64. 青い屋根の家

 ある日、ジェットが高熱を出して、動けなくなってしまった。

 前夜は寒かったけれど、身体には自信があったから、自分の毛布をサディナーレにかけてあげたことや、旅の疲れが重なり、風邪を引いてしまったようだった。一日休めば大丈夫と思ったが、二日たっても熱は下がらず、食べ物がなくなった。


 サディナーレはどうしたらよいのかと相談したいけれど、ジェットは口もきけない状態になってしまっている。


 薬がなくては死んでしまうかもしれないとサディナーレはおそろしくなり、水気を切る犬のように肩をゆすって心を決め、市場に出かけた。

 

 夕方になった時、彼女は薬、茶葉、饅頭に、串焼き、りんご、それに新しい毛布を抱えて戻ってきた。ジェットに店で教えられたように薬をせんじて飲ませ、饅頭の皮をむしって食べさせ、新しい毛布をかけて眠らせると、三日月が出る頃には具合が少しよくなった。その晩、ふたりは新しい毛布にくるまって、肩をくっつけて寝た。


 朝になった時、彼女はお茶を飲ませる前に、手ぬぐいを濡らして、ジェットの顔を拭こうとした。

「もうひとりでできるから」

 ジェットが起き上がると、水が運ばれており、火がおこしてあった。


「驚いた。デニア姫はもうひとりで、何でもできるんだね」

「ありがとう。うれしい」

 サディナーレはみたことがないような満面の笑顔をみせた。

「礼を言うのは、こっちだよ」


「どうしてこんなにものが買えたの?」

「あのう、かせぎました」

「稼いだって、どうやって」

「私にもできること、あります」

 と彼女は少し得意な顔をした。


 サディナーレは昨日、自分に何ができるのだろうかと考えた。H国にいた時には、毎晩のように女官が物語を語ってくれたから、お話をたくさん知っていることを思い出した。それで市場の端に座り、物語を語ることにしたのだった。「初めはひとり、ふたり」だったが、だんだんと人が増えていった。ちょっとおかしなたどたどしいJ語と、姫の恋物語、王子の冒険物語が受けたのだった。

「それで、薬や毛布まで買えたのかい」


 特に儲かったのは、最後のほうで、灰色の石を放ってくれた人がいたのだという。その男性は物語がすっかり気にいって、もっと物語を聞かせてほしい。家に行こうと手を引っぱったけれど、「大丈夫です」と姫は手を振り切った。

 その灰色の石で、薬も、肉も、毛布も買えたのだという。


「それは銀だよ。デニア姫、変な男について行ってはだめだよ」

「大丈夫です」

「デニア姫、どんな人についていてもだめだよ」

「だれにもついていきません。ジェットさん、これからはデニア姫ではなく、サディナーレと呼んでください」

「サディナーレ?」

「そうです。私はもうクチナシではないから。私は話せるのですから」

 デニアがクチナシという意味だったのだとジェットはようやくわかった。

「わかったよ。サディナーレ、きれいな名前だね」

 

 サディナーレは話す楽しさを知った。ジェットに話しかければ、必ず答えが返ってきて、そこには彼女の知らない世界が広がっていたから、楽しくてたまらなかった。


 サディナーレはジェットが熱にうなされていた時、首にかけてあった首飾りの組紐を握りながら

「いつ迎えにくるの?」と何度も言っていたと教えた。

「そんなこと言ったんだ」

「どこにお迎えにくるの?だれがお迎えにくるの?」

「お迎え?誰が?」

 ジェットは目を瞬きながら、サディナーレの言葉を繰り返した。


 そういえば、ジェットは高熱の中で、不思議な夢を見ていた気がした。でも、あれは夢ではなくて、記憶の奥で眠っていたものが、目覚めたのかもしれない。 


 あの五歳の夜、ヨハネ先生がこの場所に行くようにと住所を書いた紙を握らせた。「一生、恩にきる。必ず迎えに行くから、そこで、待っていてほしい」

 その時、ヨハネ先生は自分の首飾りを外して、ジェットの首にかけてくれたのだった。その首飾りの組紐くみひもは赤や茶、オレンジ色の紐で編んであり、緑の玉がついていた。ジェットが肌身離さずにつけている首飾りがそれだ。

 

 ジェットは籠を背負い、あの屋敷の庭裏の垣根の穴から小路へと逃げ出した。正門と裏戸の周囲はおそろしい男達に取り囲まれていた。ジェットはこわくて足が縮こまったが、逃げなければならないことはわかっていた。

 

 そうだ。迎えにくると言ったのはヨハネ先生だ。

 では、どこに、迎えに来ると言ったのか。

 おれはあれから赤ん坊を背負って、どこへ行ったのだろうか。

 ジェットの目に、山麓にある青い屋根の家が霧の中にぼんやりと浮かんできた。


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