才能 ~すべての星はロマンスに通じる~

森川文月

第1話 失恋は雨の味


原口光陽


 八月のお盆が胸騒ぎを連れてやって来た。横浜のお盆は静かだった。セミの鳴き声が通過する車の音よりも大きい。


「この近くで盆踊りがあるわよ」


 沙羅はいった。


「行きたいのか」


「ええ。踊りと聞くと体が反応しちゃう」


 盆踊り、か。あれはいつかの盆踊りの晩だった。そう、高二の七月――。

 薄暮の中、近くの公園で夏の風物詩が始まった。公園に櫓を組み立て、盆踊りが催された。最初は遠巻きに見ていたが、知り合いの女の子が友だちを連れて踊っていた。同じ高校の女子高生である。その子たちの仲間に入れてもらいたくて、踊りの輪に加わった。耳なじみの盆踊りの曲が流れ、体が音楽に合わせて自然と動いた。

 そのうち、別の男連れ――大学生風の少し垢ぬけた三人組――が女子高生に声をかけた。女子高生は笑いながら、大学生に誘われるままに踊りの輪から離れた。彼らは櫓の周囲にある露店に移動し、何か食べ物を買う様子だった。当初の目的が果たせず、高二だった私はただ祭りの雰囲気に流されて踊り続けた。

 私のすぐそばで、若いカップルが楽しそうに踊っていた。男も女も私より年上だった。男と私は背恰好が似ていた。浴衣姿のその二人に勝手な憧れを抱き、私はその男に未来の自分を重ねた。

 大学生と女子高生の集団は、いつしか公園から消えていた。

 盆踊りの曲が終わり、主催者がマイクで祭りの終了を告げた。盆踊りは終わった。

 私は少ない小遣いでもって、りんご飴の残りを得ようと値切る作戦に出た。私は後片付けに追われるリンゴ飴の露店の前に来た。


「おじさん。負けとくれよ」


「ダメ、ダメ」


「だって、もう祭りは終わったよ。りんご飴、売れ残ってるじゃん」


「そりゃ、まあな」


「どうせ、売り物にならないから捨てるんだろ?」


「うるさい少年だな。大人の商売事情に首突っ込むんじゃねぇぞ」


「捨ててしまうなら、安く買うぜ。〇円で何本も捨てるより、一本五十円。五十円で買うよ」


「まったく、このガキは。一本二百円」


 りんご飴売りのおじさんは憮然としていう。


「そんな大金、持ってないよ。おじさん、頼む。五十円で売ってくれよ。五十円で売れたら、〇円でなくなるんだぞ」


「りんご飴、好きか」


「大好きだよ」


「わかったよ。その値で売ってやろう。売ってやるから、大きな声出すなよ。これは、おまえだけの特別な値引きだ」


「やったね」


「くれぐれも、安く買ったなんて、人にいうんじゃねぇぞ」


「どうしてさ」


「当たり前よ。一本二百円で売れなくなる。それに、九十九%の人は二百円で買った商品。一人にだけ安く売るなんて、不公平だろ?」


「ああ、そうだね。よくわかった。ナイショね。ほれ、五十円」


「しっ。声が高い。さっさと行きな」


 おじさんは五十円玉と交換に、私にりんご飴を渡した。私はさっそくりんご飴をなめながら、ゆっくりと公園を出た。

 盆踊りの帰り道だった。公園から一本向こうの筋に車がぽつんととまっていた。二台あり、一台は人がいない。もう一台もいないと思いかけ、妙な気配がした。歩き去るフリをし、身をかがめて中の様子を見た。そっとのぞくと、先ほどの若いカップルがいた。二人の着衣は乱れ、車の中で絡み合っていた。見てはいけないという意識がかえって青い欲望を刺激した。私はりんご飴を道端に投げ捨て、一部始終をつぶさに目撃した。生物の授業でいうところの「夜間活動」である。私は研究者であり、「生体実験」の観察と結果を確認中だった。女の首筋を街灯が白く照らしている。白いうなじに三つのほくろがあった。男女の性器はまったく見えない分、露出した肩や白い腕を生々しく感じた。隠すべきところはまったく見えないのに、二次元で見る何倍もの並外れた迫力が押し寄せた。私の脳は赤裸々な発情行動にいかれ、吹っ飛びそうだった。

 これから先、私も淫らな営みに参加するのだろう。相手さえ見つかれば、すぐにでも「実験」したい。そして、よい「研究結果」が出るまで、何度でも「追加実験」を行いたい。

 少し前まで同じように踊っていたのに、実験者と観察者にグループ分けされる不条理を嘆いた。男が営みを終え、体を起こそうとして、私は車の下に身をかがめた。手足を地面について、原始的な動物になったつもりで、低い姿勢を保って角まで駆けた。相手に気づかれずにすみ、安堵した。

 そんな青春時代の思い出があった。数年たち、結婚を控えた私を、その思い出が貫いた。他人に説明するつもりはない。仮に伝えたとして、たいしたことはないと一笑に付されるだろう。そんな個人的な事件をへて、私は妻との縁を保ちながら大人になった。

 お盆の混雑と暑さを避け、私は帰省しない選択をした。実家には、そのように電話で伝えた。


「もしもし、母ちゃん。俺だよ」


「ああ、マサツグだね」


 母の声はしっかりしている。


「今年は悪いが、帰省を先に延ばすよ。秋の休みにする」


「秋の休みかい」


「そうだ。秋の三連休があるだろ? そのとき千葉の実家に帰るよ」


「ああ、そうなの」


「それでいいか」


「別にかまわないよ」


「じゃあ、秋に会おう」


「わかった。秋にね。マサツグが帰るのを楽しみにしてるよ」


 母の美希はよく通る声で喋り、電話は切れた。

 八月のお盆は工場も休みだ。私は和菓子工場に勤めている。工場は住んでいるアパートの近くにあり、自転車で通っている。どちらも横浜市内だ。勤めだして十八年。工場主任である。

 高二の夏の事件を思い出し、続いて、十才で見た光景が頭に浮かんだ。

 枯れた野山の草原に大人数人が一斉に火を放つ。すると、幼児の背丈ほどの草むらに身を隠していた小鳥たちが、ぱっと舞い上がった。


「ヒバリだよ」


 弟はうれしそうな声を上げた。


「スズメもいる」


 鳥に詳しくない私は、そう呟くだけで精いっぱいだった。遠くから双眼鏡を交代で覗いているのは、私と弟の陽司だ。草原はパチパチと音を立てて焼けて行く。広い面積が燃え、壮観だった。その光景をたしかに見た。まだ肌寒い初春の頃で、たしか昼下がりだった。腹はすいてなかった。私は、それが春を告げる野焼きの合図なのだ、と大人になってから知った。

「野焼きは危険じゃ。子どもらは離れとれ」

 田舎のおじさんに強くいわれ、黙って頷いた。陽司はズルそうな目で、


「兄ちゃん。火の上がる様子を近くで見てぇよ。きっとすげぇ迫力だぜ」


 とたきつけた。知らない大人の注意より、子どもの好奇心が勝った。私と陽司は野焼きを行う草原から離れるフリをした。遠回りして、近くの木立でしゃがんだ。野山を観察したいんだ、と妙子婆ちゃんに頼んで双眼鏡を貸してもらい、私は首から下げていた。

 ややあって、野焼きが始まった。辺り一面は煙と炎と春霞に包まれた。視界のきかない悪条件の中、風が吹いて熱風と火の手がこちらへ向かってきた。二人は慌てて逃げた。


「あの野焼きは、妙子婆ちゃんちの裏山で見たんだったな」


 私は十才の子どもであり、両親に連れられ、弟と四人でよく茨城に旅行した。その土地は母の生まれ故郷であり、祖父母の暮らす田舎だった。祖父母の名前は佐乃井晃一、妙子である。

 なぜだろう。子ども時分の記憶が三十六にして頭に蘇った理由は。今、ベッドの中で沙羅を愛している。私は男で相手は私の妻である。情事を営み始めて三十分ほどたった。濃密な時間にふと訪れた無為の十数秒。そのわずかの時間に野焼きの光景が頭をかすめた。


「ねぇ、あなた。どうしちゃったのよ? ポカンとして」


 沙羅がパーマのかかった髪をかき上げ、その大きな瞳で私を見つめてくる。彼女は私の体の下で吐息を漏らした。


「いや。何でもないよ」


 私の答えには何の根拠もない。その答えに安心したのか、彼女の手が私の背中に回る。愛を確認する行為のつづきを催促するかのように、その手は日焼けした私の背中を無造作にさすってくる。私は己の快楽を求めるよりも妻の喜ぶ表情が見たくて、妻の求めに応じて体重を預けた。夏のけだるい真昼に、ひっそりした町中の自宅で冷房をかけ、妻を愛することに励んだ。

 自分以外の人はどう思っているか知らないが、私にはなんの才能もない。そう思ってずっと過ごしてきた。妻を愛し、生活を営むだけで、毎日が忙しく過ぎて行く。

 情事を終えた。

 私はベランダに出た。パンツ一枚で伸びをした。暑さが尋常でない。別の惑星かと思いたくなる。頭がクラッときた。


「取り込むなら、他のもお願いよ」


「うん」


「きれいに畳んで入れるのよ」


「わかってるよ」


 ぞんざいないい方で応じた。こういうときの妻は面倒くさい。

 乾いたばかりの白いシーツを取り込むとき、面白いことを閃いた。シーツを物干しの竿から外してその両端を手で掴み、マントのように広げた。


「何してんのよ」


 妻はベッドに寝たままこちらを見ている。意に介さず、私はベッドの上に上がった。


「サラ。俺は動物に変身した。何に見える?」


「何よ、それ。何のまね?」


「ほれ、ほれ」


 シーツを手にして飛ぶような恰好をした。


「わかった。あれね」


「そうだよ。いってみろ」


「バットマン」


「違う。動物っていっただろ」


「ムササビ」


「そうとも。俺はムササビ一号。軽井沢から飛んできたのだ」


 沙羅は手で口を隠して、クスクスとおかしそうに笑った。

 お盆も静かに時を刻み、照りつける太陽は西の空へ移動した。

 彼女はベッドから起きて服を着た。物干しで乾いた衣類を取り込み、畳んで収納ケースに入れる。作業の途中で、彼女は盆踊りのことを口にした。

 やがて、窓からきれいな夕焼けが見えた。

 私はブ男である。私のようなブ男でも、若い頃女に夢中になった時期がある。輝ける青春時代が私の歴史にたしかに存在した。イケメンと対極の私は青春を謳歌し、少しだけいい思いをした。その時代が今を生きる私の原点であり、すべてはあの夏から動き出したといっても過言ではない。

 そんな青春時代を振り返ってみたくなった。だって、今日の夕焼けはその頃とそっくりであまりにもきれいだったから。当時の夕焼けは、希望を力強く後押しするほど雄大に赤々と空を染めていた。高二の夏、きれいな夕焼けを見て感動した。

 恋の終わりは当然の帰結だった。夏休みの始まった一週間で失恋を経験したからこそ、愛を求めるエネルギーが加速度的に体にみなぎったのだ、と思う。終わりが始まりであり、始まりの物語はすでに定められていた。

 その年の夏の出来事は、高二の私を明るい未来へと導いた。


「マサ。おまえ、勉強が苦手だろ」


 授業の休憩時間、横に座るクラスの友人が私に話しかけてきた。


「ああ。だからこうして学校に来て、補習を受けてるんじゃん」


 私はイスに座り、友人の方を見て、いった。

 私は友人のつまらない質問につまらなそうな口調で答えた。


「頭、悪いな。俺のいいたいのは」


「卒業したらどうするか。だろ?」


 私は友人の話したいことを先回りした。


「よくわかってるな。おまえ、ある意味じゃ、頭がいい」


「俺には就職以外の道はない。問題は、どこで何して働くかだ」


「みんな、思ってるよ。何が向いてるのか。何を楽しみにするか」


「楽しみは金だろ?」


 私は意地悪く笑った。


「金のために働くけれど、金を得て、何に使うかだ」


 友人はよくわきまえていた。


「好きなことを見つけ、それのために働けたらいいんだよな」


 私は手を頭の後ろに回し、上を向いた。


「それは理想だな。マサの好きなことって何?」


「さあな。分かんねぇ。女か」


「ハッハッハ。みんなそうだよ。女で稼げるわけがない。よほどのイケメンで、渋谷の店で一流ホストにでもならん限りは」


 友だちは笑って私の肩を叩いた。


「まあ、まだ俺たちは若い。いろいろなことに興味があるし、それに金を使うことになるだろう。ドラマと違い、たやすく結婚相手は見つからない。家も得られない」


 私は偉そうに、一般論を語った。


「そりゃ、そうだな。とにかく、夏は長いし、卒業まで一年以上もある。その間に考えてみろよ」


 友人は私の選択を邪魔しなかった。


「考えてみるよ。おまえはどうする?」


「俺? 俺は道ができてる。父ちゃんが石材で稼いでいるから、跡を継ぐのさ」


「石屋か。考えなくていい人生。羨ましい」


 父のことを考えた。和史は会社員。自力で会社に入るにしても、高卒での就職はたいへんだろう。父は関東の私大を出た。私の学力では、とてもじゃないが大学へ行けない。

 人生を左右する選択が、早くも肩にのしかかった。

 とはいえ、のんびり考えたい。時間はある。高校生の楽しみもある。無良から海に誘われた。無良とは、子ども頃に近所で遊んだお兄ちゃん。大きくなる過程で家が離れ離れになったが、高校に入って町のショッピングモールで再会した。そのとき、ラインを交換し、ときどき連絡を取っていた。その無良から、「親戚の家が海のそばにある。ひと夏、そこで一緒に遊ばないか」と誘われた。無良はもう大学生になっていた。私は軽い気持ちで承諾した。弟の陽司も行きたいといい出し、無良の許可を得た。陽司と無良と私の三人で親戚の家に遊びに行った。

 千葉の海の近くで数日を過ごした。

 夏のある日、夕立が降ってきて頭と肩を濡らした。私はバス乗り場の屋根を目指し、懸命に走った。

 バス乗り場に辿り着いた。降り出した雨がもっと激しさを増した。トタン屋根で雨をしのいだ。しばらくは来ないとわかっていて、海に行くバスを待った。雨の降り方は強くなる一方だ。激しい雨で向こうが見えない。

 急に甘い香りがした。振り向いた。そこに、見目麗しい女がヘルメットを持って立っていた。美女は雨に体を濡らしながら、こういった。


「マサ。バスは来ないよ。後ろに乗りな。私、免許を取ったの」


 私を、取るに足りないこの私を、下の名で呼んだ。そんなことができるのか、この女は。短い時間に思考回路はあちこちへ考えを送り、ハッとした。彼女の声が記憶を蘇らせた。奏音、奏音だ。中学で同級生だった岸園奏音は、見違えるほど美人になっていた。彼女は、はにかんでこちらを見た。その微笑みは私にとって天使のようだった。


「久しぶりだな、カノン! こんな雨の日に再会か」


「そうだね。しばらくぶり。どこまで行きたい?」


「いいのか? 海まで連れてってくれ」


「お安いご用だ。行くぞ」


「俺はついてる」


「何、いってる。いいから、早く乗れって。出発するぞ」


「おお、わかったよ」


 私は原付バイクの後ろにまたがった。彼女の手渡したヘルメットをかぶった途端、バイクは音を立てて雨の中を走り出した。

 彼女は前を向き、バイクのハンドルを握って雨の中を突っ切った。その背中にピタリと体を寄せ、本当にあの奏音なのか、と何度も確認した。首のほくろと耳の形は似ている。甘い香りは女のたしなみなのか。胸も少し大きくなっている。手を彼女の体に巻きつけ、淫らな想像をして呼吸が乱れた。それを彼女は敏感に察知したようで、


「やらしいな。私の胸のこと、考えてるだろ。マサのその後は知らないけど、私は女として成長したんだ」


 といった。


「高校に上がってから、まだ一度も会ってなかったな。カノンが全寮制の高校に入ったせいだ」


「それは否定しないね。高校は部活に青春を捧げてるよ。もっとも、ケガに泣かされ、選手からマネージャーに変わっちゃったけど」


 もっと話したいのに時間が待ったをかけた。二人の乗ったバイクは目的地に着いた。私はバイクから下り、送ってくれた奏音に手を振って別れた。

 それから間もなくして、雨はやんだ。

 私と弟は実家から少し離れた、千葉県内にある、無良の親戚の家に来ていた。無良というのは私と弟の共通の友人で、もともとは近所に越してきた遊び仲間である。その親戚は房総半島に住んでいた。太平洋に面した一軒家で、すぐ向こうは海を見渡せる砂浜だ。夏の間、無良と男三人でその家で過ごすことになっていた。無良は私より二つ余分に年をとっていた。千葉の大学一年生で、車の免許を持っていた。

 弟は無良と町に買い出しに出かけていた。私もその車に乗った。一つ前の町で下ろしてもらい、喫茶店に向かった。そこで軽食をとるためだ。その喫茶店でバイトとして働く地元の女子高生が目当てだった。同世代であり、すぐに打ち解けた。長く喋り、さんざん彼女をからかった。

 壁にかかった時計を見た。そろそろ帰る時間だ。イスに根を張った尻を浮かせ、店を出た。海に向かうバスに乗って親戚の家に帰る腹づもりだった。

 喫茶店に来る前から、雲行きは怪しかった。

 バス停に辿り着く直前に雷の音がした。ヤバいかな。そう思っても、もう遅かった。空はみるみるうちに暗くなり、バケツをひっくり返したような大雨に遭った。

 大慌てでバス停を目指して走った。息が切れた。熱帯のスコールのような大雨は止むことを知らず、私の服をびしょびしょに濡らした。

 バス停に辿り着いた。雨はトタン屋根をドラム代わりにして激しく叩いた。滝のような雨にうんざりし、時刻表を見た。バスの運行は田舎の足の悪さを露呈していた。一時間に一本しかない。携帯を見た。バスが来るまで三十分以上ある。傘もない。雨具なしで歩いて帰るわけにいかないのは明白である。

 弱り切っていたときに、気まぐれな天使は出会いの鐘を鳴らした。中学で同級生だった奏音の魅力は、高校生になってさらに磨きがかかっていた。

 その一日だけで喋りたいことが山のようにできた。一足早く無良の親戚の家に戻った。帰ってきた無良と弟に、奏音が美女に変身して現れた様子を、身振りを交えて話した。


「無良さんも知ってるよね。昼過ぎにすげぇ大雨が降って」


「うん。車組もワイパーが大活躍したよ」


「俺、喫茶店を出てバス停まで走った。何しろひどい雨ときたら、体中を水びたしにしちまって」 

「それで、ずぶ濡れになってバスに?」


「いいや、違う。すごくきれいな女が現れて」


「バスの中で?」


 陽司が誤解したまま、問う。


「ヨウジ。だから、違うんだって。バス停でなかなか来ないバスを待ってたんだ。イライラして」


「それで?」


「そのとき、甘い匂いがしたかと思って振り向くと、きれいな女が立っててさ。『バイクに乗りなよ』って申し出て」


「え? どうして?」


「俺の知り合いだった。ていうか、同級生。中学の」


「もしかして、カノン? 岸園カノン?」


「え、どうしてわかった? まだ名前を出してないのに」


「カノンなら、道すがらすれ違ったよ。大雨の降る前に」


 無良はこともなげにいってのけた。


「そ、そうなのか。とにかく、カノンだったわけよ。彼女、すっかりいい女になっててさ。焦ったぜ」


「そうなんだ。いい女か。俺もカノンをこの目でじっくりと見てみたいな」


 陽司はペロッと舌を出した。


「ヨウジはいいんだよ」


「それで、ここへ連れて来てもらったのか」


 無良が訊ねる。


「そうなんだ。カノンの運転する原付バイクに乗せてもらい、道順を教えながらここまで送ってもらった」


「若い女に親切にされたか。よかったな」

 と無良はいった。

「ああ。渡りに船とはこのことだぜ。おまけに知り合いと再会し、その人がすごい美人になってた」


「運命的だ」


 陽司が調子を合わせる。


「そう。運命を感じたよ。これ以上の幸せはないね」


「兄貴は大げさだな」


「うるせぇ。せっかくのチャンス到来だ。俺はカノンに交際を申し込むぞ」


「鼻息が荒いな。カノンは俺の知り合いでもあるんだぞ」


 無良はいった。


「へ? そうなの? 無良さんも知ってるの?」


「昔からのよしみで、彼女とはよく遊んだ」


「羨ましいな。無良さんとカノンがそんな関係だったなんて」


「しかし、変だな。カノンの家は近所じゃなかったはず。そうだろ、兄貴」


 陽司の問いかけに、


「ヨウジのいうとおりだ。俺んちとカノンの家はずいぶん距離があった。川を越えてかなり離れてた」


 と私は答えた。


「無良さんは俺たちの近所に引っ越ししてきた。やっぱ変だ」


 陽司は首をひねった。

 まだつづきを話したかったが、夕食の時間が来た。話を中断し、私たちは食事をとった。

 その後、大学生の無良は缶ビールを飲み、私たちにも勧めてきた。親戚のおじさんも、「ここから出歩かないなら、飲んでもいいだろう。何かあったら、私を呼んでくれ」と大目に見てくれた。私と陽司はビールを口に含んだ。試験が終わった後の打ち上げで、クラスの仲間たちと川原で飲んで以来だ。やはり、苦味が口に広がり、すぐに酔った。


「花火が余ってる。もったいないから、やろうぜ」


 無良が提案した。

 無良と陽司、私の三人は花火をしながら、夕方の話を再開した。


「それで、きれいになってたのさ。カノンが」

「きょうはよく喋るな。そんなにカノンのことが好きなのか」


 無良は冷静な口調で応じる。


「無良さんだって、きっと惚れるよ」


「惚れることはない。俺にはもう彼女がいる。それに」


「それに?」


「いっておくが、カノンはな」


 その後、巡り合わせの偶然性に私は驚かされた。無良洋亮はおかしそうに笑った。彼は奏音のことを熟知していた。その理由を聞いて、私は唖然とした。知らなかった。岸園奏音が無良の従妹だったという事実を。


「カノンが従妹? 冗談はよせ」


 私は無良の話を疑った。信用しない私の態度を見て、無良は彼の携帯を見せた。携帯に親類が集まったときの写真が残っていて、そこに奏音の姿もあった。揺るぎない証拠を前に、私は疑義をはさむ余地のないことを思い知った。


「親類ならば話は早い。俺、カノンと付き合いたい。中学のときは、いえずじまいだった。無良さんも協力してよ」


「いやだ。俺の得にならん。カノンと会って、自ら告白しろ。男らしく」


「ふん。わかったよ」


 ふてぶてしく口を曲げ、承諾した。少しは無良が協力してくれると期待したのに、がっかりだ。

 その後も、酔った勢いで、カノンのことを語る勢いは止まらなかった。三人は縁側に腰かけて夜の海を眺め、一人の女について語り明かした。


「俺はよく覚えてるんだ。修学旅行の夜を。その夜、カノンのいる部屋を訪ねたよ。懐中電灯で顔を照らしながら、布団をかぶって夜中に話し込んだ。いい思い出だった」


「兄貴は、前に別れた女のことをカノンに相談したんだろ?」


 陽司は一つ下の学年なのに、事の詳細を知っていた。私は驚いた。無良から線香花火を受け取り、花火に火をつけた。パチパチと燃える火花を眺め、いった。


「ヨウジ。よく知ってたな」


「そりゃ、そうさ。なにせ、兄貴の別れた彼女と俺が後で付き合ったんだ。その彼女とカノンは友だちだから、話は筒抜けさ」


「そういうことか。ま、とにかく、カノンは親身になって聞いてくれた。俺が元カノにフラれたいきさつを説明すると、『私はこう思うのよ』と女の子の立場で俺の欠点を教えてくれた。カノンの内面の優しさに触れ、ちょっと惚れたね」


「中学時代のカノンはまだ顔もあどけなくて、どこか物足りなかったな。それが、兄貴と再会して見違えってたってんだろ?」


「そうなんだ。それはウソ偽りじゃねぇ。マジでいい女になってた」


 そこで無良が口をはさんだ。


「カノンは高校生になって背が伸びた。顔つきも、丸顔から面長になり、顎が鋭く尖った。従兄の俺がいうんだ。間違いない。あれは美少女になった」


「無良さんのいうとおりだ。中学時代に告白してりゃ、今頃は俺のものになっているかもしれないのになぁ。惜しいぜ」


「兄貴。口説いちゃえよ。今からでも遅くないぜ」


 陽司は私の元カノと別れたらしいが、私を押しのけようとはしなかった。あくまで、おこぼれを狙うハイエナの立場に甘んじたのかもしれない。


「カノンを口説くにはもってこいの季節だ。今は夏休みだし、ここで会えたのも何かの縁だ。近くにいるのなら、海水浴に誘い、その後で花火でもして」


「いいね、兄貴」


「マサ。海水浴なら、手頃な浮き輪があるぞ。数年前に使ったヤツが」


 無良は協力を断ったにしては、親切に申し出た。


「無良さんの彼女も呼び寄せ、五人で泳ぎましょうよ」


「それはどうかな。俺と彼女は、お盆に沖縄旅行を計画している。これ以上予定を増やして振り回したところで、ついてくるかどうか」


「じゃあ、ヨウジと三人でもいいや。バイクで送ってくれたお礼がしたいからとかいって、適当な文句でカノンを誘おうっと」


「兄貴、頑張りなよ」


 陽司は顎を引いて、茶目っ気たっぷりの目でこちらを見た。


「頑張るさ。頑張るに決まってる。いい女が近くにいて、大の男がみすみす見逃すなんて、ありえないじゃん」


「それもそうだな」


 ハハハと無良は軽く笑い、花火のゴミをビニール袋に入れ始めた。


「私たちは寝るぞ」


 親戚のおじさん夫婦が私たちに声をかけ、奥へ引っ込んだ。

 しばらくして、無良に促され、私と陽司は無良の部屋に入って布団を敷いた。修学旅行の夜を再現するかのように、布団にくるまって弟と話し込んだ。まだまだ話す気満々であり、さきほどの時間だけでは話し足りなかった。外では、雷がゴロゴロと鳴った。恋愛談義は佳境に入り、奏音がしばしば会話に登場した。


「もし、カノンが海水浴と花火をしたいといったらさ。水着姿にきっと興奮するだろうな。アイツ、胸がいい感じで膨らんでたぜ」


「兄貴、それはヤバいな。美人で胸もあるなら、最強じゃん。高校生の俺たちにとって、二次元の『推し』よりも強力な地元アイドルだ」


「俺は、そのアイドルと親しくなる。カノンに近づき、ゲットする。彼女の青春は俺の青春と重なるのさ。二人は人魚となって、青々とした大海原を自由に泳ぎ回るんだ」


「兄貴の世界観はメルヘンだな。まぁ、いいけどな。ところで、カノンは俺と同学年の十六才。ディズニー映画『リトルマーメイド』のアリエルと同じ年令のわけだ。カノンがアリエルなら、だれとハッピーエンドを迎えて結婚するのかな」

「もちろん、俺だよ。俺がカノンを誘い、愛を語って将来の嫁として迎えるんだって」


「そううまく行くといいけどな。はねつけられて、アンデルセンの『人魚姫』と逆のパターンで、兄貴の方が海の泡にならなけりゃいいが」


「何を不吉な。そんな弱気でどうする? おまえは兄のたくましい姿を見てりゃいい。きっとカノンを落としてみせる。俺の腕で彼女を抱いてやる」


 私は布団の中で意気込み、奏音をものにする気持ちを陽司に力説した。自分は女の子にもて、きれいな女を好きになり、その女をパートナーにできると思い込んでいた。そこに根拠も理由もなく、情熱と行動に裏打ちされた張りぼてのような自信の塊が、早く実行せよと私を駆り立てた。

 太陽が昇るのが待ち遠しかった。朝食をとったとき、おじさんから声をかけられた。


「冷蔵庫に和菓子が冷やしてある。食べていいよ」


「ありがとう。食べます」


 私は頭を下げた。おじさんは庭の草木の水やりに行った。私は歯を磨く前に、親戚宅の冷蔵庫を開けた。


「水羊羹がある。これ、食べていいんだよな」


 人気のない台所で、私は呟いた。よく冷えた、あずき色の水羊羹を口にした。冷たいお茶を飲みながら、あずきの甘さが朝の胃袋に優しく染みた。


「そういえば、俺の家の近所にも和菓子工場があったな」


 ふと何かが頭の天辺に降りた気がした。


「そうだ。そこで働くのはどうだ? 工員になったらいいかもしれん」


 そのときは軽い気持ちだった。工員になるのに周囲の反対はなく、その選択が可能だった。自分の選んだ道に間違いはなかった。

 お茶を飲み、洗面所で歯磨きしながら、昨夜喋ったことを思い出した。未来の就職もさることながら、若者の関心事といえば恋。気にかかる恋愛事情に関して、有言実行と意気込んだ。奏音のいる高校の寮の所在地を無良に教えてもらった。私は奏音の連絡先を知らなかった。寮の近くで待機し、彼女が出てくるまで待ち伏せる作戦を立てた。

 無良がアルバイトに出かける前に、私は頼み込んだ。


「無良さん。一生のお願いだ。カノンの暮らす女子寮まで、車で送ってくれ」


 無良は即答しなかった。こちらの顔色を見た。窓の外に広がる海を眺め、意外とクールな反応を示した。


「マサ。おまえという男をある程度は信用している。マサの性格とカノンの性格。どちらもよく知っている」


「無良さん」


「マサは見込みのある男だ。カノンを彼女にしてもおかしくはない」


「そうだとも」


「一ついえるのは、カノンを好きになっても、彼女がマサを好きになるとは限らないということだ」


「そうかもしれんが、そこは俺の熱意が相手に伝われば」


「とにかく、うまく行かなくても俺を恨むなよ。マサの恋人は恋愛の神さまが選んで会わせてくれる。カノンかもしれないし、そうじゃないかもしれない。十七にして恋愛対象を一人に絞るのはいいが、フラれたからといって落ち込むな。やけになるなよ」


「まかせてくれ。失恋したくらいで、メシが喉を通らなくならねぇ。俺、自信があるんだ。カノンとは中学時代にときどき話してるし、彼女の嫌がるまねはしねぇ」


 無良は気乗りしないような、冴えない表情を見せた。


「それだけいうのなら、女子寮の前まで連れてってやる。しかし、ストーカーじみたことだけはやめておけ」


「承知したぜ」


 無良は車のキーを手に持ち、私を手招きして車に誘導した。私はいつも背負っているデイパックを持って助手席に座った。

 車に乗って走ること十数分。大きな建物が見えてきた。

 無良は奏音の暮らしている高校女子寮の前で私を下ろした。


「帰りたいときは、俺の携帯にメールしてくれ。アルバイトが終わっていたら、マサを迎えに行く」


「わかった。送ってくれてありがとう。助かったよ」


 私は車の中にいる無良に手を振り、寮の門まで歩いた。

 女子寮と高校は目と鼻の先の位置関係だ。歩いて登校できると思われた。夏休みであり、高校に向かう生徒はあまり見かけない。


「いつ、カノンは寮から出てくるのかな。時間をつぶさねば」


 しばらく、寮の門を見張り、人の出入りを待った。何の変化もない。人の出入りはなく、黒猫が不審そうにこちらを見て、スタスタと道を横切った。

 夏の陽射しが降り注ぎ、体感温度を上げた。私は寮の門が見える木の下に移動した。木にとまったセミが鳴きだした。ずっと耳にしてきた音は、未来の夏の風景にも溶け込んでその一部になるのだろうな。どうでもいいことを考え、人が出てくるのを今や遅しと待った。

 寮の管理人らしき、小太りのおじさんが出てきて辺りを見回した。私は不審者と思われぬよう、いったん木から離れて寮の柵伝いに歩いた。

 角を曲がって身を隠す。門の方を見る。小太りの男は姿を消していた。胸を撫で下ろし、また元の場所に戻った。携帯を見る。正午までまだ一時間ある。もしかしたら、寮内に食堂があり、生徒らは外に出ずに昼食をすませてしまうのでは――。


「待ち伏せもたいへんだ。実りも薄い。別のよい方法はないのか」


 ふと、何かの映画かドラマの一場面が頭に浮かんだ。それを実行してみたくなった。そのやり方はスリルがあり、面白そうだった。

 道の上を見た。適当な大きさの石を拾った。デイパックの中に参考書とノートがあり、ノートを一枚破いた。ノートにペンで【奏音に会いたい いとしの男より】と綴った。石をそれでくるみ、寮に近づいた。

 悪いことに、どの窓も閉まっている。冷房をかけているからか。そんなことでめげる私ではない。もう一個、大きめの石を握りしめ、適当な二階の窓に投石した。

 ゴツンと音がし、窓に命中した。

 運がよかった。音に反応したのか、レースのカーテンが引かれる。人影が見えた。


「おーい、こっちだ」


 私は人影に手を振り、注目されるのを期待した。

 人影は私に気づいたようで、窓を開けた。しめしめ。こちらの筋書き通りに進んでるぞ。私はニヤリとした。


「今だ。それ」


 開いた窓めがけ、わずかな隙間に狙いを定めた。石とそれをくるんだ紙をイチローのレーザービームばりに正確に投げた。運動神経のよい私の投じた〝手紙〟は、きれいな一直線を描いた。あっという間に窓の向こうに吸い込まれた。人影は女の子だった。放られたものに興味があるのか、窓から入った異物を確かめるため、その人は窓際から消えた。

 私は期待した。メモを読めば、何らかのアクションが起きるだろう。

 すると、女の子は窓から上半身を出し、笑顔でオーケーサインを送った。

 私の企みは成功した。


「よかった。だてにテレビを見るわけじゃない。子どものとき野球で遊んだのはむだじゃない」


 しばらくして、門に先ほどの女の子が姿を現した。私は門に近づいた。


「カノンの知り合いの方ですか」


「そうですよ。中学の頃からよく知ってます」


 確かめるのが目的だったのだろう。女の子はそれを聞いて体をよじり、入口を向いて手招きした。

 入口にいた別の女の子が歩み寄る。奏音だった。


「何だよ、マサ。こんなところまで追いかけてきて」


「いいだろ。別に」


 こうして奏音を呼び出し、首尾よく再会した。手の込んだ作戦を実行に移し、会いたい人と会えた喜びは、はかれないほどに大きかった。

 奏音は寮から出ると、私と肩を並べて歩いた。


「よく女子寮の場所を突き止めたな」


「へへへっ。カノンと会いたかったからな」


 彼女に無良の手助けは告げず、こちらの目的を伝えた。


「昨日はありがとう。お礼がしたくて、カノンを呼び出したんだ」


「お礼? 別にいいのに。友だちだし」


「そうなのか」


「そうだよ。バイクで拾っただけじゃん」


 奏音の笑顔がまぶしかった。


「いいや。本気でお礼がしたいんだ」


 私は自分の気持ちを曲げたくはなかった。


「悪いな。で、どこへ向かってるの?」


「近くの喫茶店にでも行こう」


 二人は町を歩いた。彼女の顔を見られるだけでうれしかった。きれいな女の子を連れているだけで、自分は価値の高い男なんだという優越感に浸れた。


「あそこに白い看板の喫茶店が見えるだろう?」


「ああ、あれな」


「あそこに入ろうか」


「うん」


 彼女は私の考えに素直に従った。

 二人は喫茶店に入った。喫茶店で注文するのにはもう慣れていた。軽食とクリームソーダを二つ注文し、本題に入った。


「カノン。お礼ってのは、ここの代金を俺が持つ」


「ご馳走してくれるのか。ありがとう」


 奏音は無邪気に笑った。


「俺は高二だ」


「知ってるよ。私は高一」


「高二の夏にカノンと巡り会えた。幸運だと思ったよ」


「いいたいことは何だ? 早くいえよ」


 彼女は男言葉でせかした。注文したパンケーキとクリームソーダが運ばれてきた。


「つまり、カノンはちょっと男っぽくなったけれど、女としての魅力を感じた。俺はおまえに惚れ直した」


「ふーん。そんなとこだろうと思ったぜ」


 彼女は足を組み、ダボッとしたカーキ色のハープパンツから白い腿をのぞかせていた。彼女はクリームソーダのアイスクリームをスプーンでつつき、少し崩しては小さな口に運んだ。


「要するに、俺はおまえが好きだ。彼氏がいないのなら、俺と付き合ってくれ」


 内心、やったと思った。昨晩、無良や陽司に宣言した内容をきちんと言葉にして相手に伝えられたのだから。

 しかし、彼女は浮かない顔をして、にべもなくいった。


「悪いが、付き合えないよ。彼氏はいないけれど、マサを恋人にはできないね」


「な、なんでだよ?」


 私は思わず身を乗り出し、口をとがらせた。


「なんでっていわれても……。うまくいえないけど」


 彼女は口ごもり、弱った表情を浮かべた。


「いってくれって」


「わかってくれよな」


 彼女は視線をそらし、窓の方を見た。


「私はまだ高一なんだ。やりたいこともあるし、青春を部活のバスケに捧げてる。マネージャーとして」


「邪魔はしないぞ。それに、けっして悪い相手でもないだろ。俺は」


「今はだれとも付き合う気はない。あきらめてくれ、マサ」


「いやだ」


 私は頬を膨らませ、横を向いた。


「中学時代、俺がおまえに片思いだったのは知ってるだろ?」


「うん。何となくな」


「俺たちは高校生だ。青春真っ盛りに恋の一つや二つ、しておくべきだと思う。異性を好きになることは、人生においても損にはならんと思うが」


「それはマサ個人の考えだな。私はそうは思わない」


「なぁ、カノン。考え直してくれよ」


 私は食い下がった。


「すぐに付き合えとはいわん。こんな風にしてときどき会おう。会ううちに、だんだん俺のことが好きになるかもしれない」


「うーん」


 奏音の歯切れは悪い。もっと圧をかけなきゃ。


「俺を信じてくれ。けっして悪いようにはしないから」


 だんだん彼女を拝み倒すようなムードになってきた。


「やめとく。やっぱ、恋はもう少ししてからでいい」


 奏音は笑って指でバツ印を作った。そこまでいっても気持ちが変わらないのなら、さすがの私でも口説きようがない。私の恋心は空気の抜けた風船のように急速にしぼんだ。


「残念だ。めっちゃ悔しいぜ。せっかく交際してくれと申し込んだのに、あえなく失敗とは」


「すまないな。マサには、きっといい相手が見つかるよ。元気を出してくれ」


 奏音は私を慰め、私の肩をポンと叩いた。

 彼女と少しの間でも、同じ空気を吸っていたかった。それに反して、奏音は席を立ち、店から出て行った。

 こんな惨めな結末を迎えるなんて、あんまりだ――私は失恋を味わった。彼女の飲み残したクリームソーダを恨めしげに眺めた。使ったスプーンをなめてやろうかと手がわずかに動き、みっともないので思いとどまった。溶けたアイスクリームがソーダ水を白く濁らせ、それだけの時が失われたのを物語っていた。私はソーダ水を飲み、ガツガツとパンケーキを食べた。

 店の外に出ると、セミの鳴き声がやかましかった。失恋した私を哄笑しているように聞こえる。夏空に響く音から逃れるようにしてその場から走り去った。走れるだけ走り、息が切れた。背中を丸めた。また別のセミの声が聞こえてきたが、今度はいつものように夏の風物詩だと捉え、聞き流せた。

 私は、恋心が再燃して告白し、はっきりと拒否された事実を事実として受け入れようとした。

「たまたまだったんだよな。彼女は俺のタイプだが、逆の立場ではそうでなかった。それだけさ。彼女のいうように、別のいい相手がきっと見つかる」

 私は冷静になり、無良の携帯に帰りたいとメールを送信した。

 返事はすぐに来なかった。無良のアルバイト中か、昼食をとっている時間帯で携帯を見てないのだろう。

 軽食をつまんだので、腹が空いてないのはわかっていた。たまたまコンビニが目にとまり、中へ入って涼んだ。

 カロリーメイトとお茶を買い、イートインコーナーで口にした。店内には奏音と同い年くらいの女子高生が三人でワイワイはしゃいで買い物を楽しんでいた。可愛い子もいたが、どうして自分はああいう子を好きにならないのか。奏音のような子を追いかけるのか、と自問した。

 明確な答えの出ぬまま、やがて、無良の車が私の前でクラクションを鳴らした。私は無言で乗車した。一日にしてフラれたから心の傷は浅いと思っていたけれど、無良が何を喋ったのかはっきりと覚えてなかった。元気なく、無良の話に相づちを打つだけで精いっぱいだった。

 失恋の気分を他で紛らわそうと携帯でゲームを検索した。適当なゲームをダウンロードし、画面に指を這わせた。その晩、いつもよりも早く食事をすませ、親戚のおじさんを相手にオセロゲームをした。白い駒だった。後半に黒い駒に次々とひっくり返され、私は完敗した。シャワーを浴びた後、冷蔵庫を開け、スイカを取り出して食べられるだけ食べた。

 なんとはなしに眠れそうな気がしなくて、茨城の妙子婆ちゃんに電話をかけた。

 妙子婆ちゃんは私を懐かしがった。うん、うんと合いの手を入れ、電話で失恋話を聞いてくれた。


「もしもし」


「はい。佐乃井です」


 聞き覚えのある妙子婆ちゃんの声。声に温かみがある。


「妙子婆ちゃん。俺だよ。マサツグ」


「ああ、マサツグかい。懐かしいねぇ。こんばんは」


「妙子婆ちゃん、元気?」


「ええ、元気、元気。お父さんは元気かい」


「元気にしてるよ」


「今夜はどうしたの」


「ちょっと聞いてほしい話があるんだ。いい?」


「いいよ、私でよければ。可愛い孫のことだもん。いくらでも聞いてあげるわ」


「あのね。実は、今日、好きな子に告白してさ。すぐにフラれたんだ」


「マサツグが? そうかい、そうかい。残念だったね。どんな風に告白したの?」


「それがね、婆ちゃん。彼女は中学時代の同級生で、ずっと片思いだったんだ。昨日、久しぶりに再会してさ。大雨の中をバイクに乗せて送ってくれた」


「その子がかい」


「そうだよ。いい子だろ?」


「そうだね。ずいぶんと親切な女の子だこと」


「そう思うだろ? おまけに、中学時代よりもきれいになっててさ。ビックリした。口説くしかないと意気込んで誘い出し、いってやった。おまえが好きだ。付き合ってほしいって」


「マサツグも男らしいね。私がその女の子なら、頷いて受け入れるけどね」


「ところが、結果は違った。付き合えない。青春を部活に捧げてる。今はだれとも付き合う気はない。そういうんだよ。どう思う?」


「ふーん。まんざらウソじゃないとは思うけどね。その子はいくつ?」


「十六。高一だよ。俺は十七の高二」


「十六ねぇ。難しいね。恋をしてもいい年頃だし、青春を部活に捧げたいという気持ちもよくわかる。私の若い頃も、似たようなことをいう友だちはいたからねぇ」


「フラれたけれど、俺が嫌いだとまではいわなかった。よく知る友だちだしね。婆ちゃん、俺はどうしたらいい?」


「マサツグが悪いわけじゃないよ。タイミングの問題かもね。そのうち、相手の気が変わるかもしれないよ。それか、別のいい子が現れて、マサツグはそちらの方が好きになるかもしれない。安心しな」


「夏休みが始まって一週間で失恋だよ。せっかくウキウキした気分だったのにさ。がっかりだ」


「マサツグ。人は失恋して強くなるんだよ。何回も失敗しなさい。失敗の数だけ優しくなれる。大きな成功を得られるのよ。頑張りなさい」


「ありがとう、妙子婆ちゃん。優しいね。俺、今夜電話してよかったよ」


「私も孫の元気な声を聞けてよかったよ」


「じゃあ、そろそろ切るね。本当にありがとう。妙子婆ちゃん、おやすみ」


「おやすみなさい」


 電話を切った。慰めてもらうのが目的で電話をかけたのだが、期待したとおりに妙子婆ちゃんは優しく話を聞いてくれてホッとした。

 その夜は何も考えず、波の音を聞きながら静かに眠った。

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