第4話 猫手川、宿替いの補助を為し、越冬の秘儀を目にす

       1


 大きな満月の夜だった。

 もっとも偉大なる間接照明は、アスファルトの大地に、うすあおい影をおとし、その大小さまざまな蒼い影は、すべるようにを目指す。

 なめらかな風に乗って、潮の香りが運ばれてくる。

 首都しゅとに面したわんにほど近い国道には、絶えず車がい、人々は、日常という一瞬のきらめきを継続した時にたばねて、終わりつつあり、また、はじまりつつもある、その夜を過ごす。

 けれど、かぐわしい柑橘類かんきつるいの色をした月灯つきあかりをびて、蒼い影とともに優雅にすすむ、彼らを知るものは、あまり、いない。

 そこは首都に面した湾にほど近い、国道をまたぐ陸橋だった。

 その陸橋のうえで、満月の瑞々みずみずしい光りに照らされた猫手川ねこてがわ双眸そうぼうは、涙にきらめいている。


       2


 ある日の昼下がりのこと。

 きぬのようになめらかな被毛ひもうを、つややかにゆらして現れた黒猫エリーは、彼女の『自称じしょう』飼い主である猫手川に、なにやら一枚の紙を差しだした。

「……なんだこれは?」

 見ればそれは、放置自転車保管のご案内、などというはがきであった。

 要するに、いついつまでに受け取りのない場合、その自転車が処分されるという、役所からのお報せだ。

「……だから、なんなんだ?」

 と、猫手川は、再度たずねた。

 猫手川は自転車をもっていない。

 その疑問には、答える素振そぶりも見せずに、

「いくわよ」

 と、エリーは言った。

「いやだよ」

 と、猫手川は言った。

「……なぜ?」

 と、エリーは言った。

「僕はいま、いそがしいんだ」

 と、猫手川は言った。

「なにがそんなに、いそがしいの?」

 と、エリーは言った。

「グミを食べているんだ」

 と、猫手川は言った。

「…………」

「痛っ!」

 と、エリーはなにも言わず、とりあえず猫手川をひっぱたいた。

 少し、いらついたようだ。

「あなたは、わたしに感謝することになる──」

 エリーは歩きだし、

「とりあえず、それをひらひらさせて、一階まできなさい」

 そう言って、部屋をでた。

「…………」

 猫手川は、渋々しぶしぶ、彼女のあとにつづいた。

「あら、猫手川さん、それ──」

 と、かわいらしい声が、猫手川を呼び止めた。

 その美声の持ち主、小出毬こいでまりは、猫手川の住むこの洋館の、婉麗えんれいなる管理人である。

「わたしの自転車の、保管案内じゃありませんか?」

「……え?」

 小出毬コデマリの自転車が盗難のにあったのは、もうずいぶんと前のことであった。

 非道ひどくおちこむ小出毬をなぐさめた記憶が、猫手川にはある。

 猫手川はエリーを見た。

 エリーは、冷ややかな表情を浮かべていた。

 その満月の色をした双眸は、たった一文字の言葉を示唆しさしている。

───ね?

 と。

「あ、あの、今日はそのあたりに用事がありまして、ついでにとりにいこうかと……」

 猫手川は言った。

 口からでまかせもいいところだが、このような黒猫と生活をともにするにあたり、それは最早、必要不可欠なスキルなのかもしれない。

 と、猫手川は自らを納得させた。

「あら、それはありがとうございます──」

 小出毬は丁寧ていねいに、ぺこり、と、頭をさげた。そうして、小出毬は顔をあげると、

宇宙そら、猫手川さんに、ご迷惑をおかけしないようにね」

 と、そう、付けくわえた。

 気が付くと、足元には白い長毛種ちょうもうしゅの猫が寄り添っており、そのトパーズの色をした煌めく双眸で猫手川を見あげている。見れば玄関先には、黒猫とともに、天色あまいろの被毛をした猫が、そろってれたように猫手川を待っており、こうしてまた、猫手川にとってはスタンダードな日常が、なんの合図もなしに、幕を開けるのだった。

「お夕飯には、猫手川さんのお好きな豆富どうふをお付けしますからね~!」

 ひらひら、と、手をふり、一行を見送る小出毬の言葉を聴き、猫手川は早くもエリーに感謝した。


 坂をくだる。

 猫手川の住むその洋館は、小高こだかおかのうえにある。

 そのようなわけで、どこへいくにも、まずは、くだることとなる。

「モノレールでいきましょう」

 と、エリーは言った。

わたぶねは?」

 と、猫手川はたずねた。

 自転車の保管案内を送ってよこした役所は、海の近くにある。

 渡し船を使い、先日訪れたランドマークタワーで下船げせんすれば、歩いて数分の距離だった。

「今日は定休日なの」

「て、定休日……」

 この渡し船、そもそも、通常営業をしているのかさえ、不明なのだが。

 みなとの駅で、モノレールをおりる。

 バスとはちがい、騒音の少ないモノレールを、エリーは好ましく思っている。

 この街のモノレールは、世界でも数少ない懸垂式けんすいしきである。懸垂式としては世界最長の営業距離をもつこのモノレールは、実はマニアックな人気を博している。

 お目当ての役所は、このモノレール駅の向かいにあった。

 高所に敷設ふせつされたモノレールの駅をくだると、そこには、自転車が散乱していた。

 まったく通れないほどではない。けれども、あきらかに、駐車スペースを逸脱いつだつしている。

 なかには、倒れて久しいと思われる、こけむして、つたからられているような自転車まである。

 保管案内の手紙をにぎりしめた猫手川は、少し、理不尽りふじんな気持ちにさらされた。

「片付けなさい」

 と、エリーは言った。

「な、なんで僕がっ?」

 と、不満をていした猫手川に、

「あなたの街のことよ?」

 と、エリーは言った。

 そう言われれば、なにも言えなくなってしまう。

 猫手川は渋々、散乱した自転車を、片付けはじめた。

「反対側もね」

 と、エリーは言った。

 モノレールの駅は、国道をまたぐ陸橋に隣接しており、その反対側にも、同じように放置自転車はあるのだった。

「…………」 

───なぜ僕はこんなに汗だくになっているんだ⁉

 ただ、自転車の受けとりにきただけだというのに、何故か早々そうそうに、汗だくになった猫手川。

 自転車を整理し終えた猫手川は、一路、役所へと向かった。

 そうして、ようやくのことで小出毬の自転車を受領し、帰ろうとすると、今度は同行した旅の仲間たちが口々に不平不満を言いはじめた。

 話を聴くに──

「……要するに、おやつが食べたいんだな?」

 猫たちは、そろってうなずいた。

 小出毬の自転車には、買い物かごがついている。

 その買い物かごのなかで、猫たちは、気持ちよさそうに風を浴びていた。

 自転車は、役所の近隣にある、二十四時間営業をしているディスカウントスーパーへと向かっている。

 猫のティータイムを、一円でも安く済ませたい猫手川にとって、ディスカウントスーパーは、まことに頼もしい味方だった。

「ちくわの大安売りだにゃ!」

 買い物の途中、トートバッグから、わずかに顔をのぞかせた宇宙が言った。

───目敏めざといやつ…。

「なになに──」

 と、同じく、トートバッグから顔をだした橘みやびは、

「えっ⁉ 段ボール一箱でこのお値段っ⁉」

 なかば、叫ぶように言った。

「……買いなさい」

 エリーは当然のように、そう言った。

「…………」

 猫たちは魚が好きだ。しかし、彼らは魚と同様に、肉も好む。

 本来、猫は、肉食動物である。

 生肉を食べて生きる動物だ。

 けれど、そのような猫にも、食の好みというものがあるらしい。

 エリーいわく、肉は焼いた方が好き。魚はお刺身と、お寿司以外を、生で食す気はないという。そして彼らは、ちくわや、笹かまなどの、ものが大好きだった。

 しかし、猫の食生活には十分な配慮がなされるべきであり、獣医師さん等のアドバイスに従い、正しい食事を心掛けるべきである。エリーらは、特別な環境下に生きる特殊な猫だということを、どうかお忘れなきよう切に願う。

「せっかくだから、またあの砂浜にソフトクリーム食べにいこうよ!」

「ええ、元よりそのつもりよ」

 エリーは、ふふん、と、鼻を鳴らした。


       3


 結局、押しに負けて、ちくわを段ボール一箱、買った。

 その段ボールを自転車の荷台にくくり付け、前のかごに猫を乗せて、猫手川は、先日も訪れたランドマークタワーを目指している。

 潮風しおかぜが、猫手川のほおでるように通りすぎてゆく。

 その潮風は、緑の香気こうきをわずかにはらんだ風だった。

 このランドマークタワーの周辺には、緑が多い。元来、いこいの場としてつくられた緑であったが、造成されてからはや幾年月、つくられたはずの自然は、本来の姿にかえるように、不自然さを風化させながら、自然と、そこにある。

 ランドマークタワーのお膝元ひざもとまで、あと少しの、道の途中。

 緑溢れる樹々きぎの間から、大きな灰色の猫が、よろよろと歩道にでて、そして、ぱたり、と、倒れた。

 猫手川は急ブレーキをかけた。

 見ればその猫は、いたるところに傷を負い、いまだかわかぬ鮮血が、灰色の被毛を蝦茶えびちゃ色に染めあげていた。

「どうしたんだっ⁉」

 猫手川が駆け寄ると、

「さわるんじゃねぇっ! 人間風情ふぜいがっ」

 大きな灰色の猫は、みつくように叫んだ。

「そんなこと言ったって、お前、非道ひどいケガしてるぞ⁉」

 猫手川は有無うむを言わさず、灰色の猫をだきあげた。

 大きさのわりには、軽い。

 そのしなやかに引き締まった肢体したいは、外で生きる猫特有の感触だった。

 大きな灰色の猫は、必死になってもがいた。

 本来の元気があれば、猫手川のホールドなど容易に逃れ、傷のひとつやふたつは残して、悠々ゆうゆうと去っていったことであろう。けれどもこの時、この灰色の猫には、そのような力は残されていなかった。

 灰色の猫は、その視界のはしに、自転車の買い物かごに乗ったエリーの姿をとらえると、ゆっくりと、彼の意志には反して、ゆっくりと、双眸を閉じた……。


       4


 はじめに見えたものは、包み込むような緑の色だった。

 光りを孕んだ煌めく緑が、陽の光りとうように、天蓋てんがいをつくっていた。

 つづいて、ざわざわと、樹々の葉のる音がした。

 聴覚に絶大な信頼を寄せる彼が、このように遅れて訪れる音を聴いたのは、はじめてのことだった。

 やがて双眸は、おぼろげな、顔の輪郭りんかくを捉える。

 いまだぼやける視界のうち、下から見あげるその顔は、今日出逢であったばかりの、人間の男の顔だった。

「……て、てめえ………、なにして…やがる……」

 その声は、途切れ途切れのうえ、非道く弱々しかった。

きたのか?」

 猫手川は、その猫に言った。

 木漏こもれ日のおちる樹のしたのベンチで、その猫は、猫手川の膝のうえに横たわっていた。

「……ちっ…」

 灰色の猫は、返事をする替わりに舌打ちを返した。

 猫手川は、わずかに苦笑にがわらいを浮かべた。

 彼はこのような、猫というものに慣れている。

「まだ寝てていいぞ──」

 と、猫手川は灰色の猫を、ふうわりとなでた。

「どうせエリーたちも、まだ遊んでるから」

 ランドマークタワーのすぐ下には、芝生の広場がひろがっていた。

 幾つもの芝生の広場が、道と、樹々によって分けられている。猫手川が見るに、エリーたちは一本の大樹たいじゅの根元を、ひたすらに掘って遊んでいるのだった。

「なあ、あいつら、なにしてるんだと思う?」

 なでながら、猫手川は灰色の猫にたずねた。

「……さわるんじゃねぇ…」

 灰色の大きな猫は、弱々しくも、確固たる意志をもって言った。

「ご、ごめん……」

 猫手川は、そっと手をはなした。

 灰色の猫は当てつけるように、猫手川のれていた箇所の毛繕けづくろいをはじめた。しかしその時、毛繕いも困難なほど、自分の肢体がきしんでいることに、彼は、はじめて気がついた。

 舌に違和感が走る。

 それは自分の被毛とは、明らかにことなる舌触したざわりだった。

「悪いけど、病院につれていったぞ」

 猫手川は、灰色の猫の思考を先回りして言った。

「僕たちの手には負えなそうだったからな。途中で目がめるとまずいから、麻酔ますいもしてもらった。だから、思うように身体が動かないんだと、思う」

 自分でも気付かぬうちに、包帯でぐるぐる巻きにされていた灰色の猫は、

「ちぃっ!」

 と、精いっぱいの舌打ちを返した。

「それだけ元気があれば大丈夫だな」

 猫手川は、柔らかく苦笑くしょうした。

「なあ、あいつらがなにしてるか知ってるか?」

 と、猫手川は、再びたずねた。

「猫の遊びは、僕にはよくわからないんだ」

 エリー、宇宙、橘みやびの三者は、先刻せんこくより夢中になって大樹の根元を掘っている。

 人の腕ほどもあるその根の脇に、猫がひとり通れるほどの穴が開いており、その奥の暗がりには大樹の根が包み込むような形で、うろをつくっている。

「それくらいでいいわ」

 と、エリーは言った。

「もういいのかにゃ?」

 と、宇宙は土のなかから、たずねた。

「ええ。これでたくさん、しまっちゃえるわ。うふふ…」

 と、エリーは微笑びしょうし、

「おう。たくさん、しまっちゃえるにゃあ! ひひひ…」

「うん。たくさん、しまっちゃえるね! ぐひひ…」

 穴からいでてきた宇宙と、橘みやびが、それに答える……。

 どうやら穴掘り遊びは終わったと見え、彼らは別の場所に移動していった。

 樹々のなかに打ち捨てられたような、古びた物置小屋の前に、彼らはいる。

 それは、広場の管理施設なのだろう、と、猫手川は思った。

「やりなさい」

 と、エリーは言った。

 橘みやびが、さっと身をかがめると、宇宙はひらりと、その肩に乗った。

 宇宙はどこで見つけてきたのか、針金を、器用に曲げて鍵穴に差しこむと、かちゃりとひねり、いとも容易たやすく、その物置小屋の扉を開けてしまった。

 まず一番に、小屋のなかをのぞいたエリーは、満足気な表情を浮かべて、

「これはこれは……、たくさん、しまっちゃえるわ。うふふ…」

 と、不敵ふてきに笑った。

「おうおう、これは、たくさん、しまっちゃえるにゃあ! ひひひ…」

 と、宇宙が笑えば、

「うんうん、これは、たくさん、しまっちゃえるねえ! ぐひひ…」

 と、橘みやびが、それに答えて笑う……。


 そのようなことをしているのである。

 思えば先日、このランドマークタワーに隕石を取りにきた時にも、彼らはこのような不思議な遊びを好んでしていたのだった。

 このような、とは、大抵の場合、彼らの遊びは、なにかをしまうことを最終目標にしていることである。

「なあ、あれってどういう遊びなんだ? 猫はよくやる遊びなのか?」

 猫手川は再び灰色の猫にたずねた。

「……知らん」

 と、灰色の猫は、忌々いまいまな顔で言った。

「…………」

「…………」

「お前、なんでそんなケガしたんだ?」

「…………」

「まあ、言いたくないなら、無理に言わなくてもいいけどさ」

「……人間風情にしゃべる言葉を、俺は持っていない」

「…………」

「…………」

「……ちくわ食べるか?」

「よこせ」

 ちくわを食べさせてやった。

 そうして、いまだに満足に身体を動かすことができない灰色の猫をなでていると、そのうちに、灰色の大きな猫は、猫手川の膝のうえで、また眠ってしまった。

 緑の天蓋から融けるような木漏れ日がおち、風は猫手川の頬をなでるように、なめらかに通りすぎてゆく。

 静かな猫の寝息ねいきが、緑の香気に融けている。

 そのおだやかな響きに耳をかたむけているうち、いつの間にか、猫手川もまた双眸を閉じていた。


       5


 けるように頬が痛んでいた。

 気がつくと、猫の一座いちざは帰ってきており、おそらくはその座長ざちょうの座を占めているのであろう黒猫、エリーは、黙々もくもくと猫手川の頬をひっぱたいている。

「……起きたぞ」

 猫手川は、かすれた声で言った。

 黄金色きんいろ夕陽ゆうひが、海におちつつある。

 菫の色が夕陽ににじみ、色を濃くしたもも色が、海の彼方かなたを染めあげていた。

「痛っ⁉」

「あなた、あいさつは済んだのでしょうね?」

 エリーは無駄にもう一度、猫手川を殴りつけたあと、いまはもう自らの足でたっている、灰色の猫にたずねた。

「……この姿を見て、まだ済んでいないとでも?」

 灰色の猫は皮肉っぽく言った。

「ならいいわ。まったく男ってものは、ほんとうにくだらない……」

 と、エリーは冷ややかに肩をすくめた。

 頬をさすりながら、猫手川は考えていた。

 しかし、考えるまでもないことのようにも、思った。

「さあ、そろそろ帰るぞ──」

 猫手川は言った。

「お前も一緒にな」

 と、猫手川は、包帯姿の灰色の猫に言った。

───置いていけるはずもない……。

 あとひとりくらい、居候いそうろうが増えても大丈夫だろう。

 猫手川はそう思った。しかし……、

「まだ、帰らない」

 と、エリーは言った。

「どこかで時間をつぶすわよ」

「なぜ?」

「……言う必要があるとでも?」

「…………」


 ランドマークタワーのお膝元には、レストランがある。

 テラスに使われなくなった古い船が置かれている、小洒落たレストランだった。

 一行は、その、船のテラス席に腰をおちつけた。

 ウエイターがさがるなり、真剣にメニューを見つめる猫たち。

「……お前たちは、ちくわでいいだろ?」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「ちくわで……、いいだろ……?」

 痛い出費となった。

 それぞれが食後のコーヒーとクリームソーダを飲み干すころ、月は満面の笑顔を浮かべるように、紫色の夜空のいただきを目指して、おどりでた。

「まだ、もう少し……」

 と、エリーは言った。

 閉店の時刻をすぎた小洒落たレストランをあとにし、広場のベンチに腰をおろす。

 透き徹る、夜だった。

 檸檬れもんの色をした月光は、あまねくふり注ぎ、存在そのものを透過するように、辺りのものをくまなく照らす、満月の夜だった。

 緑の香気は、柑橘類の色をした透き徹る灯りに融け逢い、夜露よつゆは、余すものなく月灯りを抱いて、発光するように煌めいている。

 満月は、さらに高みへといたる。

 美しい月夜だった。

 夜空に月が輝いているのか、夜空が月を輝かせるために紫色であるのか、猫手川にはわからなかった。

 あるいはそのどちらも真実で、そのどちらも間違っているのかもしれない。

 やがて、街から人々の気配が消え、夜もけたころ、国道をまたぐ陸橋に、どこからともなく数多あまたの猫が現れた。


       6


 モノレールの駅に隣接した陸橋。

 大きな国道をまたぐその陸橋は、数多の猫で賑わっていた。

 数は多くはないが、猫にまぎれて、犬や鳥、ハクビシンや、たぬきの姿もある。

「な……、なんだこれは……?」

 猫手川は呆然ぼうぜんと辺りを見渡した。

 月灯りに照らされた数多の動物が、透き徹る影となり、静かに、すべるように、陸橋を駆け抜けてゆく。

 動物たちは街のほうからやってきて、海へと向かって、すすんだ。

「みんな、ちくわを持っていくにゃ~!」

 宇宙が声をはりあげた。

「なっ?」

「引っ越し祝いだよー!」

 橘みやびは元気よく言った。

「なっ、なんだって⁉」

 みるみる減ってゆくちくわとエリーを交互に見つめながら、猫手川は疑問の声をあげた。

「みやびが言ったでしょう? お引っ越しよ」

 と、エリーは言った。

「土地開発とやらで、俺たちの住む場所はうばわれた──」

 灰色の大きな猫は言った。

「だからこうして、新しい住処すみかに移ることになったのさ。お前と暮らすなんざ、まっぴらごめんだ」

 灰色の猫は悪態あくたいをつくと、包帯姿の胸をはって、見せつけるように笑った。

 言動に反して、それは、ほがらかな微笑みだった。

───なるほどね……。

 すべては、そのためであった。

 国道をまたぐ陸橋のうえから、猫手川は辺りを見渡す。

 足のしたには数多の車が行き交い、辺りには、人工的な光りが、いたるところにある。

 人々の生活がある。

 けれどもそこには、人のそれと同じく、動物たちの生活もあるのだった。

 動物たちは、檸檬色の月灯りを浴びて、うす蒼い影とともに、海へとすすむ。

 海の手前には、巨大なランドマークタワーがあり、その周辺には緑が溢れている。

 きっと、彼らが平穏へいおんに住める場所がたくさんあるだろう。

 国道をまたぐその陸橋のうえで、満月の瑞々しい光りに照らされた猫手川の双眸は、涙に煌めいている。

───ぼ、僕のちくわが……。

 みるみる消えてゆく、ちくわ。  

 段ボール一箱のちくわで、どれほど家計が助かっただろう。

 毎日、決まっておやつをねだる彼らに、効果覿面こうかてきめんの、格安のちくわ。

 しかし、引っ越し祝いだと配られ、動物たちは口々に、猫手川にお礼を述べる。

 いまさら返してほしいなどと、口がけても言える状況ではなかった。

「いいんだよ……、い、いいんだよ……」

 頭をさげる動物たちに、猫手川はこぼれる涙を返した。


 数多の影が過ぎ去った。

 そうして、その陸橋のうえに残っているのは、一組の猫の母子おやこばかりとなった。

 母猫は、まだ生まれたばかりの子猫たちを、ひとりづつくわえて、陸橋を往復している。

 猫手川が手を貸そうとすると、エリーはそれを制して、首を横に振った。

「あの時期の母親には、近づかないほうがいいわ」

 お互いのためよ、と、エリーは言った。

「その子たち、この段ボールのなかに入れるにゃ」

 宇宙は、空になったちくわの段ボールを母猫に差しだした。

 それを目にした猫手川の双眸が、一瞬、少し、潤んだ。かつてその段ボールいっぱいに入っていた、ちくわの姿を思い出したからだった。

 母猫は、慎重に、子猫を段ボールに寝かせると、また、陸橋の端の階段下にもどる。

 放置自転車を片付けたおかげで、楽に行き来ができるようになっていた。

 そうして母猫は、ひとりづつ、子猫を運んだ。ゆっくり、ゆっくりと歩む猫の母子を、月光が、やさしく包み込んでいた。

 猫手川はエリーと肩をならべて、言葉もなく、その光景を見つめていた。

 母猫の被毛が、月灯りに満たされてきらきらと煌めいていた。みゃーみゃーと鳴く子猫の声は星々の囁きのように響き渡り、母子の往来する陸橋自体が、まるで生命そのもののように感じられた。その光景は、例えようもなく、美しかった。


 ようやくすべての子猫を運び終えた母猫は、段ボールのなかで子猫に寄り添うように、ぐったりとまるくなった。

「さあ、新居まで運んであげましょう」

 エリーが言うと、

「よろしく頼む……」

 大きな灰色の猫は深々ふかぶかと、頭をさげた。


       7


 檸檬色の月灯りの降りる芝生の広場に、動物たちは散らばっていった。

 動物たちが隠れやすそうな、緑溢れる自然が、そこにはある。

 宇宙は、曲がった針金を何本か、灰色の猫に差しだした。

「これでたくさん、しまっちゃえるにゃ」

 と、宇宙は言った。

「……すまねえ」

 と、灰色の猫は頭をさげた。

「それから、これ!」

 そう言って、広場の入り口にたてられた看板をたたいたのは、橘みやびだった。

「ここに、たくさん、しまっちゃえる場所が書いてあるからね」

 見れば、その看板はこの辺りの地図であり、そのいたるところに、小さな×印が書かれているのだった。

「本格的な冬がくるまでには、ちゃんと準備をしておくのよ」

 と、エリーは言った。

「……すまねえ、本当にすまねえ」

 再び頭をさげた灰色の猫に、

「うふふ…」

「ひひひ…」

「ぐひひ…」

 彼らは、不敵に笑ったのだった。


       8


 動物たちの引っ越しを終えて、彼らが家へと帰りついたのは、もう日付も変わった深夜のことだった。

 猫手川の住むその洋館は、小高い丘のうえにある。

「今日はありがとうな」

 その玄関先で、猫手川はエリーに言った。

「色々とあったけど、なにかすごいものを見た気がするよ」

 それは猫手川の、素直な気持ちだった。

「あら──」

 と、エリーは振り向き、

「あなたは、まだ、わたしに感謝することがある」

 そう、言った……。


 猫手川が自分の部屋の扉を開けると、なかには紅々こうこうと明かりがともっていた。

 部屋をでたのは、まだ日中であったため、電気の消し忘れではない。

「おかえりなさいませ……、猫手川さま……」

 物置部屋から、鳥のさえずりが聴こえた。

 この物置部屋が物置部屋であったのは、かつてのことだ。いまでは部屋いっぱいに、室内にも関わらず、本格的な東屋あずまやが建造されている。

 この洋館の美しき管理人、小出毬によれば、それは鳥小屋なのだった。

 その鳥小屋の主であるコアジサシは、鳥用ベッドに横たわったまま、おかえりを言った。

 いつもであれば、ひょっこりと顔をだして、乳母うば よろしく猫手川たちを出迎えるはずである。

 思えば、声に元気がない。

 かつおをりに土佐まで飛んでいってしまうほどの、生粋きっすいのハンターにしては、生来の生気がないように見受けられた。

「どうかしたのかっ?」

「いえ……私はあやしいと思ったのですが……あの満面の笑顔ですすめられては……」

 猫手川がコアジサシに駆け寄ると、コアジサシはそう、弱々しく囀った。

「あなた、あれを食べたの⁉」

 と、エリーは言った。

「は、はい……、あうー……」

「どういうことだ?」

「コアジサシちゃんっ!」

 猫手川が首をかしげたその時、東屋風鳥小屋に駆けこんできたのは、小出毬だった。

「お薬よ! さあ飲んで!」

 と、小出毬は、あわただしくコアジサシの世話をはじめた。

 まるで状況がつかめない猫手川。

 しばらくののち……、

「あら、みなさん帰ってらっしゃったんですか?」

 ようやく猫手川たちに気がついた小出毬は──

「わたしの不注意で……」

 と、頭をさげた。

「いったい、なにがあったんですか?」

「揚げ出し豆富に使ったお豆富が、痛んでいたんです……」

「あ、揚げ出し豆富⁉」

 それは、猫手川の大好物であった。とりわけ、小出毬のつくる揚げ出し豆富は絶品として名高く、たとえ腐っていると前置きされていたとしても、猫手川ならそれを食べただろう。

「コアジサシちゃんのおかげで、わたしたちは食べずにすんだのですけど……。ごめんね」

「あうー……」

「ごめんね」

「あうー……」

 おなかをさすりながら、何度も、何度も謝罪する小出毬と、青い顔をして静かにうなるコアジサシ……。

 猫手川はエリーを見た。

 エリーは、思いのほか神妙な表情を浮かべながらも、その満月の色をした双眸は、たった一文字の言葉を示唆している。

───ね?

 と。

「ぁりがとぅ……」

 猫手川は、小さくつぶやいた。



 後日のこと。

 猫手川は、橘みやびにたずねた。

「なあ、あの遊びって、いったいなんだったんだ?」

「あの遊びって?」

「ほら、あの『しまっちゃえるわー』とか、なんとか……」

 そう、たずねられた橘みやびは、

「……さあ?」

 と、首をかしげた。

「さあってことはないだろ! お前も一緒になってやってたじゃないか?」

「だって、ボクもよくわからないから」

「…………」

───はぁ?

 よくよく問いただしてみるに……、

「そういう遊びなんでしょ? しまっちゃえるねー遊び。違うの?」

 橘みやびは、なにも知らないのだった。

「猫の遊びはボクにはわからないよ。ぐひひ…」

「…………」

 猫手川がその遊びの本当の意味を理解したのは、その年の冬になってからのことだった。

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