第2話 波の音
さて、西の院に入られた姫様は、最初は食べ物に悩まれた。三日ほどは何をお出ししても食べられぬと仰せになる。都の宴席に連なった光時さまが自ら味見をなさって、塩も味噌も薄く薄くし、柔く炊くようにと侍女どもに指南されて、やっと叔母上たちは姫様の口に合う食事を作れるようになった。しかも作り立ての熱いものは手を出そうとなさらない。その手間暇は、叔母上のいわく
「はじめは都ではここらと全く違う
とのことであった。姫様のお好みは芋の炊いたの、瓜や柿などの甘いもの、川魚の焼いたものなどであった。雑穀飯は一切おあがりにならず、白い米を柔らかく炊いたものしか食べられなかった。それも在の者から見れば「子供の食べるほど」に少ししかお召し上がりにならない。ご病気になりはすまいかと、叔母上はしばらくはらはらしたそうだ。
食事に慣れてくると、姫様は温かいものも食べられるようになり、血色も目に見えてよくなられた。光時さまの采配で、おのこは極力西の院の建物に近寄らせなかったからである。唯一の男手で、まきわりだの外周りの掃除だの荷運びだのをする下男は病を得てしゃべることができなくなった、丑吉という者を探してきたという徹底ぶりである。
ある朝、光時さまは馬で西の院へおいでになった。その年最初の鮎が献上されたとかで、おすそ分けにおいでになったのである。お帰り前に光時さまは、愛馬に草を食ませておった丑吉に声をかけられた。
「丑は、姫の顔を見たことがあるか。」
丑吉は滅相もないという顔つきで、手を横に振った。そしてその手で両目を隠してさらに首を振った。
「ははは、そうか。ご尊顔を拝したら、目がつぶれるか。」
自分の意図が通じて、丑吉もうなずきながら笑顔を作った。だがそのあと、光時さまはため息をついて、
「まあ、丑が
とおっしゃった。丑吉はこのとき初めて、光時さまもまだ姫様に
まあ田舎というのはこうしたもので、身分やら官位やらというものはよくわかっておらぬ。自分たちの土地をおさめているのはえらい亀井の大殿で、その息子である光時さまもえらい人に決まっている。都から連れてこられた(と思っている)おなごなぞは、心持ちとしてはその下なのである。実際には都に上がれば光時さまなど吹けば飛ぶような身分であり、奏子姫は雲の上のお方なのだが、そこいらが田舎者の丑吉にはよくわかっていなかった。この立派な
丑吉は光時さまに手招きすると、家の裏手へと誘った。わけもわからぬままついていった光時さまの前で、丑吉は縁側に片手をつくと、
薄縁の敷物にはつややかな黒髪の貴女が、びっくりした表情でこちらを向いてすわっていた。早緑の夏の打掛をまとった姿は大人の女性にしても小柄である。絵巻物を間にしてお相手をしていた侍女が、次の瞬間「あれぇ」と間延びした声を上げて自分の袖を広げ、姫君を隠そうとした。
「こりゃ、丑吉。なんという
物音に駆けつけてきた拙の叔母上が、丑吉を𠮟りつけた後、その後ろにいる光時さまに気がついた。
「殿さま、かように乱暴なやり方をなさってはいけませんぞ。」
光時さまは初めて見る奏子姫のお姿に心奪われたかの如く、茫としておいでになったが、はっとして、顔を背けられた。
「い、いや、わしが丑にやらせたわけではない、決してないぞ。」
次の瞬間、光時さまはキィィという、聞いたことのない音を聞かれた。
「姫さまっ、ご辛抱を。後生ですからご辛抱なされませ。」
驚いた光時さまが、室内に目を戻したときには、侍女たちが皆で姫を取り囲むようにしていて、もう姫君のお姿は、よう見えなんだという。けれど、賢い光時さまは、さっきの奇妙な音が姫君の悲鳴であり、原因は自分なのだと悟られた。
自分が倒した蔀戸を両手に、顔を隠すようにしていた丑吉は
「何をしておる、早う戻しゃ。」
の声に、すばやく腕を伸ばして戸をはめ戻した。そしてにやにや笑って表庭の方へもどった。光時さまはどうすればよいのかわからず、しばしそこに立ち尽くした。
四半時(三十分)ほども経ってから、白髪の侍女が縁側を回って、光時さまのところへまかり越した。
「お見苦しいところをお目にかけました。姫様に代わってお詫びを申し上げます。」
御所にいた時とは打って変わってへりくだった態度である。光時さまの機嫌を損ねれば、都を遠く離れたこの地で、姫君は生きてゆかれなくなってしまう。この侍女もまた賢いおなごなのであった。
「かまわぬが…。姫君はいつもあのようなのか。おのこの声が聞こえるのはそれほどに苦しいものか。」
「いいえ、いいえ。あれは本当に久方ぶりだったのでございます。こちらへ参りまして一月あまり、殿様のありがたいご配慮で、全くおのこの声を聴かずにおすごしでございましたゆえ。」
思い出し発作(フィードバック)。おのこの声がしたことで、過去の嫌な記憶がよみがえって、発作のスイッチが入ってしまったのだ。
「つまり、わしが嫌ということではない、おのこならば誰の声が聞こえてもあのようになるということか。」
「さようにございます、殿様。わたしどもで少しずつ殿様に慣れてくださいますようにいたしますゆえ、どうぞ今日のところはご勘弁を。」
その晩、光時さまは寝付けなかった。目を閉じると黒髪麗しき女人が浮かんでくる。形の上だけの御降嫁で、おろそかにせぬよう扱っておくだけで我が家の資産が増えるならば易きことと考えてお迎えしたのだが、欲をかいたのは失敗じゃったと思う。実は都から帰ってからというもの、親父殿、母上様にあちらより元からいる嫁を大切にするようにくぎを刺されていた。嫁のお千代は別に気立てが悪いとか、器量がよくないというわけではない。母上や兄嫁に続いて家の中の仕事をよくやってくれている。何の不足もないはずなのに、最近気づくとお千代と語らうより、西の院を気遣うことが増えておる。ああ、丑吉にあんなことを言うのではなかった。
眠れぬまま朝を迎えた光時さまは、翌日は郎党(けらい)どもと剣術の稽古をして一日つぶした。夜は久方ぶりにお千代の方の寝所を訪うた。さらに翌日は拙ら小者を供にして、新たに領地に加わった蓑島の荘まで見分に出かけられた。ここは大滝の荘から
西の院などというので勘違いなさる方もござろうが、元来大滝から見て定林寺のあったところは北東のはずれで、亀井の殿のお屋敷から見ると東の方角に当たる。すなわち光時さまはなんとかご自分の気持ちが東へ向かぬよう、必死に足掻いておいでだったのである。
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