第5話 猫手川、お土産の選別を誤る


       1


 「猫手川さん、SUICAをおとされましたよ?」

 

 朝食を食べ終えて部屋へと戻りかけた猫手川ねこてがわを、柔らかな声が呼びとめた。

 それは、猫手川の住むこの洋館のうるわしき管理人であり、生ける観音さま、小出毬コデマリの声だった。

「SUICA……?」

 猫手川はSUICAをもっていない。

「僕のものではありませんよ?」

 と、猫手川は言った。

「あれ? でも、たしかに猫手川さんがおとしたんですよ?」

 と、首をかしげる小出毬。

 よく見れば、それは──

「ああ、これは、超高性能携帯型ちょうこうせいのうけいたいがたマイクロスコップですよ!」

 超高性能携帯型マイクロスコップだった。

 以前、即身仏そくしんぶつという名を借りた生き埋め事件に遭遇したおり、たまたま、偶然、奇跡的にその場に通りかかったスコップ屋さんから購入した逸品である。

 通常、カードサイズであるそれを広げると、一瞬のうちに普通サイズのスコップとなった。

「たたむと、SUICAサイズになるんです」

 猫手川の言葉通り、それはたたまれると、直ぐさま一片いっぺんのカードサイズとなった。

「まあすごい!」

 と、小出毬は驚きの声をあげた。 

───驚く声まで、かわいらしい……。

「こうすると、釘抜きになりまして──」

「えっ!」

「こうすると、泡立て器にもなるんです」

「ええっ!」

 そうして、折りたたむと、また元通りSUICAサイズになった。

「土もよく掘れるんですよ」

「すごいです猫手川さん! 今度、ケーキをつくる時、お借りしてもいいですか?」

「もちろんです!」

 小出毬の料理のうでは、超一級品である。

 だれかの誕生日や、クリスマスなどでしかお目にかかることのできない、小出毬の絶品手作りケーキを想像して、猫手川はほおをほころばせた。

「それにしても、こんなボルゾイみたいにうすいのに、大したものですねえ」

 と、小出毬は言った。

「………」

───ボルゾイ?

 ボルゾイとは、ロシア原産の大型犬種である。元来猟犬りょうけんであり、オオカミ狩りを得意とする。その絹糸けんしのような煌めく被毛ひもうと大きな体躯たいくは、見る者にどことなく畏怖いふの念を抱かせるが、存外人なつこく、また人見知りをするなど臆病な面もあるのだという。このボルゾイという犬種についてまず特筆すべきは、そのしなやかでスマートな肢体であろう。弓なりの背、流線型の体型。バーニーズやピレネーといった大型犬種と正面から見比べれば、そのスマートさは顕著けんちょであり、幅はおおよそ半分ほどしかない。だが……、

 さすがのボルゾイでも、そこまで薄くはないだろう。

 と、猫手川は思った。

 しかし小出毬は、このSUICAサイズのあつみのことを言ったのではなく、横幅のことを言ったのではないだろうか。そうであれば、やや誇張があるにしても、おかしくはない。

 そう考えるにいたって、猫手川は、

「そ、そうですね……」

 と、単純な相づちをうった。

「ところで、猫手川さん。今日は、お時間ありますか?」

「え?」

「いえ、祖父がくらの掃除をしてほしいというもので。もし、お時間がありましたら、お手伝いいただけないかと思いまして。もちろんお手間賃はお支払いいたします」

 それは願ってもない、小出毬からのお誘いの言葉だった。

 猫手川は、ちらりとエリーを見た。

 猫手川とともに朝食を終えた黒猫、エリーは、先ほどから階段のうえでれたように猫手川を待っている。猫手川の視線を受けとったエリーは、ふいっ、と、顔をそむけると、ひとりで部屋へと帰っていった。

 猫手川はそれを、了承の意と受けとった。

「それから、蔵にあるもので、何か気に入ったものがあればもって帰ってもいいと、祖父は申しておりました。いかがでしょう?」

「ええ、喜んで!」

 エリーという障害のない今、猫手川が小出毬の誘いを断る理由は、皆無だった。


       2


「と、いうわけで──」

 と、部屋へと戻った猫手川は切りだした。

「僕はこれから、コデマリさんのお祖父さんの蔵にいってくる」

「……好きにすればいいじゃない」

 エリーは、一部屋をまるごとつかって建てられた、東屋あずまや風の巨大な鳥小屋のなかから、こちらを振り向きもせずに言った。

「ボクもいっていい?」

 と、彼女いわく、元々は人間であるという天色あまいろの猫、たちばなみやびはたずねた。

「いいんじゃないか? 宇宙そらも一緒にいくみたいだし」

 宇宙は小出毬の飼い猫であり、白い長毛種ちょうもうしゅのオス猫である。

「じゃあ、いく」

「それでは、私はエリーさまと一緒にお留守番をしております」

 その部屋の主である、コアジサシはさえずった。


 くだり坂を走る。

 猫手川の住む洋館は、小高い丘のうえにある。

 そのようなわけで、どこにいくにも、まずくだることとなる。

 今日は車での移動であった。車の所有者ではあるが、ほぼペーパードライバーの小出毬のかわりに、猫手川がハンドルをにぎっている。宇宙と橘みやびは、上機嫌だった。

 車が好きな猫は、きっとあまりいないのではないだろうか。猫手川はそう思うのだが、身の回りの猫でいえば、過半数は車好きなのである。

 猫手川も車が好きだ。車自体にさほど興味はないが、車で走ることは楽しい。助手席に座った小出毬もまた、猫たちに負けずおとらずの上機嫌で、猫手川の詮無せんない話にも、笑顔で相づちをうったりしている。

「…………」

「…………」

 道の途中、手みやげに、たいやきを買った。

 後部座席では、宇宙と、橘みやびが、そのたいやきをつまみぐいしている。

 言葉も発することなく、黙々もくもくと食すふたりを見るに、そのたいやきはかなりの逸品と思われる。

 ほどなくして一行は、小出毬の祖父の家についた。

 豪奢ごうしゃな日本家屋だった。

 いくぶん数の減った手みやげを渡し、お茶をいただき、そうして案内された蔵は、二階建てほどの大きさもある、たいそう立派な蔵であった。

 かんぬきと、南京錠で施錠された扉を開け放つと、なかから、もうもうと、ほこりが舞いでた。

 そんな様子を見つめる小出毬の祖父は、にやりと笑みを浮かべると、そそくさと母屋へと引っ込んでいった。

 労働のなんたるかを知る必要も、また、知る意志などは微塵みじんもない、白と天色の猫は、やはりそそくさと小出毬の祖父についていった。

 きっとあいつらは、まだ、たいやきをねらっている。

 そんな猫手川の予想を、小出毬が補足した。

「祖父の家には太巻ふとまきという犬がいるんです。宇宙はその子と大の仲良しなんですよ」

 割烹着を身にまとった小出毬は微笑ほほえみ、ふたりは、掃除を開始した。


 作業は思いのほか、はかどっている。

 普段のエプロン姿と同様、割烹着かっぽうぎもよく似合う小出毬は、家庭的な女性だった。

 そんな小出毬に、猫手川はひそやかな思いを寄せている。

 思い人との、ふたりだけの空間。そこに──、

 きぃー……、どん。

 がちゃがちゃ、がちゃり、と、音がした。

「え?」

 蔵のなかが急に暗くなった。

「まったくもう、蔵を開けっ放しにして。おじいさんときたら、犬や猫と遊んでばっかりいるんですから──」

 わずかな怒気どきはらんだ、小出毬の祖母の声が遠ざかっていった。

 しばしの沈黙ののち……、

「ひょっとして、閉じ込められました?」

 と、小出毬は、かわいらしく首をかしげた。

「お、おそらく……」

 重厚感のある大きな木戸きど が、ぴたりと閉まっていた。

 ただ、ひとすじの光りが、カードサイズほどしかない薄い隙間から、とおる糸のようにしこんでいる。

 扉は、当然のことながら、押しても引いても開かなかった。

「まったく、おばあちゃんったら……。ほんとうにうっかりさんなんです。夕食の準備をしていたと思ったら、勢いあまって満漢全席まんかんぜんせきをつくってしまうような人でして」

 と、小出毬は申し訳なさそうにうつむいた。

「…………」

 そのうっかりの方向性には、やや心あたりのある猫手川。

「どうかしました?」

「い、いえっ!」

 鳥小屋と称した東屋を思いだした猫手川は、あわてて首を振った。

「おじいちゃんに連絡しないと──」

 と、小出毬は言った。

「猫手川さん、携帯電話をお持ちですか? わたし、さっきお茶をいただいた時に、バッグと一緒にそのまま置いてきてしまって」

「……僕も、です」

「あら……」

「…………」 

「…………」

「おばーちゃーんっ! おじーちゃーんっ!」

「宇宙ーーっ! みやちゃーーんっ!」

 ふたりの声が、むなしく響いた。


 二階ほどの高さにある吹き抜けの格子窓こうしまどから、光りが射している。光る繊毛せんもうのように、ほこりがきらきらとゆらいでいた。

 そのような薄暗がりの蔵のなかで……、

「ふんふーん、ふふーん──」

 小出毬は鼻歌を歌いながら、作業をつづけている。

『まあ、いつか気付いてくれますよ』

 と、いうことだ。

「猫手川さん、見てください!」

「ど、どうしました?」

「これ、磁器でできた、たいやきです!」

「へえー、よくできてますね」

「こっちには陶器でできた今川焼きもあります!」

「ほんとうだ」

「たこやきもありますよ!」

「これは、なんでしょう?」

「これは……、おやきですよ!」

「な、なるほど……」

───焼き物だけに⁉

「ああっ、これっ、九谷焼って書かれた信楽焼のたぬきの置物が描かれた有田焼のお皿のポスターです」

「ポ、ポスターなんですね!」

「ええ。こっちには後ろで手を差しだしている見返り美人の掛け軸があります」

「み、見返りを求めているんですね!」

「ええ。なんだか、楽しいですね」

 と、小出毬は微笑んだ。

「ええ!」

 と、猫手川も、にっこりと微笑んだ。

 蔵のなかには雑多ざったにものが並び、あるいは捨ておかれ、そのいずれにも、整然とほこりが積もっている。

 それらのものを手に取り、はたきをかけて、確認する。

 そのような作業を繰り返している。

 今回の蔵の掃除には、要約するに、小出毬の祖父の探し物があるのだった。

『そろそろあれの準備をしておかにゃあ、ばあさんが怒るんでな』

 と、小出毬の祖父は、すきを見てふたりにささやいた。

 普段のずさんな管理が響いて、小出毬の祖父はそれを見つけられなかったのだ。見つけられなかった、で、済めばよかったのだが、そうもいかない。そうもいかないほど、妻には頭のあがらない、小出毬の祖父なのであった。

 そこで、孫娘の小出毬にお鉢が回ってきたのである。

「いったい、なにを探しているのですか?」

 と、いまさらながら、猫手川はたずねた。

「それはですね──」

 と、振り向いたその時、

「きゃっ!」

「あ、あぶない!」

 なにかに足を取られて倒れる小出毬を、猫手川はギュっと、抱きとめた。

「…………」 

「…………」

 時が止まったような感覚だった。

 思い人である小出毬が、いま、自分にぴったりとしがみついている。

 ふれあう身体からお互いの体温がい、普段は気にもめない鼓動の音が、しびれるように激しく鳴っていた。

 猫手川は、吸い寄せられるように小出毬の双眸そうぼうを見つめた。

 小出毬は頬を赤らめ、わずかに潤んだ双眸で、猫手川を見つめ返した。

 視線が、からみう……。

 瑞々みずみずしい果実のようにつややかな小出毬のくちびるが、少し、ゆれた。

「コデマリさん……」

「ふぇふぉてはわふん!」

「…………」

───はぁ?

 小出毬から、ふがふがとしゃべる声がした。

 いや違う。見れば、小出毬の後ろにある吹き抜けの格子窓から、橘みやびが顔をのぞかせていた。

 その口には袋をくわえている。どうやら、小出毬の祖父の目を盗んで、袋ごと、たいやきをゲットしてきたようだ。

「ちょ、ちょっと待って──」

 降りてくるな、という前に、橘みやびは、二階ほどの高さにある格子窓から、音もなく、ふわりと着地した。

「ああー……」

 猫手川は溜め息をついた。

「どうしたの、猫手川くん? 溜め息なんかついちゃって」

 密室を解除する機会を、ひとつ失った。

 そのうえ、ついさっきまで自分に寄り添っていた、このうえなく愛おしい温もりまでもが、彼から離れてしまったのだった。

め息もつきたくなる……」

 猫手川は、ぼそりとつぶやいた。

「なんだなんだ、覇気がないぞ青年よ!」

 橘みやびは、芝居がかった口調でそう言うと、おもむろにたいやきを口に放りこみ──

「ぐぼぅあぁっ!」

 盛大に、のどにつまらせた。

「…………」

───なんなんだお前は……?

「み、みずっ!」

 おそらくはそう言っているのであろう、橘みやびのその声は、ぼふぼふと鈍い音を立てただけだった。

「みやびちゃん!」

 小出毬はあわてて橘みやびに駆け寄ると、その背中をたたいた。

「早く吐きだしてっ!」

「ぐぼうぁあばぉぁぼあーーー‼」

 声にならない声が薄暗い蔵にこだまする。天色の被毛が、見る間にその煌めきをかげらせていった。

 さすがにまずいと、猫手川もあせる。

 しかし、水などない。

 扉も開かない。

「みやびちゃん! みやびちゃん! しっかりして‼」

 小出毬はもう瞳を潤ませながら、橘みやびの背中をたたいている。橘みやびは磁器でぬり固めたような蒼い顔をして、白目をむいていた。

「みやちゃんしっかりしろ! いま助けてやるからな!」

 猫手川は意を決して、扉に体当たりをはじめた。

 二度、三度、と、扉に体当たりをした猫手川は、

「小出毬さんのおじいさんごめんなさい! 扉は僕が弁償します──」

 そう、先にびてから、渾身こんしんのちからで扉にぶつかった。

 ドンっ!

 と、大きな鈍い音がして、ただ、大きな鈍い音がしただけだった。

───肩がはずれたんですけどー?

 片腕をぷらーんとさせた猫手川。

 その時、猫手川の目の前にあった透き徹る糸のような光りのすじが、一瞬、翳った。 

 線が、すすんでゆく───

───?

 それは、まごうかたなき、線だった。

 人の胸の高さほどの、線───。

 その線は真っ直ぐにすすみ、小出毬のすぐ横で、止まった。

 その時──、

「太巻っ‼」

 と、小出毬は叫んだ。

「太巻っ! いますぐおじいちゃんを呼んできて!」  

───??

 線はまた動きだし、閉じられた扉の、カードサイズのように細い隙間から、するり──、と、でていった。

「コ、コデマリさん……?」

 猫手川は、のどから声をしぼりだすように、言った。

「い、いまのって……」

 猫手川は見ていた。小出毬が祖父を呼びにいかせたその線が、くるりと向き変えた、その瞬間を……。

「ええ。あれが太巻です。宇宙のお友達で、ボルゾイの──」

 正面から見ると線そのものであったそれは、横から見ると、たしかに、ボルゾイだったのだ。

「…………」

───カードサイズって本当だったんだぁーー‼


 橘みやびは、一命いちめいを取り留めた。


       3


 帰りの車のなか。

 後部座席では、猫たちが寄り添って、目をらんらんと光らせている。

 運転席と助手席では、小出毬と猫手川が、その双眸そうぼうを見開いている。

 猫たちは、眠れるはずもなかった。

「大丈夫大丈夫だいじょうぶだいじゅうぶだいぶじょうび──」

 運転席から、ぶつぶつと、呪文のような低い声が聴こえている。

 がくん! 

 と、大きく揺れて、車は猛スピードでカーブを曲がっていった。

「コ、コデマリさん! 大丈夫、大丈夫ですから、もう少し肩のちからを抜いてください」

 助手席から、なぜか頭に包帯を巻いた猫手川が言った。

「は、はいっ!」

 と、素直な返事の直後、車は遠心力を振り切らんばかりに大きな弧を描いた。

 猫手川が頭に包帯を巻いているわけを語るには、時を少し遡らなければならない。


 それは太巻が小出毬の祖父を呼びにでていった、その直後のことだった。

 どうやら大丈夫そうだと、安心した猫手川の頭上に──

 ガンっ! 

 落下してきた、箱……。

「そうめん太郎!」

 と、その箱に、小出毬は叫んだ。

「これですよ、おじいちゃんの探し物! 猫手川さんナイスです! ………あら、猫手川さん?」

 それは、全自動流しそうめん機だった。猫手川は頭から血を吹きだして倒れた。

 橘みやびとともに、小出毬の祖父に救われた猫手川。

 そのようなわけで、帰りの運転は小出毬にまかせている。

 激しくタイヤがきしむたび、猫手川と猫たちは、奥歯をぎしりと噛みしめた。

 激しく緩急をつけて、車は坂をのぼる。

 その洋館は、小高い丘のうえにある。

 車は、峠を攻める暴走車両さながらの様子だった。

「ボクは車が好きなわけじゃなかったよ……」

「オレもにゃ……」

 ようやくのことで家へと帰りついたのち、ふたりはそう語った。

 しかし、それはそれ。

 猫手川の部屋につくころには、もう持ち前の明るさを取りもどしており、

「たっだいまー!」

 ふたりは元気よく扉を開け放ったのだった。

「お帰りなさいませ、みなさま」

 出迎えてくれたのはコアジサシだった。

 ふたりの猫は、どやどやとコアジサシの部屋に押しかけて、なにやらわいわいと騒いでいる。

 おくれることわずか、

「ただいま……」

 猫手川は、ぐったりとした様子で部屋へと入った。

「お帰りなさいませ、猫手川さま」

 律儀りちぎにも、また出迎えてくれたのはコアジサシだ。

 エリーは相変わらず、黙ってこちらに背をむけたままだった。

 そんなエリーの様子をちらりとうかがいながらも、猫手川はベッドに横になった。

 今日は色々なことがあった……。

 軋む身体にわずかに顔をしかめながら、少しの休息をとった。

 

 猫手川が目を覚ましたのは、晩ごはんまでには、まだ少し時間のある、夕方のこと。

「エリー、あじこー」

 と、猫手川は、ふたりを呼んだ。

 かつては物置部屋であったその部屋には、立派な東屋風の鳥小屋が建てられている。

 充分に人が住めるほどの大きさのあるその鳥小屋は、彼らの遊び場兼、集会場でもある。

 そのようなわけで、大抵の場合、彼らはそこにいるのだった。

「……なんの用?」

 と、エリーは冷ややかに言った。

「エリーちゃん置いてかれて拗ねてるにゃ」

 と、宇宙は、ほがらかに言った。

「なっ⁉」

「ちがうよ。エリちゃんはマリちゃんに嫉妬しっとしているんだよ」

 と、橘みやびは、さらりと言った。

「ななっ⁉」

「そ、そうなのか?」

「ちっ、ちがうわよ‼ 用がないならさっさとでていきなさい! いま大切な会議中なんだから!」

「さきほどから、たいやきのお話しかしておりませんが?」

 と、その部屋の主である、コアジサシは首をかしげた。

「……たいやき?」

「そうだよ! あのたいやき!」

「おいしかったにゃー!」

 橘みやびと宇宙は、うっとりとした表情で言った。

 どうやらみんなで、たいやきの話をしていたようだ。

「たしかにあれはおいしかったなぁ……」

 と、猫手川もうなずいた。

「そんなエリーに、とっておきのおみやげがあります」

 と、猫手川は言った。

「ほら、このたいやき──」

「うにゃあ!」

 猫手川が差しだしたたいやきを、エリーは奪うようにひったくると、がぶりと噛みついた。

 がちり! 

 と、硬質な音がした。

「……い、いひゃい」

 それは磁器でできた、たいやきの焼き物だった。色、艶ともに、本物を凌駕りょうがせんばかりの逸品である。

「よくできてるだろ?」

 と、猫手川は言った。

「それから、あじこにはこれ──」

 そう言って猫手川が差しだしたのは、しなやかな竹で編まれた魚篭びく であった。魚篭とは、魚釣りなどで用いる、とった魚をいれておくためのかごである。

「わぁ! こんな素敵なお土産をもらったの、私はじめてです!」

 本マグロでもするりと入ってしまいそうな、小さな渡り鳥にはおよそ不釣り合いなその大きな魚篭を両のつばさで抱きしめて、コアジサシは嬉しそうに囀った。

「渡り鳥用の肩かけストラップもついてるんだ」

 ストラップには、可愛らしい鳥のイラストが描かれている。

「……いふはほ」

 と、エリーは言った。

「なんて?」

「いくわよっ!」

 と、エリーは、涙ながらに言った。


       4


 坂をくだる。

 猫手川とエリーの住む洋館は小高い丘のうえにある。

 そのようなわけで、夕陽の沈みゆくその様子が、最後まで美しく見える。

 肩を怒らせてずかずかとすすむエリーを先頭に、あとにはふたりの猫がつづき、そのうしろから、コアジサシを肩に乗せた猫手川がついてゆく。

「どこにいくんだ?」

 と、猫手川はたずねた。

 彼はいつも、その外出理由を知らない。

 彼らものを言う猫たちは、いつも決まって、詳細しょうさいを語ることはない。そのうえで、このように猫手川に行動をうながす、いや、強制するのだった。

 ある時にはそれは、放射性物質の回収であり、またある時にはそれは、隕石を拾いにゆくことだったりもする。猫手川は、そのような正体不明のささやかな旅を、億劫おっくうに思う反面、それとなく期待しているところもあるのだった。

「なあ、今日はいったいどこにいくんだ?」

「…………」

「なあ?」

「…………」

「なあ?」

「……決まってるでしょ!」

 猫手川がしつこくたずねると、エリーは苛立いらだちもあらわに立ち止まり、

「たいやきを買いにいくのよ!」

 と、言った。

「…………」

 このようなことも、多々ある……。

 一行は、近所のたいやき屋さんを目指した。

「たいやき屋さん閉店しているにゃ……」

 かつて、たいやき屋さんであったその場所には、灰色のシャッターが降りていた。その閉ざされたシャッターに、いちまいの貼り紙が、かさかさと揺れていた。


 『一身上いっしんじょうの都合により閉店させていただきます。

  ながらくのご愛顧あいこ、まことにありがとうございました。

                            店主』


「…………」

 エリーの肩が、わなわなと震えていた。

 だれも、かける言葉を見つけられなかった。

 たいやきを食べたくて、食べたくて、切望せつぼうしているその時、たいやきの代わりになるものなど、ありはしないのだから……。

「たこやき屋さんいくにゃ?」

 と、宇宙は言った。

「………!」

 エリーの顔がパァっと、明るくなった。

「…………」

───たこやきでもいいんだ……。

 その店は、千華城下ちはなじょうかにある。

 桜の名所である千華城ちはなじょうにほど近く、お花見や、ゴールデンウィークの時分には飛ぶように売れる、名物のたこやきである。

「なにこれっ!」

 と、橘みやびは金切り声をあげた。

 その店内は薄暗く、その窓には、いちまいの貼り紙が、かさかさと揺れていた。


 『お花見とG・Wでかなりもうけたので、月末まで旅行にいってきます。

                                  店主』


「…………」

───正直すぎるだろ!

「…………」

 エリーは、こしこしと、目をこすった。

 しぱしぱとまばたきを繰り返し、大きく見開いた双眸で、たこやき屋さんを見つめる。

 けれども、目の前の光景は、なにひとつ変わっていなかった。

 だれも、かける言葉を見つけられなかった。

 たこやきを食べたくて、食べたくて、切望してい

「今川焼きはどうにゃ?」

 と、宇宙は言った。

「………!」

 エリーの顔がパァっと、明るくなった。

「…………」

 甘い──しょっぱい──甘い……。

 挫折ざせつしては百八十度ベクトルを変える味覚の指向性しこうせい

 それでもなんなく気持ちを切り替えるあたりは、さすがは野性を残した生き物である。

 弱肉強食の世界では、嗜好しこうなどというものに左右されるような軟弱な精神では、到底、生きてはゆけないのだから。

「お店、終わってます……」

 またもや降りたシャッターの前で立ち尽くす一同。

 それもそのはず、辺りはすでに夕闇から、まことの闇に姿を変えており、温度を低下させた寒々しい夜気が、風とともに吹きつけている。

 店も閉まる、そんな時刻だった。

「…………」

 エリーの瞳が、うるうると潤んでいた。

「お好み焼きはどうにゃ?」

 と、宇宙は言った。

「それならこの時間でもやってるね!」

 と、橘みやびが元気よく相づちをうつ。

「………!」

 エリーの顔がパァっと、明るくなった。

「へいらっしゃいっ!」

「……お好み焼き屋さん…?」

「うまいラーメン、うまい屋にようこそ!」

 らーめん屋さんに代替だいがえしていた。

「…………ぐすっ……」

 エリーはとうとう泣きだした。

「なんで……、なんでよ……」

 ぐすぐすと泣きながら、エリーはがっくりとうなだれた。

「エリちゃん……」

「エリーちゃん……」

「エリーさま……」

「エリー……」

 さすがに気の毒になった。

「なあ、エリー?」

 と、猫手川は言った。

「もうお好み焼きまできたんなら、コンビニでもあると思う」

 猫手川の言うとおりだった。

 いまのご時世、コンビニにいけば、手に入らないものの方が少ないのだ。きっと、お好み焼きもあるだろうし、たいやきだってあるかもしれない。

 猫手川はそう提案したのだが……、

「いやよ!」

 と、エリーは泣きながら言った。

「そんな工場でつくったようなもの食べないわ! なぜあなたはそう分からず屋なの! わたしは鉄板てっぱんで焼いたものが食べたいの! 目の前の鉄板で無慈悲むじひなまでにじゅーじゅーいわせながら表も裏も焼き尽くされた、そんな絶望的なまでにこうばしい外側のかわが食べたいのよっっ‼ ……そ……そんな、外側の皮が……食べたいのよ……」

 最後には精魂尽せいこんつてたように弱々しくそう言ったエリーは、この世のすべてに疲れたように、道路にまるくなってしまった。

「…………」

───皮メインなんだ……。

 と、猫手川は思った。

 分かるよ、分かるよ、と、橘みやびはエリーの肩を抱いた。

 辛かったにゃあ、と、宇宙はエリーのとなりにまるくなる。

 コアジサシは滂沱ぼうだし、その雄々おお しくもやさなつばさで、みんなを包みこんだ。

 そうして、みんな、動かなくなった……。



       黒猫エリーと、入り江   完





 そうなっていれば、どれほど楽であっただろう。

 猫手川のながい夜は、まだ幕を開けたばかりだった……。


       5


 その道は、かつて、とおった道。

 それも、さして離れてはいない過去のできごと。

 その道は、今日、とおった道。

 ことの発端は、橘みやびの言葉にある──


 身を寄せあって、まるで夜の寒さをしのいでいるような光景であった。

 路上にまるくなった黒猫と、それに寄り添うふたりの猫を、コアジサシがつばさで包みこんでいる。

 知らぬものが見れば、感動的ですらありえる。

 しかし、猫と鳥がり成すその光景は、たいやきが食べられなかったものたちの、ただのふて寝なのだった。

「……きろ」

 と、猫手川は言った。

「……はっ!」

「もうちょっと食べさせてよぅ……」

「ソフトクリームおいしいにゃ~……」

「本マグロがれました~……」

「……なぜわたしはこんなところで寝ているのかしら…?」

 ぐうたらな惰眠集団のなか、ひとりだけ起きたエリーは、つぶやくように言った。

 猫はストレスを感じると、激しく毛繕けづくろいをするか、すぐにふて寝してしまう。

 この様子を見るに、おそらくは鳥もそうなのであろう。

「そんなところで寝てないで、もう帰るぞ」

 と、猫手川は言った。

「いやよ!」

 と、エリーは駄々をこねた。

 猫は、自由気ままで、あきっぽい生き物として、ひろく知られている。

 けれども猫には、しつこく、あきらめが悪いところも存分ぞんぶんにある。

 その時──

「猫手川くんっ!」

 と、起きぬけにも関わらず元気よく、橘みやびが声をあげた。

「ボクたちには、なんでも屋さんがいるじゃないかっ!」

 と、橘みやびは言った。

「なんでも屋さん……?」

 それは、彼のことであった。

 ある時は金魚鉢屋きんぎょばちやさん。

 ある時はラムネ屋さん。

 そしてある時はコンパス屋さんでもあり、スコップ屋さんでもある。

 神出鬼没しんしゅつきぼつでありながら、常にお客さんのニーズに答えつづける希代きたいの商人。その名も『なんでも屋さん(命名、橘みやび)』。

 ちなみに、コンパス屋さんはすでに廃業している。

「さあ、みんなでなんでも屋さんを呼ぼうよ!」

 そうして、せーので、

「なんでも屋さーん!」

 呼んだのだが……、

「そんなに都合よく来るわけが──」

「呼んだかいっ!」

「…………」

───きたーーっ‼

 きた……。

「たいやきをください」

 橘みやびは丁寧に、ぺこりと、頭をさげた。

「惜しいっ。ちょっと前に売り切れちまったよ」

 と、なんでも屋さんは言った。

「じゃあ、たこやきはどうにゃ?」

「そりゃあ、おいてないね」

「今川焼きはありますか?」

「あー、いまちょうど切らしてるなあ」

「お好み焼きは?」

「ないねえ」

「……じゃあ、なにを売ってるのよ?」

 と、エリーがたずねると、

あぶら

 そう言って、なんでも屋さんは、ラーメンうまい屋に入っていった。

「…………」

───うまいっ!

「廃業しろっ!」

 と、エリーはやさぐれた。

 そうしてまた、エリーが路上にまるくなりかけたその時、

「たいやき食べられるよっ!」

 またもや、橘みやびが元気よく言った。

「どういうことだ?」

「今日買ったたいやきが、まだ蔵のなかにある!」

 猫手川がたずねると、橘みやびはそう答えたのだった。

 橘みやびのサザエさん騒動のさなか、うやむやになってしまったが、彼女がゲットしてきたたいやきは、まだ袋のなかに残っていたというのだ。

「だからあの蔵のなかには、まだたいやきがあるんだよ!」

「ほんとうなのみやびっ?」

 消えかけた希望の灯火ともしびが、エリーのなかでまた煌めきだしたようだった。

「たしかにそのとおりだにゃ!」

 と、宇宙は、確信的にうなずいた。

 その可能性は高い、と、猫手川も思った。

「でも……」

 これから小出毬の祖父に家にむかう労力に見合った提案では、決してない、とも思った。

「いくわよ!」

 と、エリーは元気よく言った。


 こうして一行は、夜の街道を歩いている。

 小出毬の祖父の家までは、車をつかえば、一時間にみたず、着く距離であった。

 しかし、歩くとなれば、並大抵の距離ではない。

「バスか、タクシーに乗るか? あるいは車を借りにいったん帰るか……」

 猫手川はそう、提案したのだが、

「そんな軟弱なことでどうするの! 足があるのだから歩きなさい!」

 車嫌いのエリーは頑としてゆずらず、徒歩での旅となったのである。

 たいやきの味をそこねないように、と、わけのわからぬエリーの指示により、ゼリー飲料でエネルギーだけを補給し、一行は歩きつづけた。

 しだいに道路から車の数も減り、あたりには静寂が、その気配を増していった。

 もうすでに宇宙と橘みやびは、猫手川に抱かれて、スースーと寝息をたてている。

 ほどなく、猫手川の腕は限界をきたし、途中のコンビニで、買いたくもないトートバッグを買った。

 エリーは、気力だけで歩いているようだった。

 ふらふらと数歩すすんでは、こくりと頭がさがる。しかし、すぐさま、たいやきのことを思い出すのか、また顔をあげて歩きだす。

 そうしてまた、ふらふらと数歩すすんでは、こくり、と、ねむ気におそわれるのであった。

 いったいなにが彼女をそこまで駆りたてるのか、猫手川にはわからない。

 途中、エリーの要望でコーヒーを買った。

 ねむ気ざましのコーヒーをひといきに飲みほしたエリーは、それから間もなく、眠りにおちた。

 紫色の夜は、よりいっそう温度を低下させ、あたりは冷ややかな夜気に包まれていた。

 そのなかにあって、猫手川は、汗だくになって歩いている。

 しばらく歩くと、小出毬から電話があった。

「猫手川さんですか?」

 おだやかな、小出毬の声がした。

「はい」

「宇宙も一緒ですか?」

「はい。宇宙は僕が責任をもって、無事にお返しいたしますので」

「いつもすみません」

「いえいえ! 元気にしてますのでご安心ください!」

 と、猫手川は言ったのだが、宇宙はトートバッグのなかで、スースーと寝息をたてている。

「ところで、わたしはもう寝ますけど、お夕飯はいかがなさいますか?」

 と、小出毬はたずねた。

 猫手川は、どれほど小出毬の手料理を恋しく思ったことだろう。思わず涙がこぼれそうになったが、それをぐっとこらえた。

「いつでも食べられるように、キッチンにおいてありますので」

 と、小出毬は言った。

 そのなに気ないやわらかな言葉に、こられていた涙が、ひとつぶ、こぼれおちた。

「あ、ありがとう……ございます……」

「最近、ねずみさんがよくでるので、キッチンには鍵をかけてあります。鍵は食堂のテーブルのうえのたいやきが入ったとうのかごに入れてありますので」

「はい……、あ、ありがとうございます……」

 猫手川は涙ながらに答え、通話は終了した。

 そうして猫手川は、また、歩きだした。


 数多あまたの時が、過ぎ去った……。


 猫手川は、すれ違う車のヘッドライトを数えながら、なんとか正気を保って歩いていた。

 しかし、通りすぎる車もあまりなく、少し気を抜くと、カウントを忘れてしまうのだった。

 しばらく歩くと、一行のなかで、唯一元気に起きているコアジサシが、猫手川に囀った。

「猫手川さま?」

「ど……どうした……、あ、あじこ……」

 もう瀕死である。

「お、お前も……、ね、眠かったら……、ぼ、ぼ、僕の肩で……、ね、寝ていいんだぞ……」

「いえ、そうではありません」

 と、いまだ、ちから強くはばたく、コアジサシは言った。

「あの……」

「う、うん?」

「エリーさまも眠っていることですし、たくしーに乗ってはいかがですか?」

「…………」

「たくしーに乗っては……」

「…………」

「いかがですか……?」

 焦燥しょうそうの激しい猫手川に、コアジサシは噛んでふくめるように囀った。優しい鳥である。

「……はっ!」

 猫手川の顔がパァっと、輝いた。

 タクシーに乗った。

 そうして小出毬の祖父の家に着いたのは、もう、うっすらと陽ものぼりはじめた、夜というよりは、早朝のことだった。

「……起きろ」

 と、猫手川は言った。

「……はっ!」

「もうちょっと遊ばせてよぅ……」

「ハロハロおいしいにゃ~……」

「……なぜわたしはこんなところで寝ているのかしら…?」

 ぐうたらな惰眠集団のなかから、やはりひとりだけ目覚めたエリーは、つぶやくように言った。

「着いたぞ」

 猫手川の言葉に、エリーは、きょろきょろと、あたりを見た。

 そうして、

「集合ー!」

 いまだ眠りこける猫ふたりに号令をかけた。

 寝ぼけまなこの見本のようなふたりが、エリーの前にふらつきながらたっている。

「作戦開始ー!」

 と、エリーは言った。

 橘みやびはどこからか、針金のようなものを見つけてくると、あくびをしながらそれを宇宙に手渡した。

 この白い長毛種は、これでいて、鍵開けの天才なのである。

 わきわきと、白い毛におおわれた指先をうごかすと、宇宙はその蔵の南京錠の前にたった。

 大きなあくびをした。

 その時であった。

 その大層立派な蔵の、カードサイズほどしかない扉の隙間から、

 するり──、

 と、影が踊りでた。

 正面から見るに、線そのものであるその影は、横から見ると、その細ながくのびた口元には、あんこがいっぱいついている。

「たいやき、うまかったばう!」

 そのあまりにも細いボルゾイ、太巻は、たいそう満足そうに、そう言った。

 猫手川はその様子を、わずかに微笑みをたたえた無言のうちに見守り、そうして、完全なる白目しろめをむいた。

「おーい太巻。どこへいった?」

 小出毬の祖父の声がした。

「ありゃ! おい猫手川くんっ! どうしたっ⁉」

 こうして猫手川は、この二十四時間にもみたない短い時間のうち、小出毬の祖父に二度目の介抱をされたのだった。


       6


 帰り道の記憶はない。

 気がつくと猫手川は、小出毬の祖父の車に乗っており、その洋館の玄関先にいた。

 小高い丘のうえに建つこの洋館の大家は、小出毬の祖父、その人である。

「おかえりなさい、猫手川さん」

 まだ早朝であるにも関わらず、かろやかな声とともに、小出毬が出迎えてくれた。

「ただいま、コデマリさん。それから、コデマリさんのおじいさん、ご迷惑をおかけしました」

 猫手川はぺこりと頭をさげた。

「なんのその、これしき」

 と、小出毬の祖父は、おだやかに微笑ほほえんだ。

 その微笑みに、猫手川は愛おしい笑顔の面影おもかげを感じた。

「た、たいやきっ!」

 と、エリーの声がした。

 その洋館の、住人用の食堂。

 そのテーブルのうえの籐のかごには、エリーがあれだけ求めてやまなった、たいやきが、燦然さんぜんと煌めいていたのだった。

「コデマリさん」

「はい?」

「昨日の晩ごはんって、まだあるんですよね?」

「ええ、キッチンにおいてありますよ」

「いただいてもいいですか? もうおへそが背中からエイリアンするくらいはらぺこでして」

「もちろんです!」

 と、小出毬は、おだやかに微笑んだ。

「あっ、でもまだキッチンには鍵がかかってますので」

「了解です!」

 と、猫手川は、にっこりと微笑んだ。

 涙をながしてたいやきを食すエリーを見守りながら鍵を手にすると、猫手川はキッチンへとむかった。

 鍵を差そうとドアノブに手をかけた、その時であった。

 ドアと壁の、細い隙間から、

 するり──、

 と、影が踊りでた。

 正面から見るに、線そのものであるその影は、横から見ると、その細ながくのびた口元には、ごはんつぶがいっぱいくっついている。

「コデマリのごはん、うまかったばう!」

 太巻は、たいそう満足そうに、そう言った。

「…………」

───ボルゾイの細さをなめてはいけない……。

「エリー……、たいやきをひとつ──」

「もうないわよ」

 と、エリーは言った。

「たいやきうまかったにゃー!」

「うん! たいやきはおいしいねえ!」

「これは大変おいしいです!」

 見れば、その猫と鳥は、口元にあんこをいっぱいつけて、満足そうにお茶をすすっているのだった。

「…………」

───動物たちの食に対する貪欲どんよくさを、甘くみてはならない……。

 この短い時間にも関わらず、本日二度目となる、完全なる白目をむきながら、猫手川はそう、こころの鉄板に焼きつけた。


 その後、猫手川のお土産である魚篭を背に、さっそうと飛びだしたコアジサシが大間おうまのマグロ漁師さんと一悶着ひともんちゃく起こし、猫手川が謝罪におもむくのは、また別のお話し……。

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