先生…。野球するんだからスパイクくらい用意して下さい…。

「半ちゃん、ハンカチは持った?定期忘れたら電車乗れないよ?それから…。」


「姉ちゃん、俺は幼稚園児じゃないからな。いちいち心配しないでくれ。」


「でも…。」


「双子なんだ。同い年なんだ。姉ちゃんと同じくらいには色んな事が出来るさ。」


山中家の朝は早い。父も母も6時には家を出ている。俺と姉も7時過ぎには家を出なくてはいけない。なぜ人類は早起きをしなくてはいけないのだろう。将来の夢を聞かれる時、俺はいつもこう答えている。昼の12時から始めても怒られない仕事に就きたい、と。最も、そんな仕事中々ないのだけれど。


「姉ちゃん、バット2本持っていくの?重くない?」


「うん。新しいやつと古いやつ、両方試したいからね。新しいやつ、ちょっと重くしてるから上手く振れるか心配で…。」


「姉ちゃんの馬鹿力なら心配ないと思うけどな。」


「…私が今バットを持っている事を考慮して喋った方がいいと思うけど。」


「おー怖い怖い。」


エレベーターを降りながら、姉弟で下らない話をする。望まない高校に入ったものの、この瞬間だけは悪くないと思える。別に姉の事が大好きとかそういう訳ではないのだが、何も考えず、フラットに話せる人間はそう多くはない。だから、俺にとってちょっとは安らげる時間だ。


もう1人、俺にとって何も気を使わずに話せる人がいる。その人も幸運な事に同じ高校で、同い年で、野球が大好きだ。そういう人とだらだら野球の話をする。それだけでいい。他に何もいらない。だから、今更野球をする必要なんてない。


エレベーターが1階に到着する。ドアが開くと、その人は我々を待っていた。腕を組んで、機嫌が悪そうな顔をして。


「2人とも遅い。待ち合わせしたよな?」


「ごめんね京子ちゃん。ちょっとバタバタしてて。」


「お前ら姉弟はいっつも遅れてくるな。また半次郎が忘れ物でもしたか?」


「憶測による批判は誹謗中傷になりうるぜ。帰ったら弁護士に相談かな。」


「ああ。お前の酒と煙草をもみ消してしてくれた弁護士にまた泣きつくのか。いいご身分だ事で。」


「2人とも、朝からよく喋るね…。もう学校行こうよ…。」


村中さんは唇を尖らせながら、壁に立てかけていたバットケースを肩にかけた。我々の中で最も巨大な荷物を抱えている姿を見て、キャッチャーという仕事の大変さを思い知る。あの装備を持ってくるだけで重労働だ。


「村中さん、なんか持つ?」


「いいよ、別に。姉ちゃんのバット持ってやれよ。」


「外野手の荷物なんかロクにないんだから、バットが2本になったくらいじゃどうって事ないよ。何せあの怪力なんだから。なあ、姉ちゃん?」


「由乃、弟に悪口言われてるぞ。」


「…駅ではあんまり線路の近くに立たない方がいいかもね。」


「殺害予告は本当に弁護士案件だぜ、姉ちゃん。」


駅に着くまでもずっとこんな調子で、駅に着いてからもずっとこんな調子だった。学校では新しい友達は出来ていないが、別にどうでもいい事だった。こんな日々が3年間続けば、それ以上に人生において望む事はあるだろうか?ちょっと指を痛めている事なんて、どうでも良くなるくらいに愉快な日々だ。


だから別に、学校がつまらなくてもいいと思ってるし、面白くしたいとも思わない。今が続けばいい。出来るだけ長く。永遠はあり得ないんだけど。


「ねえ京子ちゃん、今日から部活だよ!どんな感じなんだろうね。」


「まあ、野球は野球だ。どんな環境でも、やるべき事をやるだけさ。」


「女の子だけの野球チームなんて初めてだからさ、ちょっと緊張しない?中学ではわざわざ男子の部活に入れてもらってたからね。」


「いやまあ、わざわざ野球なんてしてる女だからな。野郎と大して変わらないんじゃないの?」


「そうかなあ、でも楽しみだね!早く野球したいね!」


「あー、おふたりとも。あんまり期待しない方がいいぜ?監督は野球素人。昨日まで野球は9人でするスポーツなのも知らなかったくらいだからな。」


「何でお前がそんな事知ってんだ?」


「いや、俺が監督に野球のルール教えたし。今日も手伝いに行くから。今日だけな。」


「…?」


「…半次郎、お前とうとう薬に手を染めたか?」


「…あ、電車来たわ。説明は中でするわ。」


2人の目は戸惑いと困惑に溢れていた。この2人に何の説明もしていない事に、今ようやく気づいた。昨日は結局、夜の8時に帰ってきて、無言で飯と風呂を済ませた後に眠ってしまった。

無意識の中で2人には女子野球部に入る事を伝えたつもりだったが、よく考えれば口を聞いていないのだから、伝わっている訳がなかった。


俺は2人に、昨日の出来事を説明した。俺だけ部活の志願書を出していなかった事、それが原因で女子野球部に入らざるを得なくなった事、監督が野球を何一つ知らないのでルールを教えてやった事、今日手伝いが終わったら幽霊部員になる事。電車の中で喋ることは出来ないので、2人に長文のLINEを送りつけてやった。2人から送られてきたスタンプにはそれぞれ「爆笑」と「狂ってる…。」と書かれていた。この組み合わせ、ジョーカー以外で成立する事があるんだ、と思った。


20分そこそこのおしくらまんじゅうに耐え、俺達は電車を降りる。周りには同じ学校の生徒しかいない。俺は何だかとても疲れてしまった。これからまた1日が始まって、しんどい思いをして、後は寝るだけ。大学に上がってからも、社会人になっても、根本的には変わらない。暗澹たる気持ちになる。


「それにしてもびっくりしたよ〜。まさか半ちゃんが女子野球部に入るとはね〜。というか、部活の志願書、出してなかったとは…。」


「私が聞いた時、出したって言ってなかったっけか?半次郎?あれは嘘か?」


「本当だよ。中身が白紙だっただけ。」


「お前、本当に…。」


村中さんの顔が阿修羅のようになっていたので、俺は思わず目を逸らした。この人は怖い。怒らせたら本当に怖い。しかもバットを持っている。本能が殺される、と言っている。たまらず姉ちゃんの方を見る。助けてくれ。冷たい目をしている。終わった。葬式ではベタだがツェッペリンの天国への階段を流してくれ。


「…まあいいさ。思い切り女子野球部でコキ使ってやるから。幽霊部員なんてさせないからな?」


「そうだね…。暇にさせるとまたお酒とか煙草とかするかもしれないし…。」


「お前ら、落ち着いて考えろ。いいか?思春期の女の子達の集団だろ?異性のマネージャーなんて嫌だろ。小学生じゃないんだからさ。そもそも無理があるというか…。色々変化していく時期なんだからさ。」


「球拾いに性別なんか関係ないだろ。とにかく、たっぷり使ってやるから。せいぜい頑張れよ、半次郎。」


「お姉ちゃん、半ちゃんと同じ部活で嬉しいよ!部活始まる時に迎えにいくからね!」


「クラスには来ないでくれ…。自分で行けるからさ…。」


2人の事は嫌いじゃないが、女子野球部に3年間骨を埋める気はさらさら無い。というか、生理やら色々デリケートな問題もある時期に、異性のマネージャーなんか大問題だろ。ライトノベルでもあるまいし。俺は意地でも今日しか行かない。明日からは忍者のように素早く帰宅してやる。そう心に固く誓った。


俺と2人は別々のクラスなので、下駄箱前で別れる。自分のクラスには入って、自分の席に座る。手持ち無沙汰だと周りから見て気持ちが悪いので、読書を始める。イキってニーチェを読んでいるのだが、理解に時間がかかる。脳みそがパンクしそうになったので、暇つぶしに携帯でNPBの試合データを見て過ごす。途中、教師から質問される事もあったが、何とかやり過ごす。今授業でやっている事は、俺が2年前に塾で習った事だった。


「おお、やる気満々の格好。お前、本当に来るんだな。」


「俺が嘘ついた事あるか?」


「あの時嘘ついたからこんな事になってるんだよ、半ちゃん…。」


今日は部活第一回という事で、一年生の格好は自由だった。とはいえ、自由と言われてもマネージャーは何を着ればいいのか分からない。なのでとりあえず、中学の時に来ていた練習着を引っ張り出してきた。思ってたよりもピチピチではあったが、まあ今日で辞めるので問題はないだろう。


「一階の職員室前に集合だって。早く行こうよ。」


姉ちゃんが村中さんの手をひき、小走りで廊下を渡っていく。俺はその背中を見ながら、猫のように丸まって歩く。日差しが暖かく、昼寝にはちょうどよさそうな15時過ぎだった。俺は家に帰って昼寝がしたかった。その後、18時からナイターが見たい。明日からはそうやって過ごしたいものだ。


職員室前には女子野球部に入りたい女の子達が5人集まっていた。姉ちゃんと村中さんが加わって7人。上級生と合わせれば十分な数だろう。


「えっ、希望のポジションとかはあるの?」


「ソフトではセカンドを…。」


「おお。じゃあ結構守備上手いんだ。」


「どうかな、練習は頑張ってるけど…。えっと、お二人は?」


「ああ、このでかい山中って奴はレフトを。私は、名前を名乗ってなかったな、村中はキャッチャーをやってたんだ。」


「え、凄いですね!しかも男子に混じってたんですよね?」


「そう!男子野球部に混ぜてもらってて。でも京子ちゃん、上手だったんだよ!特に守備が上手で、低めを逸らさないんだよ!まあ肩はアレなんだけど…。」


「うるさいなあ!外野守備もロクに出来ない奴に言われたくないね!」


と、まあこんな感じで皆仲良く和気藹々と話していた。とても良い事だと思うので、3年間続けてほしい。僕はといえば、掲示板に貼られたお知らせをひたすら読んでいた。衛生係のお便りにおいて、熱中症の話が出ていたのには驚いた。今、4月なのに。もうこの国は夏と冬しかないんだな、と思う。


「ごめんね遅くなって!それでは新入生諸君!まずはグランドに移動して先輩方に挨拶しようか!」


西村先生は学校指定のユニホームを着て、職員室から出てきた。ユニホームの着こなしは悪くなかった。靴下がクラシックスタイルなのが、個人的にはタティスJrみたいで嫌いじゃない。ただ1点、気になる事があった。


「先生、ちょっとそこの教室に来てもらえます?確認したい事があるんで。」


「何?山中君はタイプじゃないって昨日伝えたよね?」


「骨をへし折りますよ。2分で済みます。」


僕らは職員室隣の空き教室に入る。何となく嫌な予感がした時はそれに従った方がいい。嫌な予感というのは、大抵当たる。


「あの、先生。スパイクって用意してます?」


「スパイク?彼ならまだ砂漠に旅に出てると思うけど…。」


「このタイミングでスヌーピーの兄弟の話する奴はいないですね。グランドに出るためには、専用の靴が必要なんですよ。それがスパイク。その様子だと用意してないんですよね?」


「うん。先生、スニーカーで行くつもりだったけど。」


「しばき回しますよ。昨日はルールしか説明できてなかったので、嫌な予感はしてたんですけど…。まあいいや。今日は俺のスパイクを貸しますよ。多少ブカブカでも上手く誤魔化してください。監督は走ったりしないから、そんなに動かなきゃ致命的ではないと思います。」


「…ねえ山中君。」


「何ですか?」


「何でコソコソ私たち空き教室に移動したの?まさかスパイクを貸してくれた恩を売って…。」


「眼球コンパスの針で破裂させますよ。新しい監督がスパイク忘れたって言ったら、皆ドン引きですよ。この人やる気ねえなあ、って思われちゃいますよ。あなたは新監督なんですから、まずは部員と信頼関係を得ないと。そのためには、毅然とした所を見せてくださいよ。」


「うーん、なるほど。そっか!じゃあ帰りにスパイク買うね!他に必要なものはあるかな?ユニホームはこの通り、指導をするにあたって学校が一式揃えてくれたけど…。」


「また後で連絡しますよ…。とりあえずグランド行きましょう…。」


空き教室から出た僕は既にぐったりと疲れていて、体に鉛がついているかのような怠さを感じていた。空き教室の前には入部希望者が群がっていたので、多分盗み聞きをしていたのだろう。聞こえていないといいけど。


グランドに移動する際も、入部希望者達はぺちゃくちゃと喋っていた。いやまあ、コミュニケーションはいいけどさ、先輩の前ではちゃんとしてくれよ?なぜか先頭が、西村先生と俺になってるぞ?誰か先頭来て、やる気満々アピールでもした方がいいんじゃないか?まあ、ここで出しゃばって同級生に嫌われるリスクもあるか。ただ、お喋りに夢中なせいで、西村先生との距離が空いている。それは流石に違うんじゃないかと思ったが、明日から来ない身分なので黙っておいた。


遠くからでも、あ、あの人がキャプテンだろうな、という人がこちらに向かって手を振っている。爽やかなスマイルを見せて、バットとグラブを持ちながら、手を大きく振っている。そして、小走りでこちらに向かってくる。こちらに向かって走ってくるフォームはまっすぐ伸びていて綺麗だ。これを見ただけで、良いキャプテンなのが伝わってくる。


「初めまして!入部希望者の皆、元気ですかあー!?この部活のキャプテンをさせて頂いております、澤田唯といいます!これからよろしくね!」澤田さんはそう言うと、直角のお辞儀を見せてきた。


「よ、よろしくお願いします!」


僕を含め、一年生達は慌てて直角のお辞儀で返す。儒教の影響が強いこの国で、ここまで後輩に深くお辞儀できる人はあまりいない。年功序列で嫌な思いも沢山してきた事だろう。僕だって野球部に居た事のある人間だ。想像には難くない。それなのに、初対面の後輩にここまでナチュラルに深々と頭を下げられるというのは、とても賢い人なんだな、と感じた。


「じゃあ、とりあえず自己紹介を…。」


「キャプテン、私はとりあえずこの子達の実力が見たいですね。今、打撃練習中なので入ってもらったらどうですか?」


突然澤田さんの話に割って入ってきたこの人に、僕は驚いてしまった。人の話に割って入る無神経さではなく、いつこの場所にやってきたのかが分からなかったからだ。目にも止まらぬ早業で、澤田さんの背後に立っていたという事か。その人は舐めるように一年生達を見つめていて、まるで誰が実力者を見定めているようだった。


「国吉さん、まだ皆の名前も聞いてないんだよ?いくら何でも…。」


「でもほら、そこの大きい子。あの子なんかバット2本持ってるんですよ?やる気満々じゃないですか。どうせ、後で歓迎会やるんでしょ?名前とか人となりはその時でいいでしょう。」


彼女はお姉ちゃんを指さした。まあバット2本持っている目立つ奴を指名するのには違和感を感じなかった。むしろ、一瞬周りを見渡した時に、西村先生と目が合い、バツが悪そうに逸らした事が気になった。まあ、何となく理由は分かるが。昨日、「ショートってさあ、どこのベースも担当してないよね?必要なの?」とかほざいていた人間を好きな野球人はあまりいないだろう。


「国吉さん。アップもさせてないのに練習参加なんかさせません。この子達の練習は、スケジュールがあるからそれに沿ってやってもらいます。いい?」


「はいはい。分かりましたよ。お邪魔しました、キャプテン。一年生達、早く練習で一緒になれるのを楽しみにしてるよ。じゃあね。」


そう言うと、彼女はくるりと後ろを振り返り、グランドへ駆けていった。そのスピードは圧倒的で、まばたきをしている間に彼女の姿は見えなくなった。早い、早すぎる。


「ごめんね。あの人は国吉さんって人で、2年生なんだけど、野球が好きすぎて…。皆と早く練習したくて先走っちゃったね。えっと、じゃあ自己紹介をしてもらうんだけど、急に言われても困ると思うので、答えてほしい項目を言います!名前と希望ポジションと好きな野球選手でお願いします!」


「あ、あの、僕はポジションとか無いと思うんですけど、どうしましょう?」


マネージャー希望です、と言う訳にもいかないので、一応聞く事にする。その瞬間、澤田さんの顔が思い切り歪んだ。


「…そういえばなんで男の子がここにいるのかな?」


「…は?」


「…え?」


「…あれ?説明してない?」


西村先生の丸くなった目が、どうしようもなく癇に障った。


「お姉ちゃん、一本バット貸してもらっていい?」


「やだよ、血塗れのバットで練習なんかしたくないもん。」


「先生、何か事情があると思うんですけど、なんでキャプテンの私が聞いてないなんて事態になるんですか?説明してください。」


「…ごめん。本当にごめん…。」


こんな部活、絶対に今日限りで辞めてやると心に誓った。



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えっ!?先生、野球を知らないのに女子野球部の監督に!?心配なのでマネージャーとして入部します…。 @murai_chritori

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