第6話 はじまりの骨 五.

 もしかすると、わたしはずっと、まぼろしを見ていたのだろうか。

 ナシャルというひとなんて、もともと、存在していなかったのではないか――。

 

 違う。


 汽水域の近くには、確かに、彼女の痕跡があった。

 彼女の日用品や、シャコ貝の宝箱が、そのまま残されていたのだ。

 

 ここに置いたままでは、処分されてしまう。

 だからわたしは、持てるものだけ持って家に帰り、自転車を出した。

 それからまた砂浜へ行って、彼女が残したものをかごに入れ、家に運んだ。

 二往復してすべてを運び終え、いよいよ、やることがなくなった。

 

 もう、砂浜に行く必要はない。

 なのに、放課後になると、どうしても足が向いてしまう。

 意味もないのに、工事の車両が出入りするのを見に行った。


「……」


 学校はといえば、あの日以来、わたしは、生駒くん、筒見さんと、会話をしなくなった。


 目が合うことはあっても、すぐに逸らす。

 近づいてきたら、逃げる。

 あんなにも仲良くしていたのが嘘みたいに、わたしはこころを閉ざしていた。

 あの日々こそ、まぼろしだったようだ。

 

 そうして空虚な生活を送っているうち、進路調査の二者面談の番が回ってきた。


「大学に行きます」


 先生に将来を尋ねられてすぐ、わたしは答えていた。


「東京の大学に行って、医師になります」


 誰かを傷つけることも、自分が傷つくこともない。


 わたしは、慎太郎として、生きていく。


 もう、つかれてしまった。

 それが一番なら、それでいい。


              ◇


 はりぼての決意でも、固めたら固めたで、順応する。


 十一月二十九日、土曜日の午後。わたしは部屋の整理をしていた。

 慎太郎にふさわしくないもの処分しようと決めたのだ。


 机上に並ぶフェルトのマスコットを、ゴミ袋に詰めていく。

 こころを無にして、動物のぬいぐるみも捨てる。

 押入れの奥に隠している女性向けファッション雑誌も、紐でまとめた。

 

 なにかたいへんなことをしているようで、そうでもない。

 

 捨てられずにいた、泥のシミがついたセーターを手に取って見つめる。

 見つめているはずなのに、この瞳には、なにもうつっていないようだった。

 

 机のとなりに置いていた、シャコ貝の宝箱に触れる。

 開けると、潮の香りとともに、ナシャルの面影がふわりとする。


 思い切って掴んで、でも……と、気持ちが揺らぐ。

 

 捨てるか、捨てざるか。

 わたしはここで初めて手を止めた。

 

 収めていた、ナシャルのノートが目に留まる。

 わたしは、あれから一度もノートを開いていなかった。

 

 このノートにきざまれた、ナシャルのうつくしい覚悟は、わたしの卑怯な覚悟を、あますところなく照らし出す。

 どうしようもない自分の弱さをまざまざと見せられるのが、つらかった。

 

 ――このノートを捨てれば、わたしは、本物の「ぼく」になれるだろうか。

 

 決心まで、どれくらいかかっただろう。

 

 わたしはついに、ノートをゴミ袋に入れようとした。

 入れようとして、ぼたぼたと、涙がこぼれていることに気がついた。

 

 それは、ぼくではなく、ゆきが流している涙だった。

 ナシャルのほほ笑みが、こころのすぐ近くにあった。


 あと、一度だけでいい。

 彼女に、会いたかった。


 わたしは、ノートを開いて、彼女の記したメッセージを読み返した。

 

 かわいい文字から、彼女のにおいがする。

 彼女だけではない。

 ゆきのにおいも、そこにある。


 さようなら、と、わたしはつぶやいた。

 

 未練を残さないよう、最後にめいっぱい吸い込もうと、風が立つように、パラパラと、ノートをめくった。

 

 そして、気づく。

 

 最終からふたつ前のページに、文章が書かれていた。

 

 それは、まだわたしが読んだことのない、彼女からのメッセージだった。



『ゆきへ。


 ゆきが、これを、よんでるとき。

 たぶん、わたしは、いなくなっているでしょう。

 のーとが、ゆきのものになってから、よんでもらえるよう、さいごのほうに、かいてるから。


 わたしは、あのひとに、うまく、うちあけられたでしょうか?

 ゆきが、そばにいてくれたなら、きっと、うまくいったよね。


 いつか、ゆきは、にんぎょになりたい、って、いってたね。

 じゆうに、うみをおよぐ、にんぎょになりたい、って。


 でも、ゆきは、さいしょから、にんぎょだよ。

 まだ、およいで、いないだけ。


 さいごに、いろいろ、かこうと、おもったけど。

 つたえられるのは、やっぱり、ありがとう、しかありません。


 ありがとう、ゆき。


 おもいっきり、おひれを、うごかして。

 おもいのまま、あなたのうみを、およいでね。

 さようなら。


  あなたのともだち なしゃる



 ついしん


 たからばこの、いちばんそこに、とくべつなほねがあります。

 ゆきがくれた、ぺんくらいの、おおきさの。

 

 それは、あのひとの、こころのまうえにあった、ほね。

 わたしが、いちばん、すきなおもいでを、みせてくれます。

 

 ちょっと、はずかしいけれど。

 よかったら、ゆきも、みてみて。


 でも、なんでかな?

 ゆきに、みてもらいたいって、おもうのは』



 わたしは、宝箱を探った。

 底に、きれいなタオルで、たいせつに巻かれたなにかがあった。

 

 取り出して、タオルをめくってみると、メッセージ通り、ペンほどの大きさの骨があった。

 これまでに見た骨の中でも、いっそうに白く、きれいな骨。

 象牙よりもなめらかで、うつくしい。

 みずから発光しているように、きらきらとかがやいていた。

 

 わたしはその骨を、しずかに頬にあてて、目を閉じた。

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