第6話
プール上がりの教室は塩素臭くて、そのうえ何人かの女子がスプレー系の制汗剤を身体に吹き付けるから、つんとした鼻につく合体臭を生んでいた。
この合体臭を男子たちは「え、なんかいい匂いする」などと形容してぼそっと呟くけれど、私には理解することができない。
きっと、彼らはこの匂いを女子の身体から搾り出てきた成分の一部だと思っているのだろう。
ねぇ、知ってる? この塩素臭いの、おしっこや汗が原因なんだって!
そんな会話がどこからかひそやかに聞こえてくる。それなのにシャンプーやドライヤーを使ってはいけないことになっているから、私たちの髪の毛は不愉快なエキスを厚く塗りたくられたまま、べったりと死んでいる。
次の授業が始まる前に黒板が消されていないことに気付いた神代先生が「だれか、黒板消すの手伝ってくれませんか?」が言ったとき、クラスの女子に一瞬緊張がはしったように思えた。
あの「ハズレ先生」といえど、この臭い身体を若い男に寄せてなるものか、そんな稲妻。
しかし、ヒカリが返事もせずに軽やかな足取りで教壇に向かうと、教室は息を吹き返した。無事に休み時間が続き、仲の良い友人関係が教室中にまた編まれていった。
私はそれらを横目に教壇へと向かっていった。
ヒカリは丁寧に上から下へと両手で黒板消しを這わせて、数学の公式を消していっている。生徒たちによって正しく書かれた解答も、誤って書かれた解答も、すべて等しくヒカリのてのひらに消えていった。
逆側から神代先生が同じように、しかし力強く片手で文字を消していき、ふたりは黒板のちょうど真ん中で合流した。
「ねぇ、先生。あのとき、どっちを助けようとしたんですか?」とヒカリが訊いた。
「え、どっちってどういう意味ですか?」
「だから、ほら、私とアサヒが屋上から飛び降りそうだと思ったんですよね?」
いや、ちょっと待って、と私が言うと、ふたりは私の顔を同時に見た。
いや、あのね、日直の名前まで消えちゃってるからと咄嗟に言うと、ヒカリが「ほんとだ」と言って笑った。
「ねぇねぇ誰だったっけ、日直」
チョークを片手に私はたずねたが、ふたりは答えてくれない。
私は「ああ、そうだ、村上君だったね」などと不確かな情報を挙げてみる。村上君っていう名前の男の子はクラスにいただろうか、いやまて、いないぞ。私は一体何を言っているんだ。
私の言葉をいちいち無視するような、わずかに息を吐く音が聞こえた。
「え、あのとき、」と神代先生が言いかけたとき、私は不意にチョークを落としてしまった。
教壇にカッと音が鳴り、砕けた粉が上履きを赤く汚す。
「大丈夫ですか? あぁ、上履き汚れちゃったね……」
私を気遣う神代先生は、私のことなんて一切見ておらず、前髪から覗ける彼の瞳はがらんどうだった。
この人は、あのとき、ヒカリのことしか見えていなかったんじゃないか。そう思った。
「ねぇ先生、次の授業はじまっちゃいますよ。はやく黒板ぜんぶ消さないと。めちゃ汚いまんまだから」
なぜか私は、きれいになった黒板のほうを向いてそう言った。
これって、日直当番のお仕事ですよね、とぼやく神代先生を見て、ヒカリは小さく笑っていた。
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