ビーストチルド

@kirisimahukase

第1話 泥から生まれた子

雨は止むことを知らなかった。


黒い雲が空を覆い、地上は泣いているかのように、冷たい雨に打たれていた。地面は泥と化し、足を踏み入れればずぶりと重い音を立てて飲み込んでいく。朽ちた木々の中に、その赤ん坊は横たわっていた。


赤ん坊は小さな手足を力いっぱい動かし、鳴き声をあげながら泥を跳ね上げていた。肌は雨に冷やされ、寒さと恐怖に震えている。頬を伝う雨水が目に入り、視界はぼやけるばかりだったが、それでも彼は動きを止めなかった。


泥が足にまとわりつき、手のひらが何度もぬかるみに沈んでは滑り、抜け出せない。小さな体は必死に反発するように、足をばたつかせていた。だが、その動きは無力で、ただ泥を飛び散らせるばかり。


『ドシン!ドシン!』


暗い森の奥から重々しい足音が響き始めた。朽ちた木からカラスが一斉に飛び立ち、雨音にかき消されることなく、大地を揺るがすような力強い音。それらは確実にこちらに近づいてきていた。


やがて、霧のように濃く立ち込める雨の中から、巨大な影が現れた。

その姿は、人間とは全く違っていた。背は人間より少し大きく、体全体は青黒いの甲殻に覆われていた。骨のように隆起した肩や腕には、鋭利な突起が並び、顔を覆う鎧をまとっている。筋肉が盛り上がった太い腕からは、恐ろしい力が漲っていることが明らかだった。


それぞれの魔物は大きな体を揺らしながら、重い足音を泥に刻んでいた。赤ん坊の泣き声が小さく響いていた。


「ギャー、ギャー」


魔物たちは何の興味も示さなかった。彼らにとっては、人間の存在など取るに足らないものだったのだ。


その中で、一体の魔物だけが足を止めることなく赤ん坊に一瞬目をやった。だが、それはほんの一瞬の出来事であり、その魔物もまた何事もなかったかのように足を踏み出し、群れに追随していった。赤ん坊はその場に取り残され、雨は依然として降り続いていた。


赤ん坊を一瞬見た魔物が、魔物たちの群れが去った後に戻ってきた。彼の名はヴォルケン。筋肉質な体つきと冷たい目つきが特徴で、その表情には心の温もりなど微塵も感じられなかった。


「ふん、」


ヴォルケンは、赤ん坊が泥にまみれ、寒さに震えながら泣き叫ぶ姿を見下ろし、口元に冷ややかな笑みを浮かべた。彼にとって、赤ん坊の存在はただの「弱者」だった。生き残る力を持たない者に対する無関心さが、彼の内面に渦巻いていた。


「泣くな、無駄だ。誰もお前を助けたりはしない。」


赤ん坊の小さな身体を抱えながら、ヴォルケンはそう呟く。雨が降り続く中、手の中で必死にもがく赤ん坊の姿を見て、彼は内心で笑っていた。弱者がどうなろうと、彼には関係のないことだ。しかし、何かが彼の心に引っかかっていた。赤ん坊があまりにも無力で、かつて自分が直面した残酷な現実を思い出させるような存在だったからだ。


赤ん坊を抱きしめるようにして持ち上げ、冷酷な表情を崩さず、森の奥へと足を進めた。周囲の木々が雨に濡れ、まるで彼の心の中の暗い感情を反映するかのように静まり返っている。


ヴォルケンは赤ん坊を抱えて森の奥へ進み、鬱蒼とした樹木に囲まれた小さな洞窟にたどり着いた。彼は赤ん坊をそのまま地面に置くと、寝床を作ることなど考えず、ただ冷たい視線を向けていた。赤ん坊が震えながら泣く声を無視し、周囲を見回して食料を探し始める。



一週間後



日々が過ぎる中、ヴォルケンは赤ん坊にこの国のことを教えた。この国は醜く腐っていて暴力にまみれていること、そして自分とお前は一緒に共存できぬ存在であること。彼は分かっていたいずれこの赤ん坊離れ離れになることを、だからそれまでに自分ができることをしてやろうと思った。


食事は、ヴォルケンが狩りから持ち帰った獲物の残り物を与えることにした。赤ん坊が小さな手で奪おうとするが、彼はそれを投げ捨て、食いかけの肉を与えるだけだった。


「そんなに食いたいなら自分で獲ってこい。」


その言葉は冷たく響き、赤ん坊が無力に泣く声は彼の心には届かない。ヴォルケンはその声を無視し、ただ自分の生活を続けることにした。赤ん坊にとって、彼の育て方は恐怖であり、同時に何の助けにもならない冷酷さそのものであった。


ある日、赤ん坊が何かを学ぼうとしてヴォルケンに近づいたが、彼は無言で背を向け、無視を決め込んだ。赤ん坊は困惑し、何度も声をかけるが、彼の心には冷たい壁が築かれている。赤ん坊の無邪気な期待は、ヴォルケンには全く響かない。


「強くなれよ、じゃなきゃこの国では死ぬ。」


彼の言葉は厳しく、赤ん坊にはさらなる孤独感を与えただけだった。ヴォルケンは自分の経験から、優しさなど無意味だと考えていた。生き残るためには厳しさが必要だという信念を持っていた。


半年後


ある日のこと、ヴォルケンは赤ん坊に目をやると。洞窟の薄暗い隅で、泥まみれの手を使い周囲の石ころを退かし、小さなネズミを捕まえようとする姿を見せていた。彼は無邪気でありながらも、洞窟の中から力強く生き抜こうとする表情が印象的だった。


その瞬間、ヴォルケンの心に何かが動いた。彼はこの小さな存在が、単なる弱者ではなく、自らの力で生き延びようとしていることに気づいた。彼は赤ん坊の姿を見ながら、思わず言葉を口にする。


「お前は、泥から生まれた子だ。」


ヴォルケンは言葉を続けた。


「アースキン…泥の中から這い上がる意味を持つ名アースキンだ。」


その瞬間、赤ん坊は自分に名前が付けられたことを感じ取った。彼は無邪気な目でヴォルケンを見上げる。



数年後



数年が経ち、アースキンは少年に成長していた。厳しい環境に鍛えられたその体は、彼の成長を示していたが、心の中に孤独と苦しみが深く刻まれていた。


ある日、ヴォルケンは無言でアースキンを連れ、市場に向かった。市場は賑わい、様々な商品が並び、人々の喧騒が響いていた。アースキンはその光景に目を奪われた。見たこともない食べ物や鋭くとがった武器。煌びやかに輝くネックレス見るものすべてが新鮮だった。


市場の雑踏の中、ヴォルケンは一際大きなオークの商人に近づいた。アースキンを連れて、商人の前に立つと、ヴォルケンは淡々と口を開いた。


「この子を売りたい。」


その言葉に、商人は一瞬驚いたようだったが、すぐにアースキンを興味深そうに見つめた。彼の体は鍛えられ、確かに力強く見えた。


「どれほどの価値があるんだ?」商人は好奇心に満ちた声で尋ねる。


「強く育てれば使える。」


ヴォルケンの声は冷たく、取引には何の感情も込められていなかった。アースキンは何が起きているのか理解できないまま、ヴォルケンを見上げた。その目には恐怖と困惑が浮かんでいたが、彼は黙っていた。


商人はしばらくアースキンを観察してから、ニヤリと笑いながら言った。「面白いな、買おう。」


その言葉と共に、取引が成立し、アースキンはヴォルケンの元から商人へと引き渡された。振り返ってヴォルケンを見つめるアースキンに対し、ヴォルケンは一切の感情を見せなかった。冷たく無情なその視線は、アースキンにとっては育ての父からの最終的な別れの印だった。







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