第2話 夏旅、始まる

 朝、目覚めて、朝食まで時間があった。海に行き、波打ち際を散歩した。静かに打ち寄せる太平洋の波は一定のリズムを刻み、目にも耳にも心地よかった。散歩してまぶしい太陽を浴びたら、とてもすがすがしいものが心に満ち満ちた。すがすがしさがそうさせたのか、何か新しいことをしたい衝動に駆られた。衝動は抑えがたく、私を次なる行動へ向かわせた。

 同じクラスにいる陸上部の友人が、夏休みを利用して自転車で日本縦断に挑戦すると豪語したのを思い出した。彼が今挑戦中なら、国内のどこかで自転車のペダルを踏んで奮闘していることだろう。負けん気が出た。


「アイツが自転車なら、俺は歩きだ」


 対抗意識が芽生えた。


「失恋を癒やすための旅に出るぞ。新しい恋人探しの旅がこれから始まるんだ」


 自分にいい聞かせ、士気を高めるべく、両手を天に突き上げた。

 陽司を残して行くのはためらわれたが、意志が弱まらないうちに千葉を出発することにした。携帯の時計を見た。七時半。

 一旦親戚の家に戻り、デイパックに着替えと財布を詰め、軽装で親戚の家を後にした。朝食をとらず、挨拶もなしで出かけた。

 少し歩き、想像してみた。今頃、政次がいない、と無良やその親戚が騒いではいまいか。少し気になり、旅に出た事実だけを無良にメールで送信しておいた。その日、その報告に対する返信はなかった。男だし、若いから、特に心配してはいないのだろう。

 旅を始めた当初はずんずんと歩いた。足のりは軽く、快調で楽しかった。どこで新しい女の子に惚れるのか、胸が弾んだ。血の気も増した。

 一日で歩く距離は特に決めてなかった。多少の金はあるし、夏でもある。野宿したり、インターネットカフェで寝泊まりしたりして過ごすことも、充分頭に入れていた。とにかく、あれこれ決めず、気軽に行こうと楽天的にかまえた。ルートに関しては、携帯の地図アプリを参考にして、千葉県から埼玉県、群馬県と進み、長野県辺りを目指そうと計画を立てた。海にいたら、次は山でしょ、と思った。海から山に向けて歩を進めた。

 自分の心の内では、可愛い女の子を見つけたからといって、簡単に声をかけたり、好きになったり、デレデレしたりしないように気をつけようと決めていた。ある程度の困難を伴い、それを乗り越えた末に幸せが待っている。そんな筋書きの方が、自分に似つかわしいと恰好をつけた。志水政次は岸園奏音に惚れ、失恋したのだ。そのハードルが高いからといって、安易にハードルを下げてしまいたくはない。本当に自分が好きになる人を求めて、青春を賭けた恋人探しの旅を開始したのだ。そんな風に、強い覚悟と熱き思いを胸に、私は車の行き交う道の隣をてくてくと歩いた。

 高二の体力のお陰で、簡単には夏の暑さに負けない。ゴールはずっと先だろうが、周囲の風景や通り過ぎる車を眺める余裕がまだあった。ふだんからテニスで体を鍛えていたこともあり、少々の暑さや運動で音を上げる私ではない。孤独にも耐えた。


「さてと。そこそこ歩いたぞ。あの峠で一息つくか」


 なだらかな坂を上りきり、坂が平坦になったところで休むことにした。

 峠に着いた。デイパックを背中から下ろし、それを地面に置いた。中に入れたタオルを出して体の汗を拭いた。デイパックを座布団代わりにして腰を下ろした。

 峠から辺りを見ると、車は往来するが、人も自転車もまるで見当たらない。


「何だよ。歩いているのは俺だけか」


 今日は八月一日である。何かを始めるにはきりがいい。歩き始めて、数時間はたっていた。埼玉県までどれくらいかかるのだろうか。携帯に手を伸ばしかけて、その手を引っ込めた。便利なものに頼り出したらきりがない。携帯の画面ばかりが気になったら、歩くのも遅くなる。電池も減ってしまう。どうでもよいことは、この際、気にしないで無視しよう。

 腰を上げ、旅を再開した。坂を下り出した。坂はゆるやかに右にカーブを描いている。自然と、カーブとは反対側の左の視界が目に入る。向こうの方に森が見えた。千葉県内に住んではいるが、この辺りに来たことはなく、不案内である。ちゃんと埼玉県に着くのか、多少は不安だった。

 しばらく行くと、小学生の頃に遠足で来た公園が見えてきた。先ほど見た森がここである。自分の生活圏に入ったとホッとし、落ち着きを取り戻した。


「もうここまで来れば、自分の庭を歩いているみたいなもんだぜ」


 私は鼻唄を歌った。ときに口笛を吹いて陽気に歩いた。

 腹がへってきた。千葉のマクドナルドで遅い昼食をとった。朝の七時半に出て、今は二時前だ。いつも食べているチーズバーガーとフライドポテトの味がビックリするくらいにおいしかった。近くの自販機で水を買い、旅をつづけた。千葉市内であり、ここで恋人を見つけてもよさそうなものだが、そういう選択は避けた。せっかく大きな決断を下したのだ。手近ですませるなんて、ありふれた物語である。

 そんな私の気持ちを知っているのだろうか。いや、そんなはずはあり得ない。よく知る同級生が向こうからニヤニヤ笑って歩いて来る。


「よう、志水。何してんだ」


 この野郎。何してんだ、じゃないぞ。こっちは海の見える家からここまで、ずっと歩いて来たんじゃ。


「あ、おまえか。何って、その、散歩だよ」


 いいたいことの半分もいえない。


「散歩。そうか」


 同級生はキョトンとしている。早く立ち去ってくれと願った。


「志水」


「まだ何かあるのか」


「テニス部の部長が文句いってたぞ」


「どんな?」


「合宿に行くなら、早く合宿費用を払えって」


「ああ、わかったよ。そのうち入金するといっといてくれ」


「どっかへ行くのか」


「いいや」


「そのうちって、自分でいえよ。志水は毎日暇なんだろ?」


「暇じゃあない」


「だって、夏休みの昼間に散歩するくらいだから」


「あー、もう、違うって。いや、何でもない。ちょっとした用事があるんだ。ここ、二、三日は」


「用事?」


「いいから、ほっといてくれ」


「変なヤツ」


「じゃあな」


 私は、ぼろの出ないうちに、と手を振り、さっさと歩き去った。


「生活圏イコール、危険地帯。そういうわけか」


 私は唇をなめた。


「俺は人知れず、冒険の旅に出たんだ。失恋した事実も、旅の目的も、人に漏らすわけにはいかん。許されないことだ」


 私は独りごちて、知り合いの目を盗むようにして、先を急いだ。

 バミューダパンツに白のティーシャツ姿で歩き出したが、すぐに背中にびっしりと汗をかき、お尻も湿ってきた。


「ふー、暑い。気分を変えよう」


 ただ歩くという単調さを紛らわすため、携帯で音楽を聴こうと思った。ユーチューブで長時間の音楽をかけ、ワイヤレスのイヤホンを耳に装着した。心地よい音楽が流れ、歩いているのが楽しくなった。

 気分よく歩行をつづけていると、目の前に川があり、橋が渡してある。橋を渡り、途中で川を見下ろした。


「おっ。子どもが川遊びをしてるぞ。いいな。涼しそうで」


 羨ましくなった。橋を渡り切り、川沿いの土手を歩いた。適当な場所から川岸に下りた。イヤホンを外した。靴下を脱いでデイパックの重しをのせた。流れの緩そうな浅瀬に入り、足を浸した。


「うー、めっちゃ気持ちいいぜ。さすが、天然のクーラーじゃん」


 向こうの方で遊んでいた子どもがこちらを指差している、私は手を振った。向こうも恥ずかしそうに手を振り返した。子どもらしい無邪気さに思わず微笑んだ。

 気を許すとろくなことは起こらない。子どもの一人が手を横にして振りかぶる。何かをこちらに向かって投げた。


「おっ。小石が飛んでくる」


 水面を切るようにして小石が跳ね、私の方へかなりの速度で向かってきた。幸い、私の手前で、小石は水の抵抗を受けて沈んだ。


「こらぁ、危ないぞ。人に向けて石を投げんな」


 子どもらは私をからかうようにはしゃぎ、舌を出して川から上がった。


「まったく、もう。無邪気さと危うさは紙一重だ」


 ひとときの川遊びを終えた。足裏の水気をすねになすりつけ、靴下を履いた。

 土手を上り、旅を再開した。

 道路沿いの道を女子高生が自転車に乗ってやって来る。制服のデザインから、どこの高校なのかすぐわかった。ペダルをこぐたび、紺色のスカートから白い足が見え隠れする。見たくて見ているのではないが、顔が十人並みならば、胸か足を見るしかない。


「スケベっ」


 軽蔑するような言葉を吐き、その女子高生は通り過ぎた。充分に距離が離れてから、「バーカ」と彼女の背中に向かって罵った。当然、相手に聞こえてない。無反応で小さくなる女に、


「汗で湿ったパンツ、見せてみろ」


 と卑猥な言葉を浴びせて心がすっとした。

 またしばらく行くと、小学生くらいの男の子がヘルメットをかぶり、自転車にまたがって近づいてきた。


「こんにちは」


 男の子は照れながらも、挨拶の言葉を口にした。


「こんにちは」


 こちらも基本の挨拶で返答する。知らない人間に挨拶する人は、大人であれ、子どもであれ、偉いと思う。男の子は自転車で悠然と通り過ぎた。

「さてと。ちょっと休憩を入れるか」

 歩き通しだった私は道端にしゃがみ、残り少なくなった水を飲み干した。

 休んでいると、つまらないことを思い出した。夏休みの宿題である。うちの高校もご多分に漏れず、たくさんの宿題を出している。数学と英語の問題集は少し手をつけた。読書感想文や化学は最後にやるので放置している。問題は国語だ。古典で、テキストにした『方丈記』の感想文を古文で表現せよ、という宿題だ。原文を辞書なしに満足には読めないし、首っ引きなしに充分に解釈できない輩に対して、こともあろうに古文を用いて感想を書けとは、きつい要求だ。


「うちの教師も、生徒の頭の悪さを考慮してくれよな。そんなの、できるわけないじゃん」


 不平を垂れた。ふと、それが可能な生徒の笑顔が浮かんだ。女子生徒で、国公立大を目指すメガネをかけた同級生だ。


「そうだ。アイツにゴマすって、八月の終わりに写させてもらおっと」


 私は実力以上のことをするタチではない。どちらかというとお調子者であり、人に媚びへつらって他人の力を利用するのを得意としている。

「メガネ女子は勉強好きだ。高級文具でもプレゼントして、宿題の協力を仰げばいい。楽勝だ」

 思わずにやけた。にやけついでに、ガッツポーズまで飛び出した。

 前から女子高生が歩いてきた。今日はよく女子高生と会う。相手を観察した。顔を一目見て、ブスな女でがっかりした。下ぶくれにくわえ、度の強そうな黒メガネをかけている。足も太い。黙ってすれ違おうと下を向いていると、


「きゃあ!」


 と女子高生の黄色い悲鳴がした。よりによって、こんなときに風のいたずらである。風が舞って、女子高生のスカートはふわりと持ち上がった。男の性はそういう場面に忠実な行動をとるように仕組まれている。目は白い太腿とその先の布に行った。布は見えなかったが、ほんのりとピンク色を帯びた肉をしかと捉え、脳裏に焼き付けた。


「さっきの自転車の女子高生とこの子の上半身が入れ替わったらなぁ」


 とぼやいたら、下ぶくれの女子高生は、


「変態」


 とほざいて走り去った。違う。違うのだ。男はだれでもそうするし、男の餌食になったのは、風が悪さをしたんだろうが。いい返したくて背中を見送ると、淡いブルーの半袖シャツに、ハート型に染み出た汗が広がっていた。それを見て、クククと笑ってしまった。

 私たちのやり取りを見てたのか。エコバッグに長ネギを挿したおばさんがやって来て、こういった。


「青春だね。あんな子と結婚すんだよ」


 と不吉なことをいって、意味深に笑った。


「ち、違う。俺のタイプじゃない」


「フフフ。どうだか」


 おばさんは得体の知れない表情を浮かべ、こちらを何度もチラチラと見ながら去った。

 私は元気を吸い取られたように、とぼとぼと歩いた。

 左手に看板が見えた。


「『ジョナン』」


 目をこすった。


「『ジョナサン』だよな。何で、ジョナンやねん。女難かよ」


 一か月前、家族揃って車で『ジョナサン』に来て、ハンバーグと海老フライの定食を食べたのを思い出した。『ジョナサン』ではないが、二か月前、父の誕生祝いを近所の居酒屋で開いた。


「串カツとピザと玉子焼きを食べたなぁ」


 行きは父が車を運転し、帰りは飲まない母がその役割を果たした。父は、「串カツといえば、うずらだろ。ビールにうずらの串カツ。うーん、最高だ」と喜んでいた。私は飲みたくてもおおっぴらには飲めない。父のおこぼれでうずらの串カツを二本もらった。


「玉子焼きより、うずらはうまいね」


 コーラを飲みながら、うずらを咀嚼した。

「そうだろ。俺もそう思う。親子だよな」

 父はジョッキ片手に、口に串をくわえて器用に外し、うずらを頬張った。


「ゆで卵は黄身がほろほろと崩れる。黄身も白身も丸ごと一口で食えるのは、うずらくらいのもんだ」


 父の食べっぷりを見て、母は笑っていた。うずらも、志水家面々の好意的な口上で食され、さぞかし穏やかに成仏したであろう。

 一日目にして、なんやかやと小さな事件に遭遇し、習志野市のインターネットカフェで一夜を迎えた。

 いろいろなメニューが充実し、誘惑は多かった。漫画を読んでるうちに眠くなり、シャワーを浴びた。イスの背もたれを後ろに倒せるだけ倒した。百八十度の状態にして眠った。

 翌朝、股間がすこぶる勢いづき、天井を向いてズボンを押し上げるあまりに目が覚めた。頭の方は目覚めてない。ドリンクバーに行った。アイスコーヒーを作り、テーブル席で飲んだ。苦味に口をすぼめ、「これが大人の味なんだ」といい聞かせ、シロップを追加して甘みを増した。

 外の天気は曇りである。太陽の出ぬうちに、と早々とインターネットカフェを出発した。

 二日目は何ごとも起こらず、人の姿すらまばらだった。暑いから歩く人はいないのかもしれなかった。

 午前中に松戸市まで来た。そのまま埼玉県に入ってもよさそうなものだが、もったいぶって松戸の松屋に入った。

 松屋で牛丼を食べて携帯を見た。ルートを確認し、ゆっくりと店を出た。ここまで来ると、埼玉県まであと少しである。一人旅も一区切りがついたような気になった。


「やっと、旅する実感が湧いてきたぞ。もう、川を越えたら、そこは埼玉県だ」


 私は勢いづいた。


「知らない土地に入り、未知の領域を俺は行くんだ。探検隊は先を急ぐ。恋人候補の女よ。早く出てこい」


 松屋を出て、一時間で江戸川を越えた。県境をまたぐと気が大きくなり、三郷市が本当に「ダサいたま」の元凶に思えてきた。

 歩道を進むたびに、「大宮ナンバー」や「川口ナンバー」の車がびゅんびゅんと通過してゆく。何だかとってもアウェイな気分がした。勢いがなえ、いい気はしなかった。

 さいたま市の公園に着いたときには、外はもう真っ暗だった。公園で野宿するにはもってこいの広さであり、適当なベンチを占領して寝転んだ。靴下を脱いで裸足になった。


「あー。気持ちいい。最高だ」


 私は足をぶらぶらさせた。一日目よりも二日目の方が足はむれており、長く歩いて熱を持っていた。むくみも少しあった。デイパックを太腿にはさみ、着ていたティーシャツをまくって顔を覆った。

 夜間に人の声がした。おおかた、警官でも来たのだろう。何かごにょごにょと耳元で声がした。私に話しかけたようだが、眠ったフリを貫き通した。警官めいた男はあきらめ、去って行った。高校生には見えなかったのかも知れない。身長もあり、スポーツ選手として体は鍛えていた。大人と間違われてもおかしくはない。

 警察より、不良が恐かった。警察をやり過ごした数十分後、不良らしき男数人の声が響いた。うろついているのは少年なのだろう。彼らは社会のルールを半分も知らない。おまけに、ケンカになっても力の加減を知らないヤツも少なくない。相手に傷を負わせるだけの力と狂気を持っている。そういう連中には日頃から用心していた。ティーシャツをひっかぶったままじっと息を殺した。 

 数人の不良らしき男らは、公園で何かをした後、笑いながら出て行った。夜中になり、さかりのついた野良猫がミャアオオと不気味な声で鳴いた。やたらとうるさく、長時間にわたって迷惑だった。その後なかなか寝つけなかった。

 夢の中でおいしい何かを食べていたのをだれかに邪魔され、よだれを垂らして目を覚ました。


「なんだよ、もう」


 寝ぼけまなこで目を開ける。まだ暗い。老人らしき集団がボソボソと話し込んでいる。


「あんなところで寝てるヤツがおるぞ」


「どうせ金のない若造だろう。哀れだな」


「家出少年じゃないのか。警察を呼んで来ようか」


 うるさい。ほっといてくれ。内心で中指を立てた。

 むくりと起き上がり、欠伸をして公園を去った。埼玉県を歩く二日目は、のんびりとした田舎を行く旅となった。

 風が吹き、田んぼの稲が青々とした葉を揺らしている。じつに牧歌的だ。


「こんなところに、可愛い女子高生なんて歩いてないよな」


 どうやら、その推測は当たったようだ。のどかな地方都市には古い商店や家々が点在し、およそ、若者好みの娯楽施設などは携帯で検索してもまったく出てこない。

 その日も空は青く晴れ、夏の暑さは私の体力をじわじわと奪った。汗を吸い込んだティーシャツを着替えたくなった。同じものを三日間着ている。パンツだけはちゃんと替えた。ティーシャツに体臭もついている。道路の真ん中でティーシャツを脱いだ。デイパックから柄模様のティーシャツを出し、それに着替えた。

 歩いていると、尿意を催した。それまでは、適当な場所(コンビニとか、大きな公園や商業施設)で用を足していた。ここはどうか。何もない。民家に頼んで便所を使わせてもらう手もあったが、煩わしかった。

 だれも見てないのを確かめ、田んぼの畦に立った。モノを露出し、透明な液体を放った。向こうから子連れの親子が歩いてきた。子どもがこちらを見た。すぐに引っ込めようとして遅れた。


「見ちゃいけません」


 母親は女の子の目を手で隠し、軽蔑するような表情で私の横を通り過ぎた。

 用を足し終え、道なりに歩いた。

 三日目の一人旅ともなると、しだいに旅をすること自体が懐疑的になる。


「俺は何のために歩きつづけているんだ? 恋人探し? それなら、もっとよい方法があったんじゃないのか? 海やプールで泳ぎ、水着の女の子と知り合う機会などいくらでもあるじゃないか」


 私はハーッとため息をついた。ゆらゆらと首を振った。神奈川や静岡を目指した方が海も見えて気持ちがいい――いや、いや、男らしくないぞ。一度決めたことだ。最後までやり通せ。

 揺らぐ心を励まし、弱気な自身を叱咤した。

 しばらく歩き、喉を潤したくなった。あいにく、手持ちの水も切れている。近くに自販機も見当たらない。


「くそぉ。おっ、いいのを見っけ」


 私は田んぼに下りた。田んぼにさらさらと流れ込む農業用水に目をつけた。それを手ですくい、口に含む。


「ふぅー。冷たくてうめぇぞ」


 喉の渇きは癒やされ、満足した。都会ではなかなかお目にかかれない光景である。ついでに、と空になったペットボトルを出し、そこに水を満たした。

 昼まで歩きつづけ、飲食店が見つからなくて苦労した。携帯で検索し、その店まで最短ルートで歩いた。

 目的地の店に着いた。

 昼食をとる場所に選んだのは、町の中華料理店だった。チャーハンの大盛りを注文した。

 席に座り、テレビを見た。テレビでは、高校野球の抽選会の模様をニュースで流していた。


「千葉県勢は茨城と対戦か」


 ちょうど大盛りチャーハンが湯気を立ててテーブルに置かれた。胃がぐるぐると音を立てた。レンゲでチャーハンをすくいながら、


「地元を応援するか。でも、茨城は妙子婆ちゃんの県だしな。どっちも頑張ってほしい」


 チャーハンの米と玉子と紅生姜を口に運びながら、複雑な胸の内を心の中で呟いた。

 店には巨漢の男がいた。制服姿の高校生だ。忙しく手を動かし、じつに旨そうに食べる。天津飯の山をレンゲでブルドーザーのように崩してゆく。見ているだけで、こちらの腹もふくれそうだ。

 チャーハンがあと少しというところで、巨漢くんはもう一品を注文した。


「おばちゃん。チャーシュー麺とギョウザね」


「はい、はい」


 給仕をするおばちゃんの声はうれしそうだった。のどかな光景に、都会とは異なる人柄の良さを感じた。

 店を出たら、少し眠くなった。公園まで歩き、そこのベンチで昼寝をした。

 うたた寝をしていたら、何かが近づく気配がした。カラスが二羽、三メートルあまり離れて、こちらを見ている。


「こら。俺はエサじゃないぞ」


 怒ったのに、カラスは動く素振りを見せない。むだなエネルギーを使いたくない。地面の砂を掴み、カラスめがけて投げつけた。カラスは驚き、空に飛び上がって梢に避難した。

 昼寝で体力を回復した。日没まで歩きつづけたのは我ながら立派だ。その日は、熊谷市のインターネットカフェに泊まった。もう、残金は二回分の食事代くらいだ。


「ヤベぇな。できるだけ節約しよう」


 だれも見てない隙を狙い、ドリンクバーのウーロン茶を空のペットボトルに移し替えた。インターネットのニュースをいくつか見ているうちに、ユーチューブの方に流れた。自分の知らない歌が多数表示され、昭和の歌でいい曲を見つけて悦に入った。それを聞いて、長い夜の退屈をしのいだ。

 八月四日の朝に携帯が着信を知らせた。


「もしもし」


 電話に出ると、母の声が響いた。


「マサツグ。なんだって、無良さんの親戚の家を勝手に出たんだよ」


「無良さんから聞いたのか」


「ヨウジがそういうんだよ。『兄貴は薄情だ。俺を親戚の家に置き去りにしてずらかった』ってね。何をしたくて、今どこにいるの」


「面倒くせぇなぁ。心配すんなよ。日本にいる。ちゃんと夏休み中に帰宅するよ」


 昭和生まれの母は、私の行動の目的や真意などを順を追って説明したところで、理解できないだろう。それゆえに面倒であり、帰宅の事実が親を安心させる唯一の材料だと考えた。


「本当に帰って来なよ。バーベキュー、するからね」


「ああ、わかった。上等の肉、買っといてよ。デザートはシャインマスカットね」


「うん、わかったよ。気をつけてね」


 何もいわないのに、声を聞いて安心したようだ。今日に限って、母は物わかりがよかった。

 電話を切った。父なら、きっと理解してくれるだろう。失恋して恋の痛手を負ったことで生まれた負のエネルギーをパワーに変え、こうして千葉から埼玉へ旅をする息子の、向こう見ずな若さを。

 埼玉県を抜け、群馬県に突入した。今日の昼食はパンと紅茶。知らない町の公民館に辿り着いた。我慢していたトイレに行き、スッとした。デイパックからパンを取り出し、ロビーで食べた。デイパックの中にあるティーシャツのすえた臭いが強烈で、いいかげん洗濯したくなった。駅の近くを目指し、国道沿いのコインランドリーを発見したときは幸運に喜んだ。思わずガッツポーズを作った。

 コインランドリーに入ったら、中は空いていた。パンツとティーシャツを放り込み、携帯のニュースを見て時間をつぶした。乾燥機を使えるほどの金は持ち合わせてない。濡れた洗濯物をデイパックの上にひもで固定し、天日に晒しながら歩いた。パンツが見えるくらいは男だからへっちゃらだ。

 群馬県に入ってから、かなりの距離を歩いた。日没まであと少しだった。金のないときは野宿に限ると覚悟を決めていた。その矢先、小気味いい音とともにバイクが横を通り過ぎた。バイクは少し向こうで止まった。


「あっ。寺」


 お寺があり、バイクに乗った僧侶が下りた。


「お寺か。泊まらせてもらうか」


 私は寺に入ってみた。

 真っ暗な境内に二、三匹の猫が寝そべっている。暗がりで目が光る。ミャアと鳴き、一匹が闖入者を知らせた。何もいわなくても、猫が知らせに行ってくれた。寺の住職が出てきた。


「若者よ。どうされた」


「いえ。もし可能ならば、泊めてもらえないかと」


「旅の者か。よかろう」


「ありがとう」


「泊められるが、規則に従うのじゃぞ」


「従うよ」


「うむ。それでは入るがよい」


 和尚は貫禄を見せ、私を手招きした。

 お寺の宿坊でコンセントを借りた。携帯の充電を百パーセントまで回復させた。いちおう、明日にはゴールの長野県に入る。山道のルートを確認し、電気を消して早めに眠った。

 翌朝、早く起きて、境内の掃き掃除をした。これも宿泊者の規則である。

 お礼をいって金を払おうとした。

 住職は、


「貧乏そうな若者から金をいただいたら、ワシは仏さまに合わせる顔がないわい」


 と笑って受け取らなかった。私は合掌してお辞儀した。

 寺の門を出て思った。仏の教えというのは、弱者にとってありがたい、と。

 長野県に入ったのは、夜になって「品川ナンバー」や「杉並ナンバー」などの車が、「群馬ナンバー」や「高崎ナンバー」に混じり出した頃だった。


「あれ? 長野が近いはずなのに、東京ナンバーの車か」


 しばらく考え、膝を打った。


「そうだ。県境は軽井沢だった。母ちゃんが若い頃に遊んだ別荘のある土地。そういうわけか。夏休みを利用して、東京方面から泊まりに来るんだ」


 なぜか東京人が近くにいると思うだけで、妙にそわそわウキウキしてきた。軽井沢を目指し、暗くなる道を歩く足取りも軽くなった。

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