第五章:墓標
空模様は再びその顔色を悪くしていた。
一清は、物音ひとつしなくなった炭さんの家を出て、ほうっとひとり息を吐いた。
灰色の雲が空を覆い、冷たい風が吹きぬけてゆく。
体にまとわりついた血の匂いが、風に削ぎ取られ薄らいでいくのが分かる。
まだ、頭の中で目にしたことを整理できないでいる。
一清は、しばし、炭さんの家の裏手にある岩場に腰を降ろし、頭を抱えた。
怖い。
一体何が起こっているというの。
一清は、これからとんでもなく恐ろしいことが起こるのではないかという不安に襲われていた。
体が震える。
歯ががちがちと音を鳴らしている。
今になって、炭さんの家で目にした光景が目の前にありありと浮かんでくる。
まだ暖かかった、炭さんの体。
そこから滴り落ちる血。
炭さんの血を受けて、一清の衣服は真っ赤に染まっていた。
こんな姿を見たら、父や正明様、家族のみんなは驚くだろうな。
一清はそう、思った。
そうしてやっと、自分の家族の安否が気になり始めた。
皆を置いて出てきてしまったけれど、大丈夫だろうか。
一清は、ゆっくりと立ち上がると、一歩、また一歩と、歩を進め始めた。
気が付くと、外につながれているコナとコタが、勢いよく吠えている。
しかし、その吠え方が尋常ではない。
なぜ今まで気が付かなかったのか。
一清はここでやっと、まだ惨劇が終わっていないのだということを知った。
皆が、危ないのだ――。
一清は、きりりと布で髪を結ぶと、静かに家の裏手から中へと入った。
一歩足を中へ踏み入れると、つんと鼻をつく匂いがした。
先ほど炭さんの家で嗅いだ匂いと同じ匂い。
そう、血の匂いであった。
まず目に飛び込んできたのは、こんもりと盛り上がった祖母の死体であった。
一清は素早くかけよると、その呼吸を確かめた。
やはり、その体には、生々しい刀傷が見える。
そして祖母を抱き上げた一清が見たものは、祖母の死体の下でうつぶせになるように倒れていた正明の姿であった。
正明様!
一清は心の中で叫んだ。
祖母を静かに横たえると、正明の首元に手をやった。
脈は既になかった。
ああ――今朝、つい先ほどまで、あんなに傍にいたのに――横で笑っていたのに――。
一清はそう叫びだしたくなるのをこらえながら、正明の手が腰あたりで何かを握っているのに気が付いた。
正明の体を起こしてみると、その手は、今朝がた一清の父が正明に与えた、守り刀を握っていた。
正明様――。
酔っていても、一太刀返そうとなされたのだ。
一清は、正明の腰からその短刀を引き抜くと、自分の利き手に握りなおした。
そろりそろりと家の中を巡ってゆくと、出入口付近で母子と父が、折り重なるように倒れているのが目に入った。
遅かったのだ――。
一清は、自分を責めたくなった。
しかし、その前にすべきことがあった。
犯人を、捜さなくては。
一清は外に出ると、コナとコタの元へゆき、その手綱を解いた。
二頭は先ほどから狂ったように吠えている。
その頭を血塗られた手でなでまわす。
二頭の白い毛並みが、血の赤で染まった。
「コナ、コタ、一緒に探してくれる」
一清は、ぴゅいと口笛を吹いた。
二頭は、すると広場の方へと一目散にかけていった。
腰に吊るした水筒の水で口を潤し、一清は二頭の鳴き声のする方へと駆けて行った。
明記は、逃げも隠れもしていなかった。
広場の中央で、据えられた丸太の椅子に腰を降ろし、じっと空を見つめていた。
その手には、一本の刀が握られている。
どれほどの返り血を浴びたのだろう、その体は、もはや元からそうであるかのように、真っ赤に染まっていた。
近づく一清を一瞥すると、明記は再び視線を中空へと戻した。
そうして、ただ口元だけでこう言った。
「俺を殺すのか」
その声は老人のものとは思えぬほど、一清の耳に若々しく響いた。
「あなたは家族を殺した」
一清は、正明の短刀を構えた。
その両脇では、コナとコタが激しく吠えたてている。
「なぜ、こんなことを」
一清には、それが不思議でならなかった。
大ぶりの雪が冷たい風に乗って、あたりを白一色に覆い始めていた。
「もう、終わりにしたくなったんだ」
風の音に混じって、目の前の老人の口からはそんな言葉が聞こえた。
そんな身勝手で私の家族は――炭さん一家は――。
もはや村ごと明記によって全滅させられているという事実を、一清は知らない。
「もはや、なにも言い訳はしないでください」
一清は短刀を構えた。
日々の狩りで命を奪うことには慣れている一清であったが、人の命を奪うのは勿論初めてであった。
そのことが、一清の手を震わせた。
主のためらいを推しはかってか、コナとコタが、激しく吠えながら同時に明記に飛びかかった。
明記はコナと呼ばれた一頭の頭に、刀を振り下ろした。
「コナ!」
一清はそう叫ぶと、明記に向かって走っていた。
手にした短刀が、宙をなぎ、明記の首元に及ぶ。
それを目にした明記が、腕に噛みついているコタを引き寄せ、刀の下にその体を入れる。
短刀が、コタの体に突き刺さる。
きゃん、というコタの鳴き声が、吹雪の中に響いた。
「コタ!」
一清は急ぎ短刀をコタから引き抜いた。
明記は両腕をいま、一清の首にまわそうとしていた。
そこへ、頭に傷を受けたコナと、腹に傷を負ったコタが、両側から明記に噛みついた。
「コナ!コタ!」
二頭の加勢を知り、一清は短刀を両腕で握ると、それを一気に目の前を覆う明記の体に突き立てた。
全身でもって短刀に力を込めた一清の体は、あおむけに地面に倒れた明記の体の上に馬乗りになる形となった。
一清は両腕に力をこめ、短刀の束を右に大きくまわした。
短刀はみしりと大きな音をたてて明記の心臓を食い破っていた。
肩で息をする一清の下で、明記は両目を大きく見開き息絶えていた。
その両脇には、やはりこれも絶命したコナとコタが、その身を地面に横たえていた。
一清の吐息は、白いもやとなって一瞬で吹雪の中に消えてゆく。
気が付くと一清は、家の中に戻り、正明の死体に話しかけていた。
「正明様、私、一体これから、どうしたらいい?」
しんと静まり返った家の中は、外の吹雪のせいで、よりいっそうその静寂を増している。
土気色となった正明の手を両手で包みながら、一清はなおも話しかける。
「コナとコタ、死んじゃった。私、どうしたらいいかな」
無論、返事はない。
「何か食べなきゃいけないけど、ここには皆の死体しかないよ」
人間の肉を食べる、という選択肢が頭に浮かんだが、親しい者の肉を口にすると魂が汚れるので絶対にしてはいけないと父から厳しく言われて育ってきたのであった。
「私、このままだと死ぬしかないよね」
一清は、力なく笑った。
その声はか細く、しかし静まり返った家の中ではことのほか大きく響く。
一清は自分の声を聞きながら、自嘲気味にふっともう一度、声なく笑った。
それから、一清は正明の髪の毛を一房、短刀で切り懐に納めた。
「私が死ぬまで、一緒にいてください」
そう胸の中でつぶやくと、一清は立ち上がり、吹雪の中、ひとり山奥へと消えていった。
吹雪は三日三晩続き、雪で閉ざされた旭村の伝説は、その後、村を訪れた本土の人間により各地に伝えられたという。
旭村のあった場所には、今ではそれと分からぬ墓標が、村人の数だけ並んでいる。
【常世の君の物語No.8】一清 くさかはる@五十音 @gojyu_on
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