第3話 沙羅との出会い

 ところが事態は予期せぬ展開へと私を誘導した。

 もう少しで軽井沢というところで日没を迎え、道に迷った。迷っただけならよいが、空腹で目が回り、力尽きて倒れてしまった。頭はクラクラし、どうにかなるさと思う意識すら薄れた。頼みの綱の携帯は電池切れであり、助けを呼びたくても通信不能に陥っていた。

 どのくらいの時間、夜の闇に身を置いていただろうか。


「しっかりして」


 どこかで声のようなものがし、私の体は揺れた気がした。


「うーん」


 ようやく意識が戻った。


「ここはどこだ?」


 知らない家の中にいた。私は家の居間のソファーに寝かされていた。


「だいじょうぶ? あなたは森の中で倒れてたのよ。私が家に連れ帰ったの」


「連れ帰った」


 と私はただ繰り返した。


 あらためて相手の顔を見た。年頃の女の子だ。とても可愛い。


「そうよ。危ないところだったわ」


「倒れてた?」


 私はソファーから体を起こした。手で体を触ってみた。どこも痛くない。服が夜露で少し湿っている程度だった。


「あの辺、夜にはクマが出るときもあるの。無防備な人を襲うことはないけれど、物音を立てるとクマも気が立って暴れるわ」


「そ、そうか。助けてくれてありがとう。どうして、俺を」


「助けた理由を知りたいの? 理由なんてないわ。通りかかったら、人が倒れてた。弱い人を置いていけないもん。助けるのは当然でしょ?」


「森を歩くのか」


「ええ。私、ここ軽井沢に住んで、『ネイチャーウォッチング』のツアーガイドに携わってるの」


「『ネイチャーウォッチング』とは何?」


「つまり、野鳥やムササビ、カモシカなどの自然動物を観察して人に紹介するのよ。そのツアーがあって、ツアーガイドのアシスタント。まだ十六だから、アルバイトなの。お客さんの把握やツアー申込の事務しかしてないけれどね」


「へー、そうなんだ」


 そのとき、私はすでに運命的な縁を感じていた。自分と年の近い女の子がそばにいて一対一で話す機会を得たのを、そのように捉えていた。


「この辺の森のことは小さいときから知り尽くしているわ。忙しいときは、私がツアーガイドを担当したこともあるんだから」


 彼女は胸を反らし、両手を腰に当てて誇らしそうにいった。


「いろんな動物がいるんだね。どれが人気?」


「そうね。やっぱり、ムササビかしら」


「ムササビ」


「そう。夕方から夜にかけて、カメラでムササビの巣箱を観察するの。ムササビが巣から出てきて枝に止まって準備するのを、じっと待つのよ。暗闇の空に目が光って、パッと飛んで行くの。羽も翼もないのに白い腹を見せてね。広げた膜だけでパラグライダーみたいに大滑空するのよ。これ見て」


 女の子は写真を見せた。ムササビだろうか。それが闇を背景にして飛んでいる瞬間がバッチリ写っていた。


「すげぇな!」


 私は感嘆の声を上げた。


「でしょ、でしょ」


 彼女もうれしそうだ。


「実物を見たら、もっと感動するわ」


「ツアーガイドの仕事をしたいのか」


「そうね。将来できたらなって。その前に高校を卒業して、大学に行きなさいって、親からは口を酸っぱくしていわれるけどね」


 女の子は舌を出しておどけた。


「カモシカツアーの中身はまだ詳しく知らない。花や鳥のことなら、ある程度は知ってる。アカハラはお腹の赤い鳥。キビタキ、オオルリ、ツグミ。コマドリにシジュウカラ、キツツキ。いろんな種類の鳥が軽井沢に生息してるわ」


「そうだろうな。森が豊かで自然の宝庫って感じだ。ところで」


「ところで?」


「おまえ、名前は?」


「私? 沙羅よ。樫田沙羅」


「サラか。俺は志水。志水政次。よろしくな」


「志水さんは、どこからここへ?」


「マサと呼んでくれ。俺は千葉県から来た。歩いて」


「まぁ、すごい。歩いて千葉県から長野県まで? 何しに?」


「いや、その、冒険だ。冒険したくなってさ。青春だし」


 いいわけがましく、恥ずかしかった。


「フフフ。面白い人ね」


「ところで話は戻るんだけどさ。森からここまで、かなりあるじゃん?」


「そうね。森まで歩くのは日課よ。倒れていた場所から携帯で電話して、知り合いのおじさんを呼んだ。二人がかりで車に乗せ、家まで送ってもらったの」


「そうだったのか」


「そうよ。お礼をいうなら、そのおじさんも含めてよね」


「うん、わかった」


 後でおじさんの名前と住所を教えてもらい、軽井沢を去るときにお礼をいいに訪問した。

 私は沙羅のことをもっと知りたかった。


「サラは長野県で生まれ育ったの?」


「そうよ。ここで生まれてずっといるわ」


「ところで、その」


 私は口ごもった。静かになった部屋に、グルグルグルと妙な音が響いた。


「あら。お腹、空いてるの?」


 沙羅が訊ねる。


「そのようだ。俺、金がなくて」


「何かの縁ね。インスタントラーメン、作って上げる」


 ホッとした。動物や植物の話をたくさん聞かされ、うれしいことはうれしかった。ただ、何時間も飲まず食わずの状態で倒れたから、体をいたわりたい気持ちにウソはつけなかった。

 あらためて、沙羅の住む家を見回した。白い壁に白い天井。華美な装飾品はない。天井から照らす灯りで、宙に吊るされたドライフラワーが控えめに部屋を彩っている。


「ねぇ、マサ。嫌いなもの、ある?」


「嫌いな食べ物はセロリとトマト」


「じゃあ、安心だわ」


「ラーメンに野菜、入れるのか」


「うん。昨夜の残り野菜をね。ママも助かると思うわ」


「サラの家族は、俺が来たこと、知ってるのか」


「まだ知らないわ。パパは仕事で出張中。ママは今、お風呂に入ってる。もう少ししたら出てくるわよ」


「兄妹は?」


「妹は部屋じゃないかしら? あの子、携帯を見始めると、ずーっと何時間も見つづけるから」


「よく、暗い時間に外にいたね」


「だって、ムササビが気になるわ。私も、実際にムササビが目の前で空を飛ぶ姿を見たいもん。まだ一度もないの。それもあって、ときどき森を歩くのよ」


「こんな夜に?」


「うん。ムササビは夜行性。間近で見たら、とても愛くるしい顔よ」


「動物の話はいいよ。俺、森で倒れてたのか」


「そうみたいね。私、大きなクマが死んでいるのか、と勘違いしたわ」


「クマも出るんだったな」


「たまにね。出そうな場所は用心するけど」


「俺、長野県に入って、軽井沢を目指してた。早く着こうと思って道に迷い、空腹のあまりグロッキーに」


「若いのにだらしない。昨日は食べたんでしょ?」


「食べたさ。でも山道だし、疲れが出ちゃったよ」


「倒れたところは女道よ」


「最初は勾配の急な山道だった。途中からよくわからなくなって、くねくねした、なだらかな道に変わった」


「それは、男道から女道に入っちゃったのね」


「そんなこと、あるのか」


「あるらしいわ。地図を見てりゃだいじょうぶだけど。男道から女道に入ったのなら、マサはオカマちゃんね」


「男から女で、か。オカマちゃん。俺が」


「冗談よ。はい、ラーメン、食べて」


 目の前のテーブルにラーメンが置かれた。丼から湯気が立ち、おいしそうな匂いがする。私はイスに座った。たしかに、シメジとネギとニンジンにレタスが入っている。


「いただきます」


 ラーメンを啜った。温かい食事にありつけ、あっという間に完食した。沙羅はテーブルの向かい側に座り、こういった。


「いい食べっぷりね。それだけ空腹だったのね」


「ああ。いろいろしてくれて、ありがとう。ごちそうさま」


 ふとこちらも冗談をいいたくなった。


「まだ食べられるぞ。俺は腹をすかせたクマ。いや、オオカミだ。おまえを食べちゃうぞ」


「食べられないよーだ。赤ずきんちゃんじゃありませんから」


 沙羅は笑い、つられて私も笑った。

 私は手を広げて、


「お化けムササビがサラを虜にするぞー」


 といった。


「残念ね。もうとっくに虜になってますぅ」


「じゃあ、俺がムササビに化けたら、サラをゲットできる、と?」


「えっ?」


 沙羅の動きがフリーズした。


「えっ?」


 俺も思わず訊き返した。二人だけの空間に沈黙が流れた。気まずい雰囲気が漂う。こういうときにはどうしたらよいのだろうか。


「さっきから、食べるだの、虜にするだのって、私のこと、好きなの?」


「好きさ。悪いか」


「悪くないよ。でも、どうかな」


「どうかなって?」


「だって、出会ってまだ一日目だよ。それで告白されてさ。私の本心は充分に定まってないのに」


「これから仲良くしよう。それなら、いいだろ?」


「うん。それなら、いいよ」


 沙羅はテーブルに頬杖をつき、私を見て微笑んだ。

 彼女はラーメンの丼を流しに持って行った。

 それから、どうしたものか、とまごついた。元気になったはいいが、ペンションやホテルに泊まる金などはじめから持ち合わせていない。それに、と舌を出した。


「もう、恋人探しのゴールには着いた。着いた先に、恋人候補の可愛い子もいたわけだ。こんな状況、そうあるもんじゃない。それこそ奇跡だ。もう、最高じゃん」


 内心思った。

 強いて欠点を上げれば、このまま千葉の自宅に戻っても、彼女はそこにいない。陽司という生意気な弟とケンカを繰り広げ、退屈な夏休みと宿題とテニスの合宿と高校生活が待ち受けているだけだ。


「そうだ。もうしばらく軽井沢にいて、戻るときにサラとラインを交換しよう。それでもってやり取りし、また年内に遊びに来よう」


 いろいろと楽しい計画がふくらみ、興奮しているうちに、沙羅の母が入浴を終えたようだ。


「あら。お客さん?」


 沙羅の母が首にタオルを巻き、こちらを向く。


「お邪魔してます。サラの彼氏の志水といいます」


 自分の望みを反映させ、厚かましく自己紹介した。


「志水くん。サラの新しい恋人なのね」


「そうだよ」


 私は照れながら、恵比寿顔で答えた。


「まだ彼氏でも恋人でもないのよ、ママ。彼も高校生なの」


 沙羅は呆れたような口調で訂正した。彼女は母に対し、正しいことを伝えようとしたようだった。


「この辺の方には見えないけど」


「マサは千葉から来たのよ。驚くでしょ?」


「千葉? ご家族と一緒に?」


「いや、違う。一人で来た。歩いて」


「歩いて? まぁ、ビックリ。すごい体力の持ち主ね」


「それで、お願いが。よそに泊まるお金も尽きてしまって。そちらさえよければ、泊まらせてもらえると助かる」


「そうね。もう夜だし、いいわよ。困ってるみたいだから。サラ、パパの部屋を片付けなさい」


「面倒だわ。でも、しょうがないか」


 沙羅はしぶしぶ居間から出て行った。

 沙羅が出て行き、彼女の母と二人きりになった。知らないおばさんと話すのは気まずかった。


「お家の人にはちゃんと伝えてあるの?」


 沙羅の母は家出を疑っているようだ。


「ちゃんといったさ。いつまでに帰るとはいってないけれど、いずれ自宅に戻ると電話で伝えたよ」


「ずいぶんと大胆な行動に出たわね。駅まで車で送るわよ。お金がないのなら、貸してあげるわ」


「そんなに親切にしなくても」


 私は口元を緩めた。しかし、厚意に甘えてばかりもいられない。向こうは一晩泊めるけれど、明日か明後日にでもこの家から出て行ってくれ、という意味の交渉を今ここで迫っているのだろう。


「気持ちはわかるよ。男のいない家に急に押しかけられ、この家の人はみんな不安だろう」


「よくわかるわね」


「せっかく涼しい観光地へ来たんだし、少し休ませてくれ。緑豊かな軽井沢の自然にもっと触れていたい」


「ずいぶんと口は滑らかね。しょうがない。パパが帰って来るのは四日後。しばらくここにいてもかまわないわ」


「そうか。よかった。ありがとう」


 しめしめと指を鳴らした。


「志水くん。話は戻るけれど、本当にサラが好きなの?」


「うん。この志水にウソ偽りはないよ」


「サラのどこがいいと思うわけ?」


「素朴で純粋な面かな。それに、俺を助けた思いやりと愛に打たれた」


 我ながら、口から生まれてきたかと思うくらいに、巧みな弁舌が冴え渡った。相手はじっとこちらを見つめ、別角度から攻めてきた。


「そうなの。愛に打たれたって、互いにまだ高校生でしょ?」


「俺は高二だ。それでも、俺は真剣にサラに惚れた。運命的な愛を感じた」


「サラに彼氏はいないようだけど、上手に付き合ってみなさいな。年頃の女の子はいろいろとあるのよ」


「いろいろ、か」


「とにかく、もう遅いわ。パパの部屋で休みなさい」


「うん、そうする」


 私はデイパックを手に持ち、沙羅の母の誘導で父の部屋に案内された。ちょうど、沙羅が片付けを終え、ベッドの布団をきれいに直したところだった。


「枕はこれでいいかしら」


「それでだいじょうぶだ。ありがとう」


 私は沙羅の肩に手をやり、お礼をいった。この一家と出会い、優しさと温かみと幸せを感じた。

 その晩、私はバミューダパンツにティーシャツ姿でベッドに横たわった。フクロウの鳴き声を聞きながら沙羅の寝姿を想像し、ちょっぴりエッチな気分も混ぜつつ、信州の静かな夜を明かした。

 朝、起きて居間に行った。窓の外から木漏れ日が射し込んでいる。とても涼しく、ここは東京と違って別世界だと思った。


「起きたのね。おはよう。元気なこと」


 サラの母はいった。最後の言葉だけニュアンスが変わった。私は気づき、自分の股間を見た。たしかに、そこはいちばん元気になっていた。


「おはよう」


「パンとコーヒーでいいかしら」


「それでいい。あれこれかまわなくていいよ」


 食べる気満々だ。口だけは遠慮する言葉が滑らかに出る。

 やがて、目の前のテーブルに四人分の朝食が並べられた。パンとアイスコーヒー、目玉焼き。中央には木製のボウルに入ったサラダがみずみずしく光っている。


「志水くん。サラとリノを起こしてきて」


 莉乃というのは、沙羅の四つ違いの妹である。


「わかった。起こしてくる」


 私は兄になったつもりで、二人の部屋をノックした。ドアは開けずに、朝食の準備が整ったと告げた。

 それからしばらくして、姉妹が台所に顔を見せた。妹の莉乃はきちんとした恰好で立っているのに、沙羅ときたら、はれぼったい顔でいかにも眠そうだった。服も裾が乱れている。


「さぁ、席に着いて。いただきましょう」


 母に促され、着席した全員が手を合わせる。樫田家のしつけは、朝からきちんとできているように見えた。うちと大違いだ。ちなみに志水家は、朝がバラバラだ。自分でパンと飲み物を確保し、各自が好むタイミングで朝食をとる。だれの気兼ねもなくそのようにするのが、日課として定着している。そちらの方が自立心が早く生まれる、と父の和史はいうのだ。本当のことはわからない。

 女三人と男一人は、ほぼ同時に朝食に手を付けた。沙羅はコンタクトだったのか、今朝はメガネをかけている。ピンク色の半袖パジャマからのぞく腕は白くてぽちゃぽちゃしている。その柔らかそうな腕に触れたくて、触れたい気持ちを彼女に対する愛の一部に置き換えた。

 朝食を食べ終わり、しばらく座ってくつろいでいた。沙羅が訊ねた。


「マサ。今日、どうするの?」


「今日か。特にあてはないよ」


「そう。私、『ネイチャーウォッチング』のアルバイトがあるの。マサ、暇ならば森に出かけたら? 東京じゃお目にかかれない動物たちの、生の姿を見られるわよ」


「そうなのか。じゃあ、せっかくだし、出かけるとするか」


「そうするといいわ」


 沙羅はにっこりと笑った。


「おすすめの動物は? ムササビ以外で」


「そうね。昼に見られるのは、鳥とかタヌキ、イタチかな。あっ。イタチといえば、幻のイタチを見ると幸運を呼ぶって噂よ」


「幻のイタチ?」


「そう。私も一度だけ見たことあるわ。全身が金色の毛に覆われていて、とても可愛いの」


「へぇ。そんなイタチがいるのか」


「私、それを見て、高校に合格したの」


「それとこれとは」


 私は別物といいかけ、やめた。


「ま、幸運を呼んだね」


「本当なのよ。妹も見た。彼女はテストで百点をとった。効果てきめんよ」


「それはよかったな」


「マサも見るといいわ。幸運が舞い込むよ」


 今以上の幸運って、何だろう。もっと関係が進むってことかよ。期待がふくらんで、唇をなめた。


「じゃ、俺は一足先に森へ行ってみる。金色のイタチと会えるよう、祈ってくれ」

「ちょっと待って。これ、あげる」


 彼女は森の地図を手渡した。


「ありがとう」


「頑張ってね。もしかしたら、二人は森のどこかで鉢合わせになるかもね」


 私は笑って頷いた。

 部屋でティーシャツだけ着替え、デイパックを背負って外に出た。

 よく晴れた夏の日を迎え、すがすがしい空気をいっぱい吸って、歩き出した。本当は、金色のイタチが出ようと出まいと、どちらでもよかった。沙羅の父が帰ってくるまでに彼女の体を求めたかった。もちろん、むりに犯すわけにはゆかない。きちんと互いの気持ちを確かめた上で臨むつもりだ。失恋経験しかない私は、どういう段階を踏めば男女の関係になれるのか、未知数だった。その知識は、ドラマや映画のものしか知らなかった。それらは、ふとしたことから関係が深まり、どんどん愛が形を伴ってゆくパターンだった。数日間でものにしたいというわがままと、そんなにとんとん拍子には進まないぞと早まる欲望の高ぶりを抑え込む気持ち。二つの狭間で心は揺れ動いた。

 朝の森に着いた。

 ここからは、沙羅のくれた地図が頼りだ。小鳥のさえずりが心地よい。空気もとても爽やかで、この上ないほどにリラックスできる。だれも見ていないのなら、素っ裸で走り回りたいくらいだ。


「そうだよな。人が見るから服で体を隠す。太陽と木々と草花と動物の世界に人間を意識するなんて、どこかおかしいぜ」


 こじつけの理屈をこね、木の葉のじゅうたんを踏みしめた。

 踏みしめているうちに、パサッ、パサッと地面のどこかで音がした。足を止める。パサッ、パサッ。まだ音はつづいている。それも私の近くだ。足音は軽そうだ。これは金色のイタチか。色めき立った。


「幻のイタチよ。いるなら出てこい」


 叫んで歩き回る。音はカサカサカサと速まり、遠ざかった。森は静けさを取り戻した。


「何だよ。小さな動物かな。ネズミかリスとか」


 声と足音に恐れをなして逃げ出した生き物に対し、優越感を持った。

 鳥の姿は見るけれど、それ以外の動物を視界に捉える瞬間は、なかなか訪れなかった。


「やっぱ、ツアーガイドがつくくらいだから、一般人が野生の動物に遭遇する確率なんて、かなり低いのかな」


 金色でなくていい。幸運は自力で手繰り寄せる。イタチでもタヌキ、リスでもいい。生きた何かが私の前に姿を見せてほしい。帰宅して収穫がなければ、沙羅に対して恰好がつかない。そんな風に思った。

 沙羅にかつがれたのかと疑いながら、幻の金色のイタチを追い求め、いつしか地図のルートから外れてしまった。


「あれ? おかしいな。三本杉からこっちには抜けないはずなのに」


 首をひねった。引き返せばいいものを、強引に自分の勘を頼りに歩いた。まだ日も高い位置にある。夕方までに森の出入り口に戻ればいいさ、と高をくくった。

 しばらく歩き回ったが、だんだんつまらなく思えてきた。


「緑は多いけれど、動物はちっともいないぜ。どうしたもんかなぁ」


 太陽が真上に来ても、歩いている場所が地図のどこなのかわからない。皆目見当がつかなくなっていた。これはヤバいぞと思った。目印のない森の中をたださすらうだけだった。飢えそうなほどに腹が空いていたが、食べられそうな山菜も草も実もなさそうだった。そもそも、さして頭のいいとはいえない高校生に、何が食べられるか否かを判断できる知識や経験なんて持ち合わせてない。

 行けども行けども、緑と土の連続で人や動物は見かけない。


「おーい。だれかいるかー」


 大声で叫んでみた。シーンと静まる森には、どこからの応答もない。しだいにやる気がうせてきた。ちょっと歩いてはしゃがみ、しゃがんでは歩き出すという動作を繰り返した。見知らぬ森を甘く見ていた自分を責めた。

 沙羅の自宅を出て森に入り、もう何時間たったのだろうか。

 私の油断に対し、さらなる罠が待ち受けていた。

 森はどこも平坦だった。前を向いていて、足元が一瞬軽くなった。すぐさま体が沈んだ。私は大きな穴に尻から落ちた。


「いってーなぁ」


 穴の底で激しく尻を打った。強い衝撃を受けた。痛みの走った部分を押さえ、顔をしかめる。穴は深くない。よそ見していた自分を呪った。どうも、空腹状態になると、よくないことが起こる。注意力が欠けるのだと反省した。

 ふと、ムニュムニュと柔らかな感触に気づいた。


「何だろう」


 好奇心に駆られ、尻を上げてみる。尻の下には、びっしりと赤いキノコが生えていた。


「わぁ、キノコだ。赤々として旨そうだ。これ、食えるのかな。食ってくれってことだよな」


 勝手な判断はさらに事態を悪くした。

 自問自答しても、好奇心と空腹には勝てない。自然と手が伸びた。私は赤いキノコの軸の部分をちぎり、カサを口に含んだ。


「うん、旨いぞ。キノコ、最高」


 味はたしかによかった。何のためらいもなく、二口、三口とキノコを咀嚼した。

 食べ終わってしばらく、穴で休んだ。

 すると、どうだろう。舌全体が痺れ出した。

 あれ、おかしいな。そう思ったときにはもう手遅れだった。吐き気がして口からもどした。それだけで終わらない。腹痛が起き、大量の汗が噴き出た。めまいがして視界がグルグルと回る。沙羅が巨大化して私を飲み込むような幻覚に襲われた。キノコに毒があるのは明らかだった。さまざまな症状が出ても、一人ではどうすることもできなかった。

 このまま死ぬのかという思いと、天国に行けば女にもてまくるという根拠のない妄想がふくらみ、気がおかしくなった。いつしか意識が遠のき、穴の中で気を失った。

 穴に入ってどれくらいの時間がたったのか、私にはわからない。

 後で聞いた話である。穴の中にうずくまって白目をむいていた私を、沙羅が発見した。近くにキノコが生えていて、それを食べておかしくなったのだと彼女は思った。沙羅はどのキノコに毒があるのかまでは知らなかったが、そういう事故を地元で見聞きしていた。彼女はすぐに携帯で大人に連絡を取った。地元の人は彼女から場所を聞いた。大人が駆けつけて私を背負い、救急車を呼んで乗せた。救急車ですぐに病院へ運んだという。

 とてもありがたかった。後で、沙羅と背負ってくれた大人にお礼をいった。何度も感謝の言葉を口にした。

 私は病院のベッドで意識を取り戻した。幸いにも、若さゆえに体の回復は早かった。目を覚ますと、そこに沙羅の姿があった。


「マサ、だいじょうぶ?」


「あ、ああ」


 私はキノコに手を出したのを後悔していた。


「森で迷ったようね。どうして携帯で電話しなかったの?」


「それが……。空腹でわけわからなくて」


「マサを一人にしてごめんね」


「サラは悪くない。ありがとう、助けてくれて」


「私はただ、虫の知らせでマサが気になり、森の穴に落ちてるのを発見しただけ。地元の大人に連絡して救急車が来たわ」


「そうか」


「でも、短期間でマサは二度も倒れたわ。ホント、世話の焼ける人ね」


「すまん。俺、空腹になると危険な男になるみたいだ」


「バカね。ちゃんと計画を立てなさい。どこでご飯を食べるか。食べるところがなければ、事前に準備しておく。それくらいは計算しなさいよ」


「サラのいうとおりにするよ。反省している」


 しばらく病室で沙羅と話していると、病院の医者が看護師を伴ってやって来た。


「地元の人じゃないようですね。むやみやたらにキノコを食べちゃいけませんよ」


「先生。今、この子と話してた。俺、空腹になって、つい。本当に反省してる」


「まぁ、症状がいろいろあったでしょう。死ぬ手前でこの人たちに見つけてもらい、よかったですよ。ちゃんと礼をいいましたか」


「うん。礼はいった」


「付き添いのお嬢さん」


「私ですね?」


 沙羅は自分を指さす。


「この患者さんは、明日にも退院できるでしょう。手続きはできますか」


「明日、私のママを連れて来ます。この人は私たちが連れ帰ります」


「患者さんの保険証がない場合、全額が自己負担になりますよ。いいですか」


「はい。しかたありません」


 沙羅は応じた。

 そこへ受付の女が現れ、あらためて説明を受けた。


「えーと、患者さん。お名前は?」


「志水だ。志水政次」


「住所は?」


「千葉県千葉市中央区×××の××」


「では、後日、お住まいの役所に医療費の申請をしてください。自己負担分以外の払い戻しを受けられますので」


「わかった」


「今回の入院費用は、どなたが支払いますか」


「私の方で払います」


 沙羅が申し出た。


「そうですか」


「はい。マサは旅をしていてお金がないんです」


「まぁ。無茶な旅人だこと」


 受付の女は少しバカにしたような口調でいった。


「まだ若いのね。志水さんは高校生?」


「うん。高二だよ。歩いて千葉から来た」


「ちょっと心配ね。うちの病院の方から志水さんの自宅宛てに、病院の書類を郵送しますね。よく読んで、保険の給付、つまり、払い戻しを受けてね。いい?」


「わかった。迷惑かけてすまない」


「マサは私たちの方で引き取ります。首にひもをつけて、妙なことをしないように見張ります」


 沙羅が冗談とも本気ともつかないことを口走り、医者と受付の女は顔を見合わせて大爆笑した。沙羅も笑った。ベッドに寝たままの私も思わず笑顔になった。

 やがて、医者は白衣を翻し、病室から出て行った。受付の女は私にペンを握らせ、住所と氏名を持ってきた茶封筒に書かせた。


「この封筒に書類を入れて投函しときます。千葉のお家に帰ったら、ちゃんと読むのよ」


「わかってるよ」


「この女の子に感謝してね」


 受付の女はそういうと、フフフと笑って指ハートを作った。

 看護師の女はパジャマを渡した。


「これは着替えのパジャマよ。レンタルですよ」


 看護師はそういい、笑った。看護師は受付の女と一緒に病室から去った。

 病室は私と沙羅だけになった。


「何だよ、あの人。思わせぶりなことして」


 私は少し照れて何もない壁を見た。おもむろにベッドから上半身を起こし、沙羅の顔を見た。彼女は強い視線でこちらを見返し、こういった。


「マサはもう少し賢くなってよ。私、マサにばかり振り回されるのは嫌よ」


「すまん」


「本当にバカよ。自分がどういうことに巻き込まれるか、考えて行動してよね。体力と若さで暴走するのだけは止めてほしい」


「わかった。よく考えて行動する。今夜は病院に泊まり、明日は森に行かない。町中を観光する」


「約束できる?」


「約束するよ。俺を助けた恩人であり、恋人である沙羅のために」


「恋人ねぇ。男としては頼りないけれど」


「これから男として成長する。俺を信じろ。俺にはサラしかいないんだ。好きだよ、サラ」


 沙羅をこちらに近づけようと、両手を広げた。彼女は距離を保ったままで近寄らなかった。愛する言葉だけが虚しく、泡のように宙に浮いて弾けた。

 しばらく、互いに黙った。二人きりの病室に壁時計の秒針の音が鳴り響いた。彼女はゆっくりとパイプイスに座った。

 私を一人にしなかった理由。それは、彼女が何らかの考えを持っていたからだろうか。私はベッドに寝て天井を見つめた。こんなピンチのときだからこそ、二人の関係が進展しないものか、と私は思った。そして、口を開いた。


「サラ。気絶した俺が、もしあのまま死んだら、どうした?」


 彼女はイスから立ち上がった。顔を曇らせ、はっきりした口調でこういった。


「好きになってくれた人を簡単に死なせるわけには行かないわ」


「サ、サラ」


 私は驚いて絶句した。沙羅はベッドに近づいた。私は体を起こした。彼女は手を伸ばし、私を抱きしめた。私は目を見開いた。そっと手を彼女の背に回し、二人は抱擁した。私は、その瞬間に永遠を感じた。出会って二日しかたってないけれど、彼女以外に私の存在をひたむきに受け止めてくれる女はいない。ずっと沙羅を信じて愛そう。いつも彼女のそばにいたい。心からそう願った。

 二人は見つめ合い、どちらからともなく接吻した。

 その後、頭がのぼせて何をどうしたか覚えていない。

 沙羅は夜遅くに自宅に電話し、母に迎えに来てもらった。沙羅の母はことの詳細を彼女から聞いて心配したらしい。私の無事を知り、沙羅を車に乗せて帰宅した。

 沙羅が帰り、病室は消灯した。私はパジャマに着替えた。真っ暗になってもすぐには眠らなかった。目を閉じると愛しい沙羅の顔が浮かび、居ても立っても居られなかった。早く退院し、沙羅のそばにいたかった。また、目を閉じた。沙羅の残像が勝手に動き出し、淫らなことを連想してしまう。目を開けても、闇の中に沙羅が潜んでいそうで、気が気でなくなる。

 何十分も目を開けたり、閉じたりした。沙羅のことを考えつづけた。


「ダメだ。狂おしい。とてもじゃないが、今夜は眠れそうにないぜ」


 ベッドから立ち上がり、窓のカーテンを引いた。窓の向こうの夜空を見て、月と星を眺めた。星の瞬く夜空をしばらく見ていた。見ているうちに、晃一爺ちゃんと過ごした晩の光景を思い出した。

 あれは子どもの頃だった。そう。ちょうど野焼きをした晩のことだった。まだ科学の知識が不充分であやふやな私に、佐乃井の爺ちゃんは夜空の神秘を教えてくれた。


「いいか、マサツグ。夜空を見ろ。何がある?」


「爺ちゃん。星だよ。たくさんの星」


「そうじゃな。満天を彩る星たちじゃ。どれもがきらめいておる」


「うん」


「きらめく数々の星。その一つが別の星に恋するのじゃ」


「へぇ」


 子どもだった私は爺ちゃんの説明に疑念をはさむ余地はなかった。私は晃一爺ちゃんの真剣な顔つきを興味深く見つめた。爺ちゃんの目はいつになくきらきらと輝いていた。


「星が星に恋する。そうするとな。恋をした星は、宇宙というでっかい大海原をぎゅーんと横切るのじゃ」


「横切る?」


「横切って光の軌跡を描き、恋の相手に落ちて行くんじゃ。相手の星に会いに行くんじゃよ」


「ふーん。とても美しい話だね」


「本当のことじゃよ。実際に美しい。それを何と呼ぶか、知っておるか」


「知らない」


「いや、知っておる。マサツグくらいの男の子なら、みんな知っておるじゃろ」


「そうかなぁ。何ていうんだろ? 星がキセキを描いて相手の星に落ちる。わかんないよ。爺ちゃん、教えて」


「それを人は流れ星と呼ぶのじゃ」


「流れ星か。その言葉なら、知ってるよ。でも、そうやって、星が星に恋して宇宙を横切るなんて想像しなかった」


「よい、よい。ひとつ、賢くなったな。マサツグよ」


 爺ちゃんは私の頭を撫で、また夜空を仰いだ。しばらく会話が途切れた。爺ちゃんは最後にこういった。


「すべての星はロマンスに通じるのさ」


 私は何もいわず、そうなんだねと思った。たくさんの星が彩る暗い天空を見つめた。

 茨城県で過ごした少年時代の会話が手に取るように頭の中で再現された。

 すべての星はロマンスに通じる、か――。私も輝く星となって夜空を流れ、どんな世界にも存在するロマンスへと向かうのだろうな。その台詞を私に告げたとき、爺ちゃんの皺だらけの顔は、今まで見てきた中でいちばん優しそうに見えた。

 ロマンに満ちた感傷に浸り、そっとカーテンを閉めた。ベッドに入り、布団をかけた。


「俺はサラとキスをした。もう、二人は他人じゃないんだぜ」


 寝たままで指を唇にあてる。彼女のプルンとした唇の感触は忘れてない。高二でファーストキスをするというのは遅い方かもしれないが、あの感動は筆舌に尽くしがたい。沙羅は、私が好きになったからその愛にこたえようとしているのだろう。けなげな女だと思った。一人で過ごす夜が、これほどに幸福感に満ち満ちているなんて。これまでの人生は何だったんだ。

 しばらく目を開いたまま、暗がりを見ていた。明日、退院したら、森まで助けに来てくれた地元の大人たちに礼をいいに行こう。沙羅のそばにいたいのはやまやまだが、アルバイトの邪魔をしてはいけない。

 しかたない。観光をして時間をつぶすか。

 すでに旅の目標をクリアした。このまま軽井沢にいても、自宅に帰っても、どちらでもよかった。沙羅の連絡先さえ聞き出せれば。

 観光するにも千葉の自宅に帰るにも、先立つものがもう残り少ない。どちらを選択しても、沙羅の母からお金を借りなければならないのは明らかだった。

 あれこれ考えてるうちに気持ちが落ち着いた。目を閉じて眠りの世界に入った。

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才能 ~すべての星はロマンスに通じる~ 森川文月 @hjk-0731

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