二章
11. グレトタリム王の悲嘆
この二年間というもの、J国の宮廷では、大臣から女官、召使いから門番に至るまで装飾なしの黒い服を着ており、笑い声なども聞こえた日などなかった。
特に、国王のグレトタリムの瞳は悲しみのベールに覆われてしまったから、何を見ても途方もなく悲しく、絶望を感じてしまうのだった。一国の主たるものがそれではいけないとはわかっていても、湧き上がる虚しさを取り除く方法が見つからないのだ。グレトタリム王はまだ五十四歳だというのに、髪は白くなり、げっそりと痩せて、やる気を喪失してしまった。
周囲を異国に囲まれたJ国の国境近くでは何年にもわたり小競り合いが続いているというのに、この王の状態を知られたでもしたら、敵は一気に攻めてくるだろう。クルム将軍兄弟が奮闘しているから、なんとか持ち堪えているものの、少しでも早く国王に立ち直ってもらわねばならない。国王自身がそのことを一番よくわかっているのだけれど、病んだ心はその意志とは関係なく、心の空虚は広がるばかりで、どうしても床から起き上がることができないのだ。
二年前のある晴れた日、二十七歳のタリタリム王太子は息子のアキランを馬に乗せて郊外に出かけた。王太子にはまだ正妃はいなかったが、近く丁国の王女と婚約する運びになっていた。
アキランは町女との間に生まれた庶子で、その日は彼の四歳の誕生日だった。タリタリムはアキラムをとても可愛がっており、正式に養子にする話も持ち上がっていた。しかし、山道を楽しく外乗中に、鬼ヶ谷に転落して命を落としてしまったのだった。
王太子はポロ競技でも、怪我などすることなどなかったのに、そんな事故に遭ってふたりとも逝去してしまうなどとは、誰が想像しただろうか。
運命とはそういう無情なものだと書物には書いてある。そんなことはわかっていても、それが自分の身に降りかかってくると、それがよくある無情のひとつとしてだとしては受け止めることができない。王家は乗り越えられないかもしれないかもしれないほどの深い悲しみに包まれ、喪に服し続けていた。
それまでJ国ではどこへ行っても、たとえば大通りの看板、大きな建物、宿屋やレストランなどに、国王とふたりの王子の肖像画がかけられていた。国王を挟んで左にはタリタリム第一王子、右には「黒目王子」と呼ばれていた第二王子の肖像画が並んでいた。
タリタリム王子は軍服姿で、もうひとりはまだ子供で、黒目を輝かせて無邪気に笑っていた。しかし、この黒目王子は十年ほど前に夭折していた。けれど、国王はその肖像画を外させることはしなかった。
けれど、今回、グレトタリム王は国中のふたりの肖像画をすべて取り外すようにという命令を出した。国王はありし日の王子達の姿を目にするのが、辛くてならなかったのだ。しかし取り外させてみると、今度はそこにはもう王子達の顔がないのだと思い知らされ、それもさらに悲しくて、何をしても、この虚しさから逃げるすべがないのだった。
グレトタリム王には三人の王妃と七人の子供がいたが、四人しか育たなかった。そのうち、男子は三人で、女子のほうはすでに結婚しており、娘がふたり産まれた。
グレトタリム王の正妃の嫡男がタリタリムで、事故死。二番目の王妃から生まれた第二王子は食あたりで亡くなり、三番目の王妃の「黒目王子」は六歳で突然死んだ。
一番目と二番目の王妃はまだ生きてはいるが、王宮を離れて暮らしており、国王がそこを訪れることはほとんどない。一番若かった第三王妃、つまり第二王子の母親はすでに卒去している。黒目王子が死んだ後、追うように亡くなった。
J国では王子名前や顔は披露されるが、王妃や姫のことは非公開なので、国民はその存在や、名前、姿を知らない。
タリタリム王太子が亡くなった後、王太子の座は空位のまま、国王の王弟マグナカリが王嗣となった。
王弟は五歳年下で異母腹の子、兄の国王とは体格も正反対で、ずんぐりむっくり、子供の頃から病弱で、喉の病気がもとで声がでない。しかし、頭はよく、財務と王室警察を仕切り、陰で兄王を助けている。
王弟には公式には王妃がひとりいることにはなっているが、彼の宮殿にその姿を見た人はいないし、他に妾や子供もいるという話は聞かない。
しかし、最近、王の右腕のハヤッタが黄色い服で現れてから、女官などが色のついた服を着るようになり、宮廷の重い空気がやや薄くなった。花壇にも、鮮やかな花が植えられ、人々の話し声も聞こえるようになった。しかし、本来の活気を取り戻すには、まだ時間がかかりそうだった。
しかし、タリタリム王太子がなき今、J国には世継ぎがいないのである。ここでもし国王が崩御したら、この国はどうなるのか。とにかく、今は、一刻も早く、王の跡継ぎを決めなければならないのだ。
それで、国王の右腕のハヤッタが委員長になり、その大問題に、日夜取り組んでいた。
ひとつの案としては、急いで新しい妃を迎えること。それについては、東方のH国の若くて、美しい姫が候補に上がった。この姫は側室の姫はなく、正妃の娘である。この姫を正妃として迎えいれてはどうだろうかと考えた。
王家の結婚に関しては、血筋のよい姫の場合、相手は子供の頃に決まっている場合が多い。しかし、この姫はもうよい年齢になっているはずなのに、そういう話が全くないようなのである。それはなぜなのか。委員会としては、その点を調べるのに、時間がかかった。
その姫はサディナーレといい、幼少の頃より火山神に斎王として仕えており、その代りがいなかったので、婚期が遅れているようだった。姫はとても健康で、性格もよろしいということがわかった。というわけで、この婚姻計画は密かに、かつ着実に進められていた。
しかし、この若い王妃を迎えたとしても、運よく男子が生まれてくるとは限らない。またたとえ産んでくれたとしても、その子供が無事に育つという保証はどこにもないのだ。
「ハヤッタよ」
グレトタリム王は今朝も顔色が悪い。ハヤッタは眼鏡をずらして、その顔色を確かめた。ハヤッタはある目の病のために、宮廷ではひとりだけ黒眼鏡をかけることが許されている。
「私は父王の嫡男として生まれ、二十二歳であとを継ぎ、美しい妃が三人いて、子供は七人も授かった。しかし、王子は私を残して、みんな死んでしまった。頼りにしていた第一王太子までもが。この耐えがたき悲しみを語ることができるのは、ハヤッタ、そなただけである。国民の多くが、戦いで働き手を失い、その家族がこの私と同じ、いや、それ以上の辛い日々をおくっているというのに、国王の私が嘆いていてよいわけがない。そのことはわかっていても、この心から湧き出す嘆きが止まらないのだ。なんと、苦しいことよ。そなたは利口な男だのう。人生を知りすぎているのかもしれない」
「どういう意味でございましょうか」
「そなたには妻がいない。以前、月の夜に、その理由を尋ねたことがある。そなたは若い頃、恋をした娘がいたが失恋をしてしまったので、もう誰とも結婚はしないのだと言った」
「はい、申し上げました」
「その時には、なんといううぶで堅気な男かと思ったけれど、そうではないことが、わかった。結婚もせず、子供もいなければ、私のように、妃や子供の死に直面して泣くことはない」
「いいえ。そういうつもりで独り身なのではございません。妻子の死には遭わなくても、私の周囲にも死は訪れます。肉親、恩師、知人、数々の死と直面いたしました。耐えがたいことです」
「ところで、その女性はどうなったのだ?」
「その話を、今でございますか。彼女のことは忘れてはいませんが、もうこの世には住んではおりません」
「この世に住んでいないとは」
「あの世でございます」
「おお、おお、それはさぞ辛い思いをしたことだろう」
「私の私事など、気になさらないでください。ところで、今日はよいお知らせがございます」
「よい知らせというものを最後に聞いたのは、いつのことなのか、それも覚えていない。まさか、世継ぎでも見つかったか」
グレトタリム王の顔に、乾いた笑いが浮かんだ。
「それが、そうなので、ございます」
「な、なんだと」
と王が目を剥いた。「あの話か」
「そうなのです。現実の可能性が出てきました。ご報告するのにはまだ早いのですが、」
「早く話すがよい」
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