第7話 猫手川、引くに引けない事態を痛感す


       1


 ある昼下がりのこと。

 ものを言う猫、『黒猫くろねこエリー』の『自称じしょう』飼い主である猫手川ねこてがわは、自室で読書をしていた。

 猫手川の部屋は、小高い丘のうえに建つ洋館の二階にある。

 その猫手川の部屋では、猫と鳥が、午後のティータイムを楽しんでいる。

 それは日常すぎるほど、日常の光景だった。

「オレはあることに気付いてしまったにゃ……」

 大型の長毛種ちょうもうしゅである白猫しろねこ宇宙そらは、ことさら真面目な表情でそう言った。

 宇宙は、この洋館の管理人であり、市井しせいの女神さま、小出毬コデマリの飼い猫である。もっとも宇宙は、自分が飼われているとはつゆほども思っていないだろう。

 また、小出毬は小出毬で、猫を、飼われるような存在だとは思っていないのかもしれない。

 小出毬は、猫手川の思い人でもある。

 宇宙は、開け放たれた窓から、眼下がんかにひろがる家々の屋根をのぞんでいる。

「なにに気付いたんだ?」

 猫手川は、読みかけの本をおいてたずねた。

「それはにゃ──」

 宇宙は猫手川に向き直り、

「猫はどんな高いところからおちても死なにゃい。ということにゃ」

 と、言った。

「…………」

───はぁ?

 と、猫手川は思った。

 猫手川には、宇宙が言わんとすることが、よく理解できなかった。

「ど、どういうことなんだ……?」

「論より証拠にゃ」

 宇宙は言い、なんの躊躇ためらいもなく、窓からぽーん、と、飛んだ。

「なっ⁉」

 驚いたのは猫手川である。

 いくら猫の身体能力がすぐれているとはいえ、ここは二階なのだ。

 猫手川はいそいで部屋を飛びだした。

 もちろん、階段をつかって、である。

 猫手川の部屋は、中庭に面している。

 小出毬が丹念たんねんに手入れをしているその中庭には、季節の草花が生き生きと生い茂っていた。

 その中庭の、猫手川の部屋の真下に、宇宙はいた。

 見れば、その口角こうかくをわずかに持ちあげて、それでいて神妙な面持おももちなのである。

「お前、いきなりなにやってるんだよ!」

「どうにゃ?」

 猫手川はあからさまな非難の声をあげたのだが、宇宙は意にも返さず得意気に言った。

「なにが⁉」

「オレを見るにゃ」

「…………」

 見たところ、そこには、普段となにひとつ変わらない宇宙がいる。ただ、若干じゃっかん、したり顔をしているところが、妙な胸騒ぎを起こさせる。

「見たけど……」

「無事だにゃ」

 と、宇宙は言った。

「それはよかったけどさ、あんまり無茶なことするなよ。お前になにかあったらコデマリさんに申し訳がたたないだろ」

「でも無事だにゃ」

 と、宇宙は再び言った。

「ま、まあ、それはそうだけどさ……」

「まったくの無傷だにゃ」

「う、うん……」

「あの高さからおちたのににゃ?」

「あ、ああ……」

「これでわかったにゃ? 猫はどんな高いところからおちても死なないにゃ」

「…………」 

「死なないにゃ」

「い、いや、ちょっと待て! お前、もっと高いところから飛びおりる気じゃ……?」

「…………」

「…………」

───なぜ目をそらすっ⁉

 猫手川は、胸騒ぎが現実となりつつある気配を、嫌というほど感じていた。

「待て待て! 僕は絶対にそんなことさせないからな! お前になにかあってみろ。コデマリさんがどれほど悲しむかお前だってわかるだろ! 僕だって、お前が非道ひどいケガでもしたらどれほど悲しいか」

「……だから猫手川にだけは、言っておくのにゃ」

 と、宇宙は言った。

「オレもさすがに、いきなりばかみたいに高いところから飛びおりようとは思わないにゃ。だからにゃ、猫手川に手伝ってもらいたいのにゃ──」


       2


 宵闇よいやみがあたりを包みこんでいる。

 一流シェフも素っ裸で逃げだすほどの、小出毬の絶品料理を堪能たんのうし、デザートを食べ、コーヒーで締めくくったそのあと、猫手川は宇宙にいざなわれるままに部屋をでた。

忍者にんじゃだにゃ」

 と、宇宙は言った。

 忍者は、その修行のためにを植える。

 そうして、日、一日と成長するその樹を毎日跳びこえ、やがては常人をはるかに超える脚力を身につけるのだという。

「でも、いまから樹を植えて、その成長を待っていたら、もう、どんなおろかな人間だって光に帰還してしまうにゃ──」

 よくわからない例えだが、要するに、ながくなるということだろうか。

「そこで、これにゃ!」

 と、宇宙はゆびさした。

 その場所は、近ごろ工事のはじまった建築現場だった。

 更地さらちになったその土地のちょうど真ん中では、四方しほうを縄で区切って、地鎮祭じちんさいおこなわれていた。

「おそらくここには、五階建てのマンションが建つにゃ」

 と、宇宙は言った。

 猫手川が建築計画の看板を見るに、たしかにそこには五階建ての集合住宅が建つようであった。

 宇宙の計画とは、このようなことである。

 その住居の建築にあわせて低いところから飛びおりていき、最後には五階の屋根から飛びおりる。こうすることで、自己鍛錬をしつつ、彼の持論でもある『猫はどんな高いところからおちても死なにゃい』を、安全かつすみやかに証明することになるのだという。

「でも……」

 猫手川は、宇宙の計画を了承しかねるのだった。

「これは猫手川のためでもあり、オレのためでもあるのにゃ」

 と、宇宙は言った。

「オレは『猫はどんな高いところからおちても死なにゃい理論』を確信はしているけれど、実際に試したことはないにゃ。にゃから、正直なところ、もしかしたらダメな高さがあるかもしれないにゃ──」

 宇宙は、いつになく真剣なまなざしで語っていた。

「この理論を構成している前提条件はふたつにゃ。ひとつは猫であること。そしてもうひとつは、その猫が絶対にできるという確信をもっていることにゃ。オレはチャレンジしたいのにゃ! オレ自身のために……にゃ」

「…………」

───こいつ……。

 猫手川は、宇宙の熱意を肌で感じていた。

「やっちゃダメにゃ?」

 と、宇宙は非道く真面目な顔をして、猫手川に問いかけた。そのトパーズ色をした双眸そうぼうに、猫手川への信頼と、曲げたくない意志を、同時にうつしだしながら。

 危険な目になどあわせたくはない。

 それは猫手川の、こころからの望みだった。

 けれど、あきらめてほしくない、という思いが、彼のなかにふつふつときあがっていた。

「……わかったよ」

 と、猫手川は渋々しぶしぶ言った。

「でも、僕が無理だと思ったら、そこでチャレンジは終了だからな」

「わかったにゃ!」

 宇宙はパァっと顔を輝かせて、元気よくうなずいた。

「じゃあ、さっそく今日からはじめるにゃ」

「えっ?」

 彼らの目の前には、更地がひろがるばかり……。

 宇宙は罰当たりにも、神さまのまつられた供物台くもつだいうえに飛び乗ると、そこから、ひらり、と、飛びおりた。

「これでよしにゃ」

 と、宇宙は言った。

「…………」

「オレは猫手川の言いつけをちゃんと守るにゃ」

「あ、ああ……」

「えらいにゃ?」

「あ、ああ、えらいぞ」

「じゃあ、ご褒美はなにかにゃ?」

「…………」

 こうして、宇宙の挑戦は、はじまったのだった。

 帰り道、猫手川は宇宙にアイスを買ってあげた。


   3


 翌日。

 夕食後に、くだんの建築現場をおとずれると、そこには建物の基礎ができあがっていた。

 けっして小さくはないその全体像の、はじめの一歩が、そこにはあった。

 たった一日で、これだけの面積にまたがる基礎を築いてしまう、職人さんたちの尽力の結晶に、猫手川は畏敬いけいねんをおぼえた。

 基礎の高さは、およそ五十センチといったところだろうか。

 宇宙は、そこから飛びおりた。

「今日もがんばったにゃ!」

 と、宇宙は上機嫌で言った。

「がんばったにゃ?」

 と、宇宙は、もう一度言った。

「あ、ああ……」

 帰りに豆大福まめだいふくを買ってあげた。

 翌日。

 あいにくこの日から数日の間、雨が降った。

 当然のごとく、工事は中止となる。

 降りしきる雨のなか、それでも宇宙は挑戦をつづけていた。毎日、五十センチ程度の基礎から、飛びおりるのである。

 ふたりはあまがっぱを着て、それをつづけた。

 天候は回復しないまま、週末となった。

 当然のごとく、工事はお休みとなる。

 この週末の二日間も、宇宙は基礎から飛びおりつづけた。

 毎日、なにか甘いものを買ってあげた。

 デザートを食べたあとだというのに、だ!

 そうして、週がけ、雨もんだその日の夜のこと……。

 いつものように建築現場に到着した猫手川は、呆然と、たちつくした。

 目の前に、巨大な鉄骨の、五階建ての骨組みが完成していたからだった。

 それは従来の作業工程なのか、あるいは、つづいた雨の間にたくわえられた職人さんたちの心意気なのか、猫手川にはわからなかったが、当初の畏敬の念はどこへやら、猫手川は自然と──こいつらやりやがった──と、思った。

「そ、宇宙、も、もう中止だ──」

 猫手川が制止を呼びかけたその時、

 ぷにっ!

 と、グミがつぶれるような音がした。

「ひぃ!」

 猫手川は、小さく悲鳴をあげた。

 おそるおそる、その音のした方に顔をむける……。

 紫色の闇のなか、わずかばかりの光を拡大するように、おぼろになった白い猫の輪郭りんかくが、ぼんやりと浮かびあがっていた。

 そこには、地上五階建ての高さから飛びおりた宇宙がいた。

 猫手川の視界は一瞬、目映まばゆいばかりの白色に包まれた。

 顔面を強打した時のように、つーんと、鼻の奥が痛んだ。

 甘くみていたのだ……。

 どうせすぐにあきると思っていた。

 猫はきまぐれな生き物だからだ。

 猫手川は甘くみていた。

 『猫はどんな高いところからおちても死なにゃい理論』の証明にかける、宇宙の熱意を。そして、この国の職人さんたちの勤勉さと、作業スピードを……。

 そもそも、『猫はどんな高いところからおちても死なにゃい理論』はともかく、宇宙の提唱する『忍者特訓』はまったく意味がわからない。ただあの時は、宇宙の並々ならぬ熱意にほだされただけだったのではないか、という疑惑は、あの日部屋へと帰って、寝る前から感じていた。

 猫手川とて、宇宙を危険な目にはあわせたくない気持ちは十二分にあった。

 しかし、いままで彼らとともにすごしてきた猫手川は、彼ら猫の自由気ままな性質も、充分に理解しており、きっと、すぐにあきるだろうと、たかをくくっていたのである。

 また、翌日からつづいた雨天も、事態を楽観視させた。

 その結果が、これである。

「……そ……宇宙……?」

 猫手川は非道くかすれた声で、身動き一つしないおぼろな影に声をかけた。

 おぼろな白い影は……、

「オレ、今日もがんばったにゃ?」

 平常運転であった。

「ばかっ! ばかっばかっ!」

 猫手川は、なかば悲鳴をあげながら駆けより、宇宙を抱きあげた。

「大丈夫かっ⁉ どこか痛いところはないかっ⁉」

 前後左右、うえもしたも、しっぽの先から耳の奥まで、ぐるぐると宇宙をまわして、ひっくり返して、逆さに吊るしてもみたのだが……、

「無事だにゃ!」

 と、宇宙は言った。

 見ればたしかに傷ひとつない。

 意識もはっきりしており、普段の宇宙そのものであった。

「これでわかったにゃ? 『猫はどんな高いところからおちても死なにゃい理論』が正しいってことがにゃ?」

 宇宙は、豊かな胸の被毛ひもうを誇らし気にふわふわさせて、そう言った。

「…………」

───たしかにほんとうなのかもしれない……。

 と、猫手川は思った。

「でも、もうこれで終わりだ」

 と、猫手川は言った。

 もうこれ以上、こんなことをさせるわけにはいかなかった。

「わかったな?」

 猫手川が確認すると、

「わかったにゃ」

 宇宙はあっさりと同意した。

「……ほんとうのほんとうに、もうしないな?」

 猫手川が念を押すと、

「もうしないにゃ──」

 宇宙は、こくりとうなずいた。

 猫手川はようやく、安堵あんどのため息をついた。

 彼らは、悪知恵ははたらくが、人をあざむくような嘘はつかない。猫手川はこれまでの経験上、そのことを知っているのだった。

「ところで猫手川? オレ、今日もがんばったにゃ?」

「あ、ああ……」

 猫手川は、ぐったりとしながらも、相づちをうった。

「猫手川の言うこともちゃんと守ってるにゃ」

「あ、ああ……?」

「じゃあ、今日のご褒美はなにかにゃ?」

 と、宇宙は言った。

「……お、お前……、もしかして……?」

 猫手川は思った。

 もうすでに、おそらく二日目くらいには、宇宙のなかで、趣旨しゅしは変わっていたのかもしれない、と……。

 帰りに、ソフトクリームと豆大福を買ってあげた。


       4 


 それからしばらくたった、ある日のこと。

 空は物憂気ものうげ鳩羽鼠色ダヴグレイの雲を浮かべ、時折、雨をおとした。けれどもその雲の先には、季節の移り変わりを報せる、高気圧の訪れをも感じさせている。

 この日、猫手川は、エリーとともに外出をしていた。

 例によって、わけもわからず連れだされた猫手川は、亀のミイラを成仏じょうぶつさせて帰ってきた。

 その帰り道のことだった。

「猫の従者じゅうしゃさま、猫の従者さま……」

 どこからか、おさない声が聴こえた。

 見れば、猫手川の服のすそをつかんだ女の子がいる。

「こんにちは、猫の従者さま」

 と、その女の子は、猫手川にむかってそう言った。

「猫の従者さま……?」

黒猫神くろねこがみさま、こんにちは」

 女の子はエリーにむかって丁寧におじぎをしてから、やさしくエリーをなでた。

「く、黒猫神……? エリー、この子知っているのか?」

「ええ。ぽんちゃんよ」

 エリーはごろごろと、のどを鳴らしながらそう言った。

 本奈美と書いて【ほなみ】と、いうらしい。

 それを宇宙が、『ぽんちゃん』と呼びだしたのだそうだ。

 少し離れたところで、若く、きれいな女性がぺこりと、会釈えしゃくした。

「あのひとが、ぽんちゃんのおかあさんよ」

 と、エリーは言った。

 猫手川もぺこりと、会釈を返した。

「ところで猫の従者っていうのは……?」

「黒猫神さまがそうおしえてくれました」

 と、ぽんちゃんは言った。

「猫の従者さま、今日はお耳がはえてないんですね?」

「お耳……?」

 ぽんちゃんは、宇宙の忍者特訓を見ていたのだそうだ。あの雨の日、猫手川がかぶっていた雨がっぱのフードが、猫の耳に見えたらしい。

「ところで、白猫神しろねこがみさまはおられないのですか?」

 と、ぽんちゃんはたずねた。

「し、白猫神……? お前ら、こんな礼儀正しくていい子に、好き放題てきとうなこと言うなよ!」

「白猫神さまによろしくお伝えください。がんばってくださいと」

 ぽんちゃんはそう言って、ぺこりと、頭をさげた。

 猫手川は、首をかしげた。

 この猫たちががんばることといえば、時折猫手川に強要する謎の行動以外では、食に関することしか思い浮かばない。

 わざわざぽんちゃんが、よろしくお伝えするまでもないことである。

「……宇宙が、なにをがんばるんだ?」

 そう、猫手川がたずねると──

「えっ。だって飛びおりるんですよね? わたしも見たかったけど、夜だからいけないんです」

「と、飛びおりるって……な、なに? ど、どこから……?」

「ランドマークタワーです」

 と、ぽんちゃんは笑顔で言った。

「…………」

───えっ⁉

 それは、以前、隕石いんせきを取りにいった浜辺に隣接している、市のランドマークタワーのことだった。

 高さは、百二十五メートルほどもある……。

「こらぁあぁーーああっ‼ 宇宙こらぁあぁぁーーーああっっ‼」

 猫手川の住むその洋館は、小高い丘のうえにある。

 その玄関を開けるなり、顔を真っ赤に染めあげた猫手川は叫んだ。

「そぉぉーーらぁぁあーー……、そらはいねがぁぁあーー……」

「ね、猫手川さん、お、おかえりなさい……。そ、宇宙なら、猫手川さんのお部屋にいると思いますよ……」

 小出毬コデマリが、少しおびえながら、そうおしえてくれた。

「あ、ありがとうございます……」

 ぎりぎりと、歯をくいしばりながらも、なんとかお礼を済ませた猫手川は、四段飛ばしで階段を駆けあがった。   

「こらぁあぁーーああっ‼」

 怒鳴どなる猫手川に、

「ごめんにゃ……」

 意外にも、宇宙は、ぺこりと、頭をさげたのだった。

「猫手川との約束を破ることににゃったのは、ほんとうに悪いと思っているにゃ。でも、引くに引けないことも、男にはあるにゃ」

 と、宇宙は言った。

「ばかっ! ばかっばかっ!」

 猫手川は宇宙のほおの毛を左右に引っぱった。

「死んだらどうするんだ‼ 男の意地がなんだ‼ 僕は絶対に認めないからな‼」

ほおっておけばいいのよ」

 と、エリーは言った。

「無責任なこと言うな‼」

「あなた、『猫はどんな高いところからおちても死なにゃい理論』を知らないの?」

「…………」

───はぁ⁉

「それにね、あなたたちと違って、わたしたちはいつでも、責任を負っているわ。自分のせいにね」

 と、エリーは言ったのだった。


       5


 その日の夜のことだった。

 地上百二十五メートルの高さに、猫手川たちはいる。

 そこは、あのランドマークタワーの屋上だった。

 先刻まで降りつづいていた小雨こさめは止んだが、月は見えなかった。

 今宵こよいは新月の夜である。

 まだ遠くのほうに、灰色をした雲が見えた。

 猫手川は雨がっぱを着ていた。

 小高い丘のうえにあるその洋館をでる時、玄関にあったかっぱをてきとうに着てきただけなのだが、そのフードには猫の耳がついており、腰にはご丁寧に、しっぽまでついている。

 おそらくは、小出毬の趣味なのだろう。

 ぽんちゃんが見間違えたのは、この雨がっぱを着ていたせいであった。

 猫手川の猫雨がっぱが、風をはらんで、ばさばさと音をたてていた。

 地上にいる時にはさほど感じなかったが、上空では押しこめるような風が吹きすさんでいる。

 タワーのしたには、たくさんの動物たちがいた。

 それはまるで、お祭りのようだった。

 そこかしこに、提灯ちょうちんをかぶった狐火きつねびがふわりと浮かび、動物たちは浴衣ゆかた法被はっぴに身を包んでいる。賑やかで、どことなくみやびやかながくが鳴り響き、だれがどのように用意したのか、出店でみせまである。香ばしいイカ焼きの香りに、鮮やかな色で目を奪うりんご飴に、動物たちが列をつくっていた。 

 人の気配は、あまりない。

 が、まったくいないというわけでもない。

 多くの人は、いつでも、このようなことには気がつかないのだった。

「いいから考え直せ!」

 と、猫手川は叫ぶように言った。

 猫手川は宇宙をがっちりと抱きしめたまま、けっして離そうとはしなかった。宇宙は、猫手川のホールドからなんとか逃れようともがいている。

「引くに引けないことが男にはあるのにゃ!」

 と、宇宙は何度も言った。

「だから、なにがあるっていうんだ‼」

 と、猫手川は何度もたずねている。

 そのような問答もんどうが、もう、ずいぶんとつづいていた。

 やがて……、

「……ぽんちゃんにゃ」

 宇宙は観念したように、そう言った。

「……ぽんちゃん…?」

「……わたしが説明するわ──」

 絹のようになめらかな被毛を風になびかせて、それまで静観していた、エリーが言った。

「どうせあなたには、言ってもわからないだろうけど……」

「それは僕が判断する!」

 猫手川がそう言うと、エリーはわずかに肩をすくめて、それからまた、言葉をつづけた。

「わたしたちはね、『猫はどんな高いところからおちても死なにゃい理論』と引き換えに、ぽんちゃんのいのちを救おうとしているのよ」

 と、エリーは言った。

「…………」

───いきなりの急展開っ⁉

「ごらんなさい──」

 と、エリーは眼下を指さした。

 わずかに視線をおとしただけで、立ちくらみの感覚がおそう。

 そのタワーのしたには、数多あまたの動物たちがいた。

「あのなかにはね、ほんとうの猫神ねこがみさまがいるわ」

 と、エリーは言った。

「猫神さま?」

「そう。あなたにもわかるでしょう? あの方たちはあれほど輝いているんですもの」

 今宵は月のない、新月の夜だった。

 よく見れば、その存在のもつきらめきが尋常ではないものたちが、群衆にまぎれて、満月にも劣らない明るさで、そこかしこで輝いている。

「バステトの女神。ナラシンハ。長靴をはいた猫族ねこぞくの王様と、王子様。ジャガーの精霊。九尾きゅうびの猫。ケットシー。化け猫、猫又ねこまた猫女ねこおんな、猫むすめ、子哭こな き猫、砂かけ猫、タマ、ホワッツ・マイケル……」

 と、エリーは次々指さした。 

「…………」

───最後の方おかしくない……?

「彼らは物語で語り継がれるような存在よ。そして彼らは、それに相応ふさわしいだけのちからをもっている。ぽんちゃんの命を救えるほどの、ちからをね……」

「ぽんちゃんはとってもいい子にゃ」

 と、宇宙は言った。

「いつもオレたちにおやつをくれるのにゃ」

「ばかっ! それは言うなって言ったでしょ!」

「…………」

───まあ、だいたいわかってた。

「だからオレは、ぽんちゃんを救うのにゃ」

「そのためにお賽銭さいせんが必要なのよ」

「お賽銭?」

「そう。あなたたちの常識ではお賽銭はお金なんでしょうけど、本来、お賽銭というものは神に祈る意識そのもののことを言うのよ。だって、お金も元を正せばただの意識の粒子なのだから」

 と、エリーは言った。

「だからわたしたちは、ぽんちゃんの命に相応しい意識をささげるの」

「エリーちゃんが気付いたのにゃ。オレが発見した『猫はどんな高いところからおちても死なにゃい理論』を完成させれば、それはお賽銭に充分な意識ににゃるって」

「宇宙は死なないわ。だって『猫はどんな高いところからおちても死なにゃい理論』は、この世のことわりなんですもの。だから、安心なさい」

 エリーはいつになくおだやかに、また、自信ありげにそう言った。 

 だからと言って、それを鵜呑うのみにできるほど、猫手川は彼らの言うことを理解しているわけではない。

 また、理解しようにも、それは到底、できそうになかった。

 しかし、彼らが、自らの命をもてあそぶような賭けをすることは、決してない、というのも、猫手川の知る事実なのだった。

 彼らの話の要点を抽出するに、ぽんちゃんは、もうすぐ死ぬ。

 しかし、彼らにはそれを救う手立てがあるのだ。

 それは、いま、このタワーの眼下にいる、猫神さまのちからを借りることだった。

 そのために、宇宙は、タワーから飛びおりるというのだ。

「これは神楽かぐらよ」

 と、エリーは言った。

「時はしも、変節へんせつのお祭り。恵みの雨は降りしきり、歳差さいさの傾きが入れ替わる。わたしたちはね、この『猫はどんな高いところからおちても死なにゃい理論』で、猫神さまたちを楽しませてあげるの」

「大丈夫にゃ!」

 宇宙は、猫手川のうでのなかで、確信的にトパーズ色の双眸そうぼうを輝かせていた。

 猫手川はエリーを見た。

 エリーは、こくり、と、うなずいた。

 そのりんとした表情を見て、猫手川はようやく、そっと、宇宙をおろしてやった。

「オレにまかせておくにゃ!」

 宇宙はちから強く言い、白いライオンのように雄々おおしく歩きだすと、

「あっ──」

 小さくつぶやき、なにもないへいたんな、たいららな床のうえで、ころんだ……。

「……あ、あしを……、くじいてしまったにゃ……」

 宇宙はうめくように言った。

 見れば、宇宙のうしろ足が、ぷっくりとれてきている。

「あら……」

「…………」

───えっ⁉

「これは……、無理かもしれないわね……」

「にゃ……」

「…………」

───ええっ⁉

 そうしていつの間にか、地上百二十五メートルのランドマークタワーの屋上のへりには、雨がっぱを着た猫手川が立っている。


       6


 猫雨がっぱが、ばたばたと、風になびいていた。

 海風は、しおの香りをたかだかと吹きあげて、渦を巻くようにとおりすぎてゆく。

 地上百二十五メートルから臨むその光景は、ゆるやかなえがいてひろがる遠景と、見つめているだけで、その気もないのに足を踏みだしてしまいそうな、そんな引力をもった近景とで構成されている。

「おお、怖っ!」

 と、猫手川はすぐさま、へりからおりた。

 そうしてその屋上のへりには、きぬのようにつややかな被毛をした黒猫が、ただひとり残った。

 エリーはぺろりと、潮風しおかぜにさらされた艶やかな前足をなめた。

「だ、大丈夫なのか……?」

 と、猫手川は言った。

「……当たり前でしょ」

 と、エリーは言った。

「ほ、ほんとうにお前が飛ぶのか?」

「しょうがないじゃない。宇宙が足をくじいてしまったんだから」

「ごめんにゃ、エリーちゃん……」

 と、宇宙は申し訳なさそうに、耳をふせた。

「なんかキャラじゃないっていうかさ……、みやちゃんあたりがぽーんと飛ぶのもありなんじゃないか?」

「なんでボクがっ! わけあって、このようなことになることになってるけど、ボクは人間だよっ!」

 と、わけあって、このようなことになることになっている天色あまいろの猫、『たちばなみやび』は、噛みつくように抗議した。

「大丈夫よ──」

 エリーは言った。

「わたしはただ、『猫はどんな高いところからおちても死なにゃい理論』を証明するだけなのだから」

「私もスタンバイしておりますゆえ……」

 一羽のコアジサシが、ばさりと、つばさをはばたかせた。

 不幸にも、れに置いてけぼりにされたこのコアジサシは、生来のハンター気質を存分に発揮して、主に食費の面で猫手川をサポートしてくれる頼もしい居候いそうろうだった。

 ものを言う動物たちのなかで、もっとも人に近しい常識をもつこのコアジサシの存在を、猫手川はいつも、こころ強く思っている。

「それにしても高いな──」

 そう言って、タワーのへりから身を乗りだした猫手川に、

「そんなに高いにゃ?」

 宇宙が追従したのだが、

「あっ──」

 と、小さくつぶやき、なにもない平たんな、真っ平らな床のうえで、また、ころんだ……。

 ころんだ拍子に、宇宙は猫手川のふくらはぎに爪をたてた。

いたっ!」

 と、猫手川が叫んだのは、もう、百二十五メートルの、空のうえだった。

「…………」

───えっ?

「あなたなにしているのよっ⁉」

 エリーの叫んだ顔が、真正面に見えた。

「えっ⁉」

「猫手川くんすっごーい!」

「猫手川さまっ‼」

「にゃー……」

「ええっ⁉」

 上空百二十五メートルのはるかなる高みから……、

「ええっぇぇえええええええぇぇぇーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっっ‼」

 地上に吸い込まれるように、猫手川の悲鳴が遠ざかっていった。


 数多の記憶が、浮かんでは消え、消えては浮かんだ。

 それは必ずしも印象にあついものばかりではない。

 取るに足らないささやかな記憶までもが、まるで宝石のように煌めいて、彼は、自分の生きてきたその軌跡きせきを、感慨深く、また、狂おしいまでに愛おしく思った。

 そうして彼は、すべてのものに感謝の念を抱き、双眸をつむっ──ることができないほどの風圧に両目は全開に開かれ、もうすでにかわききって涙もでてこない。

「いやあぁぁぁーーーーーっ‼」

 叫んだ口のなかも、最中の薄皮のようにカラカラである。

「あなたばかなのっ⁉」

 荒れ狂うばかりの風圧のなか、絹のようにすべらかな声が聴こえた。それは彼の記憶のなかでも、もっとも印象深い、黒猫の声だった。

「エリーっ⁉」

「ボクもいるよっ!」

 そう言った天色の猫、橘みやびの背後から影が踊りだし、猫手川の雨がっぱをつかんではばたいた。

「猫手川さまっ、無茶がすぎますっ‼」

 それは、コアジサシの声だった。

 コアジサシは引力と重力に逆らって、必死にはばたきつづけたが、ほんのわずかに落下スピードが減速しただけだった。

「みやちゃんっ⁉ あじこっ⁉」

「オレもいるにゃー!」

 白色の長毛を優雅に風になびかせながら、宇宙は言った。

「…………」

「……にゃ?」

「ばかっ! ばかっばかっ! お前まできてどうするんだっ‼ 足くじいているんだろうがっ‼」

「だって、みんな楽しそうだったからにゃ……」

「ばかっ!」

「状況を整理するわよ」

 こんな時にも関わらず、エリーは落ち着きはらって言った。

「みやびは元々人間とはいえ、いまは猫」

「うんっ!」

「宇宙は足をくじいているとはいえ、猫」

「にゃっ!」

「あなたは……、人間よね?」

「うんっ!」

「……じゃあ死ぬわ…」

「…………」

───いやあぁぁぁーーーーー‼

「大丈夫にゃ!」

 と、宇宙が言った。

「猫手川、オレの言ったこと思い出すにゃ」

「お、お前の言ったこと⁉」

「そうにゃ! 『猫はどんな高いところからおちても死なにゃい理論』の前提条件にゃ──」

 猫手川の脳裡のうりに、かつてそれを真剣に語っていた、宇宙の姿が映った。

 

 『この理論を構成している前提条件はふたつにゃ。ひとつは猫であること。そしてもうひとつは、その猫が絶対にできるという確信をもっていることにゃ』


「それよ!」

 大きく叫んだエリーは言った。

「あなたは猫よ!」

 と。

「…………」

───はぁ?

「もうここから助かる方法は、あなたが猫になるより他ない!」

「でも……」

「いいから、自分は猫だと信じなさい!」

 と、エリーは怒鳴った。

 それからのこと……、

暗示療法あんじりょうほうにゃ!」

 と、宇宙は言った。

「猫手川、お前は猫にゃ──お前は猫にゃ。お前は猫にゃ。お前は猫にゃ。お前は猫にゃ。お前は猫にゃ。お前は猫にゃ。お前は猫にゃ。ふー……。お前は猫にゃ。お前は猫にゃ。お前は猫にゃ。お前は猫にゃ。お前は猫にゃ。お前は猫にゃ。お前は猫にゃ。お前は猫にゃ。お前は猫にゃ──」

 猫手川の耳元で、宇宙は繰り返し繰り返し、そう囁いた。そうして、

「猫手川! お前は猫にゃ!」

「……いや、人間だけど?」

「失敗にゃ……」

「じゃあ、これよ!」

 エリーはひもの付いた五円玉を、猫手川の目の前で振り子のようにゆらした。

 しかし落下途中のため、振り子はのたうちまわるように風に翻弄ほんろうされるばかりである。

催眠療法さいみんりょうほうよ!」

 と、エリーは言った。

「あなたは猫になーる……、あなたは猫になーる……、あなたは猫になーる……、あなたは猫になーる……、あー、だるい、あなたは猫になーる……、あなたは猫になーる……、あなたは猫になーる……」

 数回繰り返したのち、エリーは魔力を宿したような艶やかな声で、しなやかに言った。

「さあ、あなたは猫よ!」

「いや、人間だけど?」

「ばかっ‼」

 その後も、あれやこれやと試したのだが……、

「……いや、僕は人間だけど?」

 猫手川には、効かなかった。

「ふふっ!」

 うなるような音をたてて荒ぶる気流のなか、橘みやびは、かろやかに笑った。

「なぜ笑うっ⁉」

 完全なる白目しろめまであと一歩といった猫手川は、叫ぶように言った。

 もう、地面はすぐそこまで迫っていた。

「みんなむだなことしてるなーと思ってさ」

「どういうことだよっ⁉」

「だってさ、猫手川くんは【猫】じゃん」

 と、橘みやびは言ったのだった。

「…………」

 数多の記憶が、浮かんでは消え、消えては浮かんだ……。

 それは、はるかなる過去の記憶。時も、場所も、その姿も違う──

「猫とは、いとかわゆきもの」

 と、その青年は言った。

「おおせのとおりにござりまする、お殿とのさま……」

「僕は猫が好きだ」

「一同、存じあげておりまする……」

「なので、名を変えようと思う」

「…………」

───はあ?

 と、家臣の者たちは思った。

「こ、古手川こてがわさま、な、なにを言っておられるのですか……?」

「ええい! 黙れ! は古手川などという名ではない──」

 お殿さま、と呼ばれたその青年は言った。

「僕は、【ねこ手川てがわだ!」

「僕は、【ねこ手川てがわだ!」

 その声は、いまここにる、黒猫エリーの『自称』飼い主である、猫手川の声と重なった。

「そうだよ。きみは猫手川くんだ!」

 と、橘みやびは、にっこりと微笑ほほえんだ。

「……だからなんなんだ?」

「……さあ?」

 遠くに見えていた灰色の雲が、すべるように接近していた。

 遠方では雲のように見えていたそれは、よく見れば、空を飛ぶ鳥の群れであった。

「今日は年にいちどのお祭りである。みな存分に楽しむように──」

「お、おさーっ!」

「な、なんだ! どうしたっ?」

「あっ、あれをごらんください-っ!」

「む……、ややっ! 全員突撃ーーっ‼」

 コアジサシの群れの長は、鋭くさえずった。

 タワーのしたでは、歓声かんせいがあがっていた。

 その動物たちの声が間近に聴こえるほどに、もう地面はすぐそこにある。

 なす術もなく落下の一途をたどる猫手川は、その時、身体がわずかに浮きあがる感覚を感じた。

「もう少しにゃ!」

 と、宇宙が言った。

「こ、これはっ⁉ 『猫はどんな高いところからおちても死なにゃい理論』っっ⁉」

「いいえ」

 と、エリーは冷ややかに言った。

「こっ、コアジサシっ⁉」

 猫手川は叫んだ。

 猫手川の身体はコアジサシに包まれていた。

 見れば、少数の部隊にわかれたコアジサシが、猫手川のしたにまわりこんでは、その落下スピードを減速させ、ばらばらになっては上空で部隊を整えて、また猫手川のしたにまわりこむ。

 そのようなことを、繰り返しているのである。

「こ、これはっ、カイザー・ラインハルトの常勝戦法じょうしょうせんぽうのひとつ、パイ生地作戦きじさくせんにゃ!」

 宇宙が興奮したように声を荒げた。

 たったいちまいの薄紙では、こぼれたワインに容易に染めあげられる。ところが薄紙でも束になっていれば、どうだ。いつかはそのワインを、一滴残らず吸い取ってしまうことだろう!

 それが宇宙の言う、パイ生地作戦の基本構想である。

 ちなみにカイザーが提唱したのはワインの例えであって、宇宙のいうパイ生地作戦とは、カイザーの試みを看破した亜麻色の髪の青年の発想による。

「カイザーそれやって負けたんだけどな……」

「猫手川さま! これはほんのささやかな恩返しでございます!」

 と、群れの長は囀った。

 しかし、いかにコアジサシの群れといえど、ひとりの人間を空に浮かばせるには無理があったようだ。そのスピードはだいぶやわらいだとはいえ、猫手川は真っ直ぐに、地面にむかって落下していった。そして、それはおそらく、再帰不能なまでに、肉体を破壊してしまうに充分な速度だった。

 もう、目と鼻の先に、猫手川の死を意味するコンクリートの大地があった。

「くっっ! 我がちからおよばず……」

 コアジサシの長が、ちからなく囀った、その時だった……、

「なんだあれは?」

 空を見あげた地上の動物たちは、口々につぶやいた。

 その空には、猛スピードで飛行する謎の物体があった。

「ガメラだ!」

「いや鳥だ!」

「いや雲だ!」

「いや大型ドローンだっ!」

 そのざわめきは時を追うごとに次第に大きくなり──

「やっぱりガメラだった!」

 と、だれかが叫んだ。

 それは円盤状えんばんじょうのもので、回転しながら、真っ直ぐに、猫手川にむかって飛んできた。

「か、亀だっ!」

 と、猫手川は叫んだ。

 それは今日、猫手川とエリーが成仏させてきた、その亀だった。

 とても大きな亀だった。

 亀はしゅるしゅると回転しながら、猫手川をその背に乗せると、そのまま、どこかへと飛び去っていった……。


 千華市ちはなしの首都に面した湾にそびえたつ、地上百二十五メートルのランドマークタワー。

 新月のこの日、そのお膝元のお祭り会場は、大音量の歓声に包まれていた。

 お祭りは、いま、最高潮の盛りあがりをみせている。

 ぷにっ!

 と、グミのつぶれるような音がして、エリーは優雅に、地上におりたった。

 そうしてそのあと、

 ぷにっ!

 ぷにっ!

 と、同じような音がして、橘みやびと宇宙が地上におりたつ。

「ちょっと痛いにゃ……」

 宇宙はわずかに顔をしかめて、ぺろりと肉球をなめた。猫の肉球とは、かくも偉大なものである。

 あたりに、ひときわ大きな歓声があがった。

 見れば、

 ⑩─

 という、点数のついたプラカードがあがっていた。

 ⑩─

 ⑩─

 ⑩─

 ⑩─

 プラカードはたてつづけにあがり、

 ⑩─

 ⑩─ 

 ⑩─

 ⑩─

 そうして……、

 ⑩─

 最後のひとつがあがったところで、エリーたちは、歓声と、拍手喝采はくしゅかっさいうずに包まれた。

「そなたらの願い、聴き届けたニャー……」

 どこからか、雷鳴のような残響をともなった、神々しい声がした。

 そうしてまた、エリーたちを賞賛する一層大きな、賑やかな歓声が、辺りに木霊こだました。

 ことは成った。

 その証だった。

「……まあ、なにはともあれ、うまくいったわね…」

 と、エリーは疲れたように言った。

「そうだにゃあ! 楽しかったにゃー!」

 と、宇宙は元気よくそれに答えた。

 そうしてふたりは、遠い、遠い、空のむこうを見つめたのだった……。


 遠い、遠い、空のむこう──


「このまま竜宮城までいきましょうか?」

 猫手川を背に乗せながら、飛びつづける亀は言った。

「いまなら、老衰ろうすいまで一直線の『スーパー玉手箱Z』のおみやげ付きですよ?」  

「……いや、最寄もよりの駅まででいいよ」

 猫手川は、亀の申し出を謹んで辞退した。


       7


 よく晴れた黄昏たそがれどきの空は金貨のような陽射ひざしをおとし、雲はもくもくと、宙に浮かんだ綿菓子のように見える、そんなある日のこと。

 猫手川は、その肩にコアジサシを乗せて、猫とともに歩いている。

 それは日常すぎるほど、日常の光景だった。

 あのお祭りのあとも群れに合流することなく、コアジサシは猫手川の部屋にいる。

 本鳥ほんとりいわく、

「私がついていてあげませんと、あなたたちは、なにをしでかすかわかりませんからね」

 と、いうことだ。

 そのようなわけで、一行は今日も、ともにいる。

 本日の外出の目的は、といえば、

「くじ引き楽しみだにゃー!」

 商店街のくじ引きにある。

 宇宙の忍者特訓の際、買いつづけたご褒美のおかげで、くじ引きの補助券が集まっており、一回分のくじが引けるのであった。

「もう間もなく終了ですよー!」

 係りの人が声を張りあげるなか、猫手川は列へと並んだ。

「なにが当たるかなー!」

 と、わくわくした様子の橘みやび。

 しかし、終了間近ということもあり、めぼしい賞は軒並のきなみなくなっているのだった。

「まだ特賞がのこっていますよ」

 と、かわいらしい声がした。

「ぽんちゃんにゃ!」

 そこには、ある意味今回の主役でもある、ぽんちゃんがいた。どうやらぽんちゃんも、くじを引きにきたようだ。

「いつもうちのぽんちゃんがお世話になっています」

 と、きれいな女性が猫手川に頭をさげた。それは、ぽんちゃんのおかあさんだった。

「いえっ! お世話になっているのは間違いなくうちの猫のほうかと……」

 猫手川は恐縮して、そう言った。しかし、

「いいえ──」

 ぽんちゃんのおかあさんは、その言葉をたおやかに否定し──

「みなさんと出逢ってから、ほんとうにいいことばっかりなんです。それはもう、奇跡のようなできごと……」

 とてもやさしいまなざしで、愛おしそうにぽんちゃんを見つめて、そう、言ったのだった。

 きっと、あの神楽がうまくいったのだろう。

 と、猫手川は思った。

 そして、それを成し遂げた彼らのことを、少し、誇らしく思った。

「わたし、くじ運がすごくいいんですよ、猫の従者さま」

 ぽんちゃんは猫手川のうしろに並んで、にやりと笑った。

「僕も昔からくじ運がいいんだ」

 猫手川も負けじと、そう言った。

「じゃあ、どっちがいい賞を当てるか勝負です!」

「よーし、のぞむところだ!」

「わたし元気になったからワイハーにもいけるよね?」

「ええ、もちろんよ!」

 と、ぽんちゃんのおかあさんは、にこやかに微笑んだ。

 特賞は、ハワイ旅行だった。

 列はすすんでゆく。

 宇宙はぽんちゃんにだっこされてご満悦の様子で、ぐるぐるとのどを鳴らしていた。

 橘みやびは、さっそく、ぽんちゃんのおかあさんから飴をもらっている。

 そうして特賞の鐘は鳴らされぬまま、猫手川の順番が訪れた。猫手川がくじの箱に手を差しいれようとしたその時、エリーはしなやかに猫手川の肩に跳び乗り、その耳元で囁いた。

「どうやらあなたは、ほんとうにくじ運がいいようね?」

 と。

「……どういうことだ?」

「係りの人は気がついていないようだけど、その箱のなかには、もういちまいしか、くじは残っていない」

「えっ?」

「ということは、それがなんの賞か、わかるわよね……?」

「早く引いてください」

 係りの人が言い、猫手川はとっさに、くじの箱に手を差しいれた。

「……なぜわかるんだ?」

 猫手川が小声でたずねると、

「あら、わたしの聴覚をなめないでくれるかしら」

 と、エリーは言った。

 はたしてそれは、ほんとうであった。

 いま、猫手川の手には、いちまいのくじがにぎられている。

 しかし、その箱のなかには、そのいちまいのくじの他には、なにもないのであった。

 冷や汗がにじんでいた。

 この手を引きぬくことは雑作ぞうさもないことだ。

 けれど、その雑作もないことが、容易よういにはできない。

「ワイハーにはなにを着ていったらいい?」

 猫手川のうしろには、楽し気に、実に女の子らしい話をしている、ぽんちゃんがいる。

 それに答えるぽんちゃんのおかあさんも、ほんとうに楽しそうで、見ているこっちまでもが幸せな気分になるような、そんな、ひまわりのような微笑みをしている。

「……わかっているわよね?」

 と、エリーは言った。

 大粒の汗が、猫手川のひたいから、頬を伝って、こぼれおちた。

「早く引いてください」

 と、係りの人が焦れたように言った。その時、

「にゃあ!」

いたぁっ⁉」

 猫手川のうなじに、エリーの爪が刺さった。

 突然の悲鳴とともにうずくまった猫手川に、騒然とする人々。

「猫の従者さまっ! 大丈夫‼」

 ぽんちゃんが駆けよった。

「だ、大丈夫っ! ちょっと持病のゾナハびょうが発病しただけだからっ! ぽんちゃん先に引いて! ゼヒッ!」

 と、猫手川は言った。

「でも……」

「大丈夫! この病気の特効薬とっこうやくはだれかの笑顔だから!」


 そうしてぽんちゃんはくじを引き、驚きと、それ以上の喜びをみたした、満面の笑顔で、元気よく飛びあがったのだった。

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