夜桜狂騒曲

津麦ツグム

第1話 

「・・・あ」

「どうしたの?」

隣を歩いていた貴恵が首を傾げる。

艶のある黒髪がネオンの色を反射してキラキラと輝く。

ううん、なんでもない。

私は精一杯に口角を上げて目尻を下げる。

取り繕った顔。左頬の筋肉が今にも攣りそうだ。

その間にも私の左胸にある臓器が拍動を全力で主張する。普段はあるかどうか忘れるくらいにおしとやかな臓器のはずなのに。

拍動に合わせて鼓膜近くの血管も思い立ったように脈打ち始め、指先が冷たくなるのを感じた。

小さな罪悪感と居心地の悪さを感じながら首を精一杯捩じって雑踏に塗りつぶされていく染井先輩の後ろ姿を探す。

さっきの染井先輩の服装は確か、ストンと落ちる上品な紺色のワンピースに柔らかな桜色のカーディガンだった。間違いない。線が細く、すらりとした染井先輩によく似あったファッションだった。

職場で見る染井先輩は、動きやすそうで汚しても躊躇なく捨てられそうな、私だったらすぐに捨てたくなるような、シンプルな量販店の安いズボンを履いていた。

それにトップスも無地の同じ形の白、黒、グレーの色違いで買ったであろう地味な服を毎日着まわしていた。しかもちょっと袖の長さが足りてない。

「無難」という枠組みに無理やり体を押し込めている印象を私はずっと抱いていた。

化粧もしているのかしていないのかわからないくらいに薄いのが常なのに、今日はきっちりと眉毛を描いていて、ゴールドのアイシャドウとくっきりとしたアイラインが切れ長な目をより意味深に、魅力的に彩っていた。

いつも無造作にひとまとめにされていた髪は、今日は夜の海のように艶々と輝くウェーブヘア。

耳たぶのニキビ跡のような小さなくぼみにしか見えないピアス穴には、ゴールドの繊細なチェーンがぶら下がっていてその末端で小ぶりな真珠が揺れていた。

隣を歩いていた男の服装はあまりよく思い出せない。

シンプル過ぎていっそ無個性な服装だった気がする。

顔立ちは、なんというか・・・ぱっとしない。

髪の毛は短くて、清潔感としては及第点だけど染井先輩の隣を歩くとするとどうしたって霞む。


―-―想像に難くないだろうが、その後の私のデートは散々なものだった。


ずっと貴恵の話は脳味噌の表面をつるつると滑ってどこかに行ってしまい、いつもだったら出来ていた、テニスで綺麗にラケットの中心にボールを当てたような手ごたえのある打ち返しだって今日は出来なかった。

空振りか、ラケットの枠にぶつかって明後日の方向に飛んでいくばかり。

全部全部、染井先輩のせいだとわかっていた。

どんどん膨れっ面になっていく貴恵への申し訳なさと、今日見かけてしまった染井先輩の姿。

どちらを優先すべきか、なんてわかりきっていることなのに私の頭の中の8割は染井先輩に占拠されてしまっていたのだ。


いつもだったら、朝が来るまで一緒にいるけれど今日はどうにもそんな気持ちになれなくて私は適当な理由をつけて新宿の駅前で貴恵と別れた。

貴恵は何か言いたげな顔をして眉毛を八の字にしたけれど、結局は何も言わず遠慮がちに右手を左右に小さく振って電光掲示板の時間を見て小走りでホームへと消えていった。

小柄で丸っこい貴恵の後ろ姿を見送って、私は肺に貯めていた空気を一気に吐き出す。

アルコールを大いに含んだ空気は確かな質量を持って気管を走りぬけ、同じく酒臭い新宿駅の構内に溶けていった。


私は床の薄汚いタイルに目を落として、貴恵の肌の質感を思い出そうとする。

白くて、柔くて、程よい弾力。

爪を少しでも立てるとずっと跡が残ってしまいそうで、私はいつだって爪を立てたい欲望と戦いながら指の腹で柔らかく撫でていた。

腰の少し上、左側の背筋に沿って3つほど縦に並ぶ黒子を撫でるのが好きだ。

首元に鼻を寄せると、花の匂いが濃くなる。

柔らかな胸元に顔をうずめるとなんとも言えず安心できる。

さらさらとしているのに、腰のある黒髪に指を絡めるのも好きだ。

汗ばむ肌に頬を寄せるとより一層強い花の匂いに酩酊しそうになる。


私はやっぱり、貴恵が好きだ。


そこまで考えて、私は早々に解散してしまったことを少し後悔する。

惜しいことをしてしまった。


私はもう一度、酒精のにじむ吐息を深く吐き出す。

たまたま職場の外で見かけた、先輩のプライベートの姿なんてさっさと忘れてしまおう。


もう1軒か2軒か飲んでしまえばきっと今夜の記憶なんてアルコールと一緒に明日の昼にはトイレに流れていくだろう。

そんな希望を胸に、私は踵を返してネオンの眩しい綺麗で汚くて、居心地がよくもないのにどうにも抜け出せない街へと歩みを進めた。

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