西の院の姫君

@kabochamusi

第1話 なれそめ

 さて梅雨が上がってからこっち、大滝の荘では寄ると触ると西の院の姫様の話でもちきりだった。

 西の院というのは、大滝を治めるのが亀井の殿様でなく地頭の旦那だったころ、定林寺じょうりんじにいる兄の坊様を頼って都より戦を逃げのびてこられたお公家の奥様が住みついたところである。院というと聞こえはよいが、まずどうみても普通の百姓家だ。聞けば西の院などと気取ったことを言っていたのは、当の奥様とお供してきた侍女に若党、それから下女として抱えられた近郷の百姓娘だけだったそうだ。だいたい肝心の定林寺が、鎌倉方の残党狩りに怪しまれて火をかけられて丸焼けになってしまい、三十年たった今も立て直すこともできないありさまなのである。西の院の奥様の行く末も定かにはわかっていない。この話だってわしの爺さに聞いたことなのだ。

 そんな西の院の建物に手を入れて、亀井の殿のご次男、光時みつときさまが都生まれの女人を囲われているらしい、という噂が流れた。すでに一昨年、本家筋から嫁取りもなされている光時さまは、今まで浮いた噂一つない、まじめを固めて作ったようなお人だったから、大滝の荘が盛り上がったのも無理もない。それもこれも、亀井の家ではご次男の光時さまにも惣領そうりょう秀時ひでときさまにも、まだお子がなかったからだ。

 くだんの女人は、先だっての秀時さまのご上洛に同行された光時さまが、帰りだけ一行より一足早く駆け戻ってあわてて西の院の改修をお命じになってから、三月ほどおくれてご到着遊ばされた。女乗り物などという珍しいものが通るのを見て、在のわらわどもが鼻を垂らして口をぽかんとあけて、ぞろぞろついて歩いたので、西の院で待っていた叔母上たちはどんな大行列が来たかと、仰天したらしい。実際やってきたのは、例の女人と白髪の侍女、警護の若党らだけであった。

 さて、ここいらからは西の果てのように思われている伊吹山よりも、都ははるかに西である。はたまた、武家のまつりごとの開祖たる鎌倉もまた、ここからは東の彼方。田舎なれどここ、大滝の荘はどちらの大波も受けないのどかな場所であった。とはいえ都落ちという言葉はそこに事情があると読むべきもの。西の院の姫君の事情は、しばし在の者には知られなかった。亀井の殿様の下でうちの親父殿が別当をしていたことと、母方の叔母上がやもめになっていたのを幸いに、西の院の下仕えの頭となったことで、かろうじて拙の耳には入った次第であった。

 まずご到着された姫君は、両耳にふたをするように布を巻いておいでになった。それだけでは足らず、両手で耳をふさいでおられたのであろう、黒髪はくしゃくしゃにかき乱され、白い頬には涙の跡が幾筋も残っておいでになったという。

 白髪の侍女が言うには、姫君は恐れ多くも帝のお血筋に連なるお方なれど、赤子の時より耳が異常に敏く、殊におのこの声は雷鳴のごとく恐ろしく響くのだそうで、たいそうお困りになっておいでだったそうな。

 お子様のころは、耐えきれなくなると絹を裂くがごとき悲鳴を上げて泣き叫び、耳を押さえ、足を踏み鳴らしてお怒りになったという。なまじ美貌であられるからこそ、このご性分は悪評を広げた。いかなる呪詛か、悪鬼のたたりかと高位の僧やら修験者やらを呼んでみても、霊験あらたかな呪文や読経の声がそもそも姫君にはお怒りの源たるおのこの声、結局何の甲斐もないまま月日は流れた。心労のあまりご生母様は早世、どこかへ縁づくこともかなわず、ひっそり御所の片隅で数人の侍女と物語の巻物だけを友にお過ごしになっていたという。

 そんなお方もご成人されて、少しは馴染む音を見出された。笛の音である。名曲を当代の名人たちに奏でさせてご堪能になった後、ご自身でも手ほどきを受けて演奏することを楽しまれるようになった。もともと敏い耳をお持ちなので、たちまち名人と言われる腕前になり、御所の催しのある時は、離れた建物から演奏だけを聞かせるまでになったのだ。

 ご上洛された光時さまは、上納金を納めた後の宴にて、都の噂話の一つとしてこの笛の姫君の話を聞かれた。実は光時さまも篠笛のたしなみがあるので、みやびな都の姫が奏でる笛の音にいたく興味をもたれたのだ。たださすがに御所の中に忍び込むわけにはいかず、月の明るい夜を選んで、伝手を頼って警護の侍に紛れ込み、姫君の笛の音を聞くことができた。噂にたがわぬ名人の腕に感動した光時さまは、つい持ってきた愛用の篠笛で、一節二節合わせて奏でた。と、とたんに演奏はぴたりと止んでしまったのだ。

 南無三これはいかん、てっきりお咎めを食うものと覚悟して、もはや逃げ隠れもせずにいたところ、御殿より妻戸をあけて、老女が一人いざり出た。

「ただいま、姫様の演奏に合わせて笛を奏でた者、姓名を名乗られませ。姫様にはいたくお心に感じられた様子。」

とのこと。さすればとて、これは美濃の国、大滝の住人亀井次郎光時と申す者、下賤の身なれど、此度このたび上洛を果たして姫様の笛の評判を聞きつけ、是非にもその演奏を耳のかてにと思い、かような狼藉ろうぜきを働き申した。なにとぞご勘弁をと小声にて申し上げた。おのこの声は耳にさわるという噂を思い出して、とっさにそうなさったのである。この心遣いも老女と姫様には憎からず思われたようである。

 都見物もおわって下向の支度なども始めた頃、光時さまに幕府の重鎮、畠山様より直々のお呼びがかかった。さては先日の狼藉がお耳に届いたのであろうと覚悟して一同まかり出ると、予想にたがわず笛の姫君のことである。かの老女の報告を聞いて、姫の行く末を悩みの種にされていた院やご当代が、もしも光時さまにその気があるなら、姫を一旦畠山様のご養女としたうえで御降嫁させようとおっしゃるのである。ただし元が瑕疵きずのある玉なれば、支度の類は最小限である。如何いかがとの仰せであった。

 光時さまは驚かれた。別段懸想けそうをしたわけではない。しかし自分の一存で返事ができることとは思えぬ。しばしのご猶予をと願い出て、別室にて固唾かたずを飲んでいた秀時様やお身内の方々ともご相談なされた。その上で、これは願ってもない僥倖ぎょうこう、わが身に余る光栄、ありがたくお受けさせていただきまする。わが大滝の荘はひなの地、住まいもしずなればたくさんのお支度をいただいても収まりかねまする。最小限のお支度で結構。その代わり、できるならば姫様のお召し物料になるほどの領地を安堵あんどしていただければ、心置きなく姫様をお迎えさせていただけるかと存じまする。なにとぞ、と申し上げた。

 この条件は即座に聞き届けられた。実は姫様は光時さまより五つも年嵩であられ、今までに何の縁もなかったのは、ひとえに耳の敏いが災い。かといって読経の声が怖くては出家させることもかなわず、父君の院には田舎侍であろうと姫様の笛の腕前だけが目的であろうと、片付くならばのお気持ちがあったのだそうで、思った以上の領地を持参金としてつけていただけることと相なった。

 こうして、笛の姫様こと、奏子かなこ姫は、大滝の荘の西の院の姫君になられたのだった。

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