バニーガールに恋をした パターンB
又吉弓
第1話
前下がりのボブに、切長の目。夢乃は俗に言う美人の部類に入るだろう。
だがどこか物憂げな彼女には、何となく声のかけづらい雰囲気がある。なにか難しいことを考えているような、あるいは空想にふけっているような、そんなミステリアスな雰囲気だ。
ところが、実際はこうであった。
『今、何杯目だっけ…』
ウイスキーの入ったグラスを見つめながら、夢乃は思った。
グラスには、四角い氷と黄金色のIWハーパー。薄暗いバーでロックグラスを見ると、氷が暖色の明かりに輝いて格別美味しそうに見えるから不思議だ。
甘ったるいハーパーの香りを嗅ぎながら、バーをぐるりと見渡す。
客は夢乃一人。カウンターとテーブル席が一つだけの、狭いバーだ。格式ばった雰囲気ではなく、どちらかというとラフな印象が残る。店員もTシャツ姿だ。
再び視点を自身のグラスに戻すと、夢乃は悲しげに微笑んだ。
『別れた
一週間前、夢乃はパートナーと別れた。
「好きな女が出来たから」
その一点張りだった。
引き止める間も無く荷物をまとめられ、彼女はあっという間に夢乃の前から姿を消した。
二年。同性愛者向けのイベントで知り合って、気があって長く連れ添っていけると思っていたのに、別れはどうしてこうもあっけないのだろう。
『性格も見た目も、大好きだったのにな』
ぼんやりした頭で、彼女はまた別れた女を思い出していた。
自分とは正反対の、可愛い女だった。
美しいロングヘアに、色白の肌。そして夢乃が一番好きだったのは、彼女の笑顔だった。くりくりした目を細めてくしゃっと笑う表情を、自分にだけ見せられたとき、とてつもない幸せを感じたのだ。
グラスに口をつけながら、片手でスマホを取り上げる。
未練がましく、連絡が取れないか好きだった女のSNSアカウントをタップする。メッセージを送ろうとしたが無駄であった。
すでに夢乃はブロックされていた。
『何が悪かったんだろ…』
答えの出ない問いを反芻しながら、夢乃はまたグラスを傾ける。
だが液体は落ちて来ず、氷だけが口元に落ちてきた。もうグラスは空になっていたのだ。
「すみません」
カウンター越しに声をかけると、髭面の店員がすぐにやってきた。
「同じもの、ハーパーをロックで」
注文と同じタイミングで、入り口に掛かったベルがチリンと音を立てた。
「山田ちゃあ〜ん」
突然聞こえた気の抜けた声につられて、思わず視線を投げる。
バーに入ってきたのは、バニーガール姿の若い女だった。ポニーテールにした艶やかな黒髪に、肉付きの良い体が肩出しのレオタードからあらわになっている。
また、網タイツ越しにむっちりとした太ももが見えた。だがその太ももには、まるで魅力的な体を守るように、様々な図形の刺青で埋め尽くされている。
名前を呼ばれた店員は、迷惑そうに眉間に皺を寄せた。
「またアンタ、どんだけ飲んだの?」
「だってえ〜お客さんがドリンクくれるから。お水頂戴!」
山田はため息をつくと、ロンググラスに水を入れて女の元へ持って行った。
「ありがとお〜」
彼女は早速、山田からもらったグラスに口をつける。
勢いよくグラスを傾けたせいで、飲みきれなかった水が溢れてこぼれ落ちていく。しかし彼女は気にせず、何かを欲しているかのようにグラスを傾け続けていた。
溢れた水は細い首をつたって、胸元にまで流れていった。かろうじて胸を隠すサテン生地も水で濡れ、徐々に染みが広がり、彼女の白い肌に張り付いた。
「そう言ったって、飲み過ぎよ。休み休みお水飲まなきゃほんとに死んじゃうわよ」
「良いよお〜別に死んでも。だってありすはあ〜」
言いかけたところで、「ウッ」と気味の悪い嗚咽を漏らしたかと思うと、若い女はその場にくずくまった。そのまま床に倒れ込み、うめき声をあげながらのたうち回りだした。
山田は目の前で起こった事象を見ていたが、表情ひとつ変えない。それどころか、踵を返してバーカウンターへ戻ってきた。
戻ってきた店員は夢乃と目が合うと、にっこり笑った。
「ごめんなさいね、すぐハーパーお出ししますから」
「あ、はい。それは良いんですけど、あの…」
「はい?」
「良いんですか? 苦しそうですけど…」
若い女を見つめる夢乃に、山田は苦笑いで答えた。
「ああ、ありすのこと? いいのよあの娘は。いつもだから」
「いつも、なんですか?」
「そうなのよ〜限界が来たらウチにやってきて、水をせがむの」
いまだにのたうち回るありすを見ながら、山田は続ける。
「避難所とでもと思ってんのかしらね? 一応こっちも商売でやってるから困るんだけど…ま、そこは同じ飲み屋同士お互い様って感じかしら」
「なるほど…」
話をしながら、山田は新しいグラスに氷を入れると、手際良くハーパーのボトルを開けてメジャーカップにウイスキーを注いでいく。
シングル分を計りきると、それをグラスに注ぎ込んで夢乃の前に差し出した。
「お待たせしました」
差し出されたグラスにすぐ口をつける夢乃を、山田は物珍しそうに見つめていた。
「お姉さん…あ、話かけても大丈夫?」
「はい」
「お酒強いのねえ」
「そうでもないですよ」
「そんなこと言っちゃって、今何杯目かわかってる?」
「…いえ、数えてないので…」
「7杯目よ。しかもずっとウイスキーロックで…」
「山田ちゃん〜」
呻き声に混じって、ありすが山田を呼ぶ。山田は「はいはい」と空返事をして、再び彼女の元へ水を持って行った。
バーの床にうつ伏せになりながら、ありすはグラスを受け取った。そして少し体を起こして、自分の口へ貰った水を注ぎ込む。
「あ〜生き返る〜」
ありすは二杯目の水を飲み干すと、這いつくばりながら動き出した。そのままどうにかカウンターまでやってくると、ゆっくりと夢乃から二席離れた所に座った。
「妖怪から人間に戻ったわね」
「山田ちゃんから命の水をもらったから〜」
へらへら笑っているありすだったが、視線に気づいたのか不意に夢乃の方に顔を向けた。
そうして夢乃の顔をじっと見つめている。
見つめられた夢乃は内心どきまぎしていたが、平静を装ってありすを見つめ返した。
ありすの瞳には、唇と同じくらい赤いカラコンが入っていた。
「あれえ? お姉さんがいる〜」
「アンタが来るより前からずっといるわよ!」
「ここらであんまり見ない顔だ〜」
「こら! ウチのお客様なんだから絡まないで! すみません」
「いえいえ、別に良いですよ」
「お姉さん、なんて名前?」
「夢乃って言います」
「夢乃ちゃん! 可愛い名前だね。ウチはありすって言うんだ〜」
ふわふわしながら自己紹介をするありすの前に、山田が三杯目の水を置いた。
「これ飲んだら、店に帰んなさい!」
「え〜嫌だよ〜お客さんめんどくさいし〜」
「それがアンタの仕事でしょ!」
もっともなことを言われて、ありすのつけているうさぎ耳のカチューシャが、心なしかしょんぼりと項垂れる。
「はーい…でもお店戻るの、やだなあ」
「ありすちゃんのお店って、近くにあるんですか?」
「そだよ! 同じビルの中!」
「どんなお店なんですか?」
「どんなお店…?」
夢乃に聞かれて、ありすは答えに悩んでいた。
だが少しすると、吹っ切れたように両手を自分の顎に添え、甘ったるい声を作って答えた。
「こんなお店!」
「なるほど…?」
見かねた山田が、間に入って言った。
「要はガールズバーよ」
「ガルバじゃないもん! コンカフェだもん!」
「どっちも同じじゃないの!」
ぎゃあぎゃあ言い合う二人の隣で、夢乃がぼそりと呟いた。
「コンカフェか…名前は聞くけど、行ったことないな」
その言葉を聞いて、ありすの目がキラリと光った。
「行ってみる?」
「え?」
「行こうよ! 綺麗なお姉さん連れて行ったら面白そうだし!」
「ちょっとありす! あたしの店の客連れてく気?」
山田が不満そうな顔で尋ねると、ありすは両手を合わせて交渉を始めた。
「ね、今回だけ! 夢乃ちゃんちょうだい!」
「そうは言っても、お客さんの気持ちもあるでしょう」
困惑する山田に、夢乃は慌てて言った。
「自分は行っても良いですよ」
「ほら! ね、お願い?」
「…今回だけだからね。あと、次回来る時は何かしらの高い酒頼んで。約束よ」
山田の言葉に、ありすの顔がパァっと輝いた。
「もちろん! ありがと」
お礼を言うと、ありすはすぐに夢乃の手を取った。突然柔らかい肌に触れられて、夢乃の胸が少しだけ高鳴る。
「夢乃ちゃん、行こ!」
微笑むありすの顔を見て、はっとした。
目を細めてくしゃっと笑う表情は、振られた女によく似ていた。
ありすにつられて、夢乃はバーを出た。
バーの外に出ると、古い建物独特の湿った匂いが鼻についた。
山田のバーはビルの一角にあるのだ。
繁華街が凝縮したようなビルには、昭和の雰囲気が残っている。道幅は広くないが、奥行きが異常にある。ここがビルの中であることを忘れてしまいそうになるくらいだ。
そんな巨大なビルには小さな飲み屋がいくつも立ち並んでいて、壁には告知なのか趣味なのかわからないポスターが不規則に貼り付けられている。
夢乃は背中におびただしい数のピアスを開けた男のポスターをぼんやり眺めた後、ポスターからありすの方へ視線を移した。
ありすを後ろから見ると、ポニーテールが楽しそうに揺れていた。
「ついたよ!」
ありすの店は、山田のバーの数件先にあった。
真っ赤な扉に、『コンカフェ・シュガーラビット』と看板がさげられている。
ありすが扉を開けると、彼女と同じくバニーガール姿の女が二人と、ボーイが一人。そしてカウンターに客が数名座っていた。
間取りは山田のバーと同じくカウンターしかない小さな店だったが、店内にはシャンデリアが取り付けられている。
さらに、テーブルや椅子がピンク色で統一されているので、ハリボテの異世界に来たような気分にさせてくれた。
「ありすちゃん、復活〜?」
扉に一番近い席に座る客が、笑いながら尋ねた。
「うん! このお姉さんがね、ありすにザオラルかけてくれたの〜!」
「ザオラルって何ですか?」
「復活の呪文だよ〜」
異世界に取り残されそうになる夢乃を、ありすは無理矢理カウンター席に座らせた。
「よし! ありすちゃんも戻ってきたことだし対戦再開だね!」
上機嫌になっている一人の客が、嬉しそうに言い放った。
ありすは一瞬表情が固まったが、すぐにあの可愛らしい笑顔に戻って「うん! 再開〜持ってくるね〜」と何かの準備を始めた。
夢乃は対戦の意味が分からず、とりあえず様子を見守ることにした。
だが、彼女がカウンターに置き始めたものを見て意味を察した。ありすが持ってきたのは、無数のショットグラスであった。
そこに、アルコール度数の高いテキーラをなみなみと注いでいく。
むせかえるアルコール臭に、夢乃は眉を顰めた。
「じゃあ、ありすから〜」
そう言ってテキーラを飲もうとするありすの手を、夢乃は咄嗟に止めた。
「え、何なん?」
突然割り込んできた夢乃を、客たちが怪訝そうに見つめる。
「……自分が飲んでも良いですか?」
「は?」
対戦をしようとしていた客が、夢乃に顔を向ける。最初は不機嫌そうな表情をしていたが、夢乃の顔を見た途端に頬が緩んだ。
「お姉さん、すげー美人だね。別の店のキャスト?」
「キャスト?」
「何でも良いや! ありすちゃんの代わりに対戦してくれるってことでしょ? じゃ、一杯目どうぞ!」
不安げなありすの手からショットグラスを抜き取ると、夢乃は間髪入れずにテキーラを飲み干した。
豪快な飲みっぷりに、客はますます上機嫌になった。
「よし、じゃあ次は俺!」
負けじと客もテキーラを飲み干す。度数の強い酒が喉にあたったのだろう、客は少しむせながらショットグラスを置いた。
置いた途端、夢乃は水を飲むかのごとく二杯目のテキーラを飲む。
あまりの速さに、客もバニーガールも目を丸くした。
「次、どうぞ?」
夢乃が無意識に客を煽る。煽られた客はばつの悪い顔をしながら、ショットグラスを握る。客は辛そうにショットグラスを口に運び、一息で飲み干した。
「きっついねえ……」
そう客が言う間に、もう夢乃は次のショットグラスに手をかけようとする。と、その手に小さな手が重なった。見ると、ありすが夢乃をじっと見つめている。
「次はありすの番!」
そう言うと、ありすは夢乃が飲もうとしていたテキーラを一気飲みした。
暖色の照明に、酒を飲み干す彼女の横顔がぼんやり照らされている。ありすは童顔だが、首と顔の境界がわかる曲線がはっきりと造形されている。
その美しいフェイスラインに、夢乃は思わず見惚れてしまった。
ありすは綺麗にテキーラを飲み干すと、カツンと音を立ててショットグラスをテーブルに置いた。
「ごちそうさまです!」
「ありすちゃん、大丈夫?」
小声で夢乃が尋ねると、ありすは微笑みを浮かべる。
「やばいけど大丈夫! なんか、夢乃ちゃん……いや、夢乃が飲む姿見て、ありす元気になってきちゃった! 頑張る!」
健気な言葉に、夢乃の心はどんどん引きずり込まれていく。
「え〜一対二で対戦なの? フェアじゃないよ〜」
口を尖らせ客が文句を言い出した。
「じゃあ〜二対二にしよ! 対戦参加したい人〜!」
「えっ……」
ありすがそう言うと、一番奥の席にいる客が手を挙げた。
「お〜ガンちゃん、流石! これでフェアだね!」
文句を言った客の顔をありすが覗き込んだ。
悪戯っぽい微笑みを浮かべた彼女に見つめられ、客は目を細めて笑った。
「も〜そんなこと言われたら、やるしかないじゃん! 負けないぞ!」
そう言って、また一杯酒を流し込むのだった。
数時間後、『コンカフェ・シュガーラビット』の店内には酔い潰れた無数の人間たちが床に転がっていた。
流石に飲む酒はハイボールに変わっていたものの、夢乃は引き続き酒を飲んでいる。
「夢乃、強いねえ! すごいすごい!」
呂律の回らない口で、ありすが空元気に何度ものたまっていた。
「そうでもないよ」
涼しい顔の夢乃に、恰幅の良いボーイが呆れた声をあげる。
「ドリンク出してくれるのはありがたいんだけどさ…もう今日は閉店なんだよ…どうすんのよコレ」
「あ…すみません…」
申し訳なさそうにする夢乃に、ボーイは疲れた顔で続けた。
「お客さんは俺がどうにかするから、ありすちゃんの見送りお願いね」
「え?」
「君、ありすちゃんの友達でしょ?」
何と返答すれば良いか分からず迷っていると、ありすがぱっと口を開いた。
「そう! 夢乃とありすは友達だよ〜一緒に帰れるから大丈夫〜」
ニコニコ言うありすだったが、彼女はまだ店の床に体を預けている。
そんな状態でも楽しげにしているありすを、夢乃は愛おしそうに見つめていた。
結局、夢乃とありすはタクシーで一緒に帰ることになった。
バニーガールから短めの黒いフリルスカートに変わったありすは、ますます可愛らしく見える。
「ありすは、どの辺に住んでるの?」
窓越しのネオンを眺めながら夢乃は尋ねたが、返答が無い。
見ると、ありすはタクシーの窓に体をもたれかけて、寝てしまっているようだった。
「起きてる?」
ありすの肩を揺すると、彼女はゆっくりと笑みを浮かべた。
「起きてるよ」
「どの辺に住んでるの?」
「ありすはぁ、不思議の国に住んでるの」
ありすの言葉に、夢乃はクスっと笑った。
「"ありす"だから? もう、冗談言っていないで、教えてよ」
夢乃の言葉を聞いて、ありすは瞼を開けた。
そして顔を近づけ、夢乃を上目遣いでじっと見つめる。
カラコンの赤みがかった瞳は、窓越しのネオンに照らされてキラキラ輝いていた。
その美しい瞳に見つめられると、不思議と高揚し、頭がとろけていくのを感じた。
『まずい』
危うさに気づいたころには、もう遅かった。
夢乃はありすの瞳から、目を逸らすことは出来なくなってしまった。
「ありす、とっても寂しがりやなんだ……今日は、誰かと一緒に居たい気分なんだよね……」
「……じゃあ、自分の家に来る?」
その言葉に、ありすは妖しげに笑った。
-------------
夢乃の自宅は、2LDKのマンションだった。
中古だがリビングには日当たりの良い大きな窓があって、夢乃自身気に入っている家だった。
「わあ〜家、広いね!」
リビングのソファに腰を下ろしながら、ありすが言った。
「そう?」
「うん! 二人でも住めちゃいそう」
そう言って、ありすは夢乃の肩に腕を回した。
彼女の体温が伝わってきて、意識がそこに集中してしまう。夢乃は顔が熱くなっていることに気づきながらも、どうにか言葉を紡いだ。
「……そんなことしたら、勘違いしちゃうよ」
「勘違い? 何を?」
ありすはいたずらっぽく夢乃を見つめている。
「何をって……」
言い淀む夢乃の体に、ありすはさらに近づいていく。
そうして夢乃の耳元にまで近づくと、ありすは甘ったるい声で囁いた。
「気づいてたよ。最初から」
驚いてありすを見つめた。
ありすは艶やかな微笑みを浮かべている。出会った時とは全く違う、小悪魔のように魅惑的な微笑みだった。
「バーに入った時から、見てたでしょう? ありすのこと」
「…………」
「嬉しかった」
「え?」
「ありすも夢乃のこと、ずっと見てたから」
ありすの手が夢乃の腰に回った。
もうすぐ、二人の距離が完全にゼロになる。
夢乃は何も抵抗できず、抜けきらないアルコールの香りをかすかに感じながら目を閉じたのだった。
バニーガールに恋をした パターンB 又吉弓 @matayoshiyumi
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