第6話 はじまりの骨 六.
夜が明けるように、まぶたの裏の暗闇が晴れていく。
ざわざわと、ひとの声が聞こえてくる。
まぶたを開くと、まぶしい光が目にしみた。
徐々に慣れてきて、自分がどこにいるのかわかってくる。
わたしは、どこかの海辺にいた。
海辺といっても、砂浜ではない。
そこは、海面よりずいぶん高い位置にある、アスファルトの敷かれた地面だ。
目前に、たくさんの漁船が係留されていて、高い波に揺られていた。
水平線にあるのが朝陽だとわかったのは、そのかがやきが、たまごの黄身のような色をしていたからだ。
喧噪に振り向くと、そこには間口の広い建物があった。
ターポリンエプロンをつけ、ゴム長ぐつを履いたひとたちが、せわしなく行き交っている。
大きなプラスチックのかごが所狭しと並んでいて、中に入っている魚が、ぴちぴちと動いていた。
漁港だ。
「ちょっと、兄ちゃん。邪魔だよ」
うしろから、男性の声がした。
あわてて身を引くと、わたしのすぐ脇を、大きなからだの男性が通り過ぎた。
海の方から、ボウッと汽笛の音がする。
大きな船が、ゆっくりと港に帰ってきて、堤防につけた。
ばたばたと、漁師たちが船上で動き回っている。
わたしは堤防の隅で小さくなって、その様子をみていた。
からだの大きな男性が、船員からロープを受け取って、『「』の形をしたくいに、結びつける。
それから、船長らしき禿頭の男性と、数言の会話を交わした。
「どうね?」
「いやあ」
禿頭の男性は、ぽりぽりと頭をかく。
「悪くねえ。でん、ほかに、なんかでけえのが網にかかっちまってよ。うちのオンボロウインチじゃ、揚げられんくて」
「なに? そんなにでけえと」
「たぶん、サメやろね。……でも、奇妙でよ。そいつ、揚げようとしたときにだけ、思いっきりもぐろうとするっちゃが。まるで、ウインチの音を聞いて判断してるみたいに」
「はあ。そら、頭のいいクジラじゃないとね。揚げるのが楽しみじゃ。どんなんが出るかねえ」
からだの大きな男性が「おうい!」と声をかけると、市場にいるひとたちが集まってきた。
事情を聞き、船に上がる。
船員たちとともに、ウインチと思しき機械の前に立ち、みんなで太いケーブルを掴んだ。
「はい、それっ! それっ!」
禿頭の男性の掛け声に合わせて、綱引きのように、みんながケーブルを引く。
ギュッ、ギュッ、と、長靴が甲板を踏みしめる音がひびく。
「それっ! それっ!」……
掛け声のたびに、少しずつ滑車が回り、ケーブルが船上へ揚がっていく。
しかし、獲物も必死に抵抗しているらしい。
ぐん、ぐんと、逆に漁師たちを海に引き込まん力強さで、ケーブルが引かれる。
「かあ、これは大物じゃ」
「なんじゃろね。経験ない手ごたえだわ」
その綱引きは五分ほども続いたが、体力が尽きたのだろう。
急に抵抗がなくなったため、ケーブルがずるりと滑車をすべり、漁師たちがドドッと尻もちをついた。
どばあっ、と、勢いよく網が上がり、船より高い位置で宙づりになる。
「あっ?」
ついに揚がった網を見上げて、漁師たちがぽかんとする。
わたしもまた、きょとんとして、それを見つめた。
網の中にいたのは、白くて長い髪をした、若い女性だった。
両胸に白いひおうぎ貝をつけている以外、上半身は裸だ。
そして、女性のへそから下は、水色のうろこに浸食されていた。
そのうろこが、足の先まで……いや、足の先はない。
そこにあるのは、ふたつにわかれた、尾びれだ。
彼女の下半身は、魚そのものだった。
網の中でからだを曲げ、「し」のような姿勢になっている彼女は、おどおどと、船を見下ろしていた。
「に」
からだの大きな男性が、ぽつり、とつぶやく。
「人魚……?」
彼女も、漁師たちも、信じられないものをみたような顔で、無言。
その無言を破ったのは、精悍な顔をした、若い男性だった。
「帰してあげましょう」
みんなが、反射的に、若い男性を見る。
その男性は……汽水域で見た、ナシャルの、たいせつなひとだ。
「間違って、かかってしまったんだ」
しかし、その提案が簡単に受け入れられるほど、みんなはお人よしじゃない。
彼らは、一気に色めきだった。
誰かが「これは歴史的な大発見だ」とさけび、漁港はお祭り騒ぎになる。
事情を聞きつけたひとたちが、どんどん市場に集まってくる。
「売ろう」「寄付だ」「観光材料にしよう」という声が聞こえてきた。
その間、とうの人魚は、網の中で吊られたままだった。
人魚は、しょんぼりとうつむいていた。
ぽと、ぽとと、甲板にこぼれているのは、海水ではなく、彼女の涙だ。
しずかに泣きながら、彼女は、すんすんと、洟をすする。
恐怖を抱いているのだろう。ぎゅっと、自分の身を抱くようにしていた。
そのとき、精悍な男性が、そうっと船上にもどってきたことは、わたししか気づいていない。
「かわいそうに」
彼は、市場を気にしながら、ウインチのレバーを引いた。
手の触れる位置まで網が降りてきて、ふところからナイフを出した。
「俺はさ」
彼は、網をナイフを切りながら、彼女に言った。
「俺はさ。かなしそうな生き物を、ほっとけないんだ」
ざく、ざく、と、彼のナイフが網を切る音が聞こえる。
「魚には、表情がない。だから、いっぱい捕まえても、ごめんね、で済ませられる。でも……きみは、泣いてるよな」
網の底が完全に切れて、ドッ、と、人魚が落ちてくる。
落下点に入っていた彼は、両腕で人魚をがしりと受け止めて、
「あはっ!」
少年のように、屈託なく笑った。
「なんて、軽いんだろう!」
人魚は、彼の腕の中で、彼の顔を見つめた。
次第に、カーッ、と、その顔が赤くなっていく。
頭の先まで赤くなって、両手のひらで、顔をおおった。
「さあ」
彼は、人魚をお姫様のように胸に抱いて、船のへりに立つ。
ゆっくりと、慎重に、人魚を海面へと下ろして、
「こわかったね」
にこりと、人魚に笑いかけた。
「もう、かかっちゃだめだよ」
とぷん、と、人魚が海の中へもぐる。
彼は満足げに息を吐き、「さーあ、怒られるぞお」と、伸びをしながら言った。
その二秒後、また、人魚が現れた。
鼻から上だけ、海面に顔を出して、船上の彼の顔を、じーっと見つめる。
「どうしたの?」
彼は、苦笑いを浮かべた。
「さあ。はやくお行き」
鼻から上だけでもわかる。
彼女はまた、ぽうっと、赤くなった。
「それじゃあね」
彼は船を降り、騒がしい市場へと歩んで行く。
その背中を、ナシャルは見つめていた。
わたしは、堤防のふちに立って、腰を折った。
とぷん、と、ナシャルが、海面から上半身を出す。
「ねえ、ゆき。彼……すっごく、すっごく、すてきじゃない……?」
彼女は、両ほほを両手のひらで押さえて、わたしに言った。
「うん。すっごく、すっごく、すてきだね」
彼女はもう、熟れたトマトのように顔を赤くして、
「わたし……す、好きに、なっちゃったかも」
「えっ! ひとめぼれ?」
わたしが言うと、彼女はあわてて、
「ちょ、ちょっと! 大きい声、ださないで!」
「ああ、ナシャルが、ひとめぼれしたよ! みんなー!」
「ゆき!」
彼女は海中にもぐり、堤防から少し離れたところで、ふたたび顔を出した。
じっとりとした目で、こちらを見つめる。
「ごめん、ごめん!」
わたしは笑いながら、彼女に手を振った。
「ごめん! もう、からかわないから!」
◇
ねむたい汽水域の底で、わたしと同じように、ナシャルがからだをあおむけにして、目を閉じている。
「ねえ、ナシャル」
わたしは、彼女に声をかけた。
「いつかわたしも、あなたみたいに、海を泳げるかな?」
「泳げるよ」
彼女は目を開け、ゆっくりとこちらを向いて、きれいな声で言う。
「だって。ゆきは、器用だもん」
遠く、遠くの水面で揺らぐ陽を見つめる。
口の端から漏れた泡が、ぽこぽこと、上へのぼっていく。
「ねえ、ナシャル」
わたしは、彼女に声をかけた。
「わたしも、あなたみたいに、すてきな恋ができる?」
「できるよ」
彼女は、やっぱり、ほほ笑んだ。
「だって。ゆきは、きれいだもん」
◇
十一月三十日、日曜日。
朝、五時に目が覚めた。
むくりと身を起こす。
暗い部屋の中で、ちかちかちしているものがある。
枕元のスマホのライトだ。
起き抜けから、冴えていた。
ホームボタンを押すと、暗い画面に、メッセージが浮かんだ。
送信時刻は、三十日の、午前〇時〇分、きっかり。
日付が変わった、その瞬間。
『誕生日、おめでとう』
翔くんからだった。
ふふっ、と、声がもれた。
返事を打つ。
◇
明日から、工事が始まる。
わたしは、生駒くんと、筒見さんに、メッセージを送った。
午後二時に、校門の前で、待ち合わせ。
ふたりとも、『うん』と、返信してくれた。
ふたりがまったく同じ文言だったのが、おもしろかった。
約束の時間の十分前に校門へ行くと、もう、ふたりがいた。
「よ」と、彼が手を上げる。
ぺこり、と、彼女が、頭を下げる。
ふたりは、やっぱり、気まずそうだ。
わたしは、ふたりを先導するように歩き出した。
ナンキンハゼの並木道にさしかかる。
イヌタデ、ノゲシ、センニンソウ…… 道々の草花の名前を、小声で唱えていく。
並木道を抜け、通っている手芸屋さんの脇道を行くと、川沿いの土手にある遊歩道に出る。
大きいとも、小さいとも言えない川。
対岸には冬枯れの木々がせり出すように生えていて、水面に暗い影を落としている。
干天が続いているせいで、川は水量が少なく、元気がない。
底が見えそうな水上に、鴨の群れがいた。
すれ違うひとのいない遊歩道を北へ行くと、やがて国道と交差するようになる。
歩いていける道は、先まで伸びている。
横断歩道を渡ってさらに北へ行くと、目の前に、橋梁があらわれる。
「線路だよ」
そうつぶやいたとき、右方から、電車が枕木を踏む音が聞こえてきた。
二両の電車が橋梁を渡り、町の東にある駅へ走っていった。
電車の音が遠のくと、今度は、波の音が聞こえるようになる。
橋梁のすぐ向こうに海があって、光がこちらに届いていた。
線路とぶつかるように、歩道は終わっている。
けれど、右手に、土手の一段下の道に行ける階段がある。
そこを降りると、整地されていない、岩や石でこぼこの、細い道が伸びている。
その道は、橋梁をくぐるようにして、砂浜に続いている。
足を取られないよう注意を促して、わたしたちは慎重に進んだ。
スニーカー越しでも、足裏に、ごつごつした岩の感触が伝わってくる。
橋梁の影を出ると、大きな水たまりのような場所が目の前に広がった。
いつものルートをたどりながら、わたしは言う。
「ここはね。汽水域、っていうんだよ。淡水と海水が、混ざっている場所なんだ」
ふたりは、怪訝そうな顔をする。
わたしは、堤防の上にのぼった。
わたしのうしろ……堤防の下の地面に、ふたりは立っていた。
着工前の砂浜に、重機がずらりと並んでいる。
明日から、砂浜の埋め立て工事が始まる。
冬の午後の海が、つめたい風に吹かれて、おだやかに揺れ、かがやいている。
その、ぴかぴかしている海の色は、彼女の瞳と同じ、灰色だ。
わたしは、海を見つめた。
水平線の彼方が、おぼろげに白んでいる。
生きているように躍動する広大な海原のある部分で、ちらっ、と、なにかががやいた。
目をこらす。
ちらっ、ちらっ、と、ひるがえるようにして、それはかがやく。
何度も何度も、海面に出て、光を飛ばす。
それは、大きな魚の、尾のように見えた。
あははっ、と、わたしは笑った。
「あのね」
わたしは振り向き、ふたりを見た。
そして、いつも彼女がわたしに向けてくれていたように、ほほ笑んだ。
「話したいことがあるの」
了
汽水域の人魚 道具小路 @dougu_kouji
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