第5話 初音
ああ、またやってしまった。
わが身のことながら、いったい何度こうやって涙に暮れて後悔したことだろう。自分でもいやになる気性である。
もういい年をした大人なのだから、殿御がすべて鬼のような者ばかりではないことは承知済みなのだ。いや、身分などというもののあるおかげで、逆に皆が皆わたしのことを大切に扱ってくれているのもわかっている。ありがたいことだと思う。それでもなお、殿御の声を聞くと体が勝手に反応してしまうのだ。いや、殿御の声だけではない。誰にも言ったことはないけれど、女人の声だって、いくらひそめていたって、わたしには聞こえる。皆がわたしを憐れんでいるだけではなく、困り者だと言っていること。鬼に食われたいにしえの姫君の生まれ変わりだの、誰ぞの
誰もいないところで、一人きりで暮らすことができるのならばどんなに気楽だろうと、何度となく考えた。でも乳母の
あの見た目の悪い末摘花の姫君ですら、素直なご気性があったから源氏の君の六条の院に迎えていただけたのに、わたしはなんでこんな気性に生まれついてしまったのかしら、と幾度となく考えたものだ。明日、目が覚めたら、何を聞いても平気になれたらどんなにいいかしら。いやいっそ、明日は目が覚めないで、お母様のいらっしゃるお浄土へ生まれ変われたなら、どんなに幸せかしら、とよく考えていた。
生まれてこの方、御所から出たことさえ数えるほどしかなかったわたしが、都から五十里も離れたこの地へ、生きてたどり着けたのは御仏のご加護だったと思う。しかも、ようやく落ち着けたこの地はわたしの願った極楽浄土に近いものだった。
殿御の声が聞こえない。夏のたびに悩んでいた蝉の声が間近で聞こえない。それなのに
「殿さまはなんと? 卯木。」
「驚いてはおいででしたが、かまわぬと仰せくださりました。」
口先だけの言葉であろうとは、すぐにわかった。
わかっていた。わたしにはもう物語のような幸せな結婚なんてありえないことなんて。二十三歳の女なんて、周りを見れば物心ついた子供を何人か持っていて当たり前の年令である。縁組の適齢期なんて十年も前に終わっているのだ。平安の貴族の時代ならまだしも、世の政は侍の時代。女人の役割は家と家をつなぐことと後継ぎとなる男児を生み育てること。お飾りのような帝の、それも気性に難ありの姫なんて、よほどの変わり者だって顧みもしない。そんなことはわかった上でここに来たのに、まだ、心のどこかで夢見ている自分がいた。嫌われてしまった。せっかく唯一の取柄である笛を聞いてくださっての縁だったのに。
何日かして文が来た。心ときめかせて開けた文はまごうかたなき女手で、着物の好みを尋ねる内容だった。こんな
「とりあえず下着の小袖の反物をいただいてはどないであらしゃりましょう。それならば物が悪ければ私どもの分を仕立てればよろしかと。」
というので、それがよかろうということになった。この奇妙な文の主はと下仕えの頭の「そで」という者に尋ねると、光時さまの奥様であるという。
「武家の奥向きは、大殿様の奥方様の采配でございます。奥方様のお指図で光時さまの嫁御の千代さまがお使いの文をくださったのではありますまいか。」
と言った。そうか。もうご正室があるんだ。予想はしていたけど、やっぱり落ち込む。都の流派よりは崩しの少ない、男手に近い書き手だ。武家の妻女はきっとこんなものなんだろう。用件だけの味気ない文。みやびとか才知とかなくてもいい世界。なんだかがっくりきてしまった。
「なにせ、お千代さまのほかには、文なんぞかけるおなごはおりやしませんから。」
とそでは得意顔である。文が書けないって? どういうこと?
「文が書けないって、文字の読み書きができないってこと?」
「はい。」
そではにこにこしている。自分ができないことを言われていて、なんで笑っていられるの。
「下々の者はそうしたものでございます、姫様。読み書きをしなくても生活に困りませぬ。」
と、卯木は真面目に答えた。
わけがわからなかった。
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