第6話 猫手川、虫の居所を掌握される


       1


 「ガムを買ってきなさい」

 

 絹のようにつややかな被毛ひもうをした、しゃべる黒猫くろねこ『エリー』は言った。

 それは、さわやかな青空がみわたる、そんなある日のこと。

 時刻はまだ午前のうちにあり、天頂てんちょうへと近づきつつある太陽に、はらむしがわずかに動きだす頃合だった。

「ガム?」

「そうよ」

「ガムって、あの、食べるガムのことか?」

 と、その黒猫エリーの『自称じしょう』飼い主である猫手川ねこてがわがそうたずねると、

「……当たり前でしょ。さっさと買ってきなさい」

 エリーは冷ややかに、なにか可哀想なものを見るような目で、そう言った。

 特に用はない。

 したがって、ガムを買いにいくくらいは雑作ぞうさもないことだ。

 加えて、ガムというのは、案外いいもののように、猫手川には思えた。

 猫のおやつにである。

 猫というものは、存外ぞんがい食費のかかる生き物だ。彼らは通常の食事のほかに、毎日、決まっておやつをねだる。ガムというものは、たいやきやソフトクリーム、ちくわやポテトチップス等とくらべるに、物持ちがよいのではないかと、そう思ったのだった。

 そんなささやかな思惑おもわくもあり、猫手川はエリーの要求を承諾した。

「なんのあじがいいんだ?」

 猫手川がたずねると、

「食べられればなんでもいいわ」

 と、エリーは言った。


 猫手川の住むその洋館は、小高い丘のうえにある。

 そのようなわけで、吸いこまれそうなさわやかな青い空も、より近く感じられる。

「あら、猫手川さん──」

 猫手川が玄関をでると、そこには、買い物かごをさげた小出毬コデマリがいた。

 小出毬は、猫手川の住むその洋館の管理人であり、猫手川にとっては可憐なる高嶺の花でもある。

「おでかけですか?」

「ええ。エリーのおやつを買いにいくんです。コデマリさんもお買い物ですか?」

「はい。お夕飯のお買い物にいくんですよ」

「あ、あの、よろしければ──」


 坂をくだる。

 こころなしか、足取りもかろやかなのは、きっと気のせいではないのだろう。

 目的地がわかっており、また、猫のいない道行みちゆきは、猫手川にとっては珍しいことである。

 しかし、猫手川の足取りをかろやかなものにしている、そのもっともたる要因は、青空のように微笑ほほえみながら、となりを歩く、小出毬の存在によるところが大きい。

 猫手川は、小出毬に、ひそやかな思いを寄せている。

宇宙そらは最近、お気に入りのおやつがあるんです」

 と、小出毬は言った。

 足取りとともに、会話も弾んでいる。

 彼らの話といえば、もっぱら、猫のこととなる。

 猫を飼っていれば、それは自然な成り行きなのだった。もっとも当の本猫たちは、人に飼われているとは、つゆほども思っていないだろう。

 そのようなことを、気軽に言葉に乗せて、ふたりは歩いてゆく。

 突きぬけるような青い空に、小さな、小さな影が、飛んでいた。

 緑の葉のうえにとまったその小さな影は、見るもあざやかな、七星ななほしテントウだった。

「あら、かわいいテントウムシさん。あなたもお買い物? 今日の晩ご飯はなんですか?」

 小出毬は、やわらかな微笑みとともに言った。

 季節のかおりを乗せた風がでるように優しく吹きぬけて、小出毬はそっと、髪をおさえた。

 その光景は、鮮烈に、猫手川の脳裡のうりきついた。

 時節じせつの空気に結ばれた、瞬間の切りぬき。

 ただスーパーへの道すがら。日常の光景だった。

 けれども、きっと、いつになってもこの季節の香りとともに思い出す、そのような瞬間に、遭遇したのかもしれない。

 猫手川は、どうにも言いようのない、幸せを感じていた。

 部屋へと帰り、買ってきたガムをエリーに渡すまでは……。

 ひとつぶのガムを口に入れて、しばらくののち。

 プッ、と、それをきだして、

「これじゃない」

 と、エリーは言った。

「味はなんでもいいと言ったじゃないか」

「でも、これじゃあない」

 エリーは言い、ドアをゆびさす。

「はやく買ってきなさい」

「…………」

 猫手川は、渋々しぶしぶ、きた道をもどった。

 二度目の道行きの途中、猫手川は考えていた。

 エリーとの生活をかんがみるに、彼女には、その落ち着いた言動とは裏腹うらはらに、こどもじみたところも多分にある。エリーの歯のことを考えて買ったキシリトール入りのガムは、ミント味のガムだった。

 これはいささか、大人びた嗜好しこうだったのではないか。

 猫たちの食の好みは、往々にして、こどものそれと似たものがある。

 彼らは甘いものが好きだ。

 チョコレートやケーキ、アイス等は彼らの大好物である。また、にんじんやピーマンといった、こどもが嫌いなものは、大抵好まないのだった。

 そう考えるにいたって、猫手川は、少し選択を間違えたのかもしれない、と、思った。

「これじゃない」

 と、エリーは言った。

 新たに買ってきた甘い果実のガムは、たったいちまい食べただけで、無惨むざんにも打ち捨てられた。

「でも、これは甘いぞ?」

「甘ければいいわけじゃない。ちゃんと食べられるものを買ってきなさいよ」

 エリーは言い、ドアを指さす。

「……食べられないガムなんかないわ! ただ好みの問題だろうがっ」

 猫手川はぼそりとつぶやいた。

「なにか言った?」

「……いや」

「……あなた最近、少し反抗的なんじゃなくって?」

「…………」

「……まあいいわ。はやく買ってきなさい」

 猫手川は、渋々、再びきた道をもどった。

 思えばこの時、彼はエリーを連れていけばよかったのだ。

 そして、エリーの望むそのものを、彼女自身に選ばせるべきであった……。


 ガムを買い、部屋へと帰った猫手川は、エリーの不在に迎えられた。

「…………」

───あの野郎……。

 しかし、今回はぬかりない。

 猫手川は、そう確信している。


       2


「これじゃない!」

 と、エリーは言った。

「どれもこれもわたしが食べたいガムじゃない! 買い物もろくにできないなんて……、あなたのこと見損みそこないなおしたわ!」

 どれもこれもひとつずつ食べ散らかしたガムの山に仁王立におうだちしながら、エリーは声をあらげた。

「あるだけのガムを全部買ってきたんだぞ⁉」

 スーパーと部屋との不毛な往復を終わらせるために、店頭にあるだけのガムを買いこんできた猫手川だった。

「これでないなら、あのスーパーには置いてない商品なんだ」

「……じゃあ、おろかなのはあなただけではないってことね」

 と、エリーはさげすむように言った。

「僕が愚かなのは確定なのか⁉」

「ええ。だってそうでしょ? あなたは買い物に失敗した。そのスーパーではなく別のところにいっていれば、ちゃんと買えたでしょうよ」 

「…………」

「まったくあなたには直感ってものがないのかしら? わたしたちならそんなヘマはしない。なぜなら、わたしたちは直感に従って生きているもの。人間は愚かな生き物だけど、あなたはそのなかでもぐんを抜いて愚かね。わたしなら一度目の失敗ですぐに野性のかんが働いているわ。だいたいあなたは──」

 エリーの口撃こうげきは、延々とつづいた……。 

「…………」

───なぜ僕はこれほどまでにしかられているんだ⁉ 

 たかだかガムのことでこれほどまでに怒られる大人は、この猫手川か、ガムの会社で働いている者くらいであろう。

 イライラがつのっていった。

 彼はどちらかといえば、おだやかな人間だった。忍耐力にんたいりょくも人並みにある。

 そうでなければ、この、ものを言う猫たちと暮してゆくことは困難であったかもしれない。

 けれども……、

「僕はお前のためにガムを買ってきてやったんだ!」

 この時、猫手川は声を荒げて言った。

「それがなんだ! ねぎらいの言葉ひとつもなく、こんなにも長い間、罵声ばせいを浴びせるなんて──」

 もう、四時間にもなる……。

「僕はお前のせいでお昼ごはんも食べてない! それどころかこの四時間、水も飲んでない。グミも食べてないんだ! 見ろ! もう晩ごはんの時間じゃないか!」

 あたりに、夕餉ゆうげの気配が差し迫っていた。

 小高い丘のうえにあるこの洋館の二階、猫手川の部屋からは、家々に明かりがともる様子がよく見える。

 それは、一家の団らんを連想させる、あたたかな光りだった。

 しかし、そのような温もりあふれる光景をもってしても、いまの猫手川には、火に油を注ぐ要因としかなりえないようだった。

「僕はな……、僕は──」

 猫手川は、いよいよ感極まったように、言葉をつまらせながら、

「僕は、エリー専用ガム仕入れ係じゃないっ‼」

 と、勢いよく叫んだ。

「…………」

───はぁ?

 と、エリーは思った。


 『エリー専用ガム仕入れ係……』

 

 それは、ありきたりな言葉同士の組み合わせにも関わらず、およそ聞き馴染みもなく、また、なんのも浮かんでこない、優れて無様な言葉だった。

 加えて、語感も悪い。


 『エリー専用ガム仕入れ係……』


「あ、当たり前じゃない……」

 と、エリーは言った。

 そうとしか、言えなかった。

 しかし、それでは、猫手川の腹の虫はおさまらなかった。

 彼にしてはめずらしく、怒りをあらわにした猫手川は、とまらなかった。

「なんだその気の抜けた返答は!」

「気の抜けた返答もなにも……、あなたはわたし専用ガム係ではないわよ」

「わたし専用ガム係じゃない!」

「どっちでもいいわよ……」

「よくない! もう一度言うからちゃんと覚えるんだ! 僕はな、エリー専用ガ──」

「も、もうわかったわよ!」

「いいや、お前はなにもわかってない!」

 エリーは必死で猫手川の言葉を遮ったのだが、猫手川にひく気はない。

 そうこうしているうち……、

「なによ! あなた最近ほんとうに生意気よ!」

 今度はエリーの導火線にも、火がついたようだ。

「うるさい!」

「うるさいのはあなたの方でしょ!」

「いいか、僕はな──」

 階下かいかから、彼らを呼ぶ声がしていた。

 再三にわたる呼びかけにも気付かぬほど、彼らは激しく言い争っていた。

「みなさーん! ごはんですよー!」

 猫手川の部屋のドアが開かれ、小出毬が大きな声で言った。

 小出毬の出現を期に、彼らの口論は止んだ。

「…………」

「…………」

「……おふたりとも、どうかなさったんですか?」

 無言でにらみあう、ふたり。

「もうすぐごはんですよ?」

 と、小出毬は、ほがらかに微笑んだ。

「……コデマリさん──」

「はい?」

「僕はあとで食べるので、置いておいてください」

 言うなり、猫手川はドアに手をかけた。

 そのままの姿勢で、猫手川は言った。

「コデマリさん──」

「はい、なんでしょう?」

「僕はね、エリー専用ガム仕入れ係じゃないんです……」

「…………」

───えっ?

 と、小出毬は思った。


 『エリー専用ガム仕入れ係……』


 聞き馴染みのあるようで、その実、いっさい聴いたことのない、その言葉に、小出毬は困惑した。

「な、なんとおっしゃったんですか⁉」

「僕はそんな薄情なやつと、一緒に食事なんかしたくないんです!」

 小出毬の疑問にはいっさい答えず、猫手川は部屋を飛びだした。


       3

 

 小高い丘のうえにある洋館。

 その住人用の食堂には、小出毬の料理が並んでいる。どの料理も、見るからにおいしそうなものばかりだった。

 その食卓を、人と猫と鳥が囲んでいる。そこに猫手川のすがたはなかった。

「猫手川さん、どうしたのかしら……」

 食事のさなか、気もそぞろに小出毬はつぶやいた。

 小出毬は、エリーを見つめた。

 小出毬特製の猫用料理を黙々もくもくしょくすエリーは、絹のようなその被毛の煌めきを、わずかに曇らせているように、小出毬には感じられたのだった。

 そして、そのように感じていたのは、小出毬だけではなかった。

 食後の猫用デザートを食べ終えて、テーブルには猫用コーヒーが豊かにかおっていた。

「エリちゃん、どうしたの?」

 ミルクをたっぷりと入れた猫用コーヒーをくいっと飲み、『たちばなみやび』はたずねた。

 この天色あまいろの猫、橘みやびは、彼女の言によると、本来は女子高生なのだという。

 わけあって、このようなことになることになっているのだそうだ。

「なんか元気ないみたい?」

「……別に、あの男なんてなんの関係もないわ!」

 と、エリーは、つっけんどんに言った。

「……ボク、猫手川くんのことなんて、ひとことも言ってないよ?」

「なっ⁉」

「エリーちゃん、猫手川とケンカしたにゃ?」

 白色の長毛種ちょうもうしゅであるひときわ大きな猫、宇宙そらは、そうたずねた。

 宇宙は、小出毬の飼い猫である。

「どうやら、そのようなのです──」

 だんまりを決めこむエリーに代わって、答えたのはコアジサシだった。

 れからはぐれたこのコアジサシは、猫手川の部屋に居候いそうろうしている。居候ではあるのだが、その生活能力は極めて高い。

「おふたりが言い争っている声が、私の部屋まで聴こえましたから。そのうちの四時間は、エリーさまがおひとりで、なにごとか怒ってらっしゃいましたけど……」

 早く仲直りしていただきたいものです、と、ひっそりとさえずったコアジサシは、つばさをすくめた。

「ねーねー、なんでケンカなんかしたの?」

「おやつを横どりされたにゃ?」

「知らないわよ! 虫の居所でも悪いんでしょ!」

 と、エリーは、ぶっきらぼうに言った。

「虫の居所ねえ──」

 橘みやびはつぶやき、おもむろに席をたつと、窓へと向かって歩きだした。

「この子も居所が悪いみたい」

 開け放たれた窓から、夜気をはらんだ風がふうわりと流れてくる。

「ねえきみ、そんなところにいるとつぶされちゃうよ?」

 橘みやびはすずやかに言い、窓わくをすっと、手でなぞった。

「きみの居所は、ボクがよくしてあげようじゃないか」

 橘みやびの手のなかには、一匹の、テントウムシがいた。

 この洋館に迷い込んだテントウムシは、窓のわくのへこみにちょうどはさまってしまい、身動きがとれないでいたのだった。

 その時……、

「……し…あのひ…に、非…い…とを…た…………」

「えっ?」

 か細いささやきが、橘みやびの耳朶じだをくすぐった。

 それはかすれるような、エリーの声だった。

「エ、エリちゃん、いまなんて?」

「わたしはあのひとに、非道いことをした…………かも、しれない……」

 エリーは虫の羽音はおとのような小さい声でそう言うと、わずかにかげった、絹のような被毛につつまれた肩をおとして、うつむいてしまった。

 洗い物を終わらせた小出毬が台所からやってきて、エリーの前に膝を折った。

「早く仲直りしないとね?」

 小出毬は、やわらかく微笑んだ。

 エリーは小さく「にゃう」と、鳴いた。

 橘みやびの肉球のうえで、見るも鮮やかな、小さな赤い半球に、七つの星がきらめいている。

 それはこころなしか、快適そうに、びをしているようにも見えたのだった。

「……いくわよ」

 と、エリーは言った。


       4


 坂をくだる。

 その洋館は小高い丘のうえにある。

 そのようなわけで、どこへ行くにも、まず、くだることととなる。

 一行はエリーを先頭に、坂をくだっていった。

 エリーのうしろには、宇宙と、肩にテントウムシを乗せた橘みやびがつづき、上空ではコアジサシが、猫手川を探してハンターの双眸そうぼうを輝かせている。

 猫たちの数歩うしろには、夜のお散歩といったていで、かろやかに歩む小出毬がいた。

「なんかさー、夜のおでかけってわくわくしちゃうよね!」

 と、橘みやびは、はしゃいでねた。

「そうだにゃー!」

 トパーズの色をした双眸に、黒色の虹彩こうさいをまんまるにした宇宙は楽しそうに言い、ふたりは一緒になってあたりを駆け回った。

 跳ねまわる橘みやびの肩のうえで、激しく上下動するテントウムシは、必死になって、天色の被毛にしがみついていた。

「……帰りましょ」

 と、エリーは唐突に言った。

「はあっ?」

「にゃっ?」

 突然のエリーの変節に、ふたりの猫は驚いて声をあげた。

「なぜわたしがわざわざあの男に逢いにいかなくてはならないの? ばかばかしい……。あんな男、猫の爪で急所を刺されて即死すればいいのよ!」

 人体に存在するのかもしれない、猫の爪で即死する急所の有無うむ示唆しさしつつ、エリーはくるりときびすを返した。

 その様子を、おだやかな微笑みとともに見守っていた小出毬は、橘みやびの肩に肢先あしさきでどうにかこうにかぶらさがっていたテントウムシを、そっと、すくいあげ、その手の平に乗せた。小出毬のやわらかな手のうえで、テントウムシは人心地ひとごこちついたように、安心して、また煌めきはじめた。

「さあ、なにをぐずぐずしているの! 早くあのひとを見つけるわよ!」

 エリーは言い、しなやかに駆けだした。

「…………」

 橘みやびは、走ってゆくエリーと、微笑む小出毬を、交互に見つめている。

「……はっ!」

 数瞬ののち、橘みやびは、ひとり首肯しゅこうした。

 そうして彼女は、にやり、と、笑みをこぼしたのだった。


 はるみ川にせりだす公園のポーチに、時代がかった船が停泊していた。

 それはいまどき珍しい木製の船であり、わたぶねでもある。

 川辺を照らす檸檬色れもんいろをした街灯のしたでは、猫手川がくだを巻いていた。

「僕はね、エリー専用ガム仕入れ係じゃないんです!」

「……はい。おそらくそうでしょう」

「猫ちゃん真面目すぎるよ~。女なんてのはさ、こう、ワッとなったら、サッとあやまっちまえばいいんだよ~」

 おだやかに相づちをうつのは、わたもりの老人だった。その横で、正体不明のべろべろに酔っぱらっているのは、以前、即身仏そくしんぶつにされかけた、近所のお寺の住職じゅうしょくである。

「ちょっとあなた! こんなところでなにしてるのよ!」

 コアジサシの炯眼けいがんにより、猫手川を発見したエリーは彼に駆けよった。

「ねえ、帰りましょう」

 と、エリーは言った。

 猫手川はエリーをちらりと見ると、すぐに目をそむけた。

「おおーべっぴんさんだねえ! 猫ちゃんもすみにおけないなーこの! なかにおこう!」

 べろべろである。

 猫手川は、黙ったままだった。

「……ねえ?」

「…………」

「ねえったら!」

「うるさい! 僕はまだ帰らない!」

 と、猫手川は声を荒げた。

「どこだ……どこだ……?」

 橘みやびは、ひとり、あたりを嗅ぎまわっていた。

「わがまま言うんじゃないわよ。お家にはあなたのごはんだってちゃんと用意してあるのよ? 早く帰りましょう?」

 と、エリーは、なだめるように言った。

「…………」

「……こっち見なさいよ」

「お前の顔なんて見たくない!」

 猫手川がそう言うと、

「なんでそんなこと言うのよ……」

 エリーは少し、悲しそうな顔をした。

 一瞬、その表情に戸惑いの色を見せた猫手川だったが、彼はいつになくかたくなだった。

「う、うるさいったら! 僕には僕の自由があるんだ! 僕が帰らないと言ったらまだ帰らないんだ!」

 猫手川はそう言い切ると、てこでも動かない、といった様子で、腕組みをしてそこに居直った。

 エリーはその艶やかな被毛をまた翳らせ、わずかに肩をおとした。

 その時だった……、

「いたっ!」

 橘みやびが声をあげた。

 見ればそこには、だれかがはき捨てたガムにくっついて、身動きがとれなくなったテントウムシがいる。

「さっ!」

 と、橘みやびは、そのテントウムシをすくいあげた。

 すると……、

「早く帰ろう!」

 猫手川は、あっさりと立ちあがったのだった。


       5


 帰り道のこと。

 涼やかな夜の香気こうきのなか、一行は、夜の遠足といった体で歩む。

 エリーを先頭にして、ふたりの猫がつづき、そのうしろには、小出毬と、コアジサシを肩に乗せた猫手川が歩いている。小出毬の襟元えりもとには、宝石を冠したブローチのようにテントウムシが煌めいていた。

 エリーと猫手川のふたりは、いまだ少しぎこちなくはあったが、それもいずれ、明け方時分の街灯のように、だれも気付かぬうちに、ひっそりと消えるのだろう。そう、みんなが思っていた。彼らは、極めて楽観的な者の集まりなのである。

「ねえ猫手川くん。せっかくこうして外にでたんだから、ハロハロでも買って帰ろうよ!」

 と、橘みやびは言った。

「そうだな! みんなで夜のお散歩なんてそうそうないからな。小出毬さんもいかがですか?」

 と、猫手川は、こころよく了承した。

 ハロハロを買った。

「ねえ猫手川くん。せっかくこうしてハロハロを買ったんだから、ついでになんかしょっぱいものでも買おうよ!」

 と、橘みやびは言った。

「そうだな! 甘いものを食べたら今度はしょっぱいものだな。小出毬さんもいかがですか?」

 と、猫手川は、こころよく了承した。

 ポテトチップスと、おかきを買った。

「ねえ猫手川くん。ジュースをお忘れじゃないですか?」

 橘みやびが言うと、

「そうだな! 忘れてたな!」

 猫手川は上機嫌でそれに賛同し、

「もー、猫手川くんったら、あの新刊のコミックスとゲームの攻略雑誌、それからソフトクリームも忘れてるよ! ついでにホットドッグとからあげ買ってきて!」

 橘みやびが言うと、

「オッケー!」

 猫手川はスキップでもするように、またコンビニへと走っていったのだった。

 橘みやびはひとり、にやり、と、笑みをこぼした。  

「…………」

「…………」 

 エリーと小出毬は、無言で、そのやりとりを見つめている。宇宙はすこぶる上機嫌で、顔や手をべたべたにしながらハロハロを頬張ほおばっていた。

「……なにかおかしい…」

 と、エリーはつぶやいた。

 おかしいといえば、橘みやびである。彼女は先刻より、たまごでできたオルゴールでもかかえるように、大事そうに、その手の平になにかを包みこんでいるのだった。

「みやびちゃん、さっきからなにを持ってるにゃ?」

 と、宇宙が言った。

「それよっ!」

 と、エリーが叫んだ。

「宇宙! みやびから『エンパスナナイロテントウムシ』を奪いなさい!」

「これにゃ?」

 エリーの切り裂くような指示に、宇宙が手を伸ばした。

「あっ! だめっ! アイスでべとべとの手でさわらないでっ!」

「にゃ?」

 すると……、

「よくよく考えたら、ハロハロとソフトクリームはやりすぎだろ!」

 猫手川が怒りながら、コンビニから飛びだしてきた。

「テントウムシくんっ!」

 激昂する猫手川をよそに、橘みやびは、ハロハロでべとべとになったテントウムシを必死でぬぐっている。

「エンパスナナイロテントウムシはね、生物の感情とリンクする特殊な昆虫よ。『虫の居所が悪い』なんてよく言うでしょ? この国の昔の人たちは、虫にもおもてなしをしていたのよ。かつてはこの国にもたくさんいたんだけれどね、現在では猫版レッドデータブックにも記載のある絶滅危惧種なの」

「ボクが居所をよくしてあげるからね!」

 しかし、テントウムシは、非道ひどく居所が悪そうに、橘みやびの手のなかで背中の星を白黒明滅させて、じたばたともがいた。

「みーやーびー……?」

 エリーが、怒気どきを孕んだ声で言った。

「エ、エリちゃんっ?」

「みやびちゃーん……?」

 小出毬は、微笑んでいた。

 しかし、その微笑みは口元だけに宿り、双眸そうぼうは、のっぺりとした黒色にぬりこめられている。

「マ、マリちゃんっ?」

 その時、橘みやびの手のなかにとらわれていたテントウムシが、紫色の夜に飛びたった。

 テントウムシはくるりとちゅうに円をえがくと、小出毬の襟元に降りたち、もう一匹のテントウムシと静かに寄り添った。そうして出逢った二匹のテントウムシは、時を重ねるように同時に飛びち、とおる夜のなかに、鮮やかにあかく煌めく二重螺旋を描きながら上昇し、やがて、闇へとけていった。 

「ぼ、僕は、なにをしていたんだろう……」

 猫手川は、つぶやくように言った。

 その両手には、ぱんぱんにふくれた買い物袋がにぎられている。

「ずいぶんと虫の居所がよかったようね?」

 エリーは、苦笑まじりにそう言った。


 橘みやび、おやつ抜きの刑(一週間)に処される。


       6


「このガムを買ってきてほしいの」

 絹のように艶やかな被毛を煌めかせて、エリーは、しずしずと言った。

 それは、さわやかな青空が澄みわたる、そんなある日のこと。

「宇宙のお気に入りのおやつ。もらったの」

 と、エリーは言った。

「どれどれ──」

 エリーの差しだしたそのガム。見ればそれは、

「チューインキャンディーじゃないか」

 チューインキャンディーであった。

 それは、ガムとは似て非なるもの。

 形状はまったくの同一物だが、ガムではなく、その名の通り、キャンディーに属するものなのだった。

───なるほどね……。

 エリーの言う、食べられるガムとは、そのような意味であった。

「ガムじゃないの?」

「ああ。よく似てるけどな」

「そう……」

「……一緒に買いにいくか?」

 猫手川が言うと、

「いってあげてもいいわよ」

 と、エリーは言った。

 猫手川とエリーが玄関をでると、そこには小出毬がいた。

「あら、猫手川さん。エリーちゃんも、こんにちは。おふたりでおでかけですか?」

「ええ。エリーのおやつを買いにいくんです。コデマリさんもお買い物ですか?」

「はい。お夕飯のお買い物にいくんですよ」

「あ、あの、よろしければ──」


 坂をくだる。

 猫手川の住むその洋館は、小高い丘のうえにある。

 そのようなわけで、どこへ行くにも、まず、くだることととなる。

 一行は足取りもかろやかに、坂をくだっていった。

 突きぬけるような青空に季節の香りが融けて、優しく、胸をくように、風が通りすぎた。 

「今日のお夕飯はソフトクリームにしようかと思っているんです」

 と、小出毬は微笑んだ。

「いいですね!」

「デザートはハロハロなんていかがでしょう?」

「ええ。最高です!」

 と、猫手川は微笑み、エリーも答えて上機嫌に鳴いた。


 海のような青い瓦屋根のうえで、トパーズの色をした双眸が、かろやかに歩く彼らを見つめていた。

「これはいいものを手に入れたにゃ……」

 白い長毛種の猫は、囁くように言った。

 その白い猫の、桃色の肉球のうえでは、三匹のテントウムシが、きらきらと煌めいている。

「虫の居所さえよければ、みんなオレの言いなりだにゃ。ひひひ……」

 どこまでもひろがる青い空のしたで、白猫は不敵に笑った。


 宇宙、おやつ抜きの刑(一ヶ月)に処される。

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