63. ジェットの記憶
ジェットは寒さで震えているサディナーレの背中を撫でながら、不思議な人と出会ってしまったことだと思うのだった。
その不思議な姫は、数日もすると、簡単な笛の演奏ならできるようになった。市場で客が集まらない時には、彼女は前に出ていって、音に合わせて手をひらひらさせるだけの踊りをしてみせた。すると、その夜には肉饅頭がふたつ買えた。
サディナーレが質問をすれば、ジェットは嫌な顔をせずに、どんなことでも答えてくれた。だから、彼女は眠る前に、横になりながら、明日はどんなことを尋ねようか、どんなふうに尋ねればよいのだろうかと文面を頭の中で考えて、その台詞をぶつぶつと小声で繰り返し練習するのだった。なぜか、少しわくわくして、こういう気持ちは斎宮時代には、いいえ、人生で一度も経験したことがないものだった。
「ジェットさんが、あの、子供の時は」
翌日、サディナーレが訊いた。
ジェットがどこで生まれて、どのように育ったのかを聞きたいと思ったのだ。何度も練習したのだけれど、本番になると、とぎれとぎれの短い質問になってしまった。でも、ジェットは彼女が何を言いたいのか、大体のところは想像がついた。
「おれは両親のことは何も知らないんだ」
「いらっしゃらないの?」
「いないわけはないよね。空から降ってきたわけではないから」
サディナーレがふふふと笑った。「空から降った」というところが、おもしろかったらしい。無邪気な姫だ。
「でも、何かの理由で、孤児になったんだよ」
「私もお母様という方は、早くに亡くなったから、何も知りません。お父様とお兄様は生きていますけれど、よく知りません」
「どうして」
「私は神に仕えていて神殿に住んでいたので、会うことがなかったのです」
「そうなのかい。デニア姫は姫君でも、ずいぶんとさみしかったんだろうね」
その言葉を聞いた時、サディナーレは私にはオキオキンがいたから大丈夫でしたと首を振った。それは本当のことなのに、急に感情が高ぶり、涙があふれてきて、自分で驚いた。
「おれの最初の記憶は、三歳の頃かなぁ」
ジェットは遠くを見るような目をした。
彼が道端でお腹をすかしていた時、きれいなお姉さんに声をかけられて、その家に住むようになったのだった。
そのお姉さんの父親は有名な眼医者で、彼はみんなから大先生と呼ばれていた。その眼科医院には五人の若い医者がいて、みんなかわいがってくれたから、「そこでの日々は夢みたいに幸せだった」、とジェットは笑顔を見せた。
男性が笑うことを初めて知った。男はしかめっ面をするのが普通だと思っていた。それから、ジェットの笑顔がかわいいことも知った。こんなにもかわいい笑顔の男子がいるのかと驚いた。どの男子も、そうなのだろうか。
「でも、夢というは長く続かないよね。デニア姫には夢みたいな楽しい時間があったのかい」
なかったです、とサディナーレが首を振った。人間は神でないのだから、耐えるのが人生で、人間が楽しい時間を過ごしてよいとは思っていなかった。
ジェットはあまりよくは覚えていないのだけれど、五歳の時、夜中に急に起こされた。そこにいたのはヨハネ先生と呼ばれていた若先生で、見たこともないほどさし迫った形相で、ジェットにこの子を連れて逃げてくれと頼んだのだった。
この子というのは小さな赤ん坊だった。でも、ジェット自身がまだ子供で、赤ん坊を連れてどのようにして逃げればよいのかわからなかった。でも、そんなことを考えている状況でないことは感じていた。深刻な恐怖が迫っていた。
ジェットは赤ん坊をいれた
「その赤ちゃんがリクイさんですか」
「そうなんだよ。よくわかったね。デリア姫はあたまがいいんだね。笛もすぐに覚えたし。感心しているんだ」
褒められので、サディナーレはうれしすぎて赤くなった。
「あの夜のことは、誰にも話したことがない。どうして、そのことを、今、姫に話したのだろうか」
「今まで、どうして話さなかったのですか」
「よくわからないけど、話してはいけない気がしたんだ」
「私に話してくれて、ありがとうございます。それからどうしたのですか?」
「その後のことは、よく覚えていないんだ」
ジェットが顔をゆがめた。
「きっと大変すぎたのですわ。だってジェットさんはまだ五歳の子供だったのですもの」
「ありがとう。デニア姫はやさしい人だね」
ジェットにまた褒められて、サディナーレは胸がどきどきするくらいうれしかった。この方のために、何かしてあげたいと思うのだった。
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