131. 吐露

 ハヤッタは自分の書斎に戻り、机上に、リクイが描いてくれた水彩画を広げてみた。私が笑っている。

 あの夜、私はこんなにうれしい顔をしていたのだ。


  リクイ、この絵には、ひとつだけ、本当の私とは違っているところがあるんだよ。私の目の色は黒ではなくて、きみと同じ色なのだよ。ハヤッタはそう思いながら、目からあるもの取り外し、それを赤紫の花が描かれた小皿の上に置いた。


 やはりあの毒のせいで、すっかり年を取ったような気がする。目もますます弱くなり、こういう生活もいつまで続けられるのかわからない。最後までグレトタリム王にお仕えするつもりでいたのだけれど、それはできるのだろうか。国王がいつ退位なさるのかはわからないけれど、王にはニニンド様がついておられるから、杞憂することはない。


 私に意識がなかった数ヵ月の間、国政に支障はほとんど少なかった。私がいなければ、宮廷は混乱するなどと思ったこともあったが、それは思い上がりというものだ。私がいないほうが、人々はがんばるし、若者が育つというものだ。


 私は引退したら、故国に帰り、霧山のあの家に行こう。

 青い屋根の家はシカンド伯父が隠居して住んでいた家だ。シカンド伯父は儒教の学者で、幼い私を拾って育ててくれた父親のようなお方だ。

 人を助ける医者になれと厳命され、日々に勉学に励んだ。医学校に進んだまではよかったが、私は鮮血に弱く手術中に卒倒して伯父を失望させ、眼科医の道を選んだのだった。伯父は厳しい人だから、命令に従えない養子に、どんなに呆れたことだろう。


 学校を出た後、眼科の大先生のもとで修業をすることができた。その先生はキリスト教で信者、壁には「神は愛である」という額があり、家には自由な雰囲気があふれ、たくさんの笑いがあった。その笑いの中心は大先生のひとり娘のリマナマリだった。


 リマナマリは若く美しく、溌剌としていて、眼科医院の医者達の誰もが彼女に恋をしていた。

 私は内向的な性格なので、同僚が彼女と楽しそうに出かけるのを外目にして、ただ憧れの目で見守るだけで、どう働きかければよいのかわからなかった。でも、彼女が神を信じていたから、私もすぐに洗礼を受け、「ヨハネ先生」と呼ばれるようになった。


 ある日、彼女のほうから声をかけてくれて、好きだと言ってくれた。私はこんなに幸せを感じたことがなく、私はすぐに恋に落ちた。いや、とっくに恋に落ちていたのだけれど、叶わぬものと、心を隠して生きていたのだ。


 そんな時、眼病にかかったJ国の王の招きで、大先生が治療のために招かれ、リマナマリも助手として同行した。

 半年が過ぎた頃、リマナマリだけが突然、帰国した。

 

 その夜、リマナマリが私の部屋に来て、

「逃げてきちゃったわ」

 と腕白な目をして言った。


「だって、国王から申しこまれたのですもの」

「何を、ですか」

「婚姻話に決まっているでしょう。あなたはなんてぶいの」

 

 リマナマリは国王から気にいられ、妃になってほしいと何度も申しこまれたのだという。その時は第一王太子がいたので、世継ぎが必要だという理由ではなく、純粋に国王がリマナマリに惚れてしまったのだった。


 国王は目が不自由な間、リマナマリがそばでいろいろな話をして聞かせたのだが、国王にはそれがとても新鮮で、楽しくて仕方がなかったようなのだ。

「わたし、J国に戻るつもりはないわ。わたし達、さっさと結婚してしまいましょうよ。わたしは好きなあなたと暮らしていきたいの」


 それを聞いた時、私の中では雷に打たれたような感動が起こり、自分も愛していると告白することができた。


 私達は霧山の青い屋根の家に行き、伯父に結婚の報告をした。

「長幼の序を知らないのか。育てた恩を忘れてしまったのか」

 とシカンド伯父は激怒して、本を投げつけた。本を大事にしている伯父が、どれほど憤慨したかということだ。


 私が勝手に洗礼を受けたり、伯父に何の相談もせずに結婚を決めたこと。リマナマリがキリスト教徒だったことも問題だった。

「私が生きているかぎりは、この結婚は許さない。お前を養子にしたのは、人生最大の失敗であった。二度と、ここを訪れるな」


 霧山の帰り、想像以上の言葉を投げかけられた私は肩を落としていたが、リマナマリは明るくふるまっていた。

「あなたを大切に思っているから、あんなことを言ったのよ。本心じゃないわよ」

「……」

 「結婚って、たいていの場合、簡単に許してもらえるものではないのよ。何度も何度も通いましょう。伯父様が根負けして、承諾してくださるまで。それがだめなら、ふたりで遠いところへ逃げましょう」

 

 リマナマリは、市場で緑の玉を買い、茶、赤、オレンジ色の糸で組紐を編んで紐を作った。そして、それを私の首にかける時、この玉は私の目の色と同じだと微笑んだが、その美しい笑顔を今でもはっきりと覚えている。


その直後、大先生からの使いが届いて、リマナマリが王妃になることを承諾してくれたら、キリスト教を解禁し、教会を二つ建ててくれるというのだった。

 リマナマリも私もキリスト教の信者で、J国ではキリスト教が禁止されており、隠れ信者たちが迫害されていることを知っていた。


「あなたは、どう思いますか」

 とリマナマリが私に尋ねた。

「……」

「 もしイエス・キリスト様なら、こんな場合、どうなさったことでしょうか。キリストが自らを犠牲に捧げたように、私も三千人の信者のために、生きるべきなのでしょうか」


 その時、私はそうですねと曖昧に頷いてしまったのだが、今ならわかる。それが、リマナマリが私に求めていた言葉ではなかったことを。

 私はなぜリマナマリに行くなと言わなかったのだろうか。ふたりの愛を守ることをしなかったのだろうか。


 あの時、私はグレトタリム王が独裁的な国王で、三千人の信者が迫害に遭っているものと思っていた。 当時、キリスト信者にとってはそれは深刻な問題で、国王がキリスト教を認めてくれるというのはこの上ない吉報だった。

 いいや、もっと自分に正直になろう。私には前に待ちかまえる多くの困難な問題が見えていた。そ んな中で、愛を貫くことはできないと思ったのだ。臆病な私は一歩進む前に、諦めてしまっていた。


私の裁量の狭さや曖昧さに、リマナマリは心が折れたのだろう、クリスマスの前夜、J国の王のもとに嫁いだ。

私には決断力や勇気、度胸がなかったし、J国の国王や事情にも無知だった。無知は 悪より悪いと誰かが言ったが、そのとおり。私は罪深い。


 リマナマリは王妃になって数ヵ月して懐妊し、子供の洗礼式に間に合わせるように、カトリック 教会の建築が進んでいるという話が伝わってきて、信者達を喜ばせた。


ところが、男の子が生まれて一月余りした時、突然、赤ん坊を背負った男女が訪ねてきた。我らはリマナマリ様の召使いだと言い、この子はリマナマリ様が産んだ赤ん坊。けれど、父親は国王ではなくてあなただと言った。

 目の色をご覧なさい。

 そう言って、その子を私に渡した。

 赤ん坊は緑の目をしており、私にはその意味がわかった。

 召使はその秘密をかぎつけた連中に追われており、命からがらここまで逃げてきたのだと言った。 この家にも、追手が迫っているだろう。

私は外に異変を感じたので、ふたりの召使いを屋根裏に隠し、赤ん坊をミカエルという五歳児に託したのだっ た。


 せめてものお礼に、私が一番大切にしている首飾りをミカエルの首にかけた。リクイを霧山まで連れて言ってほしいと頼み、伯父あての手紙を持たせた。私には頼れる人は、あの伯父しかいなかった。

 


 

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