメ科に分類される、コアジサシという鳥だった。

 れから置いてけぼりにされたコアジサシは、いまではみずからの意志で、彼らとともにいる。

「エリーさまの言うとおりの人物です」

 と、コアジサシはさえずった。

 定時の帰宅時間はとおに過ぎている。そのような時刻にも関わらず、そのビルのワンフロアにだけは明かりがついていた。コアジサシはエリーの指示により、そのなかにいる人物を偵察してきたのだった。

「エリーさまのおっしゃるとおりでした。『にぎやかしに充分な程度のはなのある、一定の人気は得られそうな容姿をした、いかにもこれから事件に巻き込まれますよー的雰囲気をかもしだしている人物』、たしかにそのような女性が、ひとりおりました」

 と、コアジサシは言った。

「やっぱりね……」

 エリーはコアジサシの報告を聴くと、満足そうにうなずいた。

「…………」

───どんな人物だよっ⁉

 しかし、エリーがわざわざコアジサシをつかって探させた人物、ということは……、

「そ、その人が今日、おそわれる……?」

「そうよ」

 猫手川の問いかけに、エリーはこくりと、うなずいた。


       4


 檸檬れもんの色をした街灯がいとうが、ちらちらと不安定に明滅めいめつしている。

 人影もなくなり、色を濃くした夜と静寂が、あたりに満ちていた。

 エリーを先頭に、そのうしろには白い長毛種と天色の猫がつづき、さらにそのうしろに、猫手川が歩んでいる。足音を立てず、しのぶように、一行は、その女性を追っている。

 まずはじめに猫手川が驚いたことは、その女性の第一印象にあった。

 時はわずかにさかのぼる──


 おそらくはサービス残業を終えたあとなのだろう、その女性は、ビルの正面玄関から、颯爽とあらわれた。

 その様子を、影となった植え込みから見つめていた猫手川は……、

「…………」

───うそだろ……?

 無言のうちに、そう思った。

 なぜなら彼女は、まぎれもなく、にぎやかしに充分な程度の華のある、一定の人気は得られそうな容姿をした、いかにもこれから事件に巻き込まれますよー的雰囲気を醸しだしている人物だったからだ。

 猫手川は、驚きをそのまま映したその双眸で、エリーを見つめた。

 エリーは、こくりとうなずき、

「彼女よ」

 と、小さく言った。

 その女性は、やや疲れを感じさせる表情で小さく溜め息をつくと、一転、表情にきらめきを宿やどし、大きく伸びをしてから、かろやかな足取りで帰路についた。

 その、次第に小さくなってゆく背中を見守る一同。

「ねえ、あの人ってさ──」

 橘みやびが、ささやくように言った。

「いかにもこれから事件に巻き込まれますよー的雰囲気を醸しだしている人だねぇ。にぎやかしに充分な程度の華のある、一定の人気は得られそうな、かわいらしい人だけどさ」

 と。

 猫手川は激しくうなずいた。

 しばらくののち、エリーの号令のもと、一行はその女性を追って、歩きだした──

 そうしていま、彼女は、おあつらえむきに、わざわざ街灯の切れかけた、人気ひとけのない、不穏ふおんな雰囲気を醸しだすこの道を、びくびくしながら歩いているのである。

 なぜこの道を通勤路にチョイスしたのか。

 なぜそんなにも、ある程度の華のある、一定の人気は得られそうなかわいらしい容姿を、おびえた表情でぬり込め、びくびくしているのか。

 なぜそんなにも、これから事件に巻き込まれますよー的雰囲気を醸しだせるのか……。

 猫手川には、わからない。

 けれどもそれは、いま、目の前に展開している、まぎれもない事実なのだった。

 張りつめたストリングスが鳴るような静寂のなか、嫌が応にも緊迫感をあおる革靴の音が、異常なほどむだに響いていた。

 まず間違いなく起きるであろう事件のバックグラウンドは、こうして、勝手にできあがっていた。

 驚くより他ない……。


 猫たちは、しなやかに、暗闇にけるようにすすんでゆく。

 彼ら猫のとおったあとには、ただ、静寂だけが残った。

 これほどまでに尾行びこうに適した動物が、他にいるだろうか。かつて、市のランドマークタワーから飛びおりた時にも実証済みではあるが、猫の肉球の性能には目を見張るばかりである。彼らの肉球は、マシュマロにも勝る柔らかさで衝撃を吸収し、余計な音を立てないばかりか、異常なほどかわいい。それぞれの被毛の色に準じて、さまざまな色をしており、鼻の色との類似性るいじせいも見られるが、必ずしもその限りではない。白猫であれば大抵はピンク。ちゃトラであればオレンジ。キジトラやサバトラであれば、大体は、いとかわいらしき小豆あずき色をしている。三毛猫や、ブリンドルといった複数の色からなる被毛をしていれば、肉球も複数の色をしている場合が多く、そのどれもが異常なほどかわいい。

 そしてなにより、そのさわり心地ごこち

 肉球をまくらにして眠りたい……。

 ライオンや、トラなどの、大型の猫科動物ならばそれが可能なのではないか、などと、猫手川の思考が夜のお散歩をはじめたその時、明滅を繰り返していた街灯が、一瞬……、

 ふっ──

 と、すべて消えた。

「猫手川さまっ! きますっ!」

 上空から、するどい鳴き声が聴こえた。

 猛禽類もうきんるいにも勝るとも劣らないハンターの双眸で、異変をらえたコアジサシの声だった。

 闇から影がおどりでた。

 影はそれ自体が膨張ぼうちょうするかのように、女性の背後に迫った。

 再び点灯した街灯に照らしだされたその影は、非道ひどく季節外れの厚手の外套を身にまとっており、高々と振りあげられたバールのようなものが、街灯の明滅にあわせるかのように、ぎらぎらとにぶい光を放っていた。

「あぶないっ!」

 走りながら、猫手川は叫んだ。

 その叫びが先を行く彼女のなかで警告の意識を形づくるよりも早く、猫手川はその女性に覆いかぶさった。猫手川の背中にバールのようなものが振りおろされ、厚い肉をのばす時のような鈍い音がした。猫手川は、くぐもったうめき声をあげて倒れた。

「こんにゃろーー!」

 先陣を切って飛びついたのは、天色の猫、橘みやびである。

 横一閃、鋭くのびた爪で描かれた四本のラインが男の顔をかすめた。

「ちぃっ、外した!」

 悔し気に舌打ちをした橘みやびの背後から、白い毛に被われた大きな手がのびて、男の顔を下方から斜めに切り裂いた。

 短い悲鳴があがり、サングラスと帽子が宙を舞った。

 男はそのままうしろに倒れ込んだ。

 エリーは、仰向けに倒れた男の胸に跳び乗った。

 ヨーロッパには古くから『猫はいきぬすむ』という言い伝えがある。

 猫とともに暮したことのある人ならば、だれもが経験があるのではないだろうか。夜、得も言われぬ寝苦しさに目を覚ますと、胸のうえにすわり、あなたを見おろす愛猫の姿を見たことが。猫は低いところにいることをあまり好まない。新聞紙いちまいでも、地面より高い場所を好む生き物だ。『息を盗む』という伝承のはじまりも、案外そのような猫の習性からきているのかもしれない。もっとも、猫は、魔女の従者に相応しいなんらかの魔力をもっていて、そのちからで人の息の根をとめるのだと言われれば、それを否定することもまた、むずかしい。ともあれエリーは、古くから伝えられている猫の伝承を、彼女なりのやりかたで、現代まで継承しているのだった。

 倒れた男の胸に跳び乗ったエリーは、苦し気にあえぐ男を冷ややかに見やり、そうして、艶やかな絹のような黒色の手で、男のあごを打ち抜いた。

 夜の闇に冴え冴えとするような白目をむいて、男は気絶した。


       6


 街灯がほの明るく照らす公園に、外套姿の男が正座している。

 取り囲む猫たちの爪が、檸檬色の灯りに鈍く光り、その様子を無言のまま見つめるその男は、もはや抵抗する意志を持ってはいない。

 見ればまだ、幼さの残る細面の青年であった。

 容貌の線の細さに見合った、ひょろりとした体格。身体に不釣り合いな大きな外套と、サングラスがなければ警戒心の抱きようもない、そのような青年だった。

 青年は、さめざめと泣いていた。

「こいつらに復讐してやるつもりだったんです……」

 青年は、ぽつりと言った。

「どういうことだ?」

 背中をさすりながら、まだわずかに苦味を顔に浮かべた猫手川はたずねた。

「それは──」

「わたしが説明するわ!」

 と、エリーが割って入った。

「すべてはローズちゃんの言ったアイスにつながるのよ!」

「いや、おまえには聞いてないから。ねえ君、ちゃんと説明しておくれ」

 猫手川がそううながすと、青年はまだあどけない顔に、反省と、後悔の色を浮かべて、ゆっくりと口を開いた。

 が──

「わたしは思った。ローズちゃんが言ったアイスの種類を全部おさめるには、家庭用の冷凍庫では不可能だとね」

 しゃべりだしたのはエリーだった。

「……いやだから、お前には聞いてないって」

 しかしエリーは止まらない。

「そこでわたしは気がついたのよ、この事件には業務用の冷蔵庫が絡んでいるとね。この街に業務用冷蔵庫の会社は一件しかない! そう、それがあなたの勤めいている会社よ!」

 エリーは人間でいう人差し指の爪を立てて、ビシっ──と、被害者となりかけた女性を指さした。

「あ、あなたの言うとおりです……」

 にぎやかしに充分な程度の華のある、一定の人気は得られそうな容姿をした、いかにもこれから事件に巻き込まれますよー的雰囲気を醸しだしているその女性は、いまだふるえる声でそう言った。

 あの涼やかなペンギンのロゴマークの会社は、業務用冷蔵庫の会社だったのである。

「ここまでわかればあとは簡単だった。その会社で、ある意味幸運な不幸な人物を特定すればいいだけ。そうしてわたしたちの罠にかかったのが──」

 エリーはまた、人間でいう人差し指の爪で青年を指し、

「あなたよ!」

 びしり──と、言った。

 エリーは猫手川を見つめて、ふふん、と、得意気に鼻を鳴らした。

「…………」

 そう、猫にはこのようなところが多分にあるのだ。

 常ならば、人間の動向など我関せず、自由気ままな印象の強い猫という生き物。しかし猫は、自分の手柄を認めてほしいという承認欲求が、思いのほか強い生き物である。

 要するに、かまってほしいのである。

 もちろんそれは、自分のタイミングで、気の向くときだけ、だが。

 ある日突然、目の前に、ねずみさんやすずめさんの成れの果ての、無惨ななきがらを見つけても、ヒステリックに叫んではいけない。獲物の先のその角で、猫はあなたを見つめている。そして、待っているのだ。あなたの賞讃の一言を……。

「エ、エリーはすごいなー……」

 と、猫手川は言った。

「…………」

「よくわかったなー。さすがエリーだなー……」

 と、猫手川はつづけた。

「そうでしょうとも!」

 エリーはとても上機嫌になった。

 これをしないことには、話がすすまないのだった。

「それで、なんでこんなことをしたんだ?」

 と、猫手川はあらためて、青年にたずねた。

「その業務用冷蔵庫と、きみの犯行はどうやってつながるんだ?」

 名探偵エリーによる、大量のアイスからの一点突破で、事件を未然に防ぐことはできた。しかし、動機はあきらかにされていない。ここまで首を突っこんだからには、その動機まで、猫手川は知りたかった。

 青年はくちびるを噛みしめて、震える手に握られていた*バールのようなもの*を差しだした。

 猫手川は首をかしげた。

 はじめは観念して凶器を差しだしたのかとも思ったが、どうやらそうではない。猫手川をまっすぐに見つめる青年の双眸には、玉のような涙がみちていた。

 L字を描く、バールのようなもの。

 猫手川はそのバールのようなものを手にとった。その瞬間、皮膚が張りつくような異常な冷たさを感じた。それは金属のもつ冷たさとは微妙に異なる、言うなれば冷気であった。

「なんだこのバールのようなものっ⁉」

「バールなんかじゃありません!」

 青年は怒気を孕んだ声で言った。

「だから、バールのようなものと……」

 『バール』ではないからこそ、『バールのようなもの』と呼ぶのである。

 『のようなもの』とは、『形容されたもの』ではない『もの』なのだ。

 『やかんのようなもの』と言えば『やかん』ではない。『冷蔵庫のようなもの』と言えば『冷蔵庫』ではない。『人間のようなもの』と言えば、それは『人間』ではないのだ。

 ただし、例外もある。大変柔軟性に富んだ便利な言葉ではあるが、取り扱いには十分な専門知識が必要であることを、どうかお忘れなきよう。


【ヒント】男女間の諸問題や、人間関係に関する言葉


「ヘビだ!」

 と、猫手川は叫ぶように言った。

 そのバールのようなもの。

 それは、ヘビであった。

 バールのようにL字型をしたまま、カチカチに凍りついた、ヘビであった。

「ああ、僕のエリザベス……」

 猫手川の手から取り返したそのヘビに、青年は涙をこぼしながら頬ずりをした。

「ちょうちょだー」

「夜に飛ぶちょうちょなんてめずらしいにゃあ」

「あれはクレヤボヤントバタフライといって──」

「…………」

 猫たちは、早くもこの話に飽きたらしい……。


 青年は四人家族だった。父、母、青年、そして『ヘビのエリザベス』の四人家族である。

 衣食住にみたされた生活。適度な倹約けんやくと、適度な贅沢ぜいたくは、青年の家族に健全な幸福をもたらし、彼らは自他ともに認める、なに不自由のない幸せな家族だった。青年の母のささやかな贅沢は、アイスであった。青年の母は大のアイス好きだったのである。そのせいで、家の冷蔵庫の冷凍室はいつも満杯だった。それでも母はアイスを買ってくる。

 特売でもないのに、だ!

 ごうやした青年の父は、ある日、アイス好きの母のために業務用冷蔵庫を買ってきた。それが青年の、いや、青年とエリザベスの、悲劇のはじまりだった。ヘビは湿った暗がりを好む生き物だ。エリザベスは人知れず、ある日我が家に現れた業務用冷蔵庫に強い興味を抱いていたのだった。

 その日エリザベスは、買ってきた大量のアイスをしまう母の目を盗んで、するりと業務用冷蔵庫に入りこんだ──


 そのようなわけであった。

 あまりにも長い間、姿を見せないエリザベスを不審に思った青年は、どうかここにはいないでくれといのりながら、その業務用冷蔵庫の扉を開けたという。

 青年は過去を再現するかのように、震える手で、冷たくなったエリザベスを抱きながら言った。

「そこには、エリザベスがいました……。お徳用のアイスの箱にはさまれて、首を直角に折り曲げて、凍りつく彼女が……」

 と。

「…………」

───なるほどね……。

 そして青年は、その怒りを、両親ではなく、無謀な冒険をしたエリザベスにでもなく、業務用冷蔵庫の製造会社に向けたのだった。

 連日、その会社の社員を尾行しては、復讐の機会をねらっていたのだという。あるいはこのヘビ青年の性格を考えるに、すんでのところで戸惑いが生じて、そのたびに犯行を躊躇ちゅうちょしていたのかもしれない。どちらにしても、愛するペットを亡くした飼い主のとむらいとしては、あまりにもゆがんだ行動であった。

 酌量しゃくりょうの余地はない。

 そう思う反面、猫手川のなかには、どうにもいたたまれない気持ちもある。

「早く帰るわよ」

 と、エリーは言った。

「……で、でも…」

 と、猫手川は口ごもった。

 猫手川には、青年をこのまま置いて帰ることは、あまりにも非道いことのように思えたのだった。

「ひたパンよ」

 そんな猫手川を見つめて、エリーは不敵に微笑んだ。


       7


 ヘビ青年を引き連れて、小走りで、小高い丘のうえにある洋館へと帰ってきた一行。

「まだ生きてる⁉」

 猫手川は叫ぶように言った。

五老峰ごろうほう老師ろうしを知ってる?」

「ま、まあ……」

「老師はね、MISOPETHA-MENOSミソペサ-メノスという秘術を施されて、一年に十万回しか鼓動しない心臓を手に入れたのよ」

 と、エリーは言った。

 人間の心臓は、一日に約十万回鼓動するという。しかし五老峰の老師の心臓は、一年間に十万回しか鼓動しないというのだ。その後、二百三十四年という年月を生き続けた老師は、その実、肉体年齢にして二百三十四日しか経過していなかったという。

「パッシブか?」

「パッシブよ。わたしはあのヘビのアンタレスにMISOPETHA-MENOSミソペサ-メノスの痕跡を看取かんしゅしたわ」

「はぇー」

「加えてヘビは元来、体温が0℃以下に下がっても生き延びることができる『凍結耐性』という特殊な能力をもっているのよ。凍り付いているのは外皮の外側に付着した水分よ」

「パッシブかにゃ?」

「パッシブよ。でも早くしないと手遅れになるかもしれない。すぐお湯をかすのよ!」

 パッシブスキルかどうかが気になる一行。

 猫手川はすぐさまキッチンに飛びこみ、たらいを用意してお湯を沸かしはじめた。

「ついでにミルクティーもお願い」

 と、エリーは言った。

 猫手川はすぐさまやかんを火にかけ、茶葉と牛乳を用意した。

 そうしてしばらくののち……。

「さあ、ひたしちゃおうねー」

 橘みやびはその名のとおり優雅な所作で、エリザベスを、とぷん──と、たらいのなかになみなみと注がれたミルクティーにひたした。

 そうして、さざなみを起こすように、しばしエリザベスを泳がせると……、ぐにゃり──

「シャァーーーッッ!」

 ヘビは、目を覚ました。

「エリザベスーー!」

 青年は滝のような涙を流しながら、うなぎつかみのように、ミルクティーの香りのするヘビをつかんだ。

 エリザベスはがぶがぶと青年の手を噛んだ。

 感動の再会である……。

 ちなみに、たらいの中身がなぜミルクティーなのかというと、お湯を沸かしながら紅茶とミルクを取り出した猫手川を見て、小出毬が気を利かせたからだった。鳥小屋をつくるといいながら、立派な東屋を建設してしまう、彼女らしいうっかりであった。

 この洋館の管理人、天照あまてらす小出毬は、晩ごはんの残り物の肉団子を、エリザベス与えている。

 エリザベスはそれを、ぺろり、と、丸飲みにした。

「シャァー」

「はいはい、お替わりもありますから、ちょっと待っててね」

「シャア~」

「あらあら、それは大変だったね」

 かいがいしくヘビのお世話をしている小出毬。

 ようやく腰をおちつけた猫手川は、小出毬の淹れてくれたあまいミルクティーを飲みながら、そんな小出毬の様子をじっと見つめていた。肉団子のお替わりを持ってきた小出毬は、エリザベスを手の平で包むように撫でながら、うんうん、と、相づちをうっている。

 ふと、わきあがる疑問……。

「コデマリさん、エリザベスの言葉がわかるんですか?」

 猫手川は、至極まっとうな質問をした。先刻より、小出毬の相づちは、単なる相づちの域を逸脱している。

「ええ。わたしヘビさん語が得意なんですよ。なんでも『ぱーせるまうす』というんだそうです」

 と、小出毬は微笑んだ。

「そ、そうなんですか。変わった特技をお持ちで……」

「あのー……、わたしそろそろ……」

 おずおずと声をかけてきたのは『にぎやかしに充分な程度の華のある、一定の人気は得られそうな容姿をした、いかにもこれから事件に巻き込まれますよー的雰囲気を醸しだしている』彼女だった。彼女はなりゆきでついてきて、みんなと一緒にミルクティーを飲み、そうしてしばらくのんびりとしていたのだった。

「どちらさまでしたか?」

 と、小出毬は首をかしげた。

 それもそのはず、たらいにミルクティーをいれ、ヘビの解凍ショーから、その介護まで、小出毬はいままで休みなく動きつづけていたのだ。ましてや普段からやかましいこの洋館。ひとり人間が増えたところで、いちいち気にかけていては、この洋館の管理人は勤まらない。

「まさか……、猫手川さんの彼女さん……」

「いえっ、ちがいますよ!」

 早合点した小出毬に、猫手川はあわてて言った。

「でも、こんな深夜に若い男女がご一緒だなんて……」

「いえっ、これにはわけが──」

「どのような?」

 あわてふためく猫手川と、のっぺりとした黒色の双眸で猫手川を問いつめる小出毬。

 そんなふたりの様子をぼんやりとながめる、話題の中心人物である彼女は、ふと、『のようなもの』のことを思い出した。

───誤解のないように伝えなければならない!

 彼女のなかに、よくわからない、決然とした使命感のようなものが芽生えていた。

 彼女を救ってくれた猫手川を、今度は自分が救わねばならない、と、思ったのだ。

『のようなもの』とは、『形容されたもの』ではない『もの』なのだ。

 彼女はひとり、決意も新たにうなずいた。しかし彼女は、『のようなもの』の取り扱いに関して、あまりにも未熟であった。

「わ、わたしは、猫手川さんの彼女ではありません!」

 彼女はきっぱりと言い切った。そうして、

「*彼女のようなもの*です!」

 と、言った。そうしてわざわざ、こう、つけ加えた。

「それに猫手川さん言ってましたよ。あなたは*赤の他人のようなもの*だって。違うんですか?」

 自分の仕事に達成感をおぼえた彼女は、満足げな表情で、猫手川を見つめた。

「…………」

「…………」

 これこそが、『のようなもの』の例外なのだった。

 とりわけ人間関係において『のようなもの』を使用する際には、殊更に注意を要するのである。

『妻のようなもの』と言えば『内縁の妻』をあらわし、『愛人のようなもの』と言えば『愛人』を示唆する。『浮気のようなもの』と言えばそれはもう『浮気』なのであった。 

「あら、猫手川さん、襟元が着崩れてますわ……」

 と、小出毬は言った。

 小出毬はヘビのようにしなやかな手つきで猫手川のかすりの着流しの襟元をつかむと、きゅっ──と、しめあげた。

「これでよし。いつもお似合いですよ」

 小出毬は微笑んだ。

 いつもどおりの着流きながしに、赤いローカットのスニーカーを履いた猫手川は、白目しろめいて気絶した。

 その冴え冴えと剥かれた猫手川の白目をみて、わずかに落ち着きを取り戻した小出毬は、元来のおっとりとした性質にしてはめずらしく、やや、強い口調で言った。

「ところでみんな、いつも言っていますけど、あまり知らない人の前でしゃべってはいけませんよ!」

 と。

 それはエリーら、猫と鳥に対しての言葉だった。

「もし、こころない人たちに知られてしまったら、あの、アルフのように、か、解剖されてしまうかもしれないんですからね……」

 小出毬は、その言葉を口に出すことすらも辛そうに、そう、言ったのだった。

 『アルフ』というのは、かつて放映されていた海外のドラマである。宇宙船の故障で地球に不時着した、毛むくじゃらの宇宙人アルフと、気のいいアメリカ人一家のホームコメディだ。気のいい宇宙人アルフは、ほどなくアメリカの生活に馴染むのだが、宇宙船墜落の痕跡を検知した軍の研究機関に追われることとなってしまう。

 小出毬は、このようなしゃべる猫たちと生活をともにするにあたって、彼らが無用な危険にさらされないようにと、絶えず、気にかけているのだった。

 ちなみにアルフは解剖されていない。

「こ、コデマリさんの言うとおり、だぞ……」

 きつくしまった着流しの襟元をゆるめながら、息も絶え絶えに猫手川は同意した。

 猫手川もそのことを、日々心配している。しゃべる動物は数あれど、そのことを知っている人は、その数に反してあまりにも少ないのだから。

 猫たちは、『はーい』、と、素直に返事をした。

 しかしそれが、完全な了承の意ではないことを、猫手川は知っている。おそらくは、小出毬も。

 彼ら猫というものは、何にも縛られない。猫とは元来そのようなものである。

 いまは素直に返事をしたが、きっと、しゃべりたければしゃべるし、しゃべりたくなければしゃべらない。口に合わないごはんは意地でも食べないし、わざわざ買ってきたお高い猫用ベッドも、気に入らなければ絶対にそこでは寝ない。猫撫で声ですり寄ったかと思えば、いくら呼んでもこっちを向かない。人間の一生よりも遥かに短いその一生を、気ままに生きて、容易には回復しえない爪痕を、こころに残して去っていく。猫とは、そのようなものである。

 それでも彼らをいとおしいと思わずにはいられない愚かな生物が、この地球上にあふれているのは、熟々つくづく、奇なることだと、猫手川は思うのだった。


 ある日の夜のこと。

 この洋館の住人である女吸血鬼に言わせれば、早朝である、深夜。

 始祖吸血鬼のジュディは、夜のお散歩に飛び起ち、猫たちはそろって眠りについていた。

 紫色にくゆる静かな夜のなか、猫手川はひとり椅子にすわり、読みかけの本を開いた。

 このように静かな時間は、彼にとってそうそう訪れるものではない。それは、猫手川が恋焦こいこがれつづける、静寂のひとときだった。

 今夜は徹夜で本を読もう、と、こころに決めた。

 コーヒーをひとくち、のどに流しこむ。

 かれは元来紅茶党であるが、夜更かしの際にはコーヒーを飲んだ。砂糖もミルクもたっぷりの、あまあまコーヒーではあるが、眠気覚ましにはカフェインを摂らなくてはならないからだった。普段コーヒーを飲むことのない猫手川には、雪の印のコーヒーくらいでも、もう十分に効果覿面こうかてきめんなのだ。

 そのようなわけで、どれほどのあまあまコーヒーであっても、猫手川はコーヒーを飲むたび、少し顔をしかめてしまう。

「コーヒーより玉露ぎょくろのほうがカフェインが多いにゃ」

 どこからともなくあらわれた宇宙は言った。

「ええっ⁉」

 それは、猫手川がここ数年のうち、一番驚いた瞬間だった。

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黒猫エリーと、入り江 大空リム @oozora_rim

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