侯爵令嬢ヴィオレットは今日も元気に高笑う

文月黒

侯爵令嬢ヴィオレットは今日も元気に高笑う

 眩しい朝陽と小鳥の鳴き声。

 よく言えば豊かな自然溢れる、悪く言えばとことん田舎のとある村。

 そんな長閑な村の外れの丘の上。

 そこにその屋敷はあった。

 かつては名のある貴族の保養の為の館として建てられたという屋敷では、今朝もいつも通りに一日が始まろうとしていた。


「あらまぁ! 今朝もいつも通りの田舎くさい朝食だこと!」


 食堂で上座に座るのは、御歳十七歳の侯爵令嬢である。

 名を、ヴィオレット・エメ・シェーレンブルクという。

 彼女は夜の闇よりも深く、艶のある長い黒髪をばさりとかきあげ、宝石すらも恥じて煌めきを失うほどに輝くルビーの瞳をすっと細めて今朝の朝食を見下ろした。

 サラダに添えられた自家製のチーズとハム、焼き立ての素朴なパン、それからグラス一杯分の牛乳。

 侯爵家では朝から手の込んだ料理や高価な果物が並んでいたものだが、この地に来てからというものヴィオレット曰く『まるで庶民の田舎料理』ばかりである。

 恭しく頭を下げるメイドを視線で下がらせ、ヴィオレットの形の良い唇がキュッと弧を描いた。


「よろしくてよ! わたくし、慎ましい朝食にも文句などつけないわ。採れたて野菜のみずみずしさと、私の為だけに用意された新鮮な牛乳を、今朝も充分に堪能して差し上げてよ!」


 ほーっほっほっほ。

 ヴィオレットの元気な高笑いが食堂に響く中、使用人達は黙々と食後のお茶の支度を進めていく。

 最初はヴィオレットの振る舞いに驚いた者も多かったが、毎日の事であるので令嬢のこの言動にも皆順応し始めていた。

 今では「今日もお嬢様は元気だなぁ」と挨拶代わりの天気の話と同等に扱われているくらいだ。

 そして、今日も侯爵令嬢は思うままに我が儘に、のんびり田舎ライフを満喫するのである。



 そもそもこの令嬢、噂によれば聖女に無礼をはたらいて王子の逆鱗に触れ、婚約を解消された上で王都を追い出されたらしい。

 そうでなければ、今では保養に来る貴族のお渡りもなく、廃れる一方のこの地になど来るはずがない。

 貴族の館は人の手が入らないとすぐ傷む。

 その為に常に管理人を置いているので、そんな屋敷のうちの一つを蟄居先として与えられたのだろう。

 辺鄙なこの地が選ばれたのは、侯爵令嬢の品位に相応しい優雅な牢獄が既に備わっていたからに違いなかった。

 交通の便も悪く、特産品もなければ農業も蓄えるほどには出来ないという、若者や男達が出稼ぎで家を空けるばかりのこんな地では、いかな我が儘令嬢とて悪事を働く事など出来まい。

 おそらくは、そういう意図があったはずだ。

 少なくとも噂を聞いた土地の者は皆そう思っていた。

 だが、皆が違和感を抱くまでに然程の時間は必要なかった。

 簡単に言えば、ヴィオレットは何処にいても侯爵令嬢ヴィオレットであり続けたのだ。


 ──それは、この地に向かう時から既に始まっていた。


「まぁ! 何なの、この貧相な橋は! このような橋ではわたくしの馬車が通れないじゃない!」


 王家から下賜された侯爵家の家紋入り馬車が村へと続く橋に到着した時、ヴィオレットは窓からその橋を見て悲鳴を上げた。

 四頭立ての立派な馬車はヴィオレットが八歳の時に彼女の為だけに作られたものであり、特別な事情がない限りヴィオレットはこのお気に入りの馬車で移動する。

 だが、目の前の橋はいかにも急拵えのものを補修しながら長年そのまま使っているといった有り様で、過去に起きたという洪水被害の際からきちんと手を入れられた様子がまるでなかった。

 貴族がこの地を訪れなくなったので、金のかかる橋の本格的な再建が後回しにされたのは明白だった。何ならそのまま忘れられていた可能性すらある。

 馬車どころか荷車でさえ通れそうにない貧相な橋に、ヴィオレットはその場で王都の父親に宛てて『今すぐ自分の馬車が安全に通れる規模の橋を建設してほしい』と手紙を認めて遣いに持たせた。

 そして返事が来るまでの間、自分は近くの街まで引き返して宿屋に逗留する事を決め、宿屋の内装が安っぽいと文句を付けてはポケットマネーで勝手に自分好みの調度品を増やしたりなどして過ごしたのだった。

 一方、王都で手紙を受け取った侯爵はとにもかくにも娘に甘かったので、侯爵家として使える手段と権力を出し惜しむ事なく使い、すぐさま必要な許可をぶん取ってきた。

 そして、公費が下りる前に自費を投じて王都から資材と何人もの職人を送って可愛い娘の為に立派な石橋を掛けたのである。


 なお、この橋の建設において足りない人材は現地で雇われる事となり、出稼ぎよりも何倍も良い報酬に職を求める地元住民達がこぞって押し寄せた為、充分な人手で安全に橋を建設することが出来、工期はかなり短縮された。

 ちなみに後から下りた公費の大部分はその人件費に充てられたという。

 新しく出来た石橋は、立派な馬車が通っても、それこそちょっとやそっとの嵐にもびくともしないほど頑丈だ。

 それまで己で背負える分の荷物しか行商に持っていけなかったのが、荷車や荷馬車を使って効率的に行商や買い出しに出られるようになり、村の暮らし向きは少しだけよくなった。

 この橋は、完成した橋を見て満足そうに高笑いする侯爵令嬢によって『春の暁光橋』と名付けられたが、今では地元住人から『お嬢橋』と呼ばれ愛されている。

 それが全ての始まりだった。



 ──またある時、侯爵令嬢は田舎の粗末な食事が我慢ならないと怒り狂った。

 侯爵家お墨付きの高級バターを使用しているのにこうもパンがまずいのは、そもそも小麦の質が悪いせいだと言ってさんざん現地の小麦粉をこき下ろしたヴィオレットは、水車小屋を侯爵家の資金で改修し、更には王都から上質な種蒔き用の麦を取り寄せて農家に配布した。


「良い事? わたくしの口に入るものよ! 命懸けで美味しく作りなさい!」


 その厳しい命令に農夫達は震え上がった。

 今までは何とか収穫出来る農作物を作るだけで精一杯で、味など二の次だったのだ。

 彼らは小作人であり、地主から土地を借りて農業を行っているのだが、侯爵家がヴィオレットの美味しい食事の為にとその地主からこの辺の土地をごっそり買い取ったらしい。

 新しい主人の機嫌を損ねてしまったら、たちまち一家が路頭に迷ってしまう。

 怯え、困惑する農夫達に、とどめのように農業効率化のためという名目で農耕具や牛馬も与えられ、堆肥用の施設まで整えられたので、別の意味で農夫達は震え上がった。

 農夫達にとって、新しい農具も牛馬も何もかも、目が飛び出る程高価だった。

 与えられたものに報いる働きをしなければと農夫達は皆で協力して知恵を出し合い、あれこれと工夫し、日々農業に精を出した。

 だが、設備や道具が整った事でかなり作業効率が高まっていたので、むしろ途中で何度か休憩を入れても以前よりずっと作業は捗り、常に疲労困憊であった農夫達の健康状態も良くなっていた。

 結果、小麦の品質は格段に良くなり、当然のように引き取り価格も上がった。

 更に村では越冬用の蓄えも充分に出来るようになったので、村の暮らし向きは更に少し改善された。

 ちなみに農耕用牛馬にはヴィオレットの牛乳用の牛や馬車用の馬がいる厩舎とは別に専用の厩舎が建てられ、農耕牛には『お嬢一号』、農耕馬には『お嬢二号』と村人によって名付けられているが、勿論ヴィオレットは知る由もない。

 高貴なる侯爵令嬢はそのような下々の些細な事柄など、気に掛けたりはしないものなのである。

 彼女はただただ、ふんわりと美味しく焼けたパンを行儀良く口に運んでは、これこそ己が口に入れるに相応しいと高笑いするのみである。



 ──そして更にとある日には、暇潰しにと護衛騎士を連れて村を散策し、村祭りの準備をする人々を見てヴィオレットは下賤の祭りと顔を顰めた。

 王都の華やかな祝祭とは異なり、田舎の村祭りはどうにも土臭いし何だか薄汚れて見えたのだ。

 だが、貴族に参加義務のある堅苦しい王都の祝祭と異なり(貴族と平民では祝祭の作法も異なるのである)、ヴィオレットはこんな田舎の村祭りに参加する義務はない。

 フンと見下す様に鼻で笑って通り過ぎようとして、広場の隅で女達が集まって何やら賑やかにしているのに目を留めた。

 あれは何かと騎士に訊ねれば、騎士は村の慣わしで女達が集まり、村祭りの衣装を繕っているのだと答えた。

 聞くところによると、今年の村祭りでは村の若者が結婚式を挙げるので、女達はより一層張り切っているらしい。

 結婚式を挙げるという村娘の手元を見て、ヴィオレットは一瞬絶句した後で叫んだ。


「アレがお祭りの衣装かつ婚礼衣装ですって? あんまりみすぼらしいから雑巾かと思ったわ!」


 ヴィオレットは心の底から驚きを露わにして、そのまま騎士を従えて屋敷に戻った……かと思うとすぐにまたやって来て騎士に持たせていた布の塊を引っ掴み、広場の女達に向かってバサリと投げつけた。

 咄嗟にそれを受け取った村娘が何となしに広げてみれば、天上の羽かと思うほどに軽く艶やかで上等な布地のドレスだった。

 このドレス一着がどれほどの価値か、村娘は正しく鑑定などできなかったが、それが山程の金貨と同価値なのだという事はうっすらとわかった。

 おそらくこの一着で村の皆が一年楽に過ごせるくらいの金額にはなる、いやもしかしたら三年はいけるかもしれない。

 汚したらどうしようと戸惑う村娘に向かって、ヴィオレットは腕を組んで冷ややかに言った。


「それ、わたくしには地味過ぎて合わないからお前にあげるわ。そのまま着るも良し、解いてその貧相過ぎる祭りの衣装とやらを飾り立てるも良し。好きに使いなさい」

「え、えぇ⁉︎ いえ、でも、こんな高価なもの」


 青褪めて震える村娘が受け取れないと半ば叫ぶように言えば、ヴィオレットはカッとルビーの瞳を見開いて叫んだ。


「結婚式の花嫁が美しく飾らないでどうするの!」


 その言葉に、若き花嫁は感涙に咽び泣いた。

 まさかお貴族様が平民の、しかもこんな田舎の農民が挙げる結婚式を気に掛けてくださるだなんて思わなかったからだ。

 施しも持てる者の務めと、一分の隙もなく高笑いしながら帰路についたヴィオレットを見送った村娘は、考えに考えた末に丁寧にドレスを解き、村の女達とも相談してレースの一部を売って結婚式とその後の生活資金とした。

 残りの布地を分け合い飾り付けに使用したことで、皆の衣装はとても華やかになった。

 ヴィオレットから下げ渡されたドレスの布地で作った花嫁のヴェールは『お嬢様のヴェール』と名付けられ、この後は村長の家に大切に保管され、村で結婚式がある度に花嫁に貸し出される事になるのだった。

 当のヴィオレットは、村祭りに合わせてコックが腕によりをかけたうずら肉のローストを思い出しながら、あれは美味しかったわね、と田舎のお祝い料理について思いを馳せており、たかがドレス一枚を下げ渡した事などその時にはすっかり忘れていた。



 そのようにして、日々ヴィオレットは娯楽のない田舎の生活を満喫出来るように、自ら率先して己の身の回りの環境を整えていたのだが、ある時彼女はふと思った。


 ──使用人に休みを取らせていない気がする。


 ここに住んでいるのはヴィオレット一人だが、屋敷自体が大きいので手入れだけでも人手がいるはずだ。

 使用人と雇い主は生活空間が異なり、基本的に使用人は雇い主に姿を見られてはならないとされている為、ヴィオレットも実際にどのような者達が屋敷で働いているかは知らない。

 顔だって、知っているのは家令と侍女と護衛騎士くらいのものだ。

 しかし、護衛騎士なども含めて、ヴィオレットに仕える為に王都から連れて来た者達に、ここに来てから休みを与えた記憶がなかった。

 慌てて家令を呼んでその辺りがどうなっているかと聞けば、家令はニコニコと微笑んで答えた。


「交替で週に何度か休みを頂いておりますが、此処は仕事量が少なくて給金を頂くのにあまりに申し訳ないので、皆空き時間は自発的に働いているのです」


 知らなかった。

 ヴィオレットは普通に驚いて目を瞬かせた。

 いつも誰かしら働いている気配があるなとは思っていたが、あの大半が自発的に働いていたのか。

 いやしかしと気を取り直して頭を振る。


「けれど長い休暇は与えていないのだから、一度も王都に戻れていないでしょう。わたくしに付き合わせてこんな何もない田舎にずっと押し込めてしまうのは申し訳ないわ」


 その言葉に、家令は王都?と不思議そうに首を傾げた。

 必要な物があれば近くの街へ買いに行くし、立派な橋もできたので逆に王都からここまで荷物を運ばせる事も出来る。

 加えて空気も景観も良いこの地に、あまり不便はなかった。

 正直、夜会も茶会も来客すらない屋敷である。

 令嬢一人のお世話だけでは手持ち無沙汰で仕方がなく、暇つぶしに屋敷の手入れをしているような有り様なので、労働環境が良過ぎてかえって不安になるくらいだ。


「ご不便があるのはお嬢様では? 使用人の殆どはこの辺りの出身の者達で、久しぶりの里帰りを大変喜んでおりますが……」


 知らなかった(三分ぶり二度目)。

 そうなのかと家令を見れば、彼はたくわえた髭を撫でながら、自分と妻は田舎暮らしが夢だったので長年の夢が叶って満足していますと付け加えた。

 余っている土地が多いので、屋敷に程近い畑の一角を借りて家庭菜園の真似事も始めたのだと語る彼は、とても満ち足りた顔だった。

 ヴィオレットは、そこでふと見知らぬ土地にしては使用人達の手際があまりにも良いと感じた事を思い出した。

 不慣れな地では、最初は物品の手配一つとっても思うように動けないのが定石なのだ。

 その辺は父が手を回し、侯爵家の使用人として選りすぐりの者をつけてくれたのだとばかり思っていたが、この辺り出身の者を集めたので勝手知ったる土地だったからなのか。いやそれも選りすぐりの範疇ではあるが。

 ヴィオレットは控えていた護衛騎士に問い掛けた。


「お前もこの辺りの出身なの?」


 若い護衛騎士はこくりと頷いて答えた。


「私は隣町の出身です。騎士は特に休みが短くて、今まで王都から故郷に手紙と仕送りを送るのがやっとでしたが、ここに来てからもう何度か実家に帰って家族と過ごせています! ありがとうございます!」

「そ、そう……」


 キラキラした護衛騎士の眼差しに、ヴィオレットはそっと目を逸らす。

 ほんの少し暑苦しく感じたとは口に出さないのが高貴な女性というものである。

 更に話を聞くと、昔はこの辺一帯にあった保養地で貴族の屋敷の使用人として働く者も多かったが、貴族がこの地を利用しなくなった為に仕事がなくなり、仕方なく王都に出稼ぎに行く者が増えたのだという。

 それを聞いてしばらく考えていたヴィオレットは、お茶を一口飲んでからいつも通りに元気よく高笑いをした。


「わたくしがここにこうして存在しているだけで下々に雇用を与え、地方経済を回していると言うわけね!」


 ほーっほっほっほ。

 開け放した窓から漏れるヴィオレットの高笑いを聞いて、屋敷の人々は「今日もお嬢様は元気だなぁ」としみじみ思いながら、あるものは勤務に、またあるものは自発的な時間外労働(と書いて暇潰しと読む)に取り組むのだった。



 ──そんなある日の事、ヴィオレットはふと足を止めて騎士達の会話に耳をそばだてていた。

 どうやらこの地には魔物が棲息しているらしい。

 貴族が保養に訪れていた頃は、定期的に騎士団が討伐遠征を行い、魔物が人里に降りないよう処置されていたようだが、それがなくなってからは少しずつ魔物による被害も出始めたと言う。

 護衛騎士達は今後、騎士団に定期討伐を依頼するべきか話していたのだった。

 ヴィオレットはあらまあと目を丸くしながらその話を盗み聞き終えると、手早く必要なものを準備して乗馬服に着替えた。


「お嬢様、今日は乗馬ですか?」


 彼女の予定が気まぐれによって決定するのはいつもの事なので、付き従う騎士達も慣れたものだったが、ヴィオレットが笑顔で「魔物見物よ」と答えると顔を青くして全力で止めようと努力した。


「おやめください、お嬢様! 魔物は危険なんです! 万が一お嬢様に何かあったら……」

「魔物魔物と言うけれど、わたくしは幼い頃から一度もこの地で魔物らしい魔物など見た事はなくってよ。一度くらい見ておきたいわ」

「ですから……」

「もう、何よ、騎士のくせに揃いも揃って情け無い顔をして。それでもうちの騎士なの? いいわ。そこまで言うのなら、今日は森の入り口までにしてあげる」


 そう言って護衛騎士と共に森の入り口までやってきたヴィオレットは、存分に辺りの景色を楽しみ、そして時折魔物がいないかと耳を澄ませたりなどしたが、残念ながら全くそんな気配はなかった。


「そういえば最近急に魔物が人里に降りる事が少なくなったと聞きました。お嬢様がこちらに入られる前に、討伐遠征があったのかもしれません」

「まぁ。それはつまらないこと」


 ヴィオレットは溜め息を吐いて、それではそろそろ戻ろうかしらと踵を返す。

 その時、背後でがさりと茂みが揺れた。

 護衛騎士がヴィオレットを背に隠し、慎重に茂みの辺りを確認すれば、ころりと何かが飛び出した。


「……何かしら?」


 それは、土に汚れた仔犬に見えた。

 少し痩せているその仔犬はヴィオレット達に気付くと、仔犬なりに警戒を示して唸り声を上げた。

 それを見て喜んだのはヴィオレットだ。


「まぁ! 何が魔物よ! ワンちゃんじゃないの!」


 そしてヴィオレットは持っていた超高級クッキーを砕いて仔犬の前に置いた。

 王都でも貴族女性の中で犬を飼うのが流行していたが、ヴィオレットは犬を飼った事がなかった。

 噛まれでもしたら一大事だと、父親が頑なに許してくれなかったからだ。

 そんな事もあって、わくわくした眼差しで仔犬がクッキーを食べるのを待っていたのだが、仔犬は匂いを嗅いだだけで、不信感を露わにして口を付けなかった。

 それを見ていた護衛騎士は、ヴィオレットが仔犬相手に癇癪を起こしたりしないだろうかと、心配になってヴィオレットをちらりと見やる。

 しかし彼女は予想に反して元気よく高笑いした。


「ほーっほっほっほ! よろしくてよ、よろしくてよ! このわたくしに抗おうだなんて、獣のくせに見上げた根性だわ!」


 機嫌を良くしたヴィオレットはそのまま一度帰宅して、厨房の料理人に鶏肉を柔らかく茹でさせると、それを持って再び森へと向かった。

 夕方までかけて根気よく丁寧に仔犬を餌付けしたヴィオレットは、餌をあげた者の責任だと言って服が汚れるのも構わずに仔犬を抱き上げて屋敷に連れ帰ったのだった。

 その後、侍女らと一緒にそれは楽しそうに汚れた仔犬を洗い、ふわふわのバスタオルで包んでやると、仔犬はすっかりリラックスした様子で眠ってしまった。

 ヴィオレットはそれを見て「勝ったわ!」とガッツポーズをしながらいつも通り高笑いし……ようとしたが、寝ている仔犬に配慮して声音を抑えて高笑いした。

 その後、彼女は仔犬の親などがいないか気になって何度か森に探しにいったが、それらしい獣に全く遭遇しなかった為、それ以来、仔犬は屋敷で元気に暮らしている。



 ──そしてまたとある日、ヴィオレットは面白い話を聞き付けて隣町へとやって来ていた。

 この町はヴィオレットの護衛騎士の一人の故郷でもある。

 この辺はどこも似たり寄ったりの有り様で、隣町とて特筆する事もないありふれた町であるのだが、そこに最近新しい領主がやって来たのだという。


「ご機嫌よう!」


 あえて先ぶれも出さず、押し込み強盗もかくやという勢いで止めに入った家令を押し退けて屋敷の中庭に入り、東屋で本を読んでいた領主のもとへ近付く。

 新しい領主は少年をほんの少しばかり越えた程度の青年だった。

 彼は驚きながらも、先触れのない訪問にムッと顔を顰めて本を閉じた。


「どなたですか。ご用件は」


 冷たく言い放つ領主に、ヴィオレットは欠片も怯んだ様子を見せずニッコリと微笑んだ。


「あら、わたくしの名を知らないだなんてとんだ無知もいたものだわ。お前、それでも貴族なの? わたくしの名はヴィオレット。シェーレンブルク侯爵家のヴィオレット・エメ・シェーレンブルクよ。この名を二度と忘れぬよう、お前の魂に刻み込みなさい」


 そしてヴィオレットは淑女らしい笑顔を浮かべ、一息に続けた。


「今日は暇だったから、婚約者がありながら男爵令嬢と関係を持ち『真実の愛を見つけた』などとトチ狂った事を言って勝手に家が決めた婚約者の伯爵令嬢に婚約破棄を突き付けた挙句、生家の伯爵家に見放されて都落ちした無様で哀れな新領主とやらの間抜け顔を見物に来ただけよ」

「帰れ」

「まぁ! 何て言い草かしら。地方領主とかいって体よく田舎に厄介払いされた上に件の男爵令嬢からも捨てられて、辛うじて貴族籍は残されているけれど、こんな辺鄙な田舎で仕事らしい仕事もせず日がな一日無為に過ごしているとこんな風に礼儀も忘れてしまうのかしら」

「むしろ私は貴女こそ礼儀を知るべきだと思いますが⁉︎」


 領主はカッとなって叫んだが、ヴィオレットにはどこ吹く風であった。

 この程度の言葉の応酬、社交界という戦場を幼少期から渡り歩いていたヴィオレットにとってはそよ風くらいにしか感じないのである。


「お前、領主としての仕事も代理人に任せて何もしていないのでしょう」

「お前お前って……。仕事は滞りなく行われているのですから、別に誰も困りません」

「そんな話してないわ。私以外の誰が困ろうと関係ないもの。そうではなくて、暇を持て余しているのならわたくしの為に働けと言いたいの。お前も貴族なら読み書き計算くらいは出来るでしょう。教師として地域の子ども達の学力向上に貢献なさい」


 そう言ってヴィオレットはYES以外の言葉は認めないわと、そのまま名ばかりの新領主を引きずって帰り、学校代わりとなっている村の教会へと押し込んだ。

 彼は道中持てる限りの語彙力で文句と抗議を尽くしたが、根は割と勤勉であったのか、いざ始めてみれば教える事が上手だった。

 その内に、子供だけでなく読み書きが出来ない大人も少しずつ通い始め、一帯の識字率がじわじわと向上したので、ヴィオレットはその結果にこれこそ持てるものの施しであると高笑いした。


 農地が整い、仕事先があり、求めるものは学ぶ事が出来る。更に最近魔物も出ない。

 片田舎から生まれたそんな噂は、数ヶ月後には王都にまで届いたのだった。




 ──とある日、ヴィオレットの住まう土地を王家の紋章が入った立派な馬車が訪れた。

 その辺一帯の人々は、朝からヴィオレットの十八歳の誕生日を祝う為の準備に追われていたが、こんな田舎に不釣り合いな馬車を見ればさすがに気になってしまう。

 しかしおいそれと近付くような不敬は出来ないので、皆誕生会の準備をしながら盗み見る事しか出来なかった。


「何だ、あれ」


 ただし、貴族家の者は別だ。

 ヴィオレットに引き摺り込まれるかたちで教師の真似事をさせられている新領主は、遠目に王家の馬車を見て首を傾げた。

 昔は貴族の保養地であったが、今はあの頃の面影は貧乏人のスープよりも薄く、王家を迎え入れられる程の環境も整っていない。

 何より己は形ばかりであっても領主だ。

 王家の尊い方がこの地を訪れるのなら、必ず先触れがあるはずである。

 ざわりと嫌な予感が胸をよぎり、領主の青年は足早に近道を通ってヴィオレットの屋敷へと向かった。


「……王家のお渡り?」


 庭をパーティー仕様に整える様を長椅子に座って優雅に眺めていたヴィオレットを捕まえて領主が先程見たものを伝えると、ヴィオレットはあからさまに苦々しい表情を浮かべた。

 それもそうだろう。彼女は聖女に無礼を働き、婚約破棄の上、王都を追放された身だと聞く。

 だが、もしかしたら何か事情があって彼女を迎えにきたという可能性はないだろうか。

 領主は恐る恐る口を開いた。


「元婚約者の王子が貴女を迎えに来たのでは?」


 その言葉に、ヴィオレットは汚物でも見るかのような冷ややかな眼差しで口許を引き攣らせた。

 プライドの高い彼女を刺激してしまったと気付き、早く話題を変えようとした領主は、ヴィオレットがやれやれと首を振って溜め息ついた事に驚いた。


「わたくし、王子と婚約した事実などないのだけれど」

「え? でも、婚約破棄の上で王都を追放されたのでは……」

「追放? このわたくしが? 何の責で?」

「聖女に無礼をはたらいたと、聞いています」


 領主の言葉をそこまで聞いたヴィオレットは、彼女にしては珍しく、行儀悪く口許を隠しもせずに嘲笑を浮かべた。


「聖女、ねぇ」


 そのまま何か言おうとしたヴィオレットだったが、そこへ家令が慌ただしくやってきて王子の来訪を告げたのだった。

 ヴィオレットは心底嫌そうな顔をして、全身で行きたくないと主張したものの、現実は無情である。


「──ヴィオレット・エメ・シェーレンブルク!」


 何と、客間で待っているはずの来客らが、勝手にこっちに来てしまった。

 王族がそのような真似をするとは思わず、その場にいた領主や家令は驚きを隠せない。

 そんな中、ヴィオレットだけがニッコリと淑女の笑顔を浮かべ、ずかずかと近づいて来た青年に向き合った。


「あら、第二王子殿下。お久しぶりでございますね。突然のお渡りでしたので、お迎えのご用意がございませんの。どうかご容赦下さいませね」

「ふん! 別に歓待など期待しておらん! それよりも貴様、教会側に何を言った! 貴様のせいでマリは未だに苦しい立場にいるのだぞ」

「あらまぁ」


 ほほほ、と笑うヴィオレットに、背中におどおどした表情の少女を引っ付けて登場した第二王子は更にカッとなって声を荒げた。


「聖女であるマリに対しはたらいた無礼を、王都追放のみで済ませてやったというのに! 貴様、一体どういう了見だ!」

「了見? まぁ、わたくしの意見を述べても構わないのですか?」

「言い訳があるなら聞いてやろう。どうせすぐに平民落ちか国外追放にされるだろうがな!」

「では、失礼して……」


 ヴィオレットは長椅子から立ち上がって一歩前に出ると、王子ではなく王子の背中に隠れるようにして立っていたマリに向かって言った。


「そこの自称・聖女がどれだけ尊いのかわたくしにはわかりかねますが、あの夜会の日から今日までの期間、少しはマナーのお勉強をされたのかしら? あの夜会ではそれはそれは酷かったものね」

「おい! マリは聖女とは言え平民の生まれだぞ。貴族のマナーなどすぐに身につくはずがないだろう。何故その程度の事がわからないのだ」

「殿下。お言葉ですが、その程度の事がわかっていないのはそちらでは? 貴族のマナーもわからない人間が供も付けずに一人で夜会会場を出歩き、あまつさえこのわたくしに軽々しく話しかけるだなんて、恥知らずにも程があります。何故、後見人の一人でも付けなかったのです? デビュタント前の子供達でも、もう少し思慮分別のある振る舞いを致しますわよ」

「え、えっと、あの、ご、ごめんなさい。私そういうのわかってなくて、失礼な事をしてしまって……」


 王子の背中に隠れながらマリは言葉を紡ぐが、それを見てヴィオレットは大きな溜め息を吐いた。


「どうやらマナーの勉強は一切なさらなかったのね。聖女を名乗る割に教会にも入らなかったとは驚きだわ。教会で正しい教育を受けたのなら、今貴女が此処にいるはずないものね」

「教会には行きました! でも、私を聖女として受け入れる事は出来ないって……! ヴィオレットさんが何か言ったんですよね⁉︎」

「ヴィオレットさん、だなんて軽々しく呼ばないで頂ける? 貴女、わたくしの友人でも何でもないじゃない」


 ツンとそっぽを向いたヴィオレットの腕を王子が強い力で掴み、この悪女めと叫んだ。


「貴様のせいでマリは聖女として務めを果たす事も出来ず、このように辛い日々を送っているのだぞ! 直ちに跪いて謝罪しろ! 貴様が教会に圧力を掛けた事はわかっているんだ」

「痛……ッ!」


 ギリギリと強い力で腕を掴まれ、ヴィオレットは痛みに顔を歪める。

 相手が王子であるので騎士らは動くに動けず、緊迫した空気が辺りに満ちた。その時。


「グァウッ!」

「うわっ、何だ!」


 王子の身体に灰色の塊が激突した。

 その勢いで王子は倒れて地面を転がり、マリは悲鳴を上げて後退る。


「あら、助けてくれたの? 賢い子。後でとっておきの鶏肉をあげましょうね」


 痛みから解放されたヴィオレットの足元には、今や大型犬といっても良いくらいの大きさになったあの仔犬がいた。

 ヴィオレットを守るように立ち、歯を剥いて唸る様は非常に迫力がある。


「王族への暴力は言い訳など出来ないぞ!」


 よろよろと立ち上がった王子に言われ、正当防衛なのにと思いながらヴィオレットはやれやれと首を振った。


「二言目には王族王族とうるさい事。前世は鸚鵡か何かなのかしらね? わたくし、こういう事はあまり言いたくなかったのですけれど、こうなってしまった以上は仕方ありませんわ。ねぇ、殿下。今回、本当に罰せられるべきは誰なのかしら? そもそも王位継承権ならわたくしにもありますのよ。わたくしも王家の血を引いておりますから」

「……は?」

「まさか、お祖母様が王家から当家に降嫁されたのをご存知なかったの? 家系図くらい記憶していて当然なのに。それに、教会の定めた聖女は十年前からわたくしただ一人です。この国において、聖女は王族と同等の立場であることは流石にご存じですわね?」

「はぁ⁉︎ 貴様には聖女の紋章などないではないか! マリの右手にはハッキリと紋章があるのだぞ!」


 王子の視線に促されてマリが右手の甲を見せれば、そこには薄らと光る紋章が浮き出ていた。

 それを見て、ヴィオレットは堪えきれないとばかりに笑い出した。


「ふふ! もしかして、それが聖女の紋章だと本気で信じてらしたの? 教会に聖女として受け入れられないと言われた時点で、その紋章が別のものだとは思わなかったの? それは精霊の加護紋章。その紋章を持つ者なら国内に何人もおりますわ。きちんと教会に通って教えを聞いていれば知っているはずの事ですけれど」

「何だと? でたらめを言うな!」

「あらまぁ。信じてくださらないの? でしたら、どうぞご覧になって。これが聖女の紋章ですわ」


 そう言ってヴィオレットがすっと目を閉じて短い言葉を紡ぐと、彼女の額に冠のように紋様が広がった。その輝きはマリの紋章の比では無い。


「ご満足頂けて?」


 更に、うっそりと微笑んだヴィオレットの瞳は鮮やかなルビー色から神々しい金色へと変じていた。

 ヴィオレットが更に一歩前に出ると、その足元に金色の光が鱗粉のように舞う。


「何故、貴様のような性格の悪い女が聖女なのだ……?」


 呆然としながら王子が呟いた言葉に、側で一部始終を見守っていた領主が確かにと頷いた。

 聖女というのは清らかさの最上位にあるような言葉だが、ヴィオレットときたら他の追随を許さないレベルで高慢で、他者を見下し、常に自分が良ければそれで良いと思っているタイプの人間だ。

 だが、そんな性格でたまに理不尽な行いはあっても、彼女は権力をふりかざして他者を悪戯に虐げた事が一度もなかった事もまた事実だった。

 この地において、ヴィオレットの我が儘がもたらした良い変化は挙げればキリがない。

 そもそも、慕われていなければ住民達が率先してヴィオレットの誕生日を祝おうなどとは言わないはずだ。

 それでも聖女という言葉にはどうにも首を傾げてしまうのだが。


(全くもって強引で高慢で我儘で世界は全て自分の思い通りになると信じているタイプの女性だが、完全に悪かと言われるとそれはそれで違うんだよなぁ)


 領主はそんな事を思いながら、どうしたものかと溜め息をついた。

 状況から察するに、王子の勘違いで暴走しているだけのように思えたが、だからといって非を認めて簡単に引き下がるとも思えなかった。

 緊張が高まる一方のその場所で、ヴィオレットはさも当然と口を開いた。


「何故わたくしが聖女なのかですって? そんなの、わたくしが見初められたからに決まっておりますわ」

「見初め……? 誰にだ」


 お前など見初める者がいるものかといった口調で王子が問えば、その答えはヴィオレットではなくその場に吹いた一陣の風からもたらされた。


「──我が花嫁に何用か」


 しゅるりと風が輪郭を得て、瞬きのうちに人の形をとる。

 真昼の陽光の下ですらはっきりとわかる銀の燐光を纏う、恐ろしいほどに美しい男性だった。

 その場にいたヴィオレット以外の人間は、そのあまりの美しさに声を失い、目を丸くする。

 姿形は人間のそれだが、この美しさは人のものではない。

 ヴィオレットの腰を抱くようにして立つ者が人間でない事を皆が本能で感じ取り、一番近くにいた王子がはくりと息を呑んだ。


「お前は……」


 吐息のように溢れたその言葉に、現れた人外の男が僅かに眉を顰めて、王子をちらと一瞥する。

 その後、男は一転して蕩けるような笑みを浮かべてヴィオレットの顔を覗き込むと、その耳元であれは誰だと問い掛けていた。


「あぁ、彼はこの国の第二王子殿下ですわ。どうかあの者の不敬を咎めないでやってくださいませね、わたくしの精霊王様」


 精霊王。

 ヴィオレットが口にしたその言葉を耳にした瞬間、王子と自称聖女はその場にへたり込み、それ以外の者は慌てて跪き頭を下げた。

 ただ一人ヴィオレットだけが、そういえば言ってなかったかしらと優雅に小首を傾げている。


 そもそもこの国は何代も前の精霊王が一人の人間の娘を愛し、娘もまた精霊王を愛した事から生まれている。

 愛した娘とその家族が生きるこの地に精霊王自らが愛情を示して加護を与えたことで繁栄し、国となったと伝えられており、その娘の子孫が今日の王族であるという。

 それ故、王族をはじめ、国民は皆幼い頃から教会で国の成り立ちと精霊王への感謝を忘れないよう教育を受ける。

 精霊王の心が民から離れれば、かの王の加護が薄れ、国は早晩滅びてしまう。

 その精霊王が目の前にいるのだから、皆の驚きはいかばかりか計り知れない。

 尊敬と畏怖を集めるその人は、腕の中の少女を見つめてへにょりと眉尻を下げていたが、皆が頭を下げていたのでその表情を見る事ができたのはヴィオレットだけだった。


「我が花嫁。明日まで会うのを我慢するという約束を破ってしまった私を怒らないでくれるか」

「うふふ、わたくしを心配してくださったのでしょう? 確かに約束の時間には少々早くはありますが、このくらい誤差のうちでしてよ。わたくしの可愛い方」

「あぁ、我が花嫁の何と寛大な事か!」


 感激した様子の精霊王がぎゅうとヴィオレットを抱き締める度に、喜びを示しているのか銀色の鱗粉が花開くように舞い上がる。

 そんな精霊王の腕の中で、ヴィオレットはにっこり笑って王子へと視線を向けた。


「そろそろご理解頂けたかしら。わたくしはこの方の花嫁として身を清める為に自然の多いこの地で過ごしていただけ。まぁ、殿下が事あるごとにその小娘を聖女だと擁護しては真の聖女たるわたくしに難癖をつけるものですから、あまりに鬱陶しくて予定を早めてこちらに避難してきたのもありますけれど」


 国王陛下や神官達が何度も殿下に説明したにもかかわらず、まさかこんな場所にまでやってくるだなんて、とヴィオレットは呆れたように溜め息を吐き、こてんと精霊王の肩口に頭を預けながら続けた。


「十八歳の誕生日を迎えたら、国王陛下とお父様立ち会いの上で正式に精霊王様との婚姻の儀式を進める手筈でしたのに、とんだ邪魔が入ったものですわね」

「第二王子ごときが我が花嫁の気分を害したとは許し難いのだが」

「今は堪えて下さいませ。美しいこの地がこの者の死で穢れる事をわたくしは望みません」

「そなたがそう言うのなら」


 一部始終を地面を見つめたまま聞いていた領主は、時間経過と共に冷静になってきた頭をフル稼働させて状況整理に努め、そしておそるおそる発言を求めて挙手した。


「あら、何かしら。発言を許すわ」

「有り難う存じます。あのシェーレンブルク侯爵令嬢。令嬢の誕生パーティーの支度は続けてもよろしいでしょうか」


 言外に王子は捨て置いて令嬢の誕生パーティーをしようと言った領主に、ヴィオレットはパッと表情を明るくして頷いた。


「よろしくてよ! あぁ、精霊王様。そのお二人を王都へ送って差し上げて。これ以上のお相手は不用です」

「すぐに叶えよう」


 精霊王が人差し指をすっと動かすと、次の瞬間には王子とマリは煙のように消えてしまった。

 それを確認して満足そうに微笑んだヴィオレットは、跪く領主に向かって言った。


「お前、明日までにわたくしの名のもとに王家と侯爵家に手紙を用意なさい。内容は第二王子とあの小娘の聖女たるわたくしに対する不敬を第三者の視点から捉えたものよ。余計な脚色は不要。事実のみを簡潔に。出来るわね?」

「承りました」


 それからヴィオレットはばさりと美しい黒髪をかき上げ、よく通る声で宣言した。


「さぁ、皆、パーティーの準備を続けなさい! このわたくしの誕生日よ。一つの手落ちも許さないわ!」


 その言葉に弾かれるようにして皆がそれぞれの準備にとりかかり、予定より少し遅れてヴィオレットの誕生パーティーが盛大に開催された。

 ちなみにこの宴はこちらに来てからまるっと浮いた社交費用を投入して開催した無礼講で、身分に関係なく参加できるものである。

 村の子供達がヴィオレットの仔犬と元気よく駆け回る広い庭を見回し、娘を溺愛している事で有名な侯爵本人がこの場にいないのを不思議に思って領主が確認すると、侯爵は明日国王と共にこちらに到着する予定であり、王子はその準備で城内がバタついている隙をついて単独で行動したらしい事もわかった。

 だからヴィオレットは手紙を送れ、ではなく用意しろと言ったのだろう。

 その手紙によって王子が王族籍を抜かれなければ良いが、少なくとも王位継承権は失うだろうなと領主は王都の方角へ向かってご愁傷様と小さく頭を下げた。

 喧嘩相手があまりにも悪すぎたのだ。


「ふむ。あの魔狼の仔はそなたが手懐けたのか? 流石、我が花嫁だ」

「あら、犬にしては大きい気がしていたけれど、魔狼でしたのね。魔物であっても可愛くて賢い子ですのよ」


 元気に駆け回る仔犬を眺めて精霊王が言えば、ヴィオレットもうふふと微笑んで見せる。

 陽が落ちて、たくさんの明かりに照らされた庭の片隅に置かれた長椅子で、ヴィオレットは精霊王の膝の上に抱き上げられて楽しそうにしていた。

 そんな彼女を遠くからちらりと見て、領主は何とも言えない気持ちで大きく息を吐いた。


(それにしてもあのヴィオレット・エメ・シェーレンブルク侯爵令嬢が精霊王の花嫁か。精霊王の花嫁になるにはこのくらい神経図太くないといけないのかもしれないな。それに、あの侯爵令嬢の夫なんて、それこそ精霊王くらいじゃないと出来そうにないもんな。ただの人間には到底無理だよ)


 そして彼は、今は人に任せきりにしている領主の仕事に改めて向き合おうと胸中で決意した。

 思えば、己がこの地に送られて、ヴィオレットと出会ったのも何かの縁だろう。

 一度は進む道を間違えた自分だが、きっとまだやり直せる。

 そうでなければヴィオレットは最初から己に声などかけたりしない。彼女はそういう女性である。

 もしかしたら本当に暇潰しだったかもしれないけれど、こんな時くらい良いように考えたっていいはずだ。

 何よりこのまま燻っていたら、いつまでもヴィオレットに馬鹿にされ続けてしまう気がするし、それは流石に癪である。


 ──ちなみに彼はこの後、決意通りに領主として立派に務めを果たし、領地に住まう気立ての良い娘を妻に迎え、民に愛された善き領主として後世に名を残したという。





「まぁ、人の身を離れて久しいけれど、知らないうちに随分と美化されている事!」

「何か面白い事でも書いてあったのか?」

「えぇ、ずっと昔の話ですけれど、暇を持て余していそうなこの土地の領主に、子供相手の読み書きを教えさせた事がございましたの。あの時は役立たずのただの腑抜けかと思っておりましたが、この本によりますと立派に領主として民に尽くしたようですわ。そういえばあの王子の記述が全くないけれど、歴史から抹消されたのかしら。まぁ、これはどうでもいいわね」

「君がその者の領主としての才を見抜いたと言うことだろう。素晴らしい事だ」


 緑溢れる森の奥にある美しい湖のほとり。

 柔らかな草の上にゆったりと寝そべる魔狼達や虹色に瞬く精霊達に囲まれて、最近人間の町で仕入れたばかりのこの地に関する歴史書をぱたんと閉じ、少女の頃から変わらない可憐な姿でヴィオレットは顔を上げた。

 その額には聖女の紋章が美しく輝いている。


「まぁ、それほどでもございますわね!」


 ほーっほっほっほ。

 そして彼女──元侯爵令嬢であり現精霊王の伴侶である聖女ヴィオレット──は、愛する者の腕に抱かれて今日も元気に高笑うのだった。


 その高笑いは風に乗って森で働く木こりの耳にも届くかもしれない。

 この地に伝わる昔語りを聞きながら育った木こり達は、その高笑いを聞いて怖がるよりもこう思うのだろう。


「──あぁ、今日もお嬢様は元気だなぁ」

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侯爵令嬢ヴィオレットは今日も元気に高笑う 文月黒 @kuro_fumitsuki

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