第4話 暦

 姫君のご誕生は、お上をはじめ都中に喜びをもたらされました。しかしそれもつかの間、耳敏い姫様はちょっとした人声ですぐお目を覚まされて、よくお休みになることができず、泣いて泣いて泣き疲れてやっとお眠りになる、そんな赤様でございました。

 仕方なくご生母のお方様もやんごとない身分の方でありながら、赤様のために人の通いの少ない御所の端へお移りになり、それがお上やお方様の父君様のお嘆きのもとになりました。お二方の、お方様への気遣いがあればあるほど、姫君はおむずかりになり、お方様の気苦労は増え、最後には大きめの塗籠ぬりごめの間を造られて、姫様を養うことになったのでございます。朝も昼も、冬も夏も、暗い塗籠ぬりごめの間が姫様のただ一つの居場所でございました。物音や人声がなければ、姫様はたいそうおかわいらしく、ほかのお子様と変わらず賢いお方でございました。

少し大きくなられてからほかのお子様方や身分のある方のお子様で、御年の近いお方をお遊び相手にとお呼びすれば、ご一緒に遊ぶこともできるようになり、私どももお方様もやれやれと思ったのでございます。ところがお遊び相手と申しましても子供、ときには我を通そうとし、あるいは妬みや怒りをあらわに出します。そういう場で子ども同士やら見守る私どもやらがつい声を荒げるととたんに姫様は耳をお手で押さえて「こわい」とおっしゃられるのです。人声だけではございません。野分の風の音、夏の雷、こわれた板塀を修理する匠どもの木槌きづちの音、どれもこれも姫様には怖い音でございました。そのうち怖いと感じられると、ご寝所の塗籠ぬりごめの間に逃げてゆかれ、落ち着くまで着物を被っておられるようになりました。お遊びでなさるのではない証拠に、姫様は本当に着物の下で震えておられるのです。

 ご成長あそばすにつれ、このご気性はますますひどくなられ、最後にはあれほどかわいがってくださっているお上の声さえも、「怖い音」になりました。ご生母様がご心労で床に就かれたのもこのころでございます。

 忘れも致しません、あれは十の年の裳着の儀式でございました。くりかえしくりかえし言い聞かせ、同じ場をしつらえて慣れていただいた上で臨んだご成人の儀式で、姫様は途中で泣き出されてしまい、それでもなお終わりまでやり遂げようとなさるご両親の親心に、とうとう堪忍袋の緒が切れてしまわれたのでした。大きな音のお嫌いな姫様がご自分であげられているとは思えないほどの悲鳴、耳を押さえ目を閉じながら泣き叫ばれるその声は、御所の外を通る人々をふりかえらせるほどであったのです。

 こうして姫様はまた塗籠ぬりごめの間の人になられました。一度大泣きが起こりますと、十日は塗籠ぬりごめの間におこもりのままです。お食事も台盤所だいばんどころの者が嘆くほど少ししか召し上がられません。風の通らぬ塗籠ぬりごめの間は姫様の涙で、部屋全体が泣いているのかと思われるほど、湿っておりました。お召し替えをするたびに小袖も打掛も重いほど湿っているのでございます。

 お上もまたこの事態に深くお嘆きでございました。このご成人の儀は高位の方々をお招きして姫君を見ていただくことによって、のちのちの御縁組につながる大切なもの。それをあのようにご自身で損ねてしまわれたのですから、「もうこの子は尼にでもなるしかない」と悲観されてしまわれたのでした。実際何十代も前の御代には、同じようにお心に傷のある方が、御所の外に出ることもできず、お亡くなりになるまで一生離れの館で仏像をお母様の代わりにして過ごされた例もあったとのこと。あの美しい姫様がそれではあまりに不憫であると、お上も親としてお心を痛めておられたのでございます。

 そんな折、おそらくはお上の御心の慰めにと皆様が考えてくださったのでしょう、管弦の催しがあったのでございます。うたいのない楽器だけの会にしてくださったのも、ご配慮があったのでございましょう。お上は姫様にもお手紙をくださって、楽器の音のみ聞こえて人声の届かぬ距離で一緒に聞いてみてはどうかとお誘いくださったのです。管弦の会の時はほかの用事で訪れる方もございません。わたしどもがお勧めしたこともあって、姫様はしぶしぶ人払いをした対の屋の座敷にお出ましくださいました。

 そこで初めて姫様は龍笛りゅうてきの楽をお聞きになり、その軽やかな調べ、哀調に満ちた曲にひどく心惹かれたご様子でした。翌日さっそくお上にお礼の手紙を書かれ、願わくば今一度あの笛の音を聞きたいと、初めてのおねだりをなされたのです。お上のお喜びようはひとしおでございました。さっそくあちこちにお尋ねくださって、雅楽の家のお生まれで、女でなければと惜しまれた菊女という方が姫様のところへ来てくださったのです。菊女さんはすでに御縁組が決まっておいででしたが、お上のお言葉ならばと、ご婚礼を延期して半年のお約束で御奉公なさったのです。その半年の間に自ら名曲をお聞かせするだけでなく、姫様に文字通りお手を取って演奏の仕方をご指南してくださいました。

 半年の御精進の成果は見事なものでございました。もともと耳の敏い姫様は、師匠の菊女さんの演奏を、そっくりそのまま再現できるまで御修練遊ばされたのです。最後に菊女さんの師匠に当たられる方やお上をお招きして、ご披露の会をしたとき、お二方ともこれが半年前まで笛を聞いたこともなかったお方の腕前であろうかと目を見張られたのございます。お上は感激の涙さえこぼされたと聞き及んでおります。

 笛の修練にいそしんでおられる間は、姫様もそちらに集中なさって今までほど物音に反応されなくなりました。また御所を訪れる方々や下仕えの者共も、姫様の笛の音が聞こえれば自然と話し声や物音に気を遣うようになり、双方にとって都合の良いようになっていったのでございます。ただ、姫様の笛がどれほどすばらしいものになろうとも、姫様の将来は決して明るくはなりませんでした。すでに都中に姫様のご気性は知れ渡ってしまい、姫様には何のご縁もなく、身の振り方を決められぬままお上も御譲代なされてしまわれました。このまま御所の一角で寂しく一生を閉じていくのだとわたしどももあきらめていたのでございます。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る