第2話

「なにがやばいの?」

「ううん、なにも。ヒカリ、もう帰ろう」

 両手で首を覆うようにして、あごの肉を確認する。大丈夫。喉仏はきちんと触れるし、薄い皮膚の中にはきちんと脈がある。

「あっ、副担の先生だー」

 ヒカリはわざとらしく先生たちを指差して言った。

「やっぱかっこいいよね、神代先生」

 ヒカリは目を輝かせているが、私にはまったく良さがわからない。

「どこが。補正かかってんだって。あんなのそのへん歩いてんじゃん」

「え、そうかなぁ」

「ヒカリ、男の兄弟いないもんね。家族に大人の男の人もいないじゃん。男慣れしてないんだよ、きっと」

「いやぁ、神代先生ならずっと見てられるわぁ」

「やば」

「せんせー!」

 ヒカリは遠くにいる神代先生に向かって両手で小さく手を振った。

 これは、アレだ。好きな男にしかしない、嬌態ってやつだ。

「萌え袖つくるな」

 私がヒカリのセーターの袖をつかむと、あっけなくヒカリの手はしおれた。

「えへへ、可愛いは細部に宿りまーす」

「ヒカリ、そんな厚手の服着て暑くないの? もう五月だけど」

「おしゃれは我慢から生まれるのでーす」

 五月に入って半袖に衣替えした私とは大違いだ。

「そろそろいくよー」

 私はヒカリに触れたいがために手を掴んだ。

 柵に手をかけて乗り越えようとする私に、「えっ、ちょっと、まだ神代先生気付いてないってぇ」とヒカリが言う。

「怒られるよ」

 神代先生のほうを見ると、まだ私たちに気付いていない様子。

 私は軽く走り出すと、ヒカリは「まってぇ」と言った。甘ったるい声だなと思った。

 安堵した瞬間、「なにしてんだお前ら!」という声で急激に体温があがった。

 逃げ遅れたヒカリが先生に見つかって、怒号が背中側で響いたんだ。

 知らないうちに私は汗だくになっていて、白いシャツの袖の向こう側の肌が透けて見えた。落ちたひと滴の汗が、上履きの表面で跳ねて染み込む、だめだ、もう取り戻せない。

「アサヒ」

 私の名を呼ぶヒカリの頬はまったく汗ばんでなくて、ヒカリの手を掴んでいた自分の手を離した。

 そんな様子だと、今日はもうあなたに触れられないじゃないか。そんなことを強く思った。

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